私達の教育改革通信

   157  20119

 

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地震と原子力発電 

      伊藤仁之

1941年、大日本帝国が太平洋戦争開戦に踏み切り、地球人類の文明は「戦争相」に突入した。1945年、この第2次世界大戦は広島で推定7万、長崎で3万5千の人命が一瞬にして抹殺されるという出来事で幕を閉じる。同年末までの死者は21万を超えた。原子爆弾の投下は、時代を超えて、世界の指導者たちの共同幻想に惨事として取り込まれ、潜在意識の奥深いところに刻み込まれたに違いない。原爆の非人道性が、すぐに、重く受け止められていれば、人類は戦争相を脱することができたかもしれないが、現実はそれほど単純ではなかった。米ソ対立を背景に原子爆弾封印は「核抑止力」という概念にすり替えられた。

 更に、広島長崎のトラウマから逃れるためと言っていいであろう、「原子力の平和利用」という政治スローガンが登場し、唯一の被爆国である日本の指導者たちもこれに飛びつく。はたして「平和利用」はパンドラの希望であり得たのであろうか。原子力発電が急速に増えていくなかで、この希望に警告するかのような大小の事故が起きる。最大のものはチェルノブイリで起きた。この事故の後処理では、語ることがタブーになってしまった犠牲的労働もあったらしいが、25年たった今、日本など遠国ではその記憶も薄れ、地球温暖化対策として、原子力発電が有力視されるようになっていた。そこに起きたのが、地震をきっかけとする、東京電力福島第一原子力発電所の事故である。

 4ヶ月が経過した今、現場技術者と労働者の献身的努力が実り、広域かつ大量の放射能汚染を残して、なんとか当面の危機は収まりそうである。政治的論点も、エネルギー政策に原発をどう位置づけるかに変わってきている。事故の詳しい分析が行われるのだろうが、原発推進派が主体である専門家の結論はおおよそ推定できるような気もする。「冷却系の電源喪失が第一原因であるから、電源の地震・津波対策を完璧にすれば日本の原発は安全である」であろうか。しかしながら、再び起こったチェルノブイリ級の事故を、そんな風に締めくくっていいのか。もう少し大きく、人類文明のあり方自体を問うべきではないのか。物理学を勉強してきたものとしていくつか思いつくことを書いてみたい。

エネルギー

事故が大津波で引き起こされたのは示唆的である。どちらも巨大量のエネルギーが関係する。原発1基の出力は平均すると100万kWくらいだが、熱損失を含めると300万kWになるらしい(文献1)。マグニチュード9の地震の総エネルギー(理科年表)は原発1万台が一日フル稼働したときのエネルギー量に相当する。福島第一原発を襲った津波のエネルギーはこの何%に当たるのだろうか、きわめて微少に違いない。電源の被害もエネルギー量にはほとんど関係ないが、設計時の安全性「想定」ではこのエネルギーが主要な要因だったはずである。

エネルギーの閉じ込め

地震のエネルギー源は重力であるが、この重力エネルギーは歪んだ岩盤(プレート)によって閉じ込められておりこれが破壊すると地震エネルギーとして解放される。岩盤を構成する分子間に働いているのは重力よりずっと強い電磁気力である。力には原子核内部や宇宙線など高エネルギー現象にのみ関与する「強い力(核力)」「弱い力」というのがあるが、地表近くの自然は電磁気力(と重力)に支配されている。

 原子力発電は原子核分裂を利用する(したがって、原子核力発電と呼ぶ方が適切)が、そのエネルギーは多数の陽子間に働く電磁力に由来する。この電磁エネルギーは核子間の「強い力」で原子核内に閉じこめられている。中性子を吸収すると核が不安定になり分裂するのであるが、このエネルギーの解放は「強・弱力」支配の自然現象であり電磁力のみを利用する文明の技術で直接制御することはできない。原子炉運転技術の守備範囲は、制御棒の出し入れや冷却水の循環など、だけに限られる。

エネルギー密度

分子など基本的粒子に働く場合、重力は非常に弱い力であるから、今回の地震のように巨大なエネルギーは大きな体積の空間に蓄えられる。地下という観測が難しい広大な空間にエネルギー源があることが地震の予測や被害対策を困難にしており、地震は確率的に、いつでも起きると「想定」して対策を立てざるを得ないことになる。また、マグニチュードの適切な「想定」は更に困難であろう。

 原子核を対象とする技術ではエネルギー密度の検討が肝要である。核内は極端に高密度であるのに対し、電磁力をベースにする技術はそれよりずっと低密度のエネルギーを扱っているからである。炉心溶融などの事態に対しても、直接エネルギー密度を低下する技術はなく、ひたすら水をかけて冷やすしかない。

 U(235)の原子核1個の分裂で解放されるエネルギーは200MeVである(文献2)が、これが半径 10^(-14)m(百兆分の1メートル) の原子核内に閉じこめられている。一方、電磁力現象の例として、U原子の総電離エネルギーを取り上げてみる。粗い計算でこれは1MeVに満たないことがわかるが、この電磁エネルギーは10^(-9)mの球(原子の大きさ)に送り込まれる。この二つのエネルギー密度を比べると、核内の密度は原子の方の10京(10億x1億)倍であることがわかる。大きすぎるエネルギー密度は核融合炉開発の基本的ネックにもなっている(文献3)。炉を大きくして電磁エネルギーを強力に注ぎ込めば乗り越えられる、という研究者もいるようだが、20年ほど前の日本原子力学会年会で「もし、地上で磁気閉じ込めを実現しようとするならば、太陽と同じ大きさの装置を作らねばならないのではないか」とジョークによる反論があったとのことである。

放射性廃棄物

4月12日福島の事故がレベル7に引き上げられ、唐突に感じた。燃料棒が損傷しただけで、炉心溶融(?付きで報道されたが、すぐ消えてしまった)はなく、放出線量もチェルノブイリの10%だと聞かされていたからである。INES基準をきびしく適用したらしいが、その裏では隠された情報がいろいろあり、専門家は深刻な事態を察知していたのだろう。深刻な事態は大きな放射能汚染をもたらす。U(235)の分裂で生まれる核やU(238)からの壊変で生まれる核は崩壊して、生物にとって有害な、高エネルギーのα線、β線、γ線を放出するが、これらの核を持つ原子が事故炉から大気や海水中にばらまかれ瓦礫等の廃棄物にも混入する。

環境の放射能汚染と、放射線を出し続ける使用済み核燃料の保管は原子炉技術の最大の欠陥といえる。放射線被害の特徴は外部被曝と微少量での障害にあるが、電磁力応用技術で被害を直接防ぐことはできない。ただひたすら汚染物質を、集め、流し、溜めて濃縮し、埋め、封じ込めるか、あとは汚染地から人間が逃げるしかない。また、事故がなくても従業者の被曝と環境汚染はあり、再処理工場では特に深刻らしい。使用済み核燃料が地球規模での環境破壊になるおそれもある。

