私達の教育改革通信

   158  201110

 

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宮城県の復興計画に対する私たちの提言

「東日本大震災復旧・復興支援みやぎ県民センター」ニュース bS、9月号より)

東日本震災から復興すべく、困難の中で自ら「県民センターニュース」を発行して、内外に呼び掛けている。これは宮城の友人から送られたものです。現地にいない者には分からない多くの困難があり、早期復興のための切実な提言・要望が具体的に書かれています。その中の呼び掛け文をここに転載します。

 

住民意思にもとづく復興計画に

「希望のもてる復興を」―被災者の願いですが、宮城県では、仮設住宅建設やがれき処理事業はブレハブ建築協会やゼネコンに“丸投げ”発注。漁協から猛反発をうけた「水産特区」構想。放射能汚染対策の遅れなど、被災者や地元業者の思いとかけ離れたものとなっています。

宮城県は8月17日、「県震災復興基本計画」の「最終案」を決め、22日の「復興構想会議」で了承されました。この「復興計画」は、野村総研、三菱総研など財界シンクタンクが中核となって作成し、それを“県が丸のみ”して、「上から持ち込み、県民におしつける」ものです。  

最終案には、突然「地下100mに31〜50Km」の直線トンネルを掘って、数千億円かけて素粒子現象を研究する線型加速器(国際リニアコライダー)をつくる計画まで挿入しました。復旧・復興はあくまで、被災者や住民自身の自主的論議を尊重してすすめさせましょう。住民が主体となって再生計画をつくり、財政措置も含めた

復旧・復興を行うよう求めていきましょう。

 

「復興のあり方の原点」にたちかえって力あわせよう

「自然災害は、まず、救援という行為を通じて基本

 

的な人道支援に関する緊急の提案を必要とする。その次に復興(rehabilitation)が来るが、津波を受けた国々では、5年ないしはそれ以上の期間を必要とする。この期間においては、コミュニティーと農業、漁業、水産業、そして観光業を含む様々な経済部門との持続的な開発に力を入れることになる。  

そして救援活動からの復興へのその後の発展に動くにつれて、資源の最適な使い方を研究して支援の対象をさだめるためにより多くの調整が必要となる」これは、スマトラ沖大地震・インド洋

大地震が2004年12月に発生してから、わずか2ヶ月後の2005年2月28日 バンコクで開催された国際会議で採決された、「アジアにおける津

波災害を受けた国々の漁業と水産業復興に向けた地域戦略」の冒頭の文章です。

ここでは、あくまでも復興は「人」、「人の生活が成り立つこと」が最優先の課題であり、国際的かつ地域的な合意と整合性ある復興であるべきとのメッセージを読み取ることができます。また、漁業、水産業の復興に関しては、天然資源の環境面での持続可能性、コミュニティーの維持、漁撈後の女性労働の評価等が重要なビジョンとして盛り込まれています。

あるべき復興の入り口は「人」であり、「生活」「生業」の復旧でなければなりません。その手法として、県民・市民参加の復旧・復興があるべきです。

私たち「県民センター」がめざすものも、その一つの型と考えます。県民のみなさん、「被災者・被災地が主人公」の立場で、住民のための復興をめざして、力をあわせましょう。

 

 

東日本大震災支援活動の報告

猪瀬正雄

 この大災害を我が事として受け止め、背伸びせずに、限られた範囲の中で自分の出来る支援を続けてきました。この度の一連の支援にご協力頂いた多くの方々へ感謝の気持ちを持ってこの報告を綴りました。今後もこのような活動を継続していきたいと思います。

 始まりはニュージーランド(NZ)大地震から

 222日、クライストチャーチを襲った大地震では、ビルが倒壊し、日本や各国からの留学生を含む多数の人たちが犠牲になりました。

 5年前NZを訪れ、景色、食、街全てが気に入り、沢山スケッチをして、帰りの機内では美しい客室乗務員から美味しいスパークリングワインのサービスを受けながら、絵が好きだという彼女との絵画談義を楽しみながらそれらのスケッチを仕上げました。一連の素敵な思い出を、NZ大地震への義援金の一助にしようと思い立ち、227日にスケッチをチャリティ絵葉書として売り出したら、出足好調で、3月末までに5万円を献金するという目標の達成は容易に思われました。ニュージーランド大使館宛に絵葉書と手紙を添えてとりあえず2万円送りました。ところが、・・・

 東日本大震災発生

 311日午後246分、旅先から戻ってテレビを見ていた妻が「東北地方で大地震だって。大津波警報が広い範囲にでている。」と叫びました。それからはテレビに釘付け。

 ヘリからの映像で、延々と続く海岸線に平行に幾重のも不気味な一直線が海から陸地へと向かい、到達するや否や、どす黒いエイリアンのような巨大な津波となって、きれいな畑やハウス、家々を瞬く間に呑み込んでゆく。あるいは、漁船が防波堤を超えて街へと流れ込んでゆく。自然の巨大な脅威の前に何する術もなく茫然と眺めるしかありませんでした。

 堺市を通じて岩手県へ救援物資

 東日本大震災へNZからも日本への感謝として救援隊が派遣されたことを知り、NZチャリティ絵葉書の収益を東日本大震災にも振り向けることにしました。できれば義援金というお金ではなく、必要な救援物資を購入して送りたいと思っていたところ、堺市が岩手県を支援する為に救援物資を募っていると知り、早速、指定されたペットボトルの水、ウエットティッシュ、紙おむつを約1万円分両手に持ちきれないくらい購入して、区役所の窓口へ持って行った。帰りはなんとなく少しだけ義務を果たした気分でした。

 岩手県大船渡市(一部陸前高田市避難所)へ

 5月中頃、夕方のNHKラジオで被災地情報を聴いていたところ、岩手県大船渡市では個人からの支援も受け付けていると知りました。連絡先の電話番号をメモして、早速、どぎまぎしながら電話をすると、保健福祉課の担当の女性が出て、丁寧に現状を説明してくれて、足りない物資を列挙してくれたので感心しました。多忙な折に無駄な時間を費やしたことになるので、取りあえず1便は@マヨネーズ、ケチャップ、レトルト食品、缶詰を一箱に詰めて絵葉書と手紙を添えて送った。布団と国語辞典も聞いたのでそれは宿題。

