私達の教育改革通信
第 149号 2011/1
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毘沙門天と多聞天、そして増長天
中條利一郎
今年(2010年)9月4日の各紙朝刊に横須賀市の大善寺の伝毘沙門天像に中尊寺(岩手県平泉町)の文化の影響が見られるという記事があった。今回はこれを題材に教育について考えてみよう。平泉は奥州藤原三代が築いた仏教都市であり、鎌倉は源頼朝が開いた都市である。頼朝は平泉を弟の義経をかくまったという理由で攻撃、滅亡に追い込んだ人物である。両者に類似点が見られると言うのがどれほどの価値のものか、仏教美術に疎い筆者にわかるものではないので、それには触れない。
筆者に気になるのは、似ていると言って引き合いに出された仏像が中尊寺金色堂(詳しくは清衡檀)の増長天像であったことである。仏像の世界にはランクがあり、最もエラいのが如来、次が菩薩、そしてその次が四天で、時国天、増長天,広目天、多聞天の四天からなり、それぞれが、東、南、西、北を守護する神ということになっている。一方、多聞天は単独の場合、毘沙門天と呼ばれることが多い。ということは、大善寺の(伝)とはいえ多聞天と、中尊寺の増長天が似ているということになる。
筆者は1992年に国立大学を定年退官になり、私立大学に転じた。理工系の学部では、4年生になると、卒業研究が課される。小学校以来受け身の教育を受けて来た学生が、はじめて能動的に考え、実践しなければならない重要なものである。卒業研究とはいえ、研究と言う文字がついている以上、意味のある研究で、かつ、今まで誰もやったことがないテーマを選ばなければならない。国立大学に比べ、研究環境に劣る私立大学でそれが可能か? いろいろ考えた挙句、それまで、高分子科学を専攻して来た筆者がたどり着いた結論は、考古学や文化財で、そのプロフィルをはっきりさせる必要がある試料について、高分子科学的手法で研究を進めることであった。幸い、学生諸君の熱意に支えられて、多くの成果を挙げることが出来た。その一つに中尊寺金色堂には三体の遺体が安置されており、それらの遺体が着用している絹の特性解析の研究がある。その中味を書くのが目的ではない。ただ、結論として、三体の遺体の内、中央の清衡(初代)はいいとして、左右の基衡(2代)と秀衡(3代)が入れ換わっていることが明らかになった。そのことは中尊寺に連絡してあるが、頑として受け付けない。研究の段階で、文科系の研究者(複数)の中にも、同じ結論を得ている人がいることがわかった。にもかかわらずである。ここいらが、それまで筆者が身を置いて来たコミュニティーと異なるところで、客観的に正しい結論であっても、都合が悪ければ、無視出来るのである。一つは無知も大きく作用している。自分で正否を判断できないと、無視出来るからである。
この研究を進めている段階で、それまでとは別の分野の多くの知己を得ることが出来た。その中に、盛岡大学の大矢邦宣教授も含まれる。中尊寺金色堂の三つの檀には四天の内二天が安置されている(西南檀の一体は失われ、現存しない)。いずれも時国天と増長天ということになっているが、同教授によると、それらは、いずれも、江戸時代中期から昭和30年頃までは多聞天、増長天と言われていた由である。それが昭和16年にI氏が書いた本の中に、何の説明、根拠もなく、時国天、増長天と書いてあったのを受けて、現在はその帰属が採用されている。話が結構込み入っている。似ているのは、大善寺多聞天(=毘沙門天)と中尊寺増長天、帰属が理由もなく変わったのは時国天と多聞天(どちらも中尊寺)ということになり、A(類似)B,C(取り違え)Aと要約出来る。数学や論理学では扱えない三者関係である。つまり、論理的には何も確定的な結論を引き出せない。
しかし、筆者が基衡と秀衡が入れ換わっていることを明らかにしたことに耳を貸さない中尊寺の態度と類似のことが、他にも時国天と多聞天の入れ替えにも見られることが、今回の新聞記事を契機に、また水面の上に顔を出した。中尊寺の灰色が更にクロに近づいたことは確かである。
他にも、いくつか、気になることがある。しかし、所詮は素人談義、皆さんのお目汚しにならないよう、それは書かないで結論に入る。
筆者は126号(2009年2月)に「高校の科目選択性を廃止せよ」というエッセイを書いた。趣旨は選択性の採用に伴うタテワリ、つまり各教科の独立性の弊害の指摘であった。今回、書いたような、理科系の人間の歴史への興味、しかも論理では割り切れない複雑な絡み合いは、筆者が昔受けた、タテワリではない教育のおかげだと思う。126号の実践篇として読んで頂ければ幸いである。
「霊性」について
花岡永子
「人間とは何か」という問題は、古代ギリシアの哲学者・ソクラテス以来21世紀の現代に至るまで問われ続けられてきています。また、「宗教とは何か」という問題も、宗教の語源を廻って、1世紀のローマの哲学者キケロ(Cicero,