これらの難事は長期にわたって子孫の代まで続く。放射性核には寿命(半減期)が長いものがあるからである。核中のα粒子は「強い力」で核内に引き留められているが、正電荷からの斥力も受ける。引力が勝って核内に束縛されるのだが、量子力学のトンネル効果で、核外に放り出されることがある。これが起きる確率でα崩壊の寿命が決まる。Pu(239)からのα線強度は24,000年経っても半分にしかならない。ベータ崩壊は中性子が電子(β線)を放出して陽子に変わる現象であるが、これは「弱い力」の作用で起きるから、崩壊の寿命は長い。原子核内で、中性子は「強い力」で束縛されているが、その効果でベータ崩壊による核の寿命もいろいろの値になる。たとえば、Cs(137)の半減期は30年であり、子供から孫・ひ孫の世代にまで影響が及び得る。(注1)(注2)

許容量と確率

放射性核は確率的に放射線を出すが、放射線が当たったときの作用も確率的である。内部被曝の場合、人体に入った放射性原子からの放射線は、ある確率で健康の要になる細胞中の分子に作用して変化を引き起こすが、それが直ちに障害つながるわけではなく、分子の変化が障害にいたるかどうかも確率的である。これら確率の積が障害発生確率であるが、元の原子数が多ければ、確率は足し算されるので、大きな確率で障害が起きる。逆に、低い確率でたまたま起きた変化が大きな障害を引き起こすこともある。この意味で、放射線被曝に許容量はない。

しかし、確率が大きい方が人間社会の被るトータルの被害も大きいから、何らかの基準が要る。また、パンドラの瓶の禍に立ち向かうのに無用な恐れは妨げになる、ということもある。一般市民に対する許容量は、これを下回れば自然および社会的(注3)に存在する他の低確率事象と区別できないとして、社会的に決まる安心の目安である。大きい確率で起きる障害の原因は突き止めやすい。高線量の大確率事象で原因が分かれば、低線量でも、確率が小さいだけで、同じ原因で障害が起きることを推定できる。ところが、小確率で起きる障害だけから、その原因を疫学的に追求するのは容易でなく、定説の確立にも時間がかかる。しかし、「定説を待つ」として放置するのは健全な判断とはいえない。許容量を超えれば、小確率にせよ障害の可能性は増大するのであるから、除染等の予防対策が必要になる。更に、(事故)原発従業者は大きな放射線量下で働くことを余儀なくされているから、特別な放射能防御対策を要するが、許容量もゆるく、一般市民年間許容量の50倍に定められていた。この基準は今回、事故原発では、緊急措置として250倍に引き上げられたが、被曝後の健康追跡管理はどうなっているのか、気になるところである。

フクシマで、この後、何年にもわたる重要課題の一つは、土地の放射能汚染と住民の健康および長期避難対策である。事故原発周辺では土地の汚染濃度が高く、許容基準をはるかに超える。高線量外部被曝については、長期無人化地域の指定など、チェルノブイリでの教訓を生かした対策がとられるであろう。一方、低線量の外部被曝と内部被曝に対しても、予防・防御施策とともに、被害者救済策を定めねばならない。疫学的判定が必要になるが、チェルノブイリでも、疫学的調査研究は十分にはなされていないらしい。この調査研究に関わっている日本の研究者もおり、国内で、原発従業者の被曝・疾患を追い続けている研究者もいる。政府はチェルノブイリと連携して、これらの研究を支援する特別措置を講じるべきである。

 ここで少し脱線し、確率事象に関係する失言を報道のなかから取り上げてみよう。

    「ゼロではないはゼロのことである」

「再臨界の確率は非常に小さい」ということの説明を巡って行き違いが生じ、この珍妙なやりとりになったのであろうが、緊迫した政治局面での専門家と素人(政治家)の議論の実態が透けて見える。それぞれの対応で欠けていたものは何だったのだろうか。それにしても、「大丈夫です、水素爆発はない」の方はもっと理解し難い。格納容器の外での爆発は想定外だった、との言い訳があるようだが、危機的状況での専門家の状況把握力や想像力が問われているのではなかろうか。

    「ただちに健康に影響を及ぼすものではない」

ただちに健康障害が起きれば重大事であるが、この発言はもっと小さい線量での汚染に対してなされている。「将来健康に影響が出ると、ただちに決め得るものではない」の意味であろうか。正しくは「暫定許容量以下だから、政府がただちに対策を講じるものではない」と言うべきであろう。

 

天罰か

今回の事故は、原子炉は水で冷却し続けないと暴走することを、われわれ素人に分かるように示して見せた。そして、事故は想定外の津波が引き起こした。マグニチュード9は地震学者の想定を越えていたが、津波による電源喪失を予言していた科学者もいた。また、M9を予想した学者が少数いたとしても、設計時の想定に取り上げられた可能性は小さい。「想定外」は科学・技術ではなく経済・政治的概念と見なすべきであろう。人為的なものを含めて想定外の事故は起こり得る。この事故のもう一つの教訓である。

大地震は我欲への天罰だと言った人がいる。自然(=神?)の摂理に反する行いに天罰が下るとするならば、大津波は、電磁力支配の自然環境で育まれた技術で原子核を操って実用エネルギーを得ようとする、人間の傲りに下った天罰だったのではないか。

 では、投下されてしまった原子爆弾への天罰はどうなるのか。原爆は破壊を目的に作られており、電磁力技術はこの目的に無理なく組み込まれていた。この意味で、原爆は天(=自然)の摂理に反していないから、文明を揺るがすような大きな罰を免れてきたのであろうか。原爆への天罰は人間が自ら下すしかないと言うことか。唯一の爆撃国アメリカのチェンジを見守りたい。

文献

1; 木下紀正・八田明夫「地球と環境の科学」東京教学社

2; 林弘文・勝又昭治・徐伯瑜・平松惇「地球環境の物理学」共立出版

3; 辻良夫「科学技術神話の崩壊」出版文化社

 1; γ線放出は電磁力現象であるが、「強い力」で決まる核構造が高エネルギーを与える。

2; このパラグラフは原子核物理が専門でない筆者が、自分で納得するための考察であり、このような単純化視点の妥当性を専門書(家)に当たることはしていない。

3; 医療X線は電磁力技術で発生する。

 

初めてのギリシャ観光

            立石昭三

同級生に中井久夫という神戸大学精神科の名誉教授がいる。この方は筆がよく立ち、人情の機微に触れたエッセイをよく書かれるが、ギリシャ語も堪能で、ギリシャ語の詩の訳本なども中井久夫全集に含まれている。

一方、高校の世界史の授業では、文献のないヒッタイトや

 

ミケーネなどの先史は軽く飛ばし文献、絵、彫像が残っているギリシャ、ローマ時代から丁寧に教え始める。そのためヒポクラテス, ソクラテス、プラトンなどの名前は今に生きていて一度は行きたい国であった。

アラブに赴任していた頃は貨物がギリシャのラルナカ空港を通ると、何か中身を抜かれるし、最近はヨーロッパの中でもギリシャの経済の凋落は著しく、EUの重荷になっているとも聞いた。それなら円は強いはず、と私どももそのうち歩けなくなるだろうからその前に行こうか、と云うことになった。結婚後50年目の金婚を迎えた、と云うこともあった。幸い独身の五女が鞄持ちを申し出てくれたので留守を預かる姉娘たちも安心して送り出してくれた。同門の池田貞夫先生ご夫妻がエーゲ海クルージングをなさった折りの写真も拝見し、「とてもよかった」と伺ったのも行くきっかけになった。

 

