私達の教育改革通信

  156 20118

原発問題特集

教育通信ホームページ

http://www.easy-db.net/unno/kyouiku/

先事館制作室:進士多佳子〒1060032港区六本木7-3-8ヒルプラザ910

発行人:西村秀美,先事館箕面 562-0023箕面市粟生間谷西3-15-12

お願い:教育通信はオープンメデイアに移行します。A(購読)会員、運営に参画されるB(協力)会員及びC(編集)会員になる方を歓迎します。B会員には自己負担でコピーと友人への配布、C会員にはそれに加えて編集を輪番でお願いします。私達の教育通信が今後どう発展するか、この皆で育てる新方式がよい日本文化に成長することが望まれます。

編集::先事館吉祥寺 海野和三郎180-0003武蔵野吉祥寺南4-15-12

先事館狭山、菅野礼司 589-0022 大阪狭山市西山台1245 

先事館近大理工総研 湯浅学・川東龍夫〒577-8502東大阪市小若江

先事館京都教育大 岡本正志〒612-8582京都市伏見区深草藤森町1

先事館聖徳大学 茂木和行 165-0035 中野区白鷺2-13-3-409

 

 


脱原発の「両輪」

                     石川 雅章

◆ うんざりする「二極論」

 原発賛否の議論が喧しい。しかし,どうも賛成派にも反対派にも賛同する気は起きない。背景としては,「両極端」な議論と,具体的な「方法論の欠如」があると考えている。個人的には,原子力発電は,有用なエネルギー源だと思っている。だからと言って,少なくとも今のこの状況で,原発を「容認」,ましてや「推進」などする気にはなれない。津波までは「天災」だと多くの人が認めるところであっても,原発の被害は概ね「人災」と見る人がほとんどだろう。これは,原発を管理する側にその能力が無かったことを示している。一旦大きな事故が起きれば,ちょっとやそっとじゃ手に負えないことは,チェルノブイリやスリーマイルで分かっていたはず。それなのに管理者達は,様々な人の懸念を無視して管理体制の整備を怠ってきた。このまま彼らの手に原発を委ね続けていては,いずれ今回を上回る惨事が引き起こされてしまう可能性も否定できない。だから少なくとも,管理体制が今のままであるなら,「脱原発」に走らざるを得ない。

しかし,どうも反原発派に賛同する気も起きない。 今の「反原発」運動は,「直ぐにでも無くしてしまえ!」という「極論」ばかり。しかし,代替として最有力な火力発電に頼れば,「二酸化炭素」などの温室効果ガスが増える。つまり,急激な「反原発」は,環境破壊につながる可能性もある。
 反対派に対する批判として,「原子力より火力のほうが危険だ」と唱える人がいる。「燃料調達」まで考慮に入れると,火力の主な燃料は石油や石炭で,その採掘現場では,死亡事故や環境汚染が絶えない一方,原子力発電では,そのような事故は無い,と言う理由だ。福島第一の事故でも,実質的に「放射線による死者」はまだ居ないことも根拠にしながら,「原発は危険だから反対」という主張に,疑問を投げかけている。
 ただし,この意見に対しては,「元にした資料の信憑性」への疑問や,またウランの採掘現場周辺の地域の「調査拒否」などで,放射性廃棄物の放置などによる住民への影響が十分把握できていないなど,問題に感じる点もある。放射線が原因と思われる「ガン」などで「闘病生活」を強いられている人は,「死者」には含まれないし,何より福島の場合,放射線の影響が「今後どうなるか」が一番の問題なのである。
 では,太陽光や風力などの「自然エネルギーへの移行」という主張はどうか。一番の欠点は「不安定」ということだろう。太陽光は「晴れた昼間」しか発電できないし,風力も「風」がないと発電できない。今の技術では,電気は「大量に」貯めることができないから,そうした方法で発電した際の電力の不足や超過をどう「ならす」かが,長年課題となったままだ。
 しかし「原発反対派」は,そうした問題点をどう解決するかについては,ほとんど何も案を出さず,「とにかく原発はヤメろ」と拳を振り上げている。

 ところで,コンピュータが扱う「デジタル・データ」というのは,究極的には「1か0か」の2つしかない。言い替えると「あるか,ないか」だ。一方で,人間が普段の生活で扱う数量は,中間的な段階がいくらでも存在する。そこでコンピュータは,その「1と0」をいくつか組み合わせることで,「中間的」な数量も扱えるようにして,人間に近付いてきた。今は,手書き文字を認識したり,話す言葉を理解するコンピュータも出て来ている。
 その一方で,とうの人間が「推進か,全廃か」……つまり「1か0か」といった「二極論」的な議論ばかりに終始していることには,いささか閉口する。
 同時に,原発の推進派には「管理をどう健全化していくか」という議論がないし,反対派には「環境にも人にも優しい代替エネルギーをどう安定的に確保するか」という議論がない。こうした具体的な「方法論」がなければ,事態が改善することもないと思う。
 人間は機械ではないのだから,もっと柔軟に「中間的な状態」……つまり「どのように移行するか」という点を考えてもいいはず。原発を続けるなら「適切に管理される方向への道」を作り,正常化できないなら「ゆっくりと代替エネルギーに置き換えていく道」を考え出すべきだと思うのだが,推進派にも反対派にも,そうした姿勢はあまり見られない。

 ここでは,これらの問題点を踏まえつつ,「技術者」の視点から,「脱原発」への具体的な道を考察してみたい。

◆ 意識改革

 「技術者の視点」と言いつつ,最初は「根性論」的なテーマで恐縮だが,これが最も重要な事項で,うまくいけば一番の「近道」だと考えている。が,ほぼ「実現不可能」だと思う。
 もし全ての消費者が意識を変え,「原発の管理が適切かどうかを常に監視し,不適切と判断したら,直ぐにでも電力会社からの電力の購入を捨てて,自然エネルギーなどによる自家発電を設置する」といった選択を,自ら進んでするような「思い切りのよさ」があれば,事態は一気に変わると思う。なぜなら,原発の管理者は,今のような怠惰な管理を続けていると,「自家発電」が進んで電力消費が落ち,「原発に頼らざるを得ない」と言っていた口実を失うことになるからだ。
 「実現不可能」というのは,この意識を「全ての人が持たなければいけない」ということが,かなりハードルが高いからだ。
 まず,太陽光発電を自宅に設置できるほどの稼ぎがある「一部の人」の行動だけでは,「電力消費を下げる」ほどの効果は出ないだろう。
 また,その原発の管理体制は,「津波に襲われて初めて不充分だったことが分かった」というくらい,隠し放題だった。一般市民が「原発管理が適切かどうか監視しよう」という意識を持ったとしても,このような「いくらでも隠せる」ことを「実質的に」監視することができるだろうか。結局,一般市民の側が意識を変えたからと言って,原発管理を正常化させることは,ほぼ不可能だろう。「隠ぺい体質」はまた,そうした意識が強まらないようにすることに「寄与」している。
 一方で,本来なら,ここまで大きな事故を起こした「管理者側」が意識を変える必要があるわけだが,現在「原発利権」にガッチリと捕われている人達はまた「為政者」的立場にもあるわけで,それらの人達が自分達の「利権」を脅かすような仕組みを自ら作れるはずもない。そうした事情から考えれば,今回の当事者達が,自ら意識を変えることもまたないだろう。