M.T.)や3〜4世紀頃のラクタンティウス(Lactantius,C.F.)やアウグスティヌスあたりから現代に至るまで、問われ続けてきています。ソクラテス以来現代に至る約2500年間を振り返るとき、宗教と人間が統一的に理解され得る地平は、「自覚」と理解されることも可能であります。しかし、真の自覚は、霊性によって可能です。また、宗教は霊性によって初めて成り立ちます。というのも、真の自覚である「自己の自覚」と「世界の自覚」は、自我が我執から離脱して、自然と自己と超越の次元が透明に「一」なる関係になる時に初めて、その透明な「一」から働き出ると考えられる「霊性」によって実現されるからであります。しかも、宗教は、そのような働きとしての霊性によって初めて真に宗教として成り立ちます。何故なら、宗教とは、自然、人間そして超越の次元が透明である場合に露わとなる「根源的いのち」ないしは「霊性」の自覚と理解され得るからであります。
以上のような問題連関の中で、21世紀における「宗教と人間」の統一的理解の地平が明らかになるように、以下において霊性の問題を論究してみたいと思います。
. 霊性について
21世紀初頭の現代においては、実体的な神仏である絶対的に超越的なものを核心とする宗教への反発が強いようです。勿論、西欧では未だ、R. Ottoの『聖なるもの』とかキリスト教における聖者が尊ばれる思想は、根強いようです。プラトン以来の、しかもその後、紀元1世紀前後にキリスト教の神と融合した、実体的、観念論的な、へ−ゲルに至るまでの西欧の伝統的な形而上学としての哲学の歴史を振り返る時には、「聖」への執着も理解できない訳ではありません。しかし、例えば、キェルケゴールが、その実存的パトスの初歩表現においては「絶対的なテロスには絶対的に関係し、相対的なテロスには相対的に関係する」ことを人間における必須のパトス的なものとしての情熱として主張していますが、最終的には人間の実存における苦悩や責めの意識や躓きやそれらの懺悔の段階を経ることによって、宗教性B(=特別の宗教性=キリスト教の宗教性)の弁証法的なものにおいては、絶対的で永遠な神と、時間内の現象界のものとの関係が矛盾のままに実存弁証法的に「一」に成り立つことが述べられています。
また、禅においては, 聖と俗との根源である「無聖」が究極的な境涯とされています。つまり、聖俗のいずれでもなく、同時にいずれでもあるところの、聖俗の根源が「無聖」と表現され、そこで、いわば「灰頭土面」の生き様で生き抜くことが目指されています。
以上の僅かな例だけからでも理解できるように、「神仏と人間」、「絶対と相対」あるいは「超越と内在」等の各々の両極的なものが同一であるとする思考法は、それが西田哲学におけるように絶対矛盾的自己同一的であれ、キェルケゴールにおけるように実存弁証法的同一であれ、ハイデガーの語る「根拠律」(=どんなものも根拠なくして存するものはない)の妥当する領域をも
突破しての同一性と差異性との究極的な同一性であれ、詳論の暇はありませんが、21世紀においてのみならず、古代ギリシアの哲学者・ヘラクレイトス以来存在しています。
さて、「神仏と人間の自己」との同一性やこれに連関しての「絶対と相対」あるいは「超越と内在」との同一性は、「根源的いのち」(=キリスト教では神のいのち、仏教では道元の語るような仏のいのち)ないし「霊性」において成り立つと理解され得ます。 宗教とか「神仏」という用語に比して、「根源的いのち」や「霊性」は現代の若人において抵抗は少ないようです。前者の「根源的いのち」は、古くは道元の『正法眼蔵』で、また近くは西田幾多郎やA.N. Whiteheadの哲学において重要な役割を果たしています。後者の霊性は、ヒブル語のruachもギリシア語のpneumaも、語源的には風を意味し、特定の宗教に限定された用語ではありません。
さて、「自然」、人間」、「超越の次元」という三大領域は、古代ギリシアからの哲学的思索の事柄でありました。これら三領域が透明に「一」の関係内にある時に、霊性は初めて働き始める力であると考えられます。つまり、霊性は、自然だけからも、人間だけからもあるいは超越の次元だけからも生れ出てくる働きとか力ではなく、三領域が透明に「一」に関係している時のみに,心身一如においてのみならず、身心一如に働く力と考えられます。西田が語る、『碧眼集』の中の言葉「天地同根、万物一体」が体得・体認される時に、自然、人間、超越の次元の三者から同時に、しかも「一」に、生れ出てくる働きとしての力であります。つまり、身心の内外から湧き出てくる働きとしての力であり得ます。
そこで、霊性が働き出すことのできる、自然と人間と超越の次元のあり方について、以下において簡単に考察してみたいと思います。
@「自然」について