10月の終りにルフトハンザで先ずアテネに行き、その後、エーゲ海のクルージングに加わる旅程を組んだ。何しろ初めて行く国なので「地球の歩き方」などの参考書を読むと、アテネは特に治安が悪く、スリ、置き引き、カッパライも多い、とある。しかし夜、空港についてタクシーを捜し、料金を訊ねると料金表を示し,約40ユーロだと言う。宿はヘラクレス像のあるお向かい,市庁の隣のクラシカル・ベイビー・ホテルであった。インターネットで申し込んだので5%引きの値段であった。翌日は型のごとくアクロポリス、パルテノンの神殿、国立博物館などで過ごした。途中に、サンタクロース風のギリシャ人が居て、一緒に写真を撮らないか、と誘ってきたのが唯一のお乞食さんであった。私どもと並んで撮ったが、1ユーロを請求し、それを払うと“Mio solo” 「一人だけで撮ってくれ」と言って一人で撮るのを求めた。偶々、国の祭日で町には警官が沢山いたが全体として治安が悪いということはなかった。帰路の客待ちのタクシー運転手はブルガリア人だったが宿までの料金を来るときの三倍ほど吹っかけられたのでそれは断り、次の客待ちの厳めしいピタゴラスのような顔をしたギリシャ人運転手は4ユーロだけを請求した。夜、下町にタベルナ(食堂)を探しに出たときは黒人が屯する中を行ったが、「ここはカッパライが多いのでカバンは肩から提げずに、しっかり前に回し、両手で抱えるように!」と通行人に注意されたくらいである。

 

3日目にアテネのピレウスからルイス・クルーズの豪華船、クリスタル号に乗り込み左舷7階の海側の一室に落ち着いた。乗客は全部で千人弱、その殆どは聖地巡りのアメリカ人、スペイン語を話す陽気な中南米人たちで各室には二人のフィリッピン人のボーイが付いてくれた。食堂にも乗務員にはフィリッピン人が多く、そのうち3人はいかにも日本人の顔をしていたので訊ねると父親が日本人だとか祖母が日本人だとか誇らしげに言ってくれたのは救いであった。

結論から言うと船旅は正解であった。船は夜に走り、早朝に目的地に着き、バスやタクシー、または徒歩で観光をする。ホテルを移動する手間も要らず観光に専念出来るので老人向きである。このようにしてミコノス島、トルコのクラシダ港、再びギリシャのパトモス島、クレタのヘラクリオンやサントリニ島などを観光して回った。

ミコノス島では軽井沢のように観光シーズンだけ営業しこの夜が最後の日とて、後は御土産屋さんもタベルナも休みになると云う事であった。赤い漁船がある所がタベルナで、オリーヴ油と塩だけで、トマト、きゅうり、セロリなどの生野菜とチーズに味をつけたサラダや地元産のワイン、スズキの塩焼きなどを食べたが日本人の味覚には合うと思った。日本海の漁師町のようにタコを天日で生干しにしているのもこの島らしい。

 

私が最も行きたかったのはクレタのフェデリーコ2世(1195〜1250)の墓である。この方はシチリアの領主でもあったが神聖ローマ帝国の皇帝になり、1228年,弟5回十字軍を率いてエルサレムへ進軍した。彼は幼少時よりアラブ語をよくしたので、エルサレムに行ってもムスレムのアイユーブ朝のカリフ、アル・カーマルと話し合い、エルサレムをキリスト教、ユダヤ教、イスラムの宗教的聖地とする取り決めを結び、無血の十字軍と呼ばれた。ローマ法王グレゴリウス九世は彼が無血で帰還したのでその行為に怒り、彼を破門した。以後彼の肖像はクレタ島にあるもののみであると聞いた。今日、中東、パレスチナ、エルサレムでユダヤ教徒とムスレムが血を流して争っている有様は今世紀の悲劇で、若しキリスト教徒の多い米軍の中にアラブ語、アラブ文化、イスラームの心を理解する長がいればこれほどの諍いはなかったかもしれない、と思ったりもした。

クレタ島では東方教会にも参詣したが、アンソニー・クイン主演の映画「その男ゾルバ」、それにもう亡くなったがギリシャの文部大臣にもなったメリナ・メルクーリ演ずる「日曜はダメよ」のロケ地を案内してくれたプラトンそっくりのタクシー運転手は、私どもがこの映画を見た,と言うと、とても喜んでくれた。ちなみに最近見た映画、メリル・ストリ−プ主演の「マンマ・ミーア」が撮られたのもエーゲ海のスコペロス島である。

 

船内では日中、ギリシャダンスの講習、夜には船内の劇場でその実演があったが、踊りの時の掛け声が「オーパ」と云うのは開高健の釣り小説「オーバ」の意味が判らなかった私には溜飲が下がったような気がした。何処でも私どもは「ヤースー」とか「ヤーサースー」とか連発したが、これは便利なギリシャ語で日本語の「どうも」に当たるのか、挨拶にも感謝にも使われる言葉のようである、5歳になる孫が「ギリシャに行くのなら」、と教えてくれたもので何処でも重宝した。

ギリシャの旅を終えた私どもは帰国前にスイスへ行き、20年前にアラブのイエメンで近くに住んでいたハンガリー人の14歳の少年、翌年、私ども宅に一夏寄留したエレミアと云う今は身長185cm、体重90Kgの偉丈夫のお宅を訪れ、これも感激の再会であった。

文献1;「地球の歩き方2010、ギリシャとエーゲ海の

島々&キプロス」ダイヤモンド社

文献2; Ahmed ibn Yahya Baradhhuri 著、花田宇秋訳「諸国征服史」(The Great Conquest of Early Islam)明治学院大学総合研究43;93〜129、193

 

メリトクラシーと愛

大原荘司

 「メリトクラシー」は、マイケル・ヤングの「メリトクラシーの勃興」にはじまる言葉であるが、メリット/デメリットという評価の物差しを特別に重視する社会の傾向をいう。「目に見える成果による能力評価主義」と理解してもよいかと思う。そもそもメリトクラシーの源流を訪ねれば、何かをすればある都合のよい結果が得られると考える有所得の観念、因果(原因と結果の直結)を強く信ずる観念ではないかと考える。確かに倍だけ勉強すればそれなりの結果が得られるだろうことは一見あきらかだから、有所得の観念は否定しにくいのである。しかし倍勉強したから常に倍の成果が得られるわけではないという非線形の関係がこの世の原理の一つであるから、有所得の観念では人も社会も救えない。またわれわれの眼に結果として映るあらゆることが、有所得の行為によるわけではない。すなわち、偶然の働きである。偶然の事故や災害に遭遇して瀕死の人の魂は有所得の観念では救えない。逆に、偶然によって大きなメリットを得たと思えることも日常茶飯事である。また、失敗というデメリットが返って成功の種になることは多い。人格の形成まで考えると、むしろ失敗によってこそ成功に導かれると考えるほうが正しいのではなかろうか。学校教育の場では、成功して得られた人類の成果を体系化したものを、教材として教えようとするのが常であるから、根の深いジレンマが存在することになる。成果を体系化したものは一定の因果の文脈に乗ったものである。その内容を効率的に習得することを能力ありとして評価するならば、その評価はいわば文脈言語中枢の発達程度をテストしているだけになるのではないか。谷 昌恒が「私の道徳教育論」の中で、「感謝すべきことの本当の意味は難儀が有ることなのではないか。」と述べている。自分が納得できる失敗や難儀、課題が与えられることは幸運なことであるが、それを教材としてわざわざ提供することは大変難しいという課題が、教育の根本にある。