 というわけで,「意識改革」は,どちらの方向から見てもほぼ不可能と思われる。次項では,他の視点から「脱原発」への道を模索したい。

◆ 末端への普及を加速する「規格化」

 原発にかわる大規模な発電を「一度に入れ替える」のは,為政者側にも多数存在する「原発利権組」が許さないであろうことは容易に想像できる。とすれば,どうしても末端の利用者の側から変えていくしかない。しかし,前述のように「意識を変えるのは難しい」となると,果たして他にどのような手段が考えられるだろうか。

 原発の代替としては,太陽光発電や,風力発電など,様々なものが挙げられている。ただ,これらの発電設備は,小規模のものでは発電力がかなり限られる。だからと言って,大規模なものを各家庭で導入するにはハードルが高過ぎる。原発に立ち向かう「好敵手」になるかと言えば,「今のままでは」かなり難しい気がする。

 一方で,「電気」だけ考えるのではなく,「熱」も考慮して省電力につなげようという構想もある。発電は「タービンを回すために水を熱して蒸気を発生させる」わけだが,タービンを回した後の余熱は捨てられている。ところが,現在よく使われている「電気温水器」は,そうして得られた電力でまた「熱(お湯)を作っている」ことになる。
 これに対して,都市ガスを使った「自家発電」設備には,ガスを燃焼させて発電し,余熱でお湯を沸かして「給湯」に使う,「コージェネレーション」と呼ばれる仕組みがある。発電の際に捨てられていた熱を,お湯を沸かす熱として利用することにより,全体の消費電力を下げられることになる。

 また,「ヒートポンプ」という仕組みもよく使われるようになって来た。「ヒートポンプ」とは,水を低い場所から高い場所に汲み上げる「ポンプ」のように,「熱を温度の低いところから高いところへ移動させる」仕組みのこと。冷蔵庫や冷房が身近な例だが,最近は暖房にも使われている。以前は「暖房」と言うと,電気だけで熱を作っていた。この方法では,たとえば消費電力 1000W の暖房機が暖める能力は,1000W を越えることはない。ところが,「ヒートポンプ」の仕組みを使うと,同じ 1000W の暖房能力を,500W 程度の消費電力で得ることができる。差の 500W はどこから来るのかといえば,その「ヒートポンプ」で,寒い冬の外気から引っ張り込むのだ。このため,たいへん効率がいい。同じ仕組みでお湯を沸かす給湯器もあるようだ。

 しかし,これほど様々な「省エネ」の仕組みが考案されていながら,結果的に,「原発」を主とする発電に大きく依存しなければならないのが現状。いったい何が,広く普及することを阻んでいるのか。

 ちょっと話が反れるが,ここで「急速に普及したもの」の例を,いくつか見てみたい。
 最近「直流 5V」で動作する機器が数多く発売されているのをご存知だろうか。身近には,スマートフォンなどの「充電電源」から,扇風機や電気毛布(ひざ掛け),果ては,缶飲料用の「ミニ冷蔵庫」まであるのだ。
 これらの装置の多くに共通して「電源」として使われているのが,USB というコンピュータの接続規格。本来はコンピュータ本体と周辺機器とのデータ通信をするための接続であるが,小容量の電源も一緒に供給する規格になっているので,小さな電力で機能する「外部記憶装置」などの機器では,その接続1つで「データ通信」と「電源の確保」ができ,個別に電源を確保する煩わしさが軽減されている。
 ところがその接続で,データの通信に使われる端子と電源用の電力を供給する端子とは,あまり強く連動していないため,データ通信の必要のない「電源だけ使う」という機器も動作してしまう。
 USB 接続は,様々な周辺機器を接続することができるため,たいていのコンピュータでは,この接続が複数存在する。同時に,コンピュータを使う場も増えてきたこともあり,「USB を電源として使う装置」であれば,わりとどこでも気軽に使えるようになったわけだ。
 すると今度は,USB 接続の「電源だけを供給する」装置なども作られる。その装置は,コンピュータではなく,家庭用電源に差込むことで,USB の電源が使えるようにできているから,コンピュータがない場でも,USB 機器を使うことができる。
 こうしたことが相乗効果となり,その USB の規格で供給される電源が「直流 5V」であることから,その手の機器がぐっと増えたと考えられる。