現代においても、私達は奥深い山や大海原の大自然に触れると喜びに満たされます。緑が少なく、工場の排気ガスに満ちた都会では、子供たちは病に冒されやすいようです。人間も自然の一部でありますから、美しい自然の中では人間の心も健康になり、汚染された自然の中では人間の身心も汚染されやすいようです。自然のギリシア語(phusis)の語源は、M.ハイデガー(1889-1976)によれば、「自ずから然る」という日本語の自然に甚だ近い意味を持っています。また、自然のラテン語(natura)の語源では、ものの「本質」とかものが「生まれること」を意味します。これらの語源の意味にふさわしく、私たちは「自ずから然る」ものには、心が魅せられ、身心ともに安心を得、また日常生活においても、ものの本性に従って行動しようとします。更に、いのちが新たに生まれることでは、「いのち」が満たされる。また、詩歌や文学の世界での自然描写にも、私たちは身心ともに一体化し得ます。しかし、17世紀以来の、自然を、対象化し、搾取し、機械技術によって、いわば征服し続けてきた自然の虐待や、「自ずから然る」方向を抑圧し、人間中心主義に堕落してきた科学・技術は、霊性を最も酷く遮蔽する働きをしてきたと思われます。現在、地球環境は最悪の状態に陥っています。霊性の働きが生きたものとなるためには、17世紀以降の人間中心主義で自然を対象的に取り扱ってきた科学・技術の方向転換を試みることが最重要な課題と考えられます。
A 「人間」について
人間の個が宗教哲学の中心問題となり得たのは、キェルケゴールにおいてでした。人間が「類」(=人類)の視点から論究されたり、「種」(=国家、民族、部族、教会,寺院、各種のグループ等)の視点から取り扱われたことは珍しくありません。前者は、ソクラテス以来へ−ゲルに至る西欧の主流の形而上学としての哲学が例として上げられます。後者は、経済的構造としての下部構造とその上に建てられている上部構造を説くマルクスの唯物史観や前半期の田辺哲学等が挙げられでしょう。
しかし、人間を「類」と「種」と「個」の透明な「一」の関係の内において考察しようとした哲学としては、西田哲学やA.N.ホワイトへッドの哲学が挙げられます。ここでは後者の、63才まではイギリスの大学の数学の教授でありましたが、定年後はアメリカのハーヴァード大学の哲学の教授になり、数学から哲学に転向したA.N.ホワイトヘッド(1861-1947)の有機体の哲学をその一例として挙げてみましょう。この哲学は宇宙論の表現(expression)、
人類の宗教経験の解釈(interpretation)そして究極的、全体的経験の解明(elucidation)を目的としました。彼は若い時から理系と文系の学問は根本的には同一の原理によって成り立っているという自らの直観によって導かれておりました、しかも、この有機体の哲学では、類と種と個とが透明な「一」の内で理解されています。この哲学では、森羅万象の一々のみならず、神すらもが究極的カテゴリーとしての「創造性」によって創造された一つのactual
entity(現実的実有)から成り立っていると理解されています。そして、現実世界は「多」から「一」への合生(concrescence)の過程であると同時に、各々のactual entity は、究極的な実在性のうちに存してもいると考えられています。このようなホワイトヘッドの哲学では、「類」と「種」と「個」とは常に同時に「一」に成り立つことが可能であります。勿論、各時代の「社会」には「種」の段階に大きな困難な問題があったことは、彼の著書『観念の冒険』(1933年)の中での、古代の奴隷制度、中世の農奴の制度、近世の産業奴隷のあり方についての論究のなかで、露わに見抜かれています。しかしながら、彼の有機体の哲学には、未だ絶対の否定を意味する「絶対無」のパラダイムが生きていません。従って、これまでの欧米の世界の哲学における他の四つのパラダイムでの立場(=ソクラテス以来ヘーゲルに到るまでの現象界を土台とした「相対有」、キエルケゴールに始まる実存を核心とした不安や絶望や退屈ガ核心となる「相対無」、思索や文化や生活の枠組みとしてのパラダイムが相対有や相対無である次元から絶対的な実体(=idea=原型 、ousia=本質、eidos=形相、絶対的人格としてのtheos=神等)が求められる「絶対有」そしてニーチェが代表者となっているような虚無的な個としての「生」がその上に成り立っている「虚無」)が、ホワイトヘッドの有機体の哲学によって支えられ、生かされることはそれほど簡単な事ではありません。しかしながら、ホワイトヘッドにおいても、彼の後半期の主著『過程と実在』(1929年)の最後の第五部第二章第七節の最後にも語られているように、最終的には、創造性(creativity)によって被造物と同時に創造された[神]の愛によって森羅万象は、調和とリズムの内に活かされることが可能となっています。
B「超越の次元」について