A6月26日に、「東日本大震災チャリティ落語と紙切り、ミニバザーの会」を開催することにして、Y’s、教会から2万円ずつ協賛金をもらい、それに絵葉書チャリティからの収益金から2万円を拠出し、合計6万円で、布団3セット(掛け敷き枕)10組を大船渡市へ送ることができました。このとき、大船渡市からお礼の電話があってビックリしました。

B学校、教会の協力を得て国語辞典10冊を集めて送りました。また、お礼の電話がありました。

Cインターネットで避難所を調べていたら、陸前高田市に希望ヶ丘病院避難所というのを見つけて、教会と同じ名前だったので、絵葉書80枚と切手50枚に手紙を添えて送りました。

 626日のチャリティイベントは盛会で、その収益金で要請されていた布団カバー20組、ガムテープ30巻、出しの素1ケースを送ることができました。

その後電話のやりとりで、相手の方は保健福祉課の人と知りました。お家や持ち船が流されて仮設住宅に入居とのことでした。彼女が恐縮して「猪瀬さん、ご無理なさらないでください。」というので、「決して無理はしていません。私の周りには沢山の支援してくれる人達がいるのであって、決して私が一人で無理しているわけではありませんよ。」と返事をしました。

「塵も積もれば天保山」の標語でやっているチャリティ絵葉書の収益は、2月末〜6月末で14万円となりました。

その後、何度か電話連絡で不足しているものを種々送りました。また、電話でのやり取りの際に、彼女が「そうしてお電話で様子を聴いて頂けるだけでも、気に掛けていただいていることが分かり、嬉しいです」と言いました。次の具体的な支援が見えるまで、とりあえず「電話ボランティア」を続けたいと思います。

尚、大船渡市からは市長名で、支援に対するお礼状、陸前高田の希望ヶ丘避難所からは、閉所にあたり世話人代表からお礼のハガキを頂きました。

このように、物資ばかりでなく、生の声の支援もいかに励ましになるか身をもって体験しました。

 

 

そろそろ自前の歴史を持とう

中 條 利 一 郎

標題を見て、オヤッと思われる方があるかも知れない。わが国の歴史教育は充分自前のものになっていると思っている方なら、そう思われるであろう。私の旧制中学時代には、今の高校の世界史に相当する科目は東洋史と西洋史に分かれていた。

まず、西洋史から始めよう。明治になって開国し、西洋史のもとになる学問を修めるために、当時の大学教授は主としてヨーロッパに留学した(稀にアメリカもあった)。従って、西洋人の目から見た西洋史を修学し、それを帰国後、西洋史なる科目に仕立て上げた。例えば、十字軍はキリスト教徒がエルサレムへ巡礼に行こうとした時、イスラム教徒に進路を妨げられたので、それへの対抗策として編成されたものとして教えられた。それまで鮮度の悪い肉を食べていた西洋人が胡椒などのスパイスを使って調理した肉の味を憶えると、スパイスなしの生活が考えられなくなり、その確保のために派遣されたのが十字軍であるとの視点からの西洋史は教わった記憶がない。歴史学者でない筆者には、どちらが正しいかを論じる資格はない。どちらの因子もあった筈と素人判断するのが正解であろう。遠い世界での出来事だから、どちらでも目くじらを立てる程のことでもないと思いながら受講したものである。昨今であれば、パレスチナ問題などで、ヨソの話ではすまされなくなったが、事情は変わっていないようである。

東洋史になると、周辺諸国との関係もあり、安閑視していられない。ところが、こちらも清国への留学から帰国した人が仕立て上げたのが東洋史という科目である。今は中国へ仕事や観光で出かけられる方も多い。そういう方々が北京滞在中に訪れるのが万里の長城である。東西に走っている部分では、北側の壁が高く、狭間なども完備している。これはそこが中国と匈奴などとの国境で、漢民族が北方からの遊牧民族の侵入を防ぐために作ったものだからである。因みに、北方遊牧民は羊を連れて移動するので、羊が越えられなければ、国境として機能していたと言われる(これには異論もある)。それより北側は現中国が侵略したままの土地である(それが分かる所を平気で観光地に仕立てる中国人の気が知れない)。ところが、遊牧民が北から南へ進むことを侵略と言い、漢民族が南から北へ進むことは徳化と言う。こういう考えが、そのまま、東洋史に採りいれられ、更に、世界史へと引き継がれている。だから、尖閣諸島を侵略しようとする野蛮人がいても、それを徳化の続きだと考えて、腰が引け、その結果、そこを野蛮国の漁船が侵略しても、平気で送り返してしまっているのが現状である。

こういう東洋史と西洋史が継承されたのが、現在の世界史である。その証拠に、世界史と言いながら、中国とヨーロッパが中心になっている。

明治以来100年以上経過している。100年も経つと、その間に教えられたことは、すべて自前の歴史だと誤解しているのが現状である。東洋史、西洋史の順に教わったのを、あえて反対の順で書いた理由もお分かり頂けたと思う。標題の「自前」と言うのは、「わが国の視点で書かれた」という意味である。

かつてのソ連の時代には白ロシア(現、ベラルーシ)共和国と接していたため目立たなかったが、ベラルーシの独立により、ロシアの飛び地になり、変なところにロシア領があると目立つようになった地方がある。ロシアではカリーニングラード地方と言う。かつては、東プロシアに属していたケーニッヒスベルグ地方だったところである。ドイツ人は世界中どこへ行っても観光客の主流であるが、旧ドイツ領であるこの地方もドイツからの観光客で溢れている。それを当て込んだ土産物には、ケーニッヒスベルグと書いてあり、カリーニングラードとは書いてない。傑作なのは、観光バスで、ドイツからの客が多いのであろう、ボディーにはキリル文字でケーニッヒスベルグと書かれている。ドイツ語では「ケ」は「ko」で、oの上にウムラウトがついている。それがキリル文字では「кё」となっている。ロシア語でウムラウトと同じ記号を用いる字母はеだけであることによる苦心の作品である。発音は「ヨ」に近いので、キョーニッヒスベルグと言うことになる。そこまでして、ロシアはドイツ人観光客に顔を立てている。翻って、わが国では樺太のことをサハリンと呼んで憚らない。サンフランシスコ講和条約で、わが国は樺太の主権を放棄した。決まっているのはそこまでで、当時のソ連はサンフランシスコ条約に署名していない。つまり、日本が主権を放棄したまま60年以上、どこの国にも属さない地域をソ連、ついでロシアが侵略を続けているのである。その土地をロシア風にサハリンと呼んでいるのが、わが国の実情である。

まだある。戦前の大日本帝国の領土には新南群島と呼ばれる地域があった。今のベトナムと海南島の間にある島々で、わが国が発見した固有の領土である(フランスでは発見したのはフランスと主張している)。これも、わが国固有の領土でありながら、サンフランシスコ講和条約で中華民国、ついで、中華人民共和国に侵略されたまま今日に至っている。今、中国、ベトナム、フィリピンなどで領土主張をめぐる諍いがなされているが、わが国が返せと主張しているのを聞いたことがない。

自前の歴史があると思っている方、これでも自前の歴史があると言えますか?