 もう一つ,「インターネット」の普及の目覚しさも,否定する人はいないだろう。自宅のパソコンからメーカーのコンピュータに接続して,新製品の仕様や価格を確認したり,場合によってはその場で購入したりすることなど,20 年ほど前には考えられなかった。
 インターネットの基盤は「コンピュータ・ネットワーク技術」であり,その進歩が,急速に普及した背景にある。
 特筆すべきキーワードは「プロトコル」であると思う。「プロトコル」とは,コンピュータ通信の分野では「手順」と訳される。既述のとおり,コンピュータが扱うデジタル・データというのは「1か0か」の二つしかない。しかし,単なる「1と0の羅列」では,それが何を示すものなのだか分からない。そこで,「意味を持たせる」ための手段が必要になるが,ある意味それが「プロトコル」だ。
 具体的には,「通信線の電圧が低い状態が1,高い状態が0」といった最も基本的な取り決めから,「この順番でデータが並んでいたら,それは『画像データ』を示す」といった取り決めなど,様々な「プロトコル」が存在する。
 たとえば,ウェブページのアドレスにある「HTTP」というのは,“Hyper Text Transfer Protocol”という,文字やそれ意外の様々なデータの授受をするための「プロトコル」を示し,該当するアドレスのデータ対し,その手順を使って通信するよう指示する意味がある。このほか,データのやり取りのためのプロトコルとして,メールの送信には SMTP,受信には POP3 というものがあり,またデータの内容を示すものとして,画像用に JPEG,動画なら MPEG など,用途に応じた様々なプロトコルが適宜使われている。
 ちなみに,HTTP に似たものとして,HTCPCP というプロトコルがある。これは“Hyper Text Coffee Pot Control Protocol”のことで,その名の通り,自動のコーヒーポットを制御するために作られた規格のようだ。ソフトウエアの一部に対応しているものがあるらしいが,対応しているコーヒーポットが発売されたという話は聞いた事がない。なお,制定されたのは,1998 年の4月1日だとか。
 ところで,それらの「プロトコル」は,かなりバラバラに開発され,発達して来た……と言うと,ちょっと意外に思われるかもしれない。実際,たとえば「インターネットに接続する方法」ひとつをとっても,従来の電話線をそのまま使う方法,電話線は同じでも,特殊な機器を用いて高速通信を実現した「ADSL」という方法,光ファイバーを使う方法,携帯電話を使う方法……など,様々な手段が存在する。しかし,それらで一旦インターネットに接続すると,その使い方に大きな差はない。たとえば,パソコンでメールをする場合,前述のどの方法でインターネットに接続しようと,使うパソコンが同じであれば,「メールを扱うソフト」や「メール・アドレス」を変更する必要はない。こうした使い方ができるのは,インターネットに接続する時に使われる「プロトコル」と,メールでやりとりをするための「プロトコル」が,独立しているからだ。
 「バラバラに開発されたものが,なぜうまく連携するのか」と言うと,早い段階で,適切な「階層化」がされて来たためと言える。
 たとえば,「接続されたケーブルの電圧が低い状態が1,高い状態が0」という取り決めと,「周波数の高い無線電波を受信したら1,低かったら0」という取り決めがあった場合,有線か無線かの違いはあるが,いずれの方式でも「1と0」を区別できるやり取りができることには変わりない。一方で,「データの内容」の取り決めをキチンと決めておけば,どのような方式でやり取りしようと,送った側と受け取った側の「1と0の並び」が一致していれば,データの内容は維持される。つまり,「通信信号の規定」と「内容の規定」は,全く独立させて開発することが可能だったわけだ。
 実際はもっと細かい「階層化」がされている。最も下位に当たる「何が1で何が0か,どのように接続するか」を規定する階層を「物理層」と言うが,実際の通信では「雑音」などが混入してエラーも発生するので,それを検知して訂正する方式を定めた階層,どこまでがまとまったデータなのかを取りまとめるための階層,そのひとまとまりのデータが何を示しているか,「文字」なのか「画像」なのか「音声」なのかを決める階層……など,全部で7段階に分かれている。この階層化は割と早くから国際機関でキッチリと定められ,OSI(Open System Interconnection)と呼ばれていた。そしてそれぞれの階層ごとに,様々な「プロトコル」が開発されて来た。開発する側は,その「隣り合った階層」の間の連携だけ,その「規格」に合わせることが求められるが,それより下位,または上位で,どのような「プロトコル」が使われているかまで考える必要はない。関連する階層の部分だけ,適切に動作するよう考慮すれば済むため,開発の際の自由度が広くなるのだ。
 利用者側は,特に「プロトコル」という言葉を知らなくても,ネットワーク機器の中で,利用状況や通信規模,必要なデータに合った「プロトコル」が適宜使われるようになっている。ある意味それも「プロトコル」の機能である。
 ちなみに,この「OSI」を制定したのは,「ISO(国際標準化機構:International Organization for Standardization)」と呼ばれる機関。「ISO で OSI を制定した」というわけだ。この機関は,他にも様々な規定を定めている。たとえば,身の回りの機器に使われている「ネジ」のうち,「雌ネジ(ナット)」を必要とするもので,ドライバーを差し込むネジ山の近くに,小さな「点」の凹みがついているものがある。それは,メートル法を基にした,ISO で規定されたネジであることを示していて,「ISO(イソ)ネジ」と呼ばれている。ちなみに,ISO の正式名称と略称の頭文字の順番が一致していないのは……何かでモメた名残のようである。

 「急速に普及したもの」の事例を見てきたが,これらに共通するのは「規格化」という点だ。以前は,直流電源を使う機器には,使う機器ごとに専用の「電源アダプタ」が必要で,その電圧や接続,極性もマチマチで,とても融通の利くものではなかった。ところが,USB という規格がコンピュータで広く使われるようになって来ると,それに接続して使えるようにすることで利便性を高めた機器が数多く登場し,片やそれに合わせた「電源アダプタ」も作られて,普及に拍車をかけたと言える。
 一方,「プロトコル」というのも,デジタル通信上の「規格」である。インターネットへの接続手段が,「有線電話」であろうと「携帯電話」であろうと「光ファイバー」であろうと,使っている機器が「パソコン」だろうと「スマートフォン」だろうと,同じメール・アドレスを使って同じ画像を見ることができるのも,全て「プロトコル」という規格が,独立しつつうまく連携して機能しているためと言える。

 ◆ 「エネルギー」規格化への道

ここで,原発の代替エネルギーについて話を戻すと,様々な省エネの手段が考案されている一方で,それぞれが「独自に」開発が進められてしまっていることを,ちょっと残念に思っている。ここで言う「独自」と言うのは,「プロトコル」で述べたものとは性質が違う。「プロトコル」の場合は,適切な「階層化」の取り決めに従って,その「隣り合った階層」の間のデータのやりとりを,ある意味「キッチリと定めるための規格」なのである。ところが省エネ関連製品は,開発された機器ごとに,ほとんど「連携がない」のだ。
 たとえば,太陽電池パネルで発電できるのは,たいてい「直流」である。電圧は,1セル(最小ユニット面)あたり 1V(ボルト)もないのが普通だが,このセルを多数直列に接続することで 10V 前後まで電圧を上げて取り出しているのが一般的。しかし,家庭用電源は「交流 100V」であるから,家電を直接接続することはできない。自動車のバッテリーでコンセントを使えるようにする「ブースター」という装置があるが,それに相当する仕組みで家庭用電源に合わせてから使う必要がある。ところが,太陽光では夜は発電できないから,その電力を直接使おうとすると,夜は使えないことになる。そこで,途中に「蓄電池」を設置して,昼間の発電で余った電力を貯めておいて夜に使えるようにしたり,あるいは,それでも足りなくなった時のために,従来の家庭用電源と併用できるようにする仕組みなど,様々なシステムが必要となる。
 メーカーごとに製品が「バラバラに開発されている」と,いろいろと融通が利かない。たとえば,あるお宅が太陽電池システムを使っていて,その後,もっと効率のいい太陽電池パネルが開発され,それを使いたいと思った時,パネル以外に共通して使える部分がないと,システム全体を入れ替える必要に迫られることになる。また,電気に直接関係のない,「屋根への設置方法」などについても,メーカーをまたいだ取り決めがあるような話は,いまのところ聞いたことはない。ヘタをすると電気設備ばかりでなく,「屋根ごと全部取り替えないといけない」などという事態も考えられる。
 その手の製品開発は「日進月歩」であるから,「従来よりいい製品」が開発される度に「全部入れ替え」などということをしていると,却って「廃棄物」が増え,環境に悪影響を及ぼしかねないのではないかという危惧も生まれる。
 風力など,他の発電装置についても同様な事態が考えられる。自然エネルギーは,それこそ「風任せ」の不安定なものであるから,家庭用電源として使うには,調整や管理をする様々なシステムが必要となる。各社がバラバラで,しかも,自社で開発した装置に「特化した」部品を使って開発されている限り,いざ「入れ替えよう」とすると,かなりの負担になる。そんな状態で「コスト安」をウリとしてきた原発に立ち向かうのは,至難の技だと思われる。