プラトン的な永遠で普遍で不変なイデアやこれと融合したキリスト教の中世的な神は、現実の時間の世界からは遊離した超越の世界として21世紀初頭の現代においでは力なきものとなっています。 現代において有力で生きた超越の次元と見なされる世界は、時と永遠とが渾然一体となった世界であると考えられます。極言すれば、「神仏が各人の私で、各人の私が神仏である」世界であります。仏教(禅)では、人間の真の自己の本質である「自性」は「仏性」であり、「仏性」は無実体的という意味で「無自性」であると理解されています。キリスト教でも、例えば、エックハルト(ca.1260-1328)の神秘思想の究極の境涯である「神性の無」においては、「神の根底」は、各人の「私の根底」であり、各人の「私の根底」は「神の根底」であると語られています。
このような考え方には、勿論多くの反論があるでしょう。しかし、その反面、考え様によっては、長い人類の歴史の中で、現代は遂に、エックハルト的な、あるいは仏教的な境涯に達したと言えもするのではないではないでしょうか。ヨセフとマリアの子であるイエスが神のひとり子であると言えるのであれば、全人類の一人ひとりもまた神のひとり子と言えるのでなければならないと考えられます。また、西田以前の東西の哲学や宗教哲学では、超越が内在する「超越的内在」が妥当していましたが、西田哲学以後の宗教哲学では、むしろ逆に、「内在的超越」が主張されるようになり、「内在即超越、超越即内在」が妥当するようになってきました。
このような状況では、宗教と霊性との間の距離が縮まり、「霊性」あるいは「根源的いのち」の自覚としての宗教と、自覚には至っていない「霊性」や「根源的いのち」に生きることの間の距離が縮まり、遂には「宗教」と「霊性」とが種々の新しい形で「一」となる可能性が生じてくることが大いに期待されます。
「うぶかたとう「天地明察」を読む」
海野和三郎
東京自由大学の仲間、鎌田東二の差しがねで、角川書店から「冲方丁(うぶかたとう)「天地明察」」が送られてきた。なんでも、新しいタイプの時代劇、2010年本屋大賞第1位の著作ということで、目下売り出し中、今更紹介する必要もなさそうだが、貞享2年大和暦への改暦の立役者であった渋川春海(安井算哲)の伝記が中心となっているので、私のところへ送られてきたようである。本因坊道策とのお城碁の話や算学の理解など、若干私の記憶との違いもあるようだが、著者の描写は大変生き生きとして面白い。特に、最後の第5章第6章の改暦事業への春海の取り組みは、名声を欲せず、ひたすら真理を求めて、しかも謙遜というか不遜というか、政治に逆らわず、これを利用する辺りが面白く書けている。関孝和、水戸光圀などとの交流の自在さは、単なる学者でも道家、武家でもない春海の真骨頂であろう。
序章には、春海(45歳)が、陰陽師の家元土御門泰福(29歳)に形の上で弟子(実質的には師)となり、貞享の改暦に漕ぎつける精神の高揚を内に秘めた姿が書かれている。
第1章 一瞥即解:お城碁を打つ家柄の安井算哲(渋川春海)が、登城を前に早朝かごに乗って京橋八丁堀お化粧地蔵の絵馬に掲げられた算額を見に行く話しが先ずある。そこで出会うのが、何十年か後に後妻となる少女えんとの出会いがあり、春海が解けなかった算学の難問を一目で解いた関孝和の存在を知る。「えん」は多分作者の創作であろうが、全編をつなぐ役割をする。城へ行くと、若い本因坊道策に、あまり本気になれない碁の勝負を挑まれ、また、諸大名中の実力者、井上河内守正利と犬猿の仲である酒井雅楽頭忠清という小沢一郎的人物と管直人的人物に呼ばれる。酒井の質問に春海は、「碁は嫌いではありません、しかし、退屈です。」と答え、「退屈でない勝負が望みか」の質問に、「はい」と答えた。酒井は何を企み、井上はそれをどう捕らえていたか、その謎を巡り、関孝和らの怪物がどう動くか。
第2章 算法勝負:明暦3年振り袖火事で天守閣も江戸の6割も焼亡した。玉川沿いの羽村から四谷まで、さらには四谷から江戸城、山の手や京橋にいたる給水網(今の玉川上水、神田川)の建設が始まった時代、春海は、ひしひしと“新しい何か”を予感した。会津藩庭に春海の設えた暦術の道具としての日時計があった。暦術には日の吉兆など占星術的要素もあり、春海もそうした信心を持っていたが、それよりも算術趣味の観点で星の運行を測定する気持ちの方が強い。春海が日時計へ行くと、そこで出会うのが、安藤有益、勘定方で会津藩屈指の算術家、であった。宮益坂金王八幡神社の絵馬の算額で知った天才関孝和が話題となり、算額の掲げる磯村塾の村瀬義益と知己になり、また、そこで‘えん’と出会う。‘解答さん’関孝和の天才ぶりは物凄く、どうしても関に会いたくなる春海であった。一方、本業は碁打ちであるが、老中酒井とその裏に居る保科正之ら幕府の中枢が春海に期待したのは測地と暦術、などの基礎づくりであった。時代は動きつつあった。