 

 

大阪府の教育改革?−「教育基本条例(案)」

                  菅野礼司

 大阪府の橋本知事が「教育基本条例」(案)を府議会に提案され、その内容は「教育の政治的中立」を侵す可能性があると、目下大きな問題となっている。

 橋本知事が代表をつとめる「大阪維新の会」が府議会で多数を得ているので、「維新の会」を動かして、その「教育基本条例」を可決しようとしている。大阪市議会にも同じ条例を提案したが、「維新の会」が少数のために先月否決された。

 その「教育基本条例」(案)の主な問題点は下記の通りである。

・教育目標:実現すべき教育目標を知事が設定する。 

・校長・副校長:任期付き公募制とする。

・職務命令:職務命令に5回、同じ職務命令に3回違反した教職員は免職。

・人事評価:教職員を相対評価で評価し、最低評価(全体の5%)が2回連続すれば免職 を含む処分対象にする。

 

 今の教育界や教育委員会には改善すべき問題が多くあると思う。教育委員会が十分機能しておらず、その存在意義が問われたこともあった。しかし、橋本知事が教育委員会に不信を持ったきっかけは、全国学力調査の大阪府の成績が全国平均を大きく下回ったので、市町村別成績結果を公表するよう圧力をかけたが、ほとんどの教委は「過度の競争を煽る」、「現場が混乱する」といって従わなかった。知事は業を煮やして教育委員会を罵倒し、「成績公表・非公表をするか否かは予算をつける指標となる」と脅迫めいたことまでいった。 知事と維新の会の教育目標は「国際競争に通用する人材を育てる」ことであり、そのためには教育の複線化による格差教育も辞さないという。人間にはそれぞれ個性があり、学問、芸術、スポーツなど得意とするものが異なるから、教育を受ける権利の機会均等が保証されれば、平等画一教育が必ずしもよいとは思わない。だが、教育の成果は直ぐ目に見えるものでなく、その評価の仕方も画一的には決められない。教育に関する理念・哲学もなく、「成果主義」を目指して押しつけ的な教育行政には危険を感ずる。

 知事が教育目標を設定することになると、知事が変わるごとに教育目標が変わる可能性が高い。教育の理念・目標は長期的にしっかりしたものを定めるべきで、行政の長の考え方に左右されて変えるべきものではない。

 「教育基本条例」(案)の孕む危険性は、多くの関係者の指摘通り、戦前の反省に立った「教育の政治的中立」を否定するものである。知事が教育目標を設定すること、および職務命令に従わない者は免職処分にできるというのは、教育の政治的中立性を侵す危険性が強い。校長をはじめ教員の人事権に政治が介入しやすくなることである。教育界には現在でも上位下達の体質があり、下の者は上役の顔色をこれまで以上に窺うようになり、教育委員会を通して教育行政を一層管理しやすくなる。この条例は一つ間違うと、長年のうちに教育に大きな弊害をもたらす危険性がある。

 戦後の日本が守ってきた「政治的中立性」を大阪府の一知事の独断で破ることは許されないだろう。全国的な議論で決めるべきことである。大阪のこの教育基本条例は全国に影響を及ぼす可能性がある。

 この「条例案」の審議で、「大阪維新の会」の議員が質問した:「(教育には)府民の意思を反映した仕組みの機構が不可欠である。だが政治が教育に介入してはならないという主張の下で、(教育現場が)聖域化され過度に民意が遠ざけられてきたのではないか。」これは知事の持論「民意=政治家」選挙で選ばれた政治家は民意を体現している、を受けた発言であろう。だが、橋本知事は当選した前回の選挙で、このような教育問題を公約に掲げてない。選挙民は候補者個人の人格や考え方すべてを知った上で投票したわけではないから、全権を託していない。当選した者は「民意を体現」しているというのは思い上がりである。

 橋本知事は、当選以来、積極的改革路線で府の財政危機や腐敗行政を改善したと、高い支持率を保っている。しかし、知事の行政はかなり強引であり反発もある。特に、教育・文化に関しては、彼の見識と行政方針に強い批判的意見が多い。現に、府教育委員会委員(その中には知事自らの要請で就任した人もいる)は全員猛反対し、府庁出身の教育長を除く6人中5人は、この条例が可決されれば辞任するとまで言っている。教育は国家の根幹である。それゆえ、この重大な問題を橋本知事の一存で「私が民意」と言って進められては困る。現行教育には民意が反映されてないというのであれば、その問題点を明らかにし、それを如何に改善するかを、教育関係者、知識人を中心に府民を含めて広く議論をした上で決めるべきである。

 橋本知事は教育分野以外のところでも、これまで強引な上意下達的行政を行ってきた。彼の手法は府民の支持を得て世論調査で高支持率を保っているが、その体質はファッショ的なところが見られ批判も強い。かって小泉首相が巧みな言動で民意を引きつけ、高支持率を盾にファッショ的な強引さで「構造改革」を行った。その結果、経済的歪みと格差拡大で、国民はいまだに痛い思いをしている。橋本知事はその二の舞を大阪版で演じようとしているように思える。マスコミを巧く利用して支持を得る手法も両者に共通している。

 先日、橋本知事と教育委員とがこの「条例案」について討論会を開き、意見交換を行った。そこで知事は条例案の内容を緩めてる余地を認めたようである。ならば、提案を取り下げて、じっくり時間をかけて広く意見を聴取すべきである。

 

 