 「普及を加速する」方法として,やはり「規格化」が有効なのではないかと考えている。まずは「階層化」を考える。たとえば,太陽電池であろうと風力発電であろうと,それらの発電機から「微小な電力」を受け取る部分を規定する。受け取った微小な電力を調整して,電圧を一定の値にまで上げる部分や,蓄電池など,集めた電力を「貯める」部分を規定する。貯めた電力を家庭用電源として使えるようにする「ブースター」に相当する部分を規定する。貯めた電力が少なくなった時に家庭用電源に切り替えたり,あるいは,夜の安い電気料金時間帯に,家庭用電源から蓄電池に貯めたりする装置を規定する……といった具合い。まずこれらの階層それぞれの「接続部分」や,電気的な信号の扱いなどをキッチリと定めてしまえば,あとは,発電方法が「太陽電池」であろうと「風力発電」であろうと,「ブースター」がどこのメーカー製であろうと,使う状況に最も適したものを選べばいいということになる。また,技術が進んで,たとえばそれまでより安価で効率のいい太陽電池パネルが出来れば,そのパネル部分だけ置き替えれば済む。今はお金がない人も,安くなってからその部分だけ買ってもいいわけだし,他の人が要らなくなった中古を安く引き取って使うこともできるだろう。

 一方,「ヒートポンプ」についても,うまく「規格化」できるといいのではないかと思っている。以前は,熱を運ぶ「冷媒」として「フロン」が使われていたが,使われる機器ごとにその種類が異なっていた。フロンが「オゾン層を破壊する」として使用が禁止されたあと,代替物質として使われるようになったのが「二酸化炭素」だ。現在は,かなり多くのヒートポンプで,冷媒として使われているのではないだろうか。
 同じ物質を「冷媒」として使っているのであれば,同じ「熱を扱う」機器の間で,それを「融通して使う」ことは出来ないだろうか。つまり,気体の二酸化炭素を運ぶパイプと,液化したものを運ぶパイプ同士の接続部分などを共通化すれば,液化させる「コンプレッサー」を1つ置くだけで,冷蔵,冷房,暖房,給湯……など,熱を扱う様々な機能を使うことが出来るようになるのではないかと考えている。言ってみれば,エアコンの「室外機」と「室内機」を,メーカーを超えて自由に選択して接続できるような感じだ。

 このように,適切に規格化すれば,「少しずつ置き換えていく」ことが可能になる。
 しかし,再生可能エネルギーの利用は始まったばかり。結果的に「最初は一式まとめて導入する必要がある」ということになると,やはり敷居が高い。
 ただ,述べてきたものの一部には,既にある程度安価に入手できるものが存在する。「無停電電源装置(UPS)」と呼ばれる装置は,企業で使われていて,機能を止められない「サーバ」などのコンピュータのために,停電が起きても,一定時間はコンピュータに電源を供給し続けるためのもので,その間に「安全にシャットダウンする処理」ができるようにして,データの損失などを防ぐもの。そのため,内部に「蓄電池」を内臓している。製品によっては,停電が起きたことなどをコンピュータに知らせて,自動的にシャットダウン処理を開始させるための通信機能のついたものもある。
 コンピュータ用であるため,使える電力が限定されているが,「コンピュータしか接続できない」というわけではない。さすがに消費電力の大きな「電子レンジ」のようなものは使えないだろうが,消費電力がコンピュータに近いものであれば,使えるはずである。
 たとえばその装置に,「太陽電池」や「風力」をはじめとする,小電力発電装置からも充電できる端子を設置するとどうだろうか。蓄電池部分も共通端子で着脱できるようにして,増設したり,高容量のものに変更できるようにするとどうだろうか。
 この装置,価格は数千〜数万円程度から購入できる。このような「既にあるもの」から順次「規格」を定めていけば,導入の際の敷居も下げられるのではないだろうか。

 現在のように,「発電設備一式」を,まるまる「設置するか,しないか」という選択肢しかないのでは,どう考えても融通が利かない。敷居が高過ぎて「導入」にも手をこまねく状況が続いてしまうだろう。述べてきたような「規格化」は,本来,規格を作る機関……日本では「日本工業規格(JIS)」などで規定してもいいようなものだと思うが,残念ながら,国側にも「原発利権組」が潜在する今,「脱原発」にもつながる「『採用し易い』規格作り」を望むのは,かなり難しいような気がする。先に業界側が連携し,規格を作って製品に盛り込み,「既成事実」を作り上げていくしかないと思っている。まとめると,まず,電力を使う末端の機器に近い部分から,再生可能エネルギー利用へ「少しずつ置き替えられる」ように「規格を定める」こと。そしてそれは「大々的に推し進める」のではなく,「ちょっとした工夫」的に製品に盛り込み,静かに進めること。「脱原発」の鍵を握るのは,この2点だと思う。

(フリーエンジニア)

 

 

幸福寺から光触媒へ

 

法橋登

埼玉県久喜市に幸福寺がある。明治時代に本堂が小学校に使われた。林学者本多静六は慶応二年(1856年)に生まれ、七才でこの小学校に入ったが、父が多額の負債を残して急死したあと、草刈り、米搗き、馬糞拾いなどを日課にした。14才になって、世話になっている祖父の教え「学問は余暇に、信仰は余徳に」に従い、農閑期だけ新設の官費東京林学校で勉強した。成績は50人中50番だったが勉強法を工夫して官費の東京農林学校(現在の東大農学部)からミュンヘン大学に進み、25才で経済学のドクトルになった。帰国して東大農学部の林学博士一号を取得したあと、日比谷公園や明治神宮内外苑の設計を手がけた。いま日比谷公園に残る‘首かけ銀杏'は、道路工事で伐採されかかった直径二メートルの銀杏を日比谷公園に移植するのに本多が首を賭けた巨木である。本多が手がけた別府湯布院温泉郷は、ドイツの鉱泉保養地バーデンバーデンをモデルにしている。埼玉県の景勝武蔵嵐山は京都嵐山をモデルにしており、JR下車駅の駅名にもなった。祖父の教え「学問は余暇に、信仰は余徳に」は埼玉県の先達、江戸時代盲目の書誌学者花輪保己一と日本資本主義の開祖渋沢栄一の教えを合わせている。

 