 メリトクラシーは因果を信ずると述べたが、人間が自然界をモデル化し単純化して、理解し易くするために作り上げた因果性を、実在とする見方とつながる。ここで、細川巌の「信は人に就く」のなかの次の文章を引用する。

「一本のローソクがあってよく燃えている。風が吹いてきてこの火が消えた。ローソクが消えた原因は何か。風が因で、風が吹かなければこんな結果は起こらない。こんな考え方は因果関係という。因と果で考える。しかし仏法ではそうは言わない。それを空という。ローソク自体に問題があるのである。ローソクの火が小さいことに問題がある。その証拠に、そのそばに大きなかがり火があってそれに同じ風が吹く。するとその火は消えるどころか盛んに燃え上がっているではないか。風にあって消えるか燃え上がるかは火が小さいか大きいかに原因があってその因はローソクやかがり火それ自体にあるのである。風は縁なんだ。これが因縁という考えである。」これは、新たなメリットを発見しようという意味で引用したのでは勿論ない。目に見える因果関係だけで物事を判断するのは間違いだという意味である。本当の教育の成果は、教えようとして教えた因果関係上にはなく、予期せざるところにあるはずである。玄則の「如何なるか是、学人の自己なる(修行者のあり方)」の問いに対する法眼禅師の答え「(びょう)(ぢょう)童子来(どうじらい)求火(ぐか)」について酒井得元老師は「火が火を求める。すなわち自己が自己を求める。ただ因縁が存在しているだけだ。」と説いている。

因縁情報の入力による心(唯識でいう阿頼耶識)の秩序状態の形成が悟りなのではないか。広島原爆は戦争終結を早めるためだったという主張は因果性に偏ったとらえ方で、オバマ大統領のプラハ演説の「道義的責任」発言は因縁性に落着したとらえ方である。

技術の発展の主軸にメリトクラシーがあることは容易にうなずける。独創的アイデアは因果性よりは因縁性によって生まれると思われるが、既存技術の発展の牽引力ではメリトクラシーに役割が移る。より便利に、より安全に、より安価にという評価基準が明確に設定されているからである。とはいえ、経済合理性に偏った従来のメリットは、現在の環境問題、エネルギー問題と金融危機あるいは原発事故という結末を受けて、あらゆる技術分野で発想の原点から再検討がなされなければならないだろう。特に失敗に学ぶことが許されない原発技術にあっては、複数の想定条件を前提にした妥協という設計の根本が問われていることになる。革新技術は競争によって追い込まれたがゆえに発想されるわけではなく、少なくとも、競争原理だけで技術の進歩を論ずることはできないだろう。むしろ行き詰まったときにも自由な発想が許される状況かどうかが持続的転回の大きな要因である。技術の分野では、開発した技術が売り物になるかどうかという目に見える成果だけで開発技術者を評価するという現場の問題も存在し、これは学校教育の問題にもつながる。

 メリトクラシーの浸透が最も激しいのが教育の場である。能力や努力の成果が最も点数化されやすい分野である。教師という個人に内面化された教育的メリットは、学ぶものの能力に応じて教育することが可能であり、その成果を評価することが可能であるという前提に立っている。英語という固有の科目が立てられ、その学習成果が点数によって評価され、それによる挫折で科目という枠を超えた多くの英語嫌いの若者を作っているのが今の高校までの英語教育の現状ではないか。その点数評価から得られる偏差値によって、進路が決められている実情がある。英語や国語はすべての勉強の基礎と考えられ無機的扱いを受けている。とかく教師は、自分が階段を登るように成長してきたと錯覚しがちである。基礎のメリットが応用のメリットを生むと考えがちである。これは、学問体系という同時因果に人間の成長の道筋を強引に当てはめているに過ぎない。一方、人間の発想や考え方、勉学の意欲が、感情という非学力的要素の影響を大きく受けることが実証されている。形に現れる知性の教育より、感情の教育、心の働かせ方の教育がより基本的なのではないか。

近代型能力が基礎学力とすれば、ポスト近代型能力は対人能力や意欲であり、今度はこちらをメリットとして教えなければならないという風潮がある。本田由紀は「多元化する能力と日本社会」のなかで次のように述べている。「そもそも、意欲や創造性など、内面的性格が強い「ポスト近代型能力」に、学校教育が直接に介入しようとすること自体が是認されうるのかを問う必要がある。」メリトクラシー社会の立役者である教育者は、何事も教えることができると思う錯覚に陥りやすい。教えたいのは人間の煩悩であるからやむを得ないが、自分の意欲や創造性など自分がどのようにして獲得したのか振り返ってみればその誤りは明らかである。ソ連は69年を費やしても共産主義者を教育によって養成することが出来なかったのである。一灯園の石川洋の言葉にあるように「育成は祈りである」の立場を堅持すべきであって、自分や社会が理想とする人間を人間が育成できると思い上がるべきでない。教育者であった筆者の父はこのことを「期して期せず、期せずして期す」と表現している。メリトクラシーの教育上の問題はまた、相対的な価値を持つとしか思えない「能力」やその成果物が人を評価する尺度となって、絶対的な威力を持って個人に迫ってくることの問題である。無気力症候群の学生に、単位がどうの就職がどうのとメリットを振りかざしてもまったく心に響かない。競争原理や能力主義が人間を内発的に動機付けるという暗黙の前提は誤りである。遠山啓の著「競争原理を超えて」の中に、「他人との競争心ではなく、人間の本性である事物そのものに向かう知的探究心・知的好奇心が十分に発動できるような条件をつくってやればよいのである。」とある。この条件作りは簡単ではないが競争原理に逃避するよりはましである。産業社会を進化させている主成分も競争心ではなしに、使命感のようなものではないのか冷静に分析してみる必要がある。内発的動機付けは教育者の理想とするところであるが、E.デシとR.フラストは「人を伸ばす力」で次のように述べている。「内発的動機付けとは、活動することそれ自体がその活動の目的であるような行為の過程、つまり、活動それ自体に内在する報酬のために行う行為の過程を意味する。」「私は、内発的動機付けの経験それ自体に価値があると信じている。バラの香りをかぐこと、ジグソーパズルに熱中すること、日差しが雲にきらめくのをしみじみ眺めること、ワクワクしながら山頂にたどり着くこと。これらの体験を正当化するために何かを生み出す必要はない。そのような経験のない人生は人生でないとさえ言えるかもしれない。」とはいえ、行動と結果のリンクが方便として時には必要なことは、法華経譬喩品「三車火宅の喩え」に説かれるとおりであるが、結果が失敗に終わることのほうが圧倒的に多いと心得なければならない。太平洋戦争の悲惨な結末の原因が日露戦争の表面的勝利にあったと言えなくもない。ともあれ、人生や社会の転変のいきさつを因果の文脈で全体化し、安易に物語ることは慎まなければならない。偏差値の導入によって進路指導の利便性は増大しているが、本当にどの進路を選ぶべきかの苦悩はより深まったといえるのではないか。臓器移植技術、再生医療技術の今後の進歩は遠からず、現在の環境問題とは比較にならない重いジレンマを人類に提供することだろう。むしろ、そのようなジレンマの明確化がメリトクラシーの真の存在理由ではないかとさえ感ずる。数値化によって目の前の迷路がはっきりしただけの事で、全体が迷路であることに変わりはない。競争原理は、市場価値が貨幣という汎用記号に変換されて起きる経済現象に幻惑された幻想であり、少なくとも教育の現場に持ち込まれるべきものではない。ましてそれに乗じて教育機関を無責任にランク付けするなどは罪悪深重である。