災害と物理学者    法橋登

はじめに

 東日本に大津波と原発事故という二重の災害をうけた日本は復興とエネルギー源選択という二重の問題に直面した。過去の石油危機や宇宙船爆発事故や原子炉臨界事故やラッセル・アインシュタイン宣言にファインマンやジョセフソンを含む物理学者はどう反応したか。

飛行船爆発から実験用原子炉建設へ

 1937年に米国で着陸作業中のドイツ飛行船ヒンデンブルク号が水素爆発を起した。海軍はその原因調査を天災(関東大震災)後の日本人への警句で知られる寺田寅彦の研究室に委託した。当時寺田研で火花放電を研究していた湯本清比古が担当し、風船素材からの静電放電説を検証した。湯本は研究終了後、東京国分寺にできた研究所に迎えられ、放電、分光、計測、電子顕微鏡、プラズマ、レーザー、ホログラム、原子力などの開発グループを育て、1960年には実験用原子炉の建設を科技庁から受託した。

電子顕微鏡グループからは水電解電極用グラファイト剥離層を使った渡辺宏(1)によるパイ電子プラズマ振動の実証(ボームパインズ分散式の確定)、外村彰のアハロノフ・ボーム効果の実証(電磁ゲージ場の実証)(2)などの成果が生まれたが、実験用原子炉では、核分裂中性子線で放射化されたナポレオンの遺髪のサンプルから砒素が検出された。

石油ショックと水素エネルギー中東戦争に起因する1972年の第一次石油ショックのあと、1976年に開かれた第一回国際代替エネルギー源マイアミ会議では、マイアミ沖に群生する巨大昆布から発生する水素が石油代替エネルギー資源として注目され、ツェッぺリン以後中断されていた水素採集の工業化が期待されたが実現せず、同じ1972年にネーチャー誌に発表された光触媒による水分解反応(本多・藤島効果)への期待が再燃した。福島原発で起こった水素爆発は水と核燃料被覆(ジルコニウム)が反応して起こった。原子炉による水素製造は原子炉による使用済み核燃料の核破砕・無害化と同様に早くから提案されている。

スペースシャトル事故とファインマン

1987年に米国で起こったスペースシャトル空中分解事故のあと、NASAは事故調査委員会をつくり報告書を大統領に提出した。シャトル打ち揚げ時の想定外気温低下によって、シャトル本体と固体燃料補助タンクの接合部を密封するゴム製Oリングが破損し、燃料が漏出したのが事故原因とされたが、調査委員のひとりファインマン(3)は「NASA首脳部の安全評価は非現実的で、現場技術者の評価とかけ離れている。技術進歩のためには組織の体面より現実を優先すべきだ。自然は騙せないからである」という個人的コメントを併記する条件で報告書にサインした。

原子力船中性子漏れ事故と原子炉物理

 1980年に青森県むつ湾沖で原子力船むつ号に中性子漏れ事故が起こった。船長は前記実験用原子炉で研修を受けている。通常、正常運転中の原子炉ではガンマ線漏れを主に考え、クライン・仁科の光子・電子散乱公式から電子密度の大きい鉛が遮蔽材に使われる。むつ号では中性子漏れは想定されでいなかった。ワインベルクとウィグナー(4)が戦時研究をまとめた教科書では中性子漏れはミルンの真空境界問題としてボルツマン輸送方程式から計算される。とくにウィグナーが提案した非保存系の変分理論は、有限時空内に粒子源と吸収源を含む量子力学の観測問題(波動方程式の遅延解による波動関数の収縮、非局所相関、遅延選択、非破壊測定などの解釈)を考えるヒントをあたえる(5,6)

石油危機とジョセフソン

 1972年の第一次石油危機のあと、キャベンディッシュ研究所ではエネルギー源転換の社会的インパクトを評価するエネルギーグループと計算プログラム開発グループが生まれた。ジョセフソン(7)は後者の視聴覚支援ユニットの協力で認知科学と人工知能を担当した。しかし1979年の第二次石油危機と同時に起こった米スリーマイル島原子炉事故が運転員の水位計誤認によったことから、ジョセフソンは計器の誤認や記号列の誤読をしない人工知能から現場での発見や驚きに導かれる創造の科学に関心を移した。アルキメデスのユリーカ反応として知られる反射反応の進化論的起源(8)も創造科学のテーマになる。理研の認知神経グループ(9)は最近、プロ棋士が「次の一手」を決断する直観が大脳視覚領と進化歴の古い大脳基底部の神経機構の連合によって強化することを明らかにした。

ラッセル・アインシュタイン平和宣言と安息日

 19541223日に英BBCから放送されたラッセルのクリスマス講演「人類の危機」の結論を要約してアインシュタインに送り、湯川、朝永を含む11人の物理学者が連署したのがラッセル・アインシュタイン平和宣言(10)である。この宣言には「ひとつの集団に対して他の集団に対するよも強く訴える表現をしてはならない」という表現がある。普遍価値を求める数学者であり、ノーベル文学賞受賞者でもあり元英首相を祖父をもつ起草者のラッセルが、国家の歴史的・宗教的・非理性的存在を認めた上で、一集団の他集団に対する非理性的反応としての核使用を抑止する倫理拘束が平和宣言である。平和宣言で集団を固有名詞に置き換えるとラッセルが当時想定しなかった東西冷戦終結後の南北対立とテロ対報復の連鎖に対する拘束になる。1955年に第一回原子力平和利用国際会議がジュネーブで開かれたが、第三世界を代表してインドの物理学者バーバーが議長に選ばれたのは、二次大戦の遠因である南北貧富差を数世代で解消するには原子力の平和利用しかないと世界が考えたからである。国連大学本部が東京青山におかれ、イスラム教徒であるアブダス サラム(11)が理事になったのもその延長上にある。ジョセフソンはこの大学で開かれた国際認知学界に出席している。

 旧ソ連解体による東西対立解消後も南北貧富差や中東のユダヤ・イスラム対立は残った。核実験や核開発を望む核保有国や新興核非保有国も存在する。テルアビブ大学のアブシャロム エリツールとアハロノフ(12)は、AB効果を利用する原爆貯蔵庫の非破壊検査を提案した。シュレディンガーの猫を念頭においているが、猫(原爆)の首には磁気能率をもつ鈴(信管)がついている。ペンローズ(13)は、エリツールらの提案は火打石の火花を一定期間禁止するユダヤ教徒の安息日を現代化して、核保有国が核実験の計画停止を考えるヒントになると考えている。

参考文献

1) H.Watanabe: JPSJ. 14 (1959)1455.