学者になった本多は「恒産なき学者の学問に自由はなく、自由なき学問は道楽にならない」と考え、自身の人生を苦労、貯蓄、道楽、慈善、の四期に分けた。ここで苦労+貯蓄=自由+道楽で、本多は苦労できる職業を選べ、また与えられた仕事は道楽になるまで尽くせという。本多はまず給料の四分の一を天引き貯金し、利子が基本給と同額になると不況期の株を買い、好況期に売って秩父の山林を買い、一部を農学部に寄贈、一部を林業の経営にあて、残りを奨学基金や中津川沿い美林の国有化に残して自分は日本一の幸福者だと話した。お孫さんの東大助教授本多健一が1965年に助手の藤島昭と共同発見した光触媒は、太陽光で水を分解して水素を発生させるいわば人工葉緑素である。発生した水素イオンの殺菌作用は太陽光のあたる大壁面や床面の除菌にひろく利用されている。水素は究極のクリーンエネルギー源として知られ、東北復興ばかりでなく、これからの世界の無公害エネルギー計画の中核になる。本多たちの発見は、第一次石油ショックが起こった1972年に英科学誌ネーチャーに発表されたが、直ちには世界に理解されなかった。私が出席した1976年の第一回代替エネルギー源マイアミ会議では、マイアミ沖海面下に群生して水素ガスを生産する巨大昆布が注目されたが、その後工業化には成功していない。藤島とともにノーベル化学賞候補になった本多健一は福島震災一五日前の二月二六日に祖父と同じ85才でなくなった。

 

「再生可能エネルギー」という表現は非科学的「持続的自然エネルギー」あるいは単に「自然エネルギー」がよい

               菅野礼司

 かなり以前から「再生可能エネルギー」という表現が、マスコミや市民運動団体でしばしば用いられている。マスコミの記事やテレビ討論会などでは、「再生可能エネルギー」と「自然エネルギー」の両方が、ほぼ同じ意味で用いられている。(人により一方のみ用いている場合が多いが、両方を使う人もいる。)

 「再生可能エネルギー」という表現は科学的には誤りで、不適切であるから、私は最初からこの言葉に反対してきた。(「科学的に気になる表現」『日本の科学者』Vol.38.No.5, 2003に、これに類する非科学的表現をまとめて批判的意見を述べ、代案を提示した。)

 この「再生可能エネルギー」は英語の“renewal energy”あるいは renewable energy”の日本語訳のようであるが、これも適切な表現ではない。それを「再生可能エネルギー」とするのはなおさら賛成できない。 この問題を再度取りあげて、その理由をもう一度以下に述べる。

 そもそも、水力、風力、太陽光の自然エネルギーなども、一度利用したエネルギーは自然には元の状態にもどることは決してない。すべての使用したエネルギーを元の状態にもどすには手を加えねばならず、そのさいかえって多くのエネルギーが必要である。

 蛇足ながら、「エネルギー保存則」により、エネルギーを利用しても全エネルギー量は増減しない。通常「エネルギーを消費する」といっているのは、科学的に厳密にいえば、「有効な(エントロピーの低い)エネルギーを有効性の低い(エントロピーの高い)エネルギーに変える過程でエネルギーを利用(消費ではない)」するというべきである(「省エネルギー」も同様誤り)。

 それゆえ、いったん利用したエネルギーはエントロピーが増大した状態なので、それが自然に元にもどることはないというのは、「エントロピー増大の法則」のから明かである。

(「エントロピー増大則」とは、外から操作を加えない閉じた系の内部での運動・変化によってエントロピーは減少することなく、増大するのみである、というもの。)

 この表現では、発電に利用した水力・風力・太陽光エネルギーなどが、自動的に元の状態にもどるのかと誤解される。「再生可能」という場合、何を再生するのか、その意味が分からない。

 それよりも「持続的自然エネルギー」あるいは「継続的自然エネルギー」(“sustainable natural energy”)の方が適切な表現だろう。これでは長すぎるなら、せめて「自然エネルギー」とすべきである。これら自然エネルギーはすべて太陽(一部地熱)によって供給され継続されているものである。

 「自然エネルギー」というと、原子力エネルギーも自然エネルギーではないかという批判があるかも知れない。だが、原子力エネルギーは、ウランやプルトニウムなど燃料として利用できるまでに何段階も人の手(技術)を経ているから、通常の自然エネルギーとは質的に異なる。科学的に厳密にいえば、すべてのエネルギーは「自然エネルギー」である。

でも、その利用法には質的差異がある。

 いずれにせよ、人工的にエネルギーを作りだすことはできない、人間はエネルギーを利用できるだけである。

 したがって、現在、菅内閣により国会に提出されている「再生可能エネルギー特別措置法案」の名称にも異議がある。エネルギー問題は、人類にとって最も重要な課題の一つだから、この法案に基本的には賛成である。しかし、上記のような理由により、この法案の名称は非科学的であり、科学教育の上からもよくないので、変更すべきだと思う。

 自然に再生可能なエネルギーは存在しないのに、このような名称を使うのは、科学的な誤解を与える。いまの科学・技術の時代には、「科学リテラシー」といわれるように、科学の基礎知識は「読み・書き・計算」と同様に一般的教養とすべきであろう。このような時代に、これでは非科学的な表現を政府が普及させることになりかねない。

 「エネルギーを消費」とか「省エネ」という表現も改めるべきだが、「有効なエネルギーの利用」では長く面倒なので、これまで便宜的に使用されてきた。この言葉は今更変更しにくいかも知れないが、今後このような非科学的な言葉を増やすべきではないと思う。

「自然エネルギー」の定義(私案)

 原子力も含めて、自然エネルギーか否かを区別する基準を定め、何を持って「自然エネルギー」とするかの私案を提示する。

 エネルギーを利用する場合、そのエネルギー源を自然状態から利用可能な状態に持ってくる過程において、技術的な事前処理を必要とするか否かをもって判定基準とすべきだろう。その人工的事前処理を必要としないものを自然エネルギーと定義する。

 風力、水力、太陽光などは直ちに動力・発電に利用できるゆえ、自然エネルギーとする。ただし、それを利用するには当然装置がいるが、すべてのエネルギー利用には必ず機械装置が必要であるから、この利用機会装置は自然エネルギーの基準から除いてよい。

 それに対して、化石燃料は利用するまでに、掘り出して利用現場に運ぶ手間がいる。もっとも極端なものは原子力発電で、燃料のウラン235を鉱物から取り出し、原子炉に入れるまで非常に多くの技術的過程を経る。それゆえ、これらは非自然エネルギーとする。

 ただし、エネルギー源として取り出すまでの過程において、人工的処理を必要とするにも程度に差があり、明確に線引きできないものもあり、今後さらに出るだろう。そのような場合は、事前の人工的処理に質的な差異があれば、それによって自然エネルギーか否かを区別してよいであろう。たとえば、ダムからの水力利用には、ダム建設という工事が必要であるが、一旦ダムを造れば維持管理だけで済む。この水力を自然エネルギーとしてよいか微妙である。機械装置の維持管理はすべての場合に不可欠であるから、自然エネルギーとしてよいであろう。