さて、メリトクラシーのような人間の名聞、利養、勝他の心に沿った価値観の大転換は宗教的アプローチが挑むべきものである。宗教とは、世間的価値観にとらわれない精神の真の自由を目指すものというのが本論の前提である。一時的で相対的な価値観を超える普遍性を求めながら、その普遍性、全体性を純化する(無所得、無所悟、価値自由にする)働きを同時にもつのが真の宗教であると考える。問題は宗教的束縛を超えて、その普遍性と個人の精神が具体的にどういう言葉・概念を通じて日常の一刹那に連なり、無常の世に希望を失わずに生きて行く力となるかという点である。

沢木老師の言葉に「得は迷い、損は悟り」というのがある。老師は「禅戒本義を語る」のなかで、「仏法は不可得なのである。仏法は有所得の心をもって求めてはならん。馬鹿骨を折りとうて、一生懸命馬鹿骨を折ることに努力した。なるだけ縁の下の力持ちをやって、なるだけ損をする。」と述べている。十代の後半、ニーチェやキルケゴール、道元禅師の著作など反メリトクラシーの本を読み耽っていた頃、無駄骨を折ることが愛というのではないかと直感したことを今でも憶えているが、つい最近、愛についてこのことに符号する記述に遭遇した。それは、ヤスパースの愛の規定「具体的な行いを通じて、絶対性や全体性に向かう運動」である。ヤスパースは「真理について」の中で、「愛は真理への運動である」とも述べている。われわれ凡夫は容易に悟ることはできないが、こころに愛を持つことはできるのである。

ヘーゲルは、「キリスト教の精神とその運命」のなかで、「愛は精神の和合であり神性である。神を愛するとは、生の全体において、無限なるもののうちで自分があらゆる制限を脱しているのを感じることである。」と書いている。これは、先に引用したヤスパースの愛の規定と通ずるものである。このような愛によってのみ、客体的なもの、良し悪しを比較するもののすべてを打ち砕くことができる。

曽我量深は、「始めに行あり」のなかで、「仏教の行は純粋の行である。求める相手もないし、求める主体もない。そういうものは一切ない。それを純粋行という。仏教の行は分別の計らいを入れないこと。人間の利己的な計らいを一切入れないのが仏法の行である。いわゆる諸善万行というならば、人生のあらゆる行、朝起きて口をすすぎ顔を洗う、これはみな行である。」と述べている。清水寺元貫主大西良慶老師の言葉に、「仏さんになるということは、出発点に願がある。願があれば行が出てくる。希望があったら運動が出てくる。」とある。行も願も仏と衆生の間の双方向の働きかけである。従因向果と従果向因が同時、一体である。キリスト教の愛と即応している。仏教においては、行や願がヤスパースの愛の規定「具体的なことを通じて、全体性、絶対性に向かう運動」と即応している。「愛」のようにもっと身近で率直なイメージで受け止められることを期待したい。あるいは、「愛」という言葉に、願行の意味を感得すればよいのである。愛によって、自由な精神が尽十方界の真実と連なり、どんな難局に臨んでも無限の能力を発揮できる「没量の大人」であることができるのではないか。

(本文は、「奈良産業大学紀要」2010年掲載論文を修正加筆したものである。)

参考文献

M・ヤング「メリトクラシー」窪田鎮夫、山元卯一郎訳、至誠堂、昭和57

谷 昌恒「いま教育に欠けているもの」、岩波ブックレート、1985

細川 巌「信は人に就く」(唯信鈔文意講義)、法蔵館、1978

C.ファイン「脳は意外とおバカである」渡会圭子訳、草思社、2007

本田由紀「多元化する能力と日本社会」NTT出版、2005

E.デシ、R.フラスト「人を伸ばす力」桜井茂男監訳、新曜社、

1999 

沢木興道「禅戒本義を語る」沢木興道全集第十巻、大法輪閣、昭和

38

K・ヤスパース「真理について」小倉志祥、松田幸子訳、理想社、1985

G・ヘーゲル「キリスト教の精神とその運命」細谷貞雄、岡崎英輔訳、

白水社、1998

曽我量深「始めに行あり」曽我量深選集第十二巻、弥生書房、昭和47

大西良慶「心」第三巻、法相宗宗務所、昭和48

 

 

国家財政の破綻と世界経済の危機

                     菅野礼司 

グローバル化は平均化ではなく格差を拡大

 急速なグローバル化によって今や世界は一つになり、昼夜の区別も喪失しつつある。それにより、世界の政治・経済や文化の連繋は緊密になり、統一化が進んで人類社会は平均化されていくはずであるが、現実は逆で国家間や地域間格差、貧富の格差がますます拡がっている。人と物の交流、および情報量だけが増えたようである。

  近年、世界的金融恐慌や経済危機が立て続けに起こっている。アメリカのサブプライムローンに端を発して、リーマンショック、原油価格の乱高下、ドバイ経済危機、ギリシアに始まるユーロ圏内の国家財政の危機、アメリカの累積的財政赤字など、今後何が起こるか分からないほど不安定な情勢である。日本も累積赤字で国家財政が破綻しかかっている。グローバル化の時代には一国の経済危機は全世界を揺るがす。特に、現代のような不安定状態では、ちょっとした要因が原因で巨大な変動をもたらすカオス的現象が起こりやすい。

 一方では飢えと生活苦に喘いでいるのに他方では飽食と富の偏在、さらに金融緩和による金余り現象で投機資金が世界経済を掻き回している。いま人類社会はいろんな面で極度の二極化が進み、多くの矛盾が蓄積される一方である。

慢性的赤字財政

 近年の急激な金融危機の裏には慢性的経済危機があり、それが世界を覆いつつある。その危機とは国家経済の破綻の恐れである。アメリカを筆頭に、ほとんどの先進国は累積する財政赤字に悩んでいる。国家ばかりでなく地方自治体も同様な傾向にある。その国家財政の赤字(穴埋めの赤字国債)は増える一方で、急速な景気回復でもない限り減少する見込みはほとんどない。

 文明が進むに従い人類社会の仕組みがどんどん複雑になり、国家の機能・役割も多様化し肥大化した。科学・技術の進歩はそれに拍車を掛けてきた。現代では、平均的な日常生活に必要な設備や家財・物品(特に電化製品)は非常に多くなり、家庭の出費は昔に較べて多大である。それに見合うだけの個人収入を必要とするが、給料はそれに比例して上がらない。いやむしろ、非正規社員が増えて、サラリーマンの平均収入は減っている。それと同じく国家の財政支出も莫大な額に膨らんだ。軍事費、公共施設、教育・研究費、社会福祉費、医療保険費、環境保全対策費などなど、種類も金額もどんどん増えてきたし今後も増大するばかりであろう。そのジレンマを脱するためにと「小さな政府」を目指して、規制緩和と民営化の構造改革を推し進めたのがアメリカの市場原理優先であり、それを真似た小泉内閣であった。その結果がかえって貧富の格差拡大と矛盾の増幅であった。