第3章 北極出地:武部昌明、伊藤重孝という二人の老人に北極出地(緯度測定)の指導を受けて、春海は測地の第一人者に成長する。日時計と算術の基礎があり、天文学への関心が強かったためである。伊勢神宮で暦を入手し、(頒暦は収益事業であった、後に改暦で幕府に貢献する)、月食も観測し、権威ある「宣明暦」が不正確であることも体験した。
第4章 授時暦:渋川春海はその若さにも拘わらず、大老となった酒井雅楽頭忠清に見込まれ、自分の師匠、大先輩である山崎安斎、安藤有益、島田貞継とともに改暦の大事業を始める。年月がかかることが理由で、二十八の若年の春海がチーフに任ぜられる。春海の嘗ての学問の師匠である岡野井玄貞、松田順承を学者冥利に尽きる事業という理由で安斎は、強引に引っ張ってくる。八百年の伝統を持つ宣明暦を、中国史上最高の誉れ高い授時暦(1年が365、2425日という正確さ)に改暦する計画である。しかし、授時暦を自分で作るだけの実力がなくてはならない。そのためには、精妙な不断の天測が必要という島田の要請と、史実の詳細な暦註が必要で、それがないと世間に受け入れられないという安斎の意見で、作業は膨大なものとなった。その間、水戸光圀の強力な支援があり、春海は渾天儀を製作した。改暦の問題は、京都公家との政治問題でもあり、授時暦は不吉とする公家の反動判定で、改暦は却下された。本因坊道策との碁で初手を天元に打ち、関孝和との交流は順調にすすみ、28才で19才の「こと」をめとり、幸せな家庭を作った。改暦の方は、帝と徳川家との間が不倶戴天となってはならない、と言うことで、チームは解散、数年後に宣明暦が日蝕月蝕の予報を外すときに、万人の目前で改暦の勝負をさせる計画を立てた。寛文十一年、妻「こと」が死に、道策との碁は惨敗を喫したが、勝者道策はその棋譜を所有する権利を春海への同情から破り捨てた。
第5章 改暦請願:「こと」は、「幸せ者でございました」と微笑んで死んだ。以来、春海はひたすら事業に打ち込み、天測と授時暦研究に没頭した。宣明暦の寛文12年12月15日の月蝕予報は外れ、授時暦の不蝕が当たり、改暦の儀が進められ、その間、関孝和との天文数理での交流が進んだ。春海が授時暦に従って予報した6つの日月蝕の予報は、時刻と蝕分とが極めて詳細に予報され、その正確さは、宣明暦など他の暦に比して歴然たるものがあった、その最後の延宝三年五月朔日の日蝕までは。唯一の失敗の理由は、第6章で明らかにされるが、それが分からない春海は失意のどん底に突き落とされる。
第6章 天地明察:失意のどん底にあった春海を救う切っ掛けを作ったのは、関孝和の「授時暦を切れ」という“授時暦の誤り”を指摘した一言であった。種明かしは、光圀に命がけで入手を依頼した「天経或問」西洋天文学の漢訳にある“惑星の楕円軌道と面積速度一定”のケプラーの法則にあった。(流石に精密な授時暦でも、円軌道を仮定していては、正月でなく5月の日蝕に少しの狂いが出ても当然である。)次の改暦には、授時暦を改良した大和暦を作り、遙か年下の土御門泰福を説得して師匠とし、その名で改暦を朝廷に上奏し、大道芸人的な芝居をするなど多少の紆余曲折を経て見事改暦に成功した。その間、「えん」を後妻に迎え、本因坊道策には初手天元で大敗して喜び、関孝和との暦学の交流を深め、幕府の天文方となり、正徳五年77才の春海は「えん」と大和暦販売の山師の芝居を楽しむ。体力の衰えた春海は半年余り後、「えん」と同じ日に没した。
「初めてのギリシャ観光」
立石昭三
同級生に中井久夫という神戸大学精神科の名誉教授がいる。この方は筆がよく立ち、人情の機微に触れたエッセイをよく書かれるが、ギリシャ語も堪能で、ギリシャ語の詩の訳本なども中井久夫全集に含まれている。
一方、高校の世界史の授業では、文献のないヒッタイトやミケーネなどの先史は軽く飛ばし文献、絵、彫像が残っているギリシャ、ローマ時代から丁寧に教え始める。そのためヒポクラテス, ソクラテス、プラトンなどの名前は今に生きていて一度は行きたい国であった。
アラブに赴任していた頃は貨物がギリシャのラルナカ空港を通ると、何か中身を抜かれるし、最近はヨーロッパの中でもギリシャの経済の凋落は著しく、EUの重荷になっているとも聞いた。それなら円は強いはず、と私どももそのうち歩けなくなるだろうからその前に行こうか、と云うことになった。結婚後50年目の金婚を迎えた、と云うこともあった。幸い独身の五女が鞄持ちを申し出てくれたので留守を預かる姉娘たちも安心して送り出してくれた。同門の池田貞夫先生ご夫妻がエーゲ海クルージングをなさった折りの写真も拝見し、「とてもよかった」と伺ったのも行くきっかけになった。