2) A.Tonomura et al.: Phys. Rev.Lett 56 (1986)792.

3) R.P.Feynman:in Rogers Commission Report Vol.1

   Chap.3 p.82.

4) A.Weinberg and E.Wigner: The Physical Theory of

   Neutron Chain Reactors, University of Chicago 

   Press 1958.

5) N.Hokkyo: Found. Phys. 1 (1988) 293.

6) 法橋登:物理学会誌 57 (2002) 352.

7) 法橋登:物理学会誌 40 (1985) 95.

8) N.Hokkyo: Viva Origino 38 (2010) 1.

9) K. Tanaka et al.Science 331 (2010) 341.

10) 法橋登:大学の物理教育 14 (2008) 34.

11)A. Salam: Ideals and Realities. World Scientific,

    Singapore 1984.

12). A.C.Eliture and L.Vaidman: Found. Phys. 23 (1993)  987.

13) R.Penrose, Shadows of the Mind. Oxford University

   Press, Oxford 1994.

 

 

 原水爆・原発事故が促すもの

       第三の科学革命 ―    筒井健雄

原水爆の被爆

 人類は1945年の広島・長崎の被爆以降、新しい科学の時代を迎えねばならなくなった。特に195431日、アメリカの水爆実験による「死の灰」を浴びた第五福竜丸が港に帰って来た後、大きな変化を迎えた。

 久保山さんの死、捕ってきたマグロの廃棄、などがあり、「死の灰」を含んだ放射能の雨が降り注ぎ、捕った魚も食べられないという放射能汚染の問題が貴重な蛋白源としての魚が危険であるという主婦たちの不安をかきたて、「原水爆反対運動」となって、広島大会となり全世界的な問題へと発展したのである。

 ペリーが4隻の黒船を率いて浦賀沖に現れて以来、太平の眠りを覚まされた日本国民は上を下への大騒ぎとなり、遂に「明治維新」という取りあえず当時の人々が取り得る改革の形を創り、現代に至っている。その後、明治38年(1905年)頃からは、10年置きに外国との戦争に次ぐ戦争という、あまり評判の良くない国際的な行動を取ってきた歴史がある。このような戦争国家というような過去のイメージが何故伴わざるを得なかったかということはもっと詳しく分析されなければならないが、ここでは扱わない。

 むしろ、「原水爆に打ち勝つものは何か」というかなり抽象的な問題を扱うことにする。この問題は今年(2011年)の311日、いわゆる311大震災以降ますます重要な課題となってきているように思われるのである。

 日本が敗戦した当時「日本は科学によって負けた。これからは科学する力によって国を立て直さなければならない。」とよく言われた。いわゆる科学立国の強調である。その後、科学をこれ以上発展させることは果たして良いことであるのかどうかという科学不信の時代を迎えるのであるが、敗戦後しばらくは湯川秀樹博士のノーベル賞受賞という事柄もあり、意気消沈していた国民を活気づけ、科学信頼の時代が続いたのである。

原水爆より強力なものは何か

 さて、原水爆より強力なものとは何であろうか。もはや兵器のこれ以上の発達は無用と言わざるを得ない。地上から全人類を消滅させたところで、何の意味があろうか。また、全生物を殺し、石ころだらけの地球としたところで、何の利益があろうか。となると、そんな兵器を必要としない人間を創ることが重要なのではないのか。

 人間あるいは人格を優れたものにする、そういう科学は無いのか、無ければ創れないのか。これが、これからの科学の課題と考えるのが良いのではなかろうか。科学的に人間形成、あるいは人格形成の問題を考えたり、研究するとなると、心理学、それも科学的心理学を学ぶと良いのではないか、そう考えるのが私にとって自然な流れであった。

科学的心理学への期待と失望

 ところが、昭和30年代(19551964)当時の科学的心理学は、人格とか意識は科学的に扱えないもの、とされていた。一般的には心理学は心や意識や人格を扱えるものと思われていた。普通の人々が考える心理学はそういうものなのである。そして心理学の専門家とされる人々も啓発的な書物には、心理学は心や意識や人格を扱えるかのように書いている。にもかかわらず、専門的には「心や意識や人格を扱った研究は科学的な論文にはならない、科学的研究業績とは認められない。」ことになっていたのである。これは「科学というものは、誰でもが認めるという客観性、また繰り返し可能という再現性がなければならない。」という考え方によって成り立っていたのである。だから、心理学には行動科学としての科学的心理学と心理治療に関わる意識的心理学という二つの互いに相容れない奇妙な分裂があったのである。行動という客観的な事実を重んじる「“科学的”心理学は“意識の学”であることを放棄することによってのみ、成立した。」(「」内は高橋澪子(1975))のである。意識は人間の本性として誰によっても当然感じられるものであるのだが、科学的心理学ではそれが放棄されていたのである。そのため、意識の問題の障害を治療しようとする心理療法は科学的心理学者から見れば、「彼らのやっていることは科学とは言えない。」ということになっていたのである。

 こうした分裂はまことに不幸なことであるし、科学の発展にとっても望ましくないことである。人間は意識を持ったものであるし、意識を持った人間も宇宙の発展、進化の中で創造されてきたものであるならば、当然自然科学の発展路線とつながっていなければ嘘である。 

 こうした分裂が今でも依然として存在するならば、そこには当然、科学改革というか革命的な変革がなければならないのである。それは何か。

 こうした問題と関係して、今でも疑問とされている事柄がある。項目的に羅列すると、観測の問題、時間の問題、情報の問題、死後の世界の問題、自我の問題、意識は脳の働きなのか、という問題、などである。

身心二元論の問題

 実は、こうした問題の発生する根底には「身心二元論の問題」があるのである。ここを乗り越えなければ、見通しの明るい真の解決は得られないのである。

 身心二元論の問題は大森荘蔵氏を筆頭とする多くの論客が居て、盛んに論じられたのであるが、今どうなっているのか、筆者は寡聞にして存じ上げない。ただ、この問題の解決、克服には水の個体、液体、気体の変化にともなう潜熱の問題と同じような、外からは見えない大きなエネルギー消費の問題が関係しているように思うのである。つまり、黙って考えるという思考的エネルギーを多大に必要としているのである。これは精神的な壁に突き当たって、もがき苦しむ来談者を前にして、じっとその思考的展開を聴きながら、自由な心理的環境を用意して、自力達成を待つときのカウンセラーの姿勢や努力とも似ているのである。