 経済不況の時代には支出は増えても増税はできない。この状態がいつまで許されるはずがない。日本の赤字国債は国内で消化されていて、外国金融に依存してないからまだ大丈夫だとの説もあるが(円高の原因)、ものには限度がある。「量的変化による質の転化」の普遍的法則があるから、この状態が永く続くはずがない。国家の財政破綻はどのようなときに起こるのだろうか。日本の敗戦のとき、莫大な軍事費の赤字で国家財政が破綻したことは覚えている。債券も札もすべて紙切れになり、国民はみな路頭に迷った。

 今の状況が続けば、遠くない時期に経済的に破綻する国が続出するのではなかろうか。日本はその先頭を走っているように見える。グローバル化された世界では、先進国はどこも似たような状態にあるから、一つの国が倒れるとドミノ式に波及して世界経済は破綻するだろう。発展途上国もその煽りを受けて被害を被る。

  環境破壊、食料・資源不足、国家と世界経済の危機などにより、人類は生存の危機に直面している。これらの問題に共通している根本的原因は、資本主義社会とその下での無規制な市場原理であるように思われる。それともう一つ、議会制民主主義がマンネリ化してまともに機能しなくなったところにあるのではないか。政治家・議員は当選するために選挙民の顔色を気にし、集票を最優先するから思い切った政策を打ち出せずにずるずると現状に追従している。また、選挙に首長や議員にタレントが有利であることも議会制民主主義が形骸化されていることを示している。これは選ぶ方、選挙民の問題である。(選挙に限らず、すべての面でテレビタレント、マスコミに騒がれる有名人が異常に幅をきかす時代である。)

激しい開発競争に駆り立てる市場原理優先

強力なグローバル化と激しい経済競争によって、それぞれの国家は昔のように緩やかにマイペースで成長を続けることはできなくなっている。一国だけがその競争の外に位置することは最早許されない。好むと好まざるとにかかわらずグローバル化に巻き込まれてしまう。生産の低コスト化を求めて、企業は低賃金の地域に資本を投資し、あるいは工場を移転させている。

この経済競争に落後せず生き残るために、各企業・国家は篠木を削っている。それは国家の権威を懸けた経済競争でもある。国民総生産(GNP)の準位や経済成長率を競い、そのために日進月歩の技術開発競争に勢力を注がざるをえない。この開発競争に負けることは、企業も国家も没落を意味する。その競争の結果、既存技術はすぐ古くなり、旧製品は破棄されていく。その無駄は計り知れないであろう。また、次々に新技術が生まれ、関連産業が起こっている。この状況の根底には資本主義的市場原理が作用していることは明かであろう。

毎年5%以上の成長率を続けなければ、国家財政と安定経済を維持できないような制度がおかしいし、無理がある。地球の生物維持能力には限界がある。全世界のすべての人間が最低の文化的生活を維持できるように平均化すると、すでに現在の人口で地球の収納能力を超えているという。

危機脱出の方策はあるか?

複雑系としての世界経済は閉鎖系

現代では、政治・経済は国家ごとに独立に運営されているが、貿易、金融、投資、多国籍企業などを通じて、その活動は国内で閉じず国際的に開かれている散逸開放系である。グローバル化時代になり、その性格は一層強くなった。

一国に着目すれば、物資や資金は絶えることなく出入し続ける開放系であるが、それは国家ごとに、相対的に安定しているので散逸構造を形成している。しかし、政治・経済の活動の活発化とグローバル化により、その国家の散逸構造も外からの強い影響を受けやすく、不安定になっている。特に先進国は上記のように、国家財政は税収よりも支出が急速に増大し国内要因だけでも財政破綻の危険性が一般化している。発展途上国も徐々に同じ道を辿りつつある。

これまでは一国の財政危機は、外国や国連などからの援助によってまだ救う道はあったが、それも限界に達しつつある。EU圏内での危機がその典型であり、巨大国アメリカの財政危機には他国からの援助はほとんど効果がない。この問題を地球全体を包含する一つの世界としてみるならば、状態はさらに深刻である。世界経済は、散逸開放系ではなく、ほぼ閉じた複雑系であるがゆえに、その内部に危機脱出の抜け道を見出さねばならない。人類社会の複雑系は経済だけで閉じているのでなく、地球活動(自然界)と強く関連している。世界は経済圏としては閉じているが、自然条件としては地球はエネルギー・エントロピー的に閉じてはいない。それゆえ、道がないわけではないだろう。

経済成長で活路はあるか?

国家の財政危機を救う方法として、増税や経済成長が上げられている。しかし、不景気の時期に増税は、国民生活を一層苦しくするので反対が多い。だが、背に腹は代えられないという主張も成り立つ。政治家は選挙があるので、口には言っても増税を断行できない。

もう一つの方法は、経済成長により景気をよくすれば税金は自然に増えるから、まず経済成長だ、という成長論である。この方法が可能なら、反対意見はないだろう。だが、その実現は極めて困難である。その理由にはいろいろあるが、主なものは資本主義経済制度と自然条件(資源、環境問題)の制約である。

規制のない資本主義のもとで市場原理を優先する制度では、景気のよいときは矛盾が表に出ないが、不景気時代には弱肉強食の競争で、個人の貧富の格差と国家の優劣の格差がさらに増幅され景気回復に繋がらない。現に、失業率は増し、個人消費は増えない。また、少数の発展途上国が経済的に台頭した反面で没落国家が増えている。さた、物質と人の交流は盛んであるが、出稼ぎ移民の急増で内紛や民族対立が頻発している。これが格差増大の原因ともなっている。

景気低迷の先進国(北米、EU,日本など)は、景気を刺激するためのカンフル注射としての金融緩和と低金利政策は、経済成長を促すよりもむしろ金余り現象で投機マネーを増やすばかりである。投機家は従来の株・債券・金などへの投資を超えて、資源・食料・住居などあらゆる物を投機対象にして世界経済を蹂躙し混乱させている。

では、この先景気が上向き、世界的に経済成長がなされたなら、この経済危機は救えるだろうか。経済成長が可能であるためには、少なくとも二つの問題を克服しなければならない。その一つは、地球の環境問題であり、二つ目は世界経済の成長を支える収容能力(消費、社会資本)の限界である。

社会の消費量と社会資本には限界がある

経済危機を脱し、国家の財政破綻を救うには、経済成長率は年何%なら見込みがあるのか。年5%ではとても足りないであろう。するとCO2削減どころか、CO2排出量がますます増えて地球環境はもたないだろう。この調子では、大気汚染防止を初め地球環境保全の技術開発は経済成長に追いつかないだろうし、エコ技術の開発が経済成長に寄与する割合はそれ程大きくなく、それだけでは世界の経済危機を救うことはできない。

もう一つの問題は、地球は有限であり世界経済圏は閉じているゆえ、経済成長によって増大し続ける生産財を吸収(消費・蓄財、社会資本など)する容量はどこまで拡大できるかということである。これが一国の問題ならば、散逸開放系なので、貿易により生産物を放出することはできるが、全地球の経済圏は開放系ではない。ただし、自然条件としては散逸開放系である。太陽からの低エントロピーのエネルギーを受け、熱輻射によって高エントロピーのエネルギーを宇宙に放出しているからである。それゆえ、資源が続く限り生産量を増やすことは、エコ技術の開発によって当分は可能である。問題はその生産物をどこがどのように収納吸収するかである。