 エネルギー利用までに事前処理を必要としないものは、エネルギーの利用効率は高く、利用後の環境汚染も少ない。したがって、自然エネルギーは優れた資源である。

 

 

「脱原発亡国論」 

 

海野和三郎

広島長崎で原爆の惨禍にあった日本人で、原発の好きな人は先ず居ない。私自身も、広島の放射線障害が原因で、兄を失い、友人を失い、友人の山田光男は、エレーネ・キューリーのノーベル賞実験を行った父・山田延男を3歳のときに失った。放射能の怖さは良く知っている。この論説の結論を先に言うと、短兵急な脱原発は、10年後の日本経済の破綻を招き、エネルギーの取り合いで起こる50年後の世界戦争の原因となるということである。原発より安い電力作りをすぐに開発する必要がある。

1人は1kW で生きていると言う。個人によっても国によっても時代によっても異なるが、平均して何倍もは違わないという数字である。そのエネルギーは、基本的には衣食住のエネルギーで、それが満たされないと紛争が起こる。エネルギーは、質量、角運動量、と共に物理学でいう不変量であるから、姿かたちは変えられても総量は人間が作り出すわけには行かない。何処からか持って来なくてはならない。農業、漁業、林業、牧畜などは、何10万年か前に現代人が発明して進化した衣食住のエネルギー獲得の手段である。20世紀になって、人類文明は、そのエネルギーを大幅に化石燃料に依存するようになったが、エネルギー問題、地球環境問題、人口問題の三重苦に悩まされることになった。万年億年掛かって地球が貯めた化石燃料を百年で浪費した結果である。資源小国の日本の場合、関東大震災以後、大正末期から昭和初期にかけての経済不況の時代、1万年以上前先祖が日本列島にたどり着く前親しんだ満州の地に復帰しようとする動きがあった。アヘン戦争以後、清朝は独立国家としての威信に欠けた結果、列強の荒らすところとなり、特に、ロシア(ソ連)の満州、蒙古への進出が著しかった。日本も満州事変を起こし、清朝の末裔溥儀を満州国皇帝として、傀儡政権をつくり、大東亜共栄圏運動を行った。それが、余りにも軍国主義的、帝国主義的であったため、米英などの反発を招き、やがて、日本経済が立ち行かなくなるよう、石油の禁輸により太平洋戦争に日本を引き込む戦略をとった。当時、旧制高校の学生であった私も、軍事教練の教官であった原少佐から、「この戦争は負ける、その後の日本の建て直しを君たちがしっかりやれ」と言われたが、資源小国の日本がとるべき道は、満州国建設以外に他にあったのであろうか。そして、今、世界は、あと10年か20年で石油ピークとなり、エネルギーの需要供給のアンバランスが生ずる。それと同時に地球環境問題、人口問題が絡み、新たなエネルギーの開発が、不可欠となってきた。5,60年ほど前、敗戦後の日本経済は、朝鮮戦争の特需景気で、一時しのぎをし、そのころ始まった原発で不足エネルギーを補うことにより、奇跡の経済復興を遂げた。外国からの化石燃料だけに依存していては恐らく不可能な経済大国への道程であった。それ以来の原発との付き合いである。地震国日本の原発事故への対処も考えなかったわけではあるまいし、百年に一度の大地震、千年に一度の超大地震を考えなかったわけでもあるまいが、恐らく、負けても太平洋戦争をせざるをえない特攻精神に近い心境で、次々と原発を建設したのであろう。たしかに、資源小国の日本は中国に追い越されるまで、世界第2の経済大国になっていた。私自身も放射能の危険は熟知しているが、あと、20年、太陽エネルギーの有効利用を確立して、エネルギー問題を基本的に解決できるようになるまでは、原発にピンチヒッター役を務めてもらい、エネルギーの取り合いから生ずる世界戦争を防止する夢を持っていた。今となっては、せめてあと10年、現在の原発を維持し発展させて、これからの経済不況を克服し、世界戦争防止の役割を努めてもらわねばならない。私の素人地震予報では、100年規模の大地震のあと50年は大地震の起こる確率は少なく、1000年の超大型地震のあと500年には超大型地震の起こる確率は殆どない。地震によらない人為の原発事故も、起こらない保証はないが、その防止には今度の経験が役に立つであろう。

化石燃料がだんだん乏しくなる21世紀は、新しいエネルギーを開発して人類が新しい進化を遂げ、エネルギーの取り合いに因る世界戦争を追放すべき世紀である。100年掛かった情報伝達が1秒に縮まった今、エネルギー戦略も革命的に進化させて、新しい地球環境に対応していくべき時である。エネルギー論の中心課題は、衣食住のエネルギーであるが、文明社会に於いては、様々なエネルギーの形式があり、その中で、共通通貨の役割をしているのは、電力である。その意味でも、原発を続けるか、脱原発を断行するかは、大げさにいうと人類の生き方の問題である。エネルギー源で危険でないものは原理的に存在しないが、太陽エネルギーだけは特別で、中心の超高温核融合炉を大質量で閉じ込め、それでも表面は6000°弱の高温の火の玉となるが、其処から出る輻射エネルギーは、中心から光で2.32秒ほどの表面から500秒ほどの地球に達する間に(2.32/500)2倍に希釈され、更に地球大気で幾らか減光するので、地表で太陽光をまともに受けると1平方メートル当り約1kW、黒体で吸収すると温度は90℃(365K)ほどになる。太陽熱温水器の温度が其処まで上がらないのは、太陽光を垂直に受けていないことと、吸熱保温が不完全なためである。太陽光を16倍(10倍)集光すると、受ける黒体の絶対温度は保温をよくすれば、1610)の4乗根倍で、730K460℃), 650K (380))となる。光電効果を使う太陽光発電(効率15%)には熱雑音が邪魔して向かないが、熱電効果を使う太陽熱発電(効率35%?)に向いている。集光の目的は、高価な発電パネルの面積が反比例的に小さくて済むことであり、蒸気タービンなどの熱機関は温度上昇に比例的に、同じエネルギー量に対して発電量が上がるからである。シデロスタット駆動で簡単な非結像16倍集光の第1鏡からの反射太陽光をその南に固定した第2鏡(平面鏡)で受け、更にその反射光を地上に固定したソーラーポット底面、第1鏡中央鏡と同じ小面積(総面積の1/16)に、黒色の太陽熱発電パネルを置き、それに集光すれば、35%発電が可能となる理屈である。第2鏡の設置場所は、第1鏡から見て太陽高度と天頂の中間あたり、第1鏡とポットとのほぼ中間で、サイズは縦横第1鏡中央鏡の3倍程度が適当であろう。第1鏡中央鏡のサイズを40cmx40cmとすると、第1鏡の総面積は(角を落すと)4m2程度、受ける太陽エネルギーは約4kW発電効率35%として1.4kW 、夜と曇り空を除外すると、平均300W 発電と言うことになろう。1坪か2坪の南面の空き地がある1家庭の電力としては、太陽熱発電で充分であろう。更に、利用されなかった残りのエネルギーの利用とエネルギーの保存方法を工夫すれば、石油火力や原発よりも格段に安いエネルギーを得ることになり、そこで初めて原発依存から開放され得る。それまでは、何としても原発に頼らざるを得ない。自然エネルギーや所謂再生可能なエネルギーの開発は大いに奨励されるが、世界人口が100億になろうとする21世紀のエネルギー源としては適地を除き絶対量が不足する。特に、エネルギー資源小国の日本は、技術力を活かし先頭に立って太陽熱発電を推進すべきであろう。大型の太陽熱発電は、今ドイツが開発に努めており、日本にもその技術はあるが、大型の単能の太陽熱発電では、使う場所で作る太陽エネルギーの利点を失い、恐らく電力のコストが石油火力や原発と比較して安くはならないであろうし、その開発には少なくとも10年はかかり、目下の急場にも、20年後の世界経済大不況、50年後の世界戦争防止には役立たない。その点、家庭規模の非結像集光型太陽熱発電は、町工場での装置製作が可能であり、熱電装置で利用できなかった熱エネルギーを用いたタービン発電、暖房、水素やアンモニアの抽出と合成、等々、連結してエネルギーの再利用が可能である。結果として、太陽熱発電のコストが非常に安くなる外、欠点である天候依存性もある程度緩和される。特に、青木一三氏のホームページによると、アンモニアは肥料として食糧増産に絶大な能力を持ち、40億人を養うという。エネルギー論の見地でいえば、電力の短所である蓄電期間を延ばす役割もするから、太陽熱発電と連結してのアンモニア合成は、今のピンチをチャンスにする町工場的企業の立ち上げに活かされるかもしれない。