科学的存在観(SOパラダイム)

 ここで、提案するのは『科学的存在観(SOパラダイム)』という基本的な科学の前提である。なお、パラダイムについては菅野氏による批判があるが、ここでは宗教時代は「神仏パラダイム」が支配的であった、科学の第一革命・第二革命時代は「ニュートン・デカルト的パラダイム(NDパラダイム)」が支配的であった、科学の第三革命時代には「科学的存在観パラダイム(SOパラダイム)」が支配的となる、という意味で使わせていただく。要するに、その時代ごとの基本的思考基盤というような意味で使わせていただく。

 もっとも、科学の第一革命時代は「ニュートン・デカルト的パラダイム」でも良かったかもしれないが、第二革命時代はむしろ「アインシュタイン・プランクあるいはボーア的パラダイム」が支配的であったと言うべきではないかという向きもあるのではないかと思われるが、ここではデカルト的身心二元論批判をしたいので、このように大まかに決めさせていただいている。

 なお、科学の第一革命、第二革命というのは、湯川博士の使った意味に従っている。第一革命はルネサンスの頃からのものを指し、第二革命は20世紀初頭からのものを指すというのである。第三革命というのはプランクや湯川が言った「人間から離脱してしまった科学」という嘆きを解決するために筆者が考え出した言葉である。人間を含む第三革命としての科学、それが「新しい科学」である。その「新しい科学」の基盤となるのが、『科学的存在観(SOパラダイム)』である。

 それでは『科学的存在観』とは何か、それをまず説明しなければならない。これが「どのようにして見出されたのか。」と、いぶかる読者も居るかもしれないが、それを始めると長くなるので、ここでは行わない。とにかくこれが基本的前提である、ということで、説明させていただく。また、この前提は読んで理解しただけでは身に着かない。必ず幾つかの練習問題をして貰わないと分かったことにならない、という面倒な点を抱えていることも念のため言って置かなければならない。

科学的存在観の説明

 科学的存在観は二つの前提から成り立っている。第一前提と第二前提である。

第一前提は「存在の根拠」と呼ばれるものであって、その命題は「私がいま、ここに、このように、生きている。」というものである。この「私」というのも科学的な証明をしようとし、また出来そうな人であるという限定が必要である。つまり、幼少児や寝ている人や酔っぱらっている人は除外されなければならない。これはデカルトの「コギト、エルゴ、スム」(我思う故に我あり)と似ているが、同じではない。この命題自体が次の第二前提によって規定されるからである。

 第二前提は「存在の見方」と呼ばれる。これは「存在(b)は要素(e)、構造(s)、機能(f)から成る。要素(e)は観る人(分析者)が目的に応じて選ぶもの。構造(s)は要素(e)のつながり、配置である。機能(f)はその構造(s)の下における要素(e)同士の作用や動きである。」と定義する。この第二前提も第一前提によって確定されるという相互関係がある。

機能(f)には静止と運動の二つの形態があると考えても良い。時計の針の動きのように静止状態を機能消滅と捉えても良いので、機能(f)は一番失われ易いと観ることもできる。時計の針や文字盤などが配置(構造(s))というつながりを失うと、時計は消滅して、針や文字盤が残る。針や文字盤は時計の要素(e)ではなくなったと考えることもできる。そして時計(bo)の下位存在(b-1)と考えても良い。この逆に存在(b)が要素(e)となって、新しい

構造(s)や機能(f)を持つと、新しい存在(b+1)ができる。具体的に言うと、時計という存在(bo)は「人々」や「時間を表す言葉(例えば一時とか二時、あるいは一時間とか二時間)」と共に、時間形成存在(b+1)の要素(e+1)となって、人にとっての時間(機能f+1)を形成するのである。(注:この場合、時間は物体間の運動のように具体的に存在するものではなくて、音声言語段階、あるいは文字言語段階へと成長し発達した人格にとって成立するものであることを理解していなければならない。)こうして無限の解体消滅や生成発展という創造の世界が描き出されるのである。

死後の世界は有り得ない

(1)人が死ねば身も心も消滅する

 ここで重要なのは、「人が死んだらどうなるのか」という問題である。この科学的存在観からは当然「人が死ねば身も心も消滅する。」という人によっては衝撃的な結論が出てくるのである。衝撃的ではあるが、このことによって、人間科学は人間を科学することができ、また自然科学や社会科学とも連絡が付くのである。デカルトは、人間を除き、動物以下のものだけが、死ぬと身も心も消滅するとしたが、動物以下のものだけではなくて、人間もそうなのだという事実から「新しい科学」は出発しなければならないのである。人間だけが永遠不滅の魂を持つということは科学的には考えられないことなのである。

(2)地獄・極楽は実在しない

 オウム真理教では「尊師」と弟子たちに自分を呼ばせた浅原彰晃が「俺に従わない者は地獄に行く」と弟子たちを威嚇したようである。しかし、地獄や極楽は想像上の世界であって、実在するものではないのである。科学の第三革命としての「新しい科学」を知らなかった理科系の大学生や大学院生がオウム真理教に入り、大きな犯罪を犯したことは非常に残念なことであった。

(3)輪廻転生は有り得ない

 ダライラマは輪廻転生を信じるとして、自分の生まれ変わりになる者をこれから探す計画を立てるようであるが、輪廻転生ということも勿論有り得ないのである。

(4)誰もが一回限りの独自な生を生きる

 人は生まれ、そして死ぬ。それは一回限りの独自な生なのである。誰も死後の世界へ行く者は居ないし、生まれ変わる者も居ない。動物もそのレベルの自我を持ち、一頭一頭、一羽一羽、独自な存在として生き、死ぬ。再び、何かに生まれ変わるということは無いのである。身心二元論的な思考基盤から「死後の世界」も「輪廻転生」も生まれたが、この考え方では、何故同一の身体に同一の魂(心)が寝ても覚めても結びついているのか、どうして入れ替わったりしないのか、まともに説明することは不可能である。考えてみれば、ここに有る小さな石ころでさえも独自性を持っている。これが壊れれば同じものが再び生ずることはないのである。