発展途上国はまだ生活レベルがまだ低いので、先進国並みに引き上げれば、生産増加分を収容できる余地はあるだろう。だが、資本主義経済制度のもとでは、見返りがなければ富の分配はしない。発展途上国にはその経済力が不足しているので、消費と蓄財は先進国に偏在する。先進国からの拠出金を用いた国連資金や国際通貨基金(IMF)などによる経済援助は一時的でその額も限られている。それゆえ、現在の政治・経済制度では、国の経済も世界経済もその成長には限界がある。富(生産財)の分配法を改め、労働を分け合う(ワークシェア)制度に改めなければ、安定成長は不可能であろう。そうしなければ、経済状況は常に不安定でデフレ・恐慌、金融危機は短期間に繰り返されるであろう。そして、遠くない将来に、国家財政と世界経済の破綻に陥ることになるだろう。その改革がうまくいっても、人口は地球の収容をすでに超えていることを念頭に置かねばならない。

歯止めのない経済競争の続く資本主義経済制度は破局の時期に来ているように思える。

ちなみに、世界経済の成長と膨張宇宙との類似性に言及しておく。地球経済圏は閉鎖系であるが、好景気を維持するためには生産量の増加と、それを吸収しうるだけの消費量(個人消費と社会資本)を拡大しなければならない。生産活動は社会の(ひいては地球の)エントロピーを増大させる。生産物を受け容れる余地を作り出すことは、エントロピーを吸収する余地を作ることである。それは、宇宙(閉鎖系)の進化と似ている。全宇宙のエントロピーは増大する一方であるが、宇宙膨張により拡大する空間が、その増大するエントロピーを吸収してきた。それが宇宙進化を可能にしている機構である。このように、景気を維持するために消費領域(エントロピー吸収の余地)を拡大することは、膨張宇宙に例えられる。宇宙膨張に限界があるか否かは、まだ明らかではないが、人類社会で生産量を永遠に増やし続けることは不可能である。地球の収容能力には限界がある。

グローバル化の中のクラスター化(自己組織化)

交通・運輸、および情報通信が発達すれば、グロ−バル化は必然であり、地球は一つの領域に強く結ばれる。しかし、市場原理を優先する資本主義制度のもとでは、地域的に平均化されるのではなく、地球全体が激しい競争の場となり、国家間の格差はむしろ広がる。紛争・競争の緩和役として国連が作られたが、常任理事国のエゴで半ば機能不全に陥っている。そこで、その競争に負けないために、いくつかの国家が協力するクラスター組織が生まれた。緩い結合組織はASEAN、南アメリカ圏、アラブ圏などであり、強い結合はEUである。これは自己組織化の一種である。しかし、次第に内部矛盾が蓄積されて、目的通り巧く機能しなくなっている。このような国家間の協力組織に変わる組織ができるかも知れない。

今のこの危機から脱するにはどうすべきかを、国家や個人のエゴを棄てて世界を挙げて真摯に考えるべきである。それには強い政治的リーダーシップ(ファッショ的でなく民主的)と新たな経済理論の構築が必要であろう。政治・経済の仕組みがこのように複雑化した時代には、この危機を救う新しい政治・経済理論を築くことは非常に難しいであろうが、そのような社会制度(完全なものはないが)は存在するはずである。私は政治・経済の専門家ではないが、新たな仕組みへの芽は社会の底辺ですでに生まれつつあるように思える。それには一人ひとりの意識改革と生活スタイルを変えねばならない。

もうゆっくり構えている余裕はない。社会の発展テンポは累進的に加速されている。したがって、昔の百年に一度の危機は、現代では十年に一度、いや数年に一度の頻度で起こっているからである。政治・経済の社会制度を根本的に、かつ早急に改革しなければ、これらの危機を脱することは不可能であろう。

 

 

「如来のいる地球環境」  

海野和三郎

序 説

色即是空 空即是色 受想行識 亦複如是」般若心経の名文句であるが、客観的にはそれでよいとしても何か一つ物足りない。三蔵法師は、孫悟空(仮名)らとともに命がけの苦難の旅をして得た祈りの言葉、「ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーデイ スヴァーハー」(往ける者よ 往ける者よ 彼岸に往ける者よ 彼岸に全く往ける者よ さとりよ、幸あれ)がそれを補うものであるらしい。

天文学で宇宙を観察し、地球環境と人間を含む生き物のあり方を見ていると、如来さまが見守ってくれているとしか言いようのない、科学では説明できない不思議が無数にあるのに気付く。最も分かりやすい例は、水の惑星と呼ばれる地球環境である。

黒い板を太陽に正対させて、太陽光を受け続けると、摂氏90℃(絶対温度365K)ほどになる。太陽熱温水器の水が、そこまで高温にならないのは、斜め入射のためと、太陽光の吸収と保温が不完全のためである。一方、北極海底の水温は約3℃と極めて安定している。地熱を熱伝導で0℃の表層へ運ぶためである。北極海からグリーンランド沖を南下する海底流は、コリオリ力(転向力)のためアメリカ側に押し付けられるが、冷塩水のため比重が大でそのために生ずる東西の水圧勾配の力と釣り合って北米沖3-4000m海底を南下する。赤道を越えると転向力は逆転し、重い冷塩水の海底流は赤道に沿って東漸し、今度はアフリカ沖海底を南下、喜望峰沖を回って、一部はインド洋へ、大部分は更に南極洋を東漸し南米沖海底を北上し、赤道を越え、アリューシャン沖に達し、日本列島沖海底を南西に台湾フィリッピン沖からインドネシアを通って、インド洋海底、更に喜望峰沖を回ってアフリカ西岸沖を、往路よりやや浅く大西洋東岸沖を北上してグリーンランド沖で北極海からの冷水と出会って沈み込み、海洋大循環を完了する。進行方向の流れの駆動は、進行方向の水圧の勾配と半径1000m程度の渦粘性との釣り合いで進行方向の速度が決まる。その速度で地球をほぼ一周する大循環の周期を概算すると、約1000年程度と出る。ビキニの原爆実験の放射性海水は、約1500年で地球を1周したと聞いたので、これで海洋大循環の機構が一応分かったような気がした。しかし、肝心の地球環境との関係、特に、太平洋・大西洋・インド洋が地球環境をどう守っているのか、地球温暖化に伴う台風などの頻度や大型化があるか、北極海や南極洋に異変があれば地球環境はどうなるのか、などなど、分らないことだらけである。一方、陸地の3倍も地表面積を占める海面下1000mまでの平均温度は、緯度によっても違うが、海流でならされ、エルニーニョなどの影響もあるが、表層100m程度で吸収した太陽エネルギーを、海面下1000m以深の海洋大循環層(3℃)に1500年間に熱伝導する温度勾配で深い層ほど低温になる。これを逆算すれば、海洋表面温度の平均値も出せるであろうが、多分、10℃か20℃位であろうか。しかし、基本的にそれよりもっと大事なことは、海には「塩の指不安定性」という機構が働いていて、長年月の間に塩分濃度が深層ほど大となり、所謂、天然のソーラーポンドとなり、対流が起こらず、海に入った太陽エネルギーはいずれは外へ出るにしても熱伝導という分子運動の衝突で熱を伝える超スローの機構に頼るわけで、1000年以上かけても表層1000m程度しか太陽光のエネルギーが届かないのはそのためである。これを逆に云うと、海の温度は平均的には極めて安定していて、海洋大循環流の3℃とともに、地球を生物の楽園にしている最大の理由である。3℃と直射太陽光の90℃と云い、大気の下で、水が液体である下限と上限に近い。地球が「水の惑星」と言われる所以であるが、単なる「水の惑星」というだけでは、真実は伝わらない。しかも、これは天地の不思議のほんの一例に過ぎない。