捨てるエネルギーを再利用して光合成の効率を20倍にもする(矢吹効果)森の植物の知恵、塩の指不安定性を使って深層ほど塩度を高くして対流を防ぐソーラーポンド効果で保温する海の知恵、については、以前書いたので省略するが、それらの知恵を太陽熱発電装置に活かす工夫をすると、一寸した工夫で効率を倍増することができる。非結像集光を中心にこれらの工夫を取り入れて、効率の良い太陽エネルギー文明を構築するのが、21世紀文明というものであろう。設計図などは、NPO東京自由大学太陽エネルギープロジェクトで考案しているが、施行には、工業力を必要とし、また、スポンサー役をする組織や企業が必要である。関心のある方は、ぜひ、東京自由大学へコンタクトしてください。NPOですので、研究会には部屋代以外の費用は掛かりません。

 

 

アトムと鉄人

 

佐々木 聖

アトムズ・フォー・ピース

 昨秋、50歳を超えて初めて、広島平和記念資料館を訪ねた。今さらのうえ月並みの感想だが、言葉を失った。これまでも断片的に原爆の災禍は画像や文章によって知っていたが、この資料館の「事物をもって語らしめる」徹底ぶりに後頭部をガツンと殴られたような衝撃が走った。脳裏に焼きついているのは真っ黒く焼けただれた三輪車である。買ってもらったばかりの三輪車で遊んでいた子どもは1945年8月6日の朝、一瞬にして帰らぬ人となった。黒い三輪車が歴史の証拠物件としてそのことを永遠に語り続けている。被曝して亡くなった子どもたちの日記も展示されていた。「おとうさま」「おかあさま」という今ではもう使われなくなった奥ゆかしい言葉に出会ったとき涙が流れた。

 資料館には核をめぐる人類の歴史を展示するコーナーがある。そこでは第五福竜丸の事件が取り上げられていた。1954年3月1日、ビキニ環礁で行なわれたアメリカの水爆実験によって漁船が被曝し、半年後に久保山愛吉無線長が死亡した。日本人医師団は放射線障害の診断を下したが米側は放射能が直接の原因とは認めていない。放射能を浴びたとされるマグロが大量投機され、今でいう「風評被害」なのかどうか魚が売れなくなった。いずれにせよ、この事件によって日本は世界でただ一国、原爆と水爆の両方に被曝した経験をもったのであり、その後の原水禁運動、反核運動の大きなうねりの発火点となった。

 ところで、この第五福竜丸事件のおよそ4か月前。アメリカのアイゼンハワー大統領は国連総会で「アトムズ・フォー・ピース」演説を行なった。趣旨は原子力の平和利用に関する国際共同研究の促進である。アメリカはそれに対して援助を惜しまない。民間企業も協力する。国際機関を設立しよう。

 もはや世界的に核拡散の動きは止めようがない。むしろアメリカの原子力発電技術を提供することで西側陣営を拡大し、東側陣営に対する優位を保とう。それがアメリカの思惑だった。加えて、アメリカ主導で原発を推進する国際機関を設立すれば、これを通じて世界の核事情をコントロールできる。この国際共同機関が現在のIAEAにほかならない。しかしアメリカは「アトムズ・フォー・ピース」後も核実験をやめなかった。すなわち人類はこの時点で核をコインの表(原発)裏(兵器)として使い分ける術を見出したのだ。

 しかし、このコインの表側は、半世紀を経て錆びついてしまった。それを世界に周知したのが、はからずも三たび日本のフクシマだったことは、歴史の皮肉などといってすましていられるほど、のんきな話ではない。

 

アワー・フレンド・ジ・アトム

 第五福竜丸事件の1年後、1955年に日米原子力協定が調印される。アメリカのアトムズ・フォー・ピース世界戦略にもとづくプロパガンダは、経済成長のための新たなエネルギー源を必要としていた日本にも浸透していった。日本側の立役者となったのが、初の原子力担当国務大臣に就任した正力松太郎である。讀売新聞社社主で日本テレビ放送網の創設者、正力松太郎は「原子力」を自身の政界進出、ひいては総理の座をねらうためのカードとして使い、メディアの力をフルに活用して原発導入のキャンペーンを張った。アメリカにとっても正力は日本に原発を普及させるにあたっての重要人物だった。

 日本テレビは、合衆国情報局が後押しし原子炉製造メーカーがスポンサーに名を連ねるディズニーの長編ドキュメンタリー『アワー・フレンド・ジ・アトム』の売り込みを受け、1958年元旦にこの作品を『わが友原子力』として放映した。これは大きな話題を集め、同年から日本テレビはウォルト・ディズニー自身が解説役をつとめるテレビシリーズ『ディズニーランド』を放送し始める。動物もの、科学もの、アニメなどいろいろな要素があったこの番組は1970年まで続き、1966年からカラー放送になった。オープニングの万華鏡のような極彩色の映像に魅せられた幼少の記憶がある。