(5)心は人格の働きである

 また、心の概念も身心二元論では、最初「心は心臓に宿る」とされたが、今日誰もそれを信じる者は居ない。心臓は体中に血液を送る器官であって、一種のポンプである。今日心臓手術をすることを「神を汚す振る舞い」として拒否する者は殆ど居ないのである。

 それでは心とは何か。心はどこに有るのか。「心は脳の働きである」と論ずる人が居て、それが今日多数を占めているが、「新しい科学」からみれば、間違いである。心は「人格の働き(機能(f))」であって、「脳の働き(機能(f))」ではないのである。人格とは何か。それは個人と対象から成る存在(b)である。その個人という存在(b)は要素(e)が脳や神経系から成る“中枢器官”、目や耳などから成る“感覚器官”、手や足から成る“運動器官”などから成っているのである。その個人がある対象と共に創る存在が人格である。個人を存在(bo)とすると、人格存在(b+1)の要素(e+1)に当たるものはその個人とその対象である。

例えば、ここに人がリンゴを手に持って食べようとしている、とする。その場合、人とリンゴでつくられている存在(b)が人格である。普通はそれを外的対象関係にある人格と言う。これが内面化されると内的対象関係における人格となるのである。人がリンゴを見て美しいリンゴだな、とか美味そうなリンゴだなと意識する。これは外からは見えない内的な過程である。持って齧る。これは行動である。それは外から見えるという客観性を備えている。その人には内的な意識があり、目的(この場合は食べようとする)に沿った”行動がなされる。その意識と行動が心の働きである。

人は対象との関係(これを外的対象関係と呼ぶ)を内在化あるいは内面化して、人格形成をしてゆく(これを内的対象関係と呼ぶ)。 人は糸鞠が糸を巻きつけると大きくなるように対象との関係(これを経験とも呼ぶ)を内在化して成長・発達して行くのである。

動物も同じようにして成長・発達して行く。ただし、人間の場合は家庭での自然な教育の他に、学校教育を通して音声言語は勿論、文字言語やイメージなど教育され、高度な人格へと発達してゆくのである。

 ところで、ここで、一言いって置きたいことがある。それは第一前提は人権と関わり、第二前提は人格と関わるということである。誰もが人間として対等な人権を持っている。しかし、誰の人格も対等ではない。成長発達を通して形成された内的対象関係としての人格は、より大きな人格とかより小さな人格があるように、対等ではないのである。ただし、このことは、ここでは本筋に関わりないので、これ以上触れないことにする。

 

 

「原発災害をめぐる科学者の

社会的責任」考 海野和三郎

表記の日本学術会議哲学委員会公開シンポジウムが、918日東大法文2号館文学部1番教室で開催された。−科学と科学を超えるもの−という副題がついていた。パネリスト(唐木英明、小林伝傳司。押川正毅、鬼頭秀一、島薗進)司会者はじめ多数参加者の提言には、ジャーナリズムにはない常識以上の内容豊富で、有意義なシンポジウムであった。唯一つ残念に思ったのは、原発災害にとらわれ過ぎて、原発災害の全人類的意味、地球環境問題・生命活動のエネルギー問題、即ち、人類進化のエネルギー問題という高次元の視点に欠けていたことである。

嘗て、アインシュタインは、国際連盟に依頼されて、「ヒトはなぜ戦争をするのか?」(2000,花風社)について、フロイトと往復書簡を交わして討論した。結論は、“強制力のある国際機関による戦争防止”であるが、フロイトは、戦争の“適者生存”という“人類進化”への貢献(?)も否定しなかったようであった。しかし、天文学的に見ると、衣食住のエネルギーと云い領土と云い、要するに、太陽エネルギーの取り合いが戦争の原因である、と言っても過言ではない。ヒト1人は、各瞬間1kWのエネルギー消費で生きているという。エネルギーは不変量であり、姿形は変っても総量は変らない。且つ、ヒトの消費するエネルギーの殆ど全ては太陽エネルギー起源である。個人差、時・所による違いも大きいが、平均して、毎秒1kW秒の太陽エネルギーを衣食住のエネルギーに変えて消費し、ヒト1人が生きているわけである。ところで、太陽は、太陽の当る地球断面積(太陽光に垂直な平面)の1m2当りに1.25kW(大気による吸収を除き1kW)のエネルギーを照射する。地球表面積の1/3が陸地、その1/30が農耕適地、その1/10に農作物、その1/10が葉緑素の占める面積、光合成の効率10%、その10%が食料といったいい加減な計算で、地球は何人の人口を養うことができるか、計算してみたことがある。詳細は忘れてしまったが、人口増加率が大きくない19世紀初頭の世界人口と、ヒト1人1kWと辻褄が会う結果を得た。何十億年か前、原始人の時代までは、アフリカで天地自然の食物により命をつないでいたが、その後、農耕などにより太陽エネルギーを有効利用して衣食住のエネルギーを獲得し、言葉による社会生活を発明して、気候の変動に耐えて原人から現代人へ進化し、一部はアフリカの地を離れ、北へ東へとエネルギーを求めて移動した。良くは知らないが、僅か10万年程度前のことであったろう。

エネルギーというものは、総量は変らないが、姿かたちは変る。ヒトの命を守る基本的なエネルギーは、食衣住のエネルギーであるが、その元は化石燃料や風力水力発電など殆どすべて太陽エネルギー起源である。1℃の体温変化は、ヒトにとって致命的であるが、食物は保存期間が約1年、体温を守る衣服は約10年、気候変動に対応するための住居は約100年であろう。エネルギーはその外いろいろの形で保存されるが、その保存の多様性・多次元性のことを文明という。道具・乗り物・機械類は勿論、電力・ガス・水道、教育・経済・政治の施設と機構、特にエネルギーの流通を円滑にするものとして金融、資本があり、主なエネルギー流通形態として電力がある。電力については、水力・風力発電などは、太陽エネルギー起源が明らかであり、また石油・石炭・天然ガスなどの化石燃料を原料とする火力発電についての太陽エネルギー起源も明らかである。潮汐力や地熱発電についても太陽系起源の自然エネルギーとして同じ仲間に入れても良いが、ただ一つ異質なのは、原子力発電である。化石燃料の枯渇が20年先の石油ピークといった形で将来のエネルギー問題に陰を落とし、50年後のエネルギー取り合いによる世界戦争の予感が、資源小国で、且つ、戦争否定の憲法を持つ、日本の未来に対するある種の絶望感となって、今この国に漂っている。人口減少、年間自殺者3万人という世相もこれと無縁ではあるまい。  