10月の終りにルフトハンザで先ずアテネに行き、その後、エーゲ海のクルージングに加わる旅程を組んだ。何しろ初めて行く国なので「地球の歩き方」などの参考書を読むと、アテネは特に治安が悪く、スリ、置き引き、カッパライも多い、とある。しかし夜、空港についてタクシーを捜し、料金を訊ねると料金表を示し,約40ユーロだと言う。宿はヘラクレス像のあるお向かい,市庁の隣のクラシカル・ベイビー・ホテルであった。インターネットで申し込んだので5%引きの値段であった。翌日は型のごとくアクロポリス、パルテノンの神殿、国立博物館などで過ごした。途中に、サンタクロース風のギリシャ人が居て、一緒に写真を撮らないか、と誘ってきたのが唯一のお乞食さんであった。私どもと並んで撮ったが、1ユーロを請求し、それを払うと“Mio solo” 「一人だけで撮ってくれ」と言って一人で撮るのを求めた。偶々、国の祭日で町には警官が沢山いたが全体として治安が悪いということはなかった。帰路の客待ちのタクシー運転手はブルガリア人だったが宿までの料金を来るときの三倍ほど吹っかけられたのでそれは断り、次の客待ちの厳めしいピタゴラスのような顔をしたギリシャ人運転手は4ユーロだけを請求した。夜、下町にタベルナ(食堂)を探しに出たときは黒人が屯する中を行ったが、「ここはカッパライが多いのでカバンは肩から提げずに、しっかり前に回し、両手で抱えるように!」と通行人に注意されたくらいである。
3日目にアテネのピレウスからルイス・クルーズの豪華船、クリスタル号に乗り込み左舷7階の海側の一室に落ち着いた。乗客は全部で千人弱、その殆どは聖地巡りのアメリカ人、スペイン語を話す陽気な中南米人たちで各室には二人のフィリッピン人のボーイが付いてくれた。食堂にも乗務員にはフィリッピン人が多く、そのうち3人はいかにも日本人の顔をしていたので訊ねると、父親が日本人だとか祖母が日本人だとか誇らしげに言ってくれたのは救いであった。
結論から言うと船旅は正解であった。船は夜に走り、早朝に目的地に着き、バスやタクシー、または徒歩で観光をする。ホテルを移動する手間も要らず観光に専念出来るので老人向きである。このようにしてミコノス島、トルコのクラシダ港、再びギリシャのパトモス島、クレタのヘラクリオンやサントリニ島などを観光して回った。
ミコノス島では軽井沢のように観光シーズンだけ営業しこの夜が最後の日とて、後は御土産屋さんもタベルナも休みになると云う事であった。赤い漁船がある所がタベルナで、オリーヴ油と塩だけで、トマト、きゅうり、セロリなどの生野菜とチーズに味をつけたサラダや地元産のワイン、スズキの塩焼きなどを食べたが日本人の味覚には合うと思った。日本海の漁師町のようにタコを天日で生干しにしているのもこの島らしい。
私が最も行きたかったのはクレタのフェデリーコ2世(1195〜1250)の墓である。この方はシチリアの領主でもあったが神聖ローマ帝国の皇帝になり、1228年,弟5回十字軍を率いてエルサレムへ進軍した。彼は幼少時よりアラブ語をよくしたので、エルサレムに行ってもムスレムのアイユーブ朝のカリフ、アル・カーマルと話し合い、エルサレムをキリスト教、ユダヤ教、イスラムの宗教的聖地とする取り決めを結び、無血の十字軍と呼ばれた。ローマ法王グレゴリウス九世は彼が無血で帰還したのでその行為に怒り、彼を破門した。以後彼の肖像はクレタ島にあるもののみであると聞いた。今日、中東、パレスチナ、エルサレムでユダヤ教徒とムスレムが血を流して争っている有様は今世紀の悲劇で、若しキリスト教徒の多い米軍の中にアラブ語、アラブ文化、イスラームの心を理解する長がいればこれほどの諍いはなかったかもしれない、と思ったりもした。
クレタ島では東方教会にも参詣したが、アンソニー・クイン主演の映画「その男ゾルバ」、それにもう亡くなったがギリシャの文部大臣にもなったメリナ・メルクーリ演ずる「日曜はダメよ」のロケ地を案内してくれたプラトンそっくりのタクシー運転手は、私どもがこの映画を見た,と言うと、とても喜んでくれた。ちなみに最近見た映画、メリル・ストリ−プ主演の「マンマ・ミーア」が撮られたのもエーゲ海のスコペロス島である。
船内では日中、ギリシャダンスの講習、夜には船内の劇場でその実演があったが、踊りの時の掛け声が「オーパ」と云うのは開高健の釣り小説「オーバ」の意味が判らなかった私には溜飲が下がったような気がした。何処でも私どもは「ヤースー」とか「ヤーサースー」とか連発したが、これは便利なギリシャ語で日本語の「どうも」に当たるのか、挨拶にも感謝にも使われる言葉のようである、5歳になる孫が「ギリシャに行くのなら」、と教えてくれたもので何処でも重宝した。
ギリシャの旅を終えた私どもは帰国前にスイスへ行き、20年前にアラブのイエメンで近くに住んでいたハンガリー人の14歳の少年、翌年、私ども宅に一夏寄留したエレミアと云う今は身長185cm、体重90Kgの偉丈夫のお宅を訪れ、これも感激の再会であった。
文献1;「地球の歩き方2010、ギリシャとエーゲ海の島々&キプロス」ダイヤモンド社、1,700円。
文献2; Ahmed ibn Yahya Baradhhuri 著、花田宇秋訳「諸国征服史」(The Great Conquest of Early Islam)明治学院大学総合研究43;93〜129 1993.