 子どもたちに夢を与えたディズニーは当初、原子力の夢として日本にもたらされたのである。原子力は未来を創る夢のエネルギー。そんなイメージは確実にこの国にも浸透していった。1963年から1966年にかけて放送された初の国産長編テレビアニメ『鉄腕アトム』も、アメリカのアトムズ・フォー・ピース世界戦略の副産物のひとつ、などといったら牽強付会のそしりを免れないかもしれない。アトムはその名の通り原子力をエネルギー源として動き、妹の名前はウランちゃん、登場する最も有名なロボットで浦沢直樹が2005年にそのエピソードをリメークしてオマージュを捧げた「プルートゥ」はローマ神話から来ているのかもしれないがプルトニウムを連想させる……などと指摘してみたところで、そんなものは単なるガジェットとして利用されているだけのことである。だいいち、日本文化が生んだ戦後最大の才能のひとり、手塚治虫に対してあまりにも失礼ではないか。

 そう思う。そう思うけれど、少なくともこれだけはいえるだろう。未来を舞台にした子ども向けのSFにそうしたガジェットがごく自然に用いられたこと自体、「原子力は夢のエネルギー」のイメージが広く世間に浸透していた事実を雄弁に物語っている。それはたとえアメリカ発のプロパガンダにせよ時代が共有していた気分であり、そのことに是も否もありはしない。そもそも当時の日本に原子力以外の選択肢はなかったのである。

 

アトムのリモコン

 さて『鉄腕アトム』が放送されていた当時小学校低学年だった筆者は、あまりこのアニメを夢中になって見た記憶がない。原作マンガも読んでいたはずだが、プルートゥが登場する「史上最大のロボット」のエピソードは強く印象に残っているものの、それ以外はほとんど忘れてしまった。ひねくれて陰気な子どもだったため、いかにも子どもらしい子どもの主人公に優等生の匂いをかぎつけたのかもしれないし、パンツ一丁の造形の妙な生々しさに違和感を覚えたような気もするが、いま思い返しても魅かれなかった理由は定かではない。手塚治虫が大好きになったのは後年のことで、作者自身が本人として登場する『バンパイヤ』のような作品や『ブラックジャック』に心酔した。

 むしろ子どものころ熱中していたのは、『鉄腕アトム』と同時期(1963〜65年)に放送され何度も再放送された『鉄人28号』のほうだった。1956年から10年間にわたって『少年』誌に連載された原作も、コミックス版でむさぼり読んだ。一人だけ「アトムよりだんぜん鉄人!」という気の合う友人がいて、通学の途中で習字道具入れを振り回すと、中の硯や墨や筆がぶつかりあって、テレビアニメの鉄人が歩く「ギッコンガッコン」という音にそっくりな音が出ることを発見して、はしゃいだりしていた。

 こちらは魅かれた理由を思い出せる。まず何よりも、作者の横山光輝が中世の騎士の甲冑からヒントを得たという(これは最近知った)鉄人28号の造形。下手くそな絵で何度も真似て描いた。プラモデルもつくった。そして主人公の金田正太郎君がもつ鉄人の操縦器。二つの操縦桿とボタンがいくつか付いているだけの単純な形状で「ビビビビ」と電波が出る。このリモコンが欲しいと夢にまで見た。さらには、半ズボンをはいた子どもなのに、こともあろうにクルマを乗り回し、あまつさえピストルの携帯まで許されている正太郎君。クルマとピストル————男の子の欲望を刺激する二大アイテムを手に入れ、そのうえロボットまで操れる正太郎君に憧れなかった少年が当時いたとは考えにくい。

 大人になってから再考すると、鉄人28号は戦時中に兵器として開発されたロボットという設定や、連載時には「科学探偵漫画」と銘打たれていたように、正太郎君と大塚署長の警察捜査をメインに据えて、意外に緻密でリアルな展開を見せていることに気づく。しかし何といっても、この作品の眼目は、鉄人がアトムのように意思をもつ人工知能ロボットではなく、あくまでも人間がリモコンで操る機械でしかない、という点だろう。それはテレビアニメ版の主題歌(三木鶏郎作詞・作曲)の「あるときは正義の味方/あるときは悪魔の手先/敵も味方もリモコン次第」という歌詞が見事に集約しているように、いつ敵の手にリモコンが渡ってしまうのか、というスリルとサスペンスを生んだ。

 ちなみに、アニメ版では鉄人をあくまでも正義のヒーローにしたいスポンサーの江崎グリコの意向によって、先の1番の歌詞ではなく「手をにぎれ正義の味方/たたきつぶせ悪魔の手先/敵にわたすな大事なリモコン」という2番の歌詞がメインタイトルに流れ、漫画原作を離れてオリジナルストーリーとなった第28話以降は、原作者の了承を得てリモコンは決して悪の手に渡ることがない、というルールが設定された。

 『鉄人28号』は、その後の『マジンガーZ』や『機動戦士ガンダム』など〈ジャパニメーション〉の専売特許である巨大ロボットものの源流となったばかりでなく、4度にもわたってテレビアニメシリーズとしてリメイクされ、2005年には実写映画版(富樫森監督)も製作された。

 一方、『鉄腕アトム』ではなく現実世界のほうのアトムは、コインの表(原発)としても裏(兵器)としても色褪せているように見える。もはや夢のエネルギーどころか、原発というのは意外にローテクなことが一般の人たちにも露見し(爆発して天井が開いた原子炉建屋の上から自衛隊のヘリが海水をまく映像を見て絶望感に打ちひしがれなかった人がいるだろうか)すっかりお荷物扱いだ。リアルのアトムはアニメのアトムと違って意思も知能も持たないから、鉄人28号のように人間がリモコンで操縦しなければならない。コインの裏側は邪悪な意思によって操られればたちどころに「悪魔の手先」になるし、表側もチェルノブイリやスリーマイル島のように操作を誤ったり、フクシマのような震災で制御不能に陥ると、いつのまにか裏返しになってしまう。

 だがそれでも人類がアトムのリモコンを手放すのは容易ではない。アトムズ・フォー・ピースの時代とちがい自然エネルギーという別の選択肢が拓かれているにせよ、である。事故が起これば計り知れないリスクを抱え、放射性廃棄物の最終処分まで含めれば膨大なコストのかかることが周知の事実になった上でもなお、原発を維持すべき合理的な理由はただ一つしか考えられない。コインを裏返す、つまり核武装のオプションとして持ち続けること。これなら大いに議論に値する論点だと思うが、こうしたホンネを漏らす人はなぜか少ない。もっと正直に議論すべきだ。

 アトムのリモコンをだれがどう操るのか。それともアトムもリモコンも放棄するのか。金田正太郎君を生んだ被爆国は正念場を迎えている

( 編集 茂木)