太陽光発電を含む所謂自然エネルギーは、新しい利用法を開発しない限り、量的に不十分である。これまで利用されてきた自然エネルギーと化石燃料では、億年かけて地球が貯めた化石燃料を100年で使う浪費によって増えてしまった世界人口に対しては量的に不足であり、原発が現在使われているエネルギー源の中では、その唯一の具体的解決策と目されていた。但し、原発といえども恐らく1000年間のエネルギー需要を満たすに過ぎず、本質的解決にはつながらない。本質的な解決は、やはり、無尽蔵で且つ豊富な太陽エネルギーの新しい有効利用法にある。ただし、現在、多く利用されている太陽熱温水器と太陽電池は、農作物の光合成同様、大いに利用されるべきではあるが、エネルギー不足問題の本質的な解決にはならない。その理由は、装置が固定であり太陽光の受光能率が不十分であることや、装置を作るのにかなりのエネルギー消費を伴うことなどで、汎用の装置としては太陽エネルギーの利用効率が不十分であるためである。しかしながら、一方、効率の良い汎用の太陽エネルギー装置を作るのは、原理的には極めて簡単で、第1は、平面鏡をつなぎ合わせた非結像集光鏡で、その前に置いたソーラーポットの底面に集光するように、極軸の周りに1日半回転するシデロスタット駆動で、正午の太陽高度と天頂の中間に置いた第2鏡(平面鏡)で中継して、10倍から20倍程度の集光をする簡易太陽光集光装置を作る。4倍集光で、金星あたりの太陽光強度が得られ、16倍集光では、水星より太陽に近い地点での太陽光強度となり、その輻射温度は(絶対温度が輻射強度は絶対温度の4乗に比例する)ステファンの法則から、地球上の直射太陽光温度(約365K90℃)の2倍、730K450℃)ほどの高温が得られ、短時間で沸騰水を得る。太陽熱発電のぺルチエ素子やシンラタービン発電利用も可能であろう。造るのにエネルギーを要する(高価な)太陽熱発電素子も、集光分だけ小面積で済む。この方式で、家庭用1kW 発電は、夜間と天候に左右されることを考慮しても、2m・2m程度の第1鏡で容易であろう。一般に、熱機関の効率は、温度上昇にほぼ比例するから、同じエネルギー量でも集光すると、発電量が何倍にもなる。何のことは無い、簡単な太陽光集光がエネルギー問題解決の鍵である。

 第2に大切なことは、無駄にエネルギーを捨てないことである。その点については、海が天然のソーラーポンド機構で対流を阻止して保温を完全にすることや、森が風を起こして光合成を20倍も盛んにする矢吹効果など、「自然」に学ぶべき点が多い。これらについては、前にも何度も論じたこともあり、省略する。

 問題となっている「原発」は、恐らく太陽エネルギー起源で無いエネルギー源として、初めてのものであろう。化石燃料がやがて枯渇することを受けて、ピンチヒッターとして、経済大恐慌やエネルギー取り合いの世界戦争を予防する上では、21世紀人類進化の駆動力と期待された。しかし、原子力は、大質量星末期の超新星爆発のような、温度に換算すれば10の9乗度かそれ以上といった超高温の核融合に対応するエネルギーなので、いわば、前述の太陽エネルギーの集光による温度上昇を用いた有効利用とは逆に、絶対温度を地球上で発電作業ができるまでに圧倒的に下げて、即ち、効率を圧倒的に下げて、使っている。「もんじゅ」は、それでも、その中間をねらったが、成功するに到っていない。多分、未来の人類が上手に利用できるようになるまでは、ウランなどは取っておくべきであろうか。

 というわけで、安価な、家庭用ないし集団住宅用の非結像集光太陽エネルギー装置を、町工場規模で製作し、自然のままの太陽エネルギーよりも格段に効率を上げた太陽エネルギー利用を全世界に普及することが要望される。火力発電より格段に安く電力を得ることが必要条件である。そのように、太陽エネルギーの全人類的有効利用を推進することが、「適者生存」と違った意味で、人類進化とみるならば、これが、「21世紀人類の進化」と言っても良いのではなかろうか。 今回の原発災害は、そのための天の与えた試練と考えられる。

 

 

江戸期大坂の学問所と町人塾

  自由の気風が独自性と広い視野を育てた

                     菅野礼司

 緒方洪庵の開いた大阪の「適塾」(適々斎塾)は有名だから誰でも知っている。江戸の後期には、それ以外にも町人が創設した学問所・塾が多くあり、それぞれ特色のある学風のもとで独創的な業績を残した。中でも懐徳堂は有名で、『夢の代』を著した山片蟠桃を生んだ。彼は商家の番頭でありながら懐徳堂と先事館に学び、学者としての才能を発揮した。その思想は先進的で、特に、天文学・自然科学の分野は時代をリードするものであった。山片蟠桃には以前から関心があったので、彼のことを少し調べてみた。ついでに、蟠桃の前後の時代における大坂の学問所・私塾について、私に興味のあるところを検索してみた。

 

 大坂(大阪)は江戸時代に、陸路と海路を通して大経済都市に成長し、天下の台所と呼ばれた。 工業技術の面では銅の精錬、菜種油や綿実油の製造、綿と木綿の生産、酒造業、薬種、造船など先進的なものが発達し、堂島米市場や両替商に代表される商業、金融の一大中心地でもあった。

 領主を持たない大坂では、武士階級は大坂城や東西奉行所、諸藩の蔵屋敷勤務の武士のみであった。当時の大坂人口40万余のうち、98パーセントが町人というまさに商人の町であった。米や国産物を販売する町人の蔵元や両替商(当時の金融機)は徐々に力をつけて、天王寺屋や鴻池、住友などの豪商は巨万の富を築いた。

 しかし、商人は士農工商という封建的身分制度の下位に置かれ、幕府からいろいろな名目で上納金を取られていた。 大坂商人も、経済活動により蓄積した財を武士階級に吸い上げられていた。

 だが、閉鎖的な封建制度のもとで、もっとも開かれた地域は商業都市であった。交易は商品の物流ばかりでなく、人の交流によって外部から絶えず