「いのち」の問題になると不思議は山のようにあるが、不思議の原因を考えたこともないので、議論できない。アインシュタインは、「ヒトはなぜ戦争をするのか?」という問に対してフロイトと往復書簡を交わしたが、以前、教育通信にその話を載せたような気がするので、これ以上議論しないが、私は、“民族乃至国家間の(衣食住を基本とする)エネルギーの取り合いの争いである”と考えている。エネルギーには、保存則があり、熱エネルギーや運動エネルギー、電磁エネルギーなどの変換はできるが、全体量は不変で、創り出すことは出来ない。例外は、多分、核融合や放射能の場合で、同じく保存則のある質量との境界があいまいである。その境界に足を突っ込んだのは、原爆であり、原発であるので、それを登場させるなら、せめて戦争を無くす方向に用いる必要がある。アメリカなど核保有国の戦争抑止力の議論は、矛盾に満ちている。一方、原発の方は、戦後、疲弊した資源小国の日本経済に石油などのように他国依存のエネルギー源ではないエネルギーを供給した面があるので、脱原発には原発以上の豊富なエネルギー源の開発が急務であり、それ以前の脱原発は亡国となること必定である。その方法は、現存の技術には無く、唯一つ、太陽エネルギーの非結像集光による超有効利用にある、と思われる。非結像集光は、水のある地球を水星よりも太陽に近づける技術であり、如来様のいる地球ならでは実行できない技術であるといえる。新しいエネルギー技術は人類進化につながるであろう。

万能の神がヒトも地球も宇宙も作ったとする人はそれでよい。すべて偶然の産物だと考える人もそれでよい。しかし、私はあまりにも不思議なことが地球に多すぎるので、如来(サンスクリットで、タターガタ)が新しいエネルギーを見つけて進化する人間の願いを見守っていると考えたくなる。太陽エネルギーは、地上で約1kW/m2(大気圏外では太陽定数:1.25 kW/m2)、これをステファンの法則σT4(σはステファン・ボルツマン定数)で絶対温度Tに変換すると、約365K,90℃となる。太陽エネルギー強度は、太陽からの距離の2乗に逆比例するから、4倍集光すると、大体金星あたりの温度になり、16倍集光すると、水星よりずっと太陽に近いところの温度、730K、450℃ほどの高温が家庭規模の装置で簡単に得られる。熱機関のエネルギー効率は、一般に、ほぼ温度上昇に比例するから、水のある地球上で沸騰水を作り、水蒸気タービンで発電したり、シンラタービン発電やアンモニアなどの化学合成に用いれば、石油火力や原発より遥かに安い価格で大量にエネルギーを得ることができる。あと10年ほどで石油ピークとなり、エネルギー貯蓄の限界が見え、経済不況となり、50年後の世界戦争を誘発しないためには、この非結像集光太陽エネルギー利用が最適であろう。21世紀人類進化に、如来様のご加護がありますように!

 

 

も し ド ラ

中條利一郎

 毎号、「私達の教育改革通信」を畏友菅野禮司氏から、メールで送って頂いて読んでいる。その際、彼は送り状を兼ねて、何か一言、添え書きしてくれる。155号の際には「真摯に、かつ慎重に」という副詞が入っていた。今回はそれをキーワードに書く。彼が「真摯にかつ慎重に」と言ったのは原発問題である。私はそれを高校野球を通じて教育問題に換骨奪胎する。それが標題である。

 岩崎夏海が「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」という長い名前の作品を上梓したのは2009年のことである。それがアニメ、テレビアニメ、映画と、遼原の火のようにひろがり、今、ブームとなっていることはご存じのとおりである。長い題名は標記のとおり簡略化され、略称だけで通じるまでに市民権を得ている。

 今年も夏の高校野球のシーズンになった。わが国の電力使用量はかつての冬にピークのあった時代から、夏にピークのある時代に移って久しい。夏の需要は冷房と高校野球の実況中継テレビの相乗作用である。だから今年は東日本大震災で電力事情が逼迫しているため中止になるかと思いきや、この原稿を書いている時点で各地の予選で、この原稿が皆さんのお目を汚す頃には大方の結果が出ているものと思われる。テレビ中継で苦々しいと思っているのは負けたチームの部員が泣いているシーンをアップにし、それを美しいと賞賛するアナウンサーの台詞である。野球部員と雖も、高校生であることに変わりはない。高校生の本分は勉学である。彼らは期末試験などで99点以下の点しか取れなかった時、野球に負けた時と同じように或いはそれ以上に泣いているのであろうか? そうであれば泣いてもいい。

 教育は知育、徳育、体育のバランスの上に成り立っている。ところが、部員が泣いているシーンは体育だけが突出している。それが苦々しいと思っていたところへ「もしドラ」の登場である。川島みなみという女生徒が野球部のマネージャーを引き受けたところから物語ははじまる。マネージャーとは何だろうという疑問から、彼女は書店へ行き、そこでドラッカーの「マネジメント」に出会う。彼女が最初に出会ったキーワードは「真摯さ」である。そこで、菅野氏の添え書きと連なる。その後、次々とキーワードが登場し、それを一つ一つクリアしながら、地区予選を優勝するところで、話は終わる。一つのサクセスストーリーである。もしこういう高校生がいたら、これは教室での勉強ではないが、これに勝る教育はない。部員がこういう経験をしているのなら、私の上記の持論は撤回する。しかし、この作品はフィクションである。従って、私の持論は撤回しない。まだ、諦めてはいない。高校生がこの本、または他の本を読んで、高校生活に実践することに成功し、得難い高校生活を実現すれば、その時点で私の持論を撤回する。知育、徳育を忘れずに、体育を!

 冒頭で155号を送って頂いた時の添え書きに触発されてこの文を書くと書いた。この号本体に、海野光三郎氏によるドラッカー自身についてのエッセイもある。こちらも興味深く読ませて頂いた。一方、私は経営学には全くの素人である。大学の教養課程で経済学は受講したが、経営学という科目は設定もされていなかった。そういう私にとっては、このフィクションは経営の解説書としても面白かったことを付言しておく。

 

勿体無い牛肉賠償3500頭

海野和三郎

放射線障害は、どの原子核から出た放射線が、どれくらいの量が体のどの部位にどれだけの期間に当ると、どういう障害を与えるか、恐らく年齢性別体格などによる個人差もあるであろうし、そう云った研究を将来のために出来るだけ広範囲に行う必要がある。罹災した牧牛農家の有志が、その研究を行うために研究者として研究費をもらい、引き続き罹災した牛を飼い続けられるように、今回の賠償金を利用して、人と家畜の生態実験の詳細な記録を残すことができれば、今回の災害のマイナスを幾分かはプラスに転ずることになる。その方面の専門家を政府が斡旋して、研究が実りあるように指導することが望ましい。動物たちに罪はない。動物愛護の精神から云っても罹災した牛たちの天寿を全うするようにすべきであろう。

(編集:湯浅・川東)