「2011年世界地図」
海野和三郎
成長の限界という議論がある。穏やかな表現であるが、現実は遥かに厳しい。世界人口40億の時代はとうに過ぎ、20年後には100億になるかもしれない。現在一人平均約1kW程度という衣食住のエネルギー消費もおそらく倍増し、エネルギーの需要供給のバランスが崩壊する所謂石油ピークも過ぎて、世界経済は新しいエネルギーを求めて混乱し、大恐慌に陥る恐れがある。資源小国の日本はその先頭に立って、エネルギー危機を乗り切らねばならない。2011年は、その決意の年である。
最近、政治、経済、社会、文化、教育に関連した大きなニュースとなったものとして、普天間米軍基地の移転問題、尖閣諸島域国土保全、北方領土、小沢氏政治資金、雇用問題、自殺者3万人、自暴自棄的殺人、TPP加入問題、中国レアアース輸出制限、何れもそれぞれ固有の問題点を持ち、充分納得される解決策がないまま次々と目先を変えて、ホットなニュースに移動していく。最近、アメリカはドルを大量に発行して落ち込んだ景気の回復を図っている。金融派生商品(デリバテイブ)が幾分でも利用可能なエネルギーに対応している間は、ドルがそのエネルギーを取り出す役をする。しかし、この手品があと20年続けられるとは思えない。これらすべてに共通する根源的問題であり、その見通しが立たなければそれらの問題の本質的解決は得られないと思われるのが、21世紀問題即ち「エネルギー・地球環境・人口(食料)問題である。その具体的解決策を示さない限り、政治、経済、社会、文化、教育の混迷は避けられない。しかし、そうした具体的解決策は、国家・社会という複雑系に於いては必ず見出し得るものであることは、奇跡に満ちた地球環境と生命の不思議を見れば明らかである。今の政治やジャーナリズムにはその信念が欠如している。
身近な一例を、国際自由貿易協定(TPP)加入問題にとれば、それへの加入が日本として有利である場合には、加入がマイナスな要因をプラスに変更すればよい。日本は食糧自給率が低く、これ以上自由貿易で安い食料輸入が行われれば、農家は立ち行かないというマイナス要因がある。一方、地球温暖化問題への対策の一つとして、CO2排出権の取引というのがある。水稲、竹、蕎麦、大麻などは、そよ風でも葉が揺らいで葉緑素にCO2を運ぶ光合成効率が高い(矢吹効果)ので、他の植物に比べて10倍も成長が早い。水稲は連作でき、竹炭は土壌や海の酸性化を防ぎ、蕎麦は短時日で食料生産するなどの利点がある。つまり、これらの植物は、自前のCO2排出権植物として国際的に登録すれば、農家に地球環境保全奨励金を支給することが可能であろう。普天間基地の名護市海上移転案については、以前書いたことがあり、省略するが、マイナス要因をプラスに転化する実行案を作ってほしい。鳩山前首相が提案したCO2 25%削減構想は具体的実行案が示されぬまま、京都議定書延長反対の運動に押されて立ち消えとなっているが、10年先、20年先を考えると、このままでよい筈はない。具体案を考える能力と先見性の欠如した政治家・ジャーナリストにこの国の政局を任せては置けない。彼らにも理解できるように、よい具体案を作る必要がある。ところで、エネルギー・地球環境・人口(食料)問題の人類三大問題のうち戦争による人口減少策はこれまでにも行われた形跡もあるが、これは最悪である。化石燃料に頼らない産業といっても、化石燃料からのエネルギーが安価である間は、無理がある。結局、21世紀最大の課題は、エネルギー問題である。
現時点で、化石燃料に代るエネルギー源として、水力・風力などの自然エネルギーは大いに活用すべきだが、特定の地域以外では絶対量が不足で、当分の間、原子力発電に頼らざるを得ないであろう。しかし、原子力も有限の資源であり、未来に残すべきものである。やはり、太陽エネルギーがすべての点に於いて本命である。現在、最も普及している太陽エネルギー装置として、太陽電池と太陽熱温水器があるが、共に、化石燃料に代るべきエネルギー装置としては、3つの点に於いて不十分で改善が必要である。
第1は、装置が屋根の上などに固定されているため、朝・夕は、太陽光の受け方が不十分であること。第2に、受けた太陽エネルギーの一部しか利用できないこと。第3に、集光によるエネルギー利用効率増大を利用していないこと。以上3点を改良すれば、現有の技術で充分石油火力に対抗できる。太陽電池は、補助金をつけて奨励すれば、南面の屋根の上に設置して10年程度で電力会社に売電して家庭用1~2kW発電が経済的に成り立つという。つまり、あと10倍以上効率よく太陽光発電すれば、石油火力に頼らずに生活できることになる。その秘伝は、3つあり、1つは森、もう1つは海にその秘伝があり、第3は非結像集光であり、3者を結合すれば装置の設置費用を含めて、化石燃料に頼らない文明が可能となる。受けた太陽エネルギーの10〜20%程度の効率で使い、80%以上を捨てているのは、太陽電池も葉緑素の光合成でも同じであるが、森は熱で葉が枯れるのを防ぐと同時に水蒸気を大気中に送り、大気の対流を盛んにして、風を起こし、CO2を葉緑素に乱流拡散で供給して光合成を20倍も盛んにする(矢吹効果)。シリコン系の太陽電池も高温での効率劣化を水冷で防ぎ、余熱をソーラーポンドの予備加熱に利用すると無駄にならない。海は、塩の指と呼ばれる二重拡散不安定性の結果、深いところ程塩度が高く比重が高いので、夜や冬季、外部が低温となっても対流が起こらず、海面か100メートル下で吸収された太陽熱が外へ熱伝導で運ばれるのに3000年もかかる。対流防止で保温する仕掛けをソーラーポンドというが、海は天然のソーラーポンドで、北極海海底を源流とする海洋大循環が3℃の塩水で1000m以上の深海底をくまなく一巡する1500年の間に、温度は殆ど一定している。
地表の2/3を海洋が占めるから、3℃が安定した標準地表温度と考えてよい。塩は高価であるし、捨て場所に困るので、家庭規模での熱水保温には、水の粘性を利用した粘性ソーラーポンドが適当である。かつて近畿大の多賀教授と私が計算したところによると、水は粘性が小さいので僅かな温度勾配で対流が起こるが、縦でも横でも3mm以下の隙間では対流が起きない。少し、余裕を見て、2mm以下の隙間のスポンジなりストローなりで、深さ30cmほどの粘性ソーラーポンドを満たせば、2、3日間の熱水の保温は可能である。つまり、日のあたる数時間で集光によって沸騰水を作れば、そのままでも翌日まで殆ど温度は下がらない。従って、簡便な集光装置で太陽光を10倍以上数10倍集光してエネルギーの利用効率を上げるのが、太陽エネルギー工学の主要課題である。
集光には焦点距離の短いレンズや凹面鏡などで太陽像を作る集光が常識的であるが、1kW/m2の太陽光を10% の効率で2kWの発電をしたとすると、20m2ほどの面積の大きなレンズを必要とすることになる。集光の精度を下げて、平面鏡を張り合わせた折り紙細工で、中央の平面鏡のつくる光束に、ある距離で他の平面鏡からの光束が重なるようにすると、簡単に7倍集光鏡、17倍集光鏡を作ることができる。これを2面組み合わせてシーロスタット式にして、第1鏡を1日に半回転で極軸の周りに回転させれば、あとは固定装置で太陽光を固定した(太陽電池and/orソーラーポンド入りの)ソーラーポットに数10倍の集光ができる。集光すれば、熱機関は温度上昇に比例して効率を上げ、太陽電池は面積が小さくて済むから、経済性は集光度にほぼ比例し、太陽エネルギーの利用効率がそれだけ高まったことになり、僅かな改善で、太陽エネルギーが化石燃料のエネルギーよりも格段に経済的で、利用価値が大となる。20年後の人類生存の危機はこれで逃れられる。かくて、20年後のエネルギー大国は、アフリカとなり、日本では沖縄となる。その技術革新を日本は世界に先駆けて推進する役目を持つ。2011年はその出発の年である。これをもって、21世紀世界地図の結論とする。
(編集:湯浅・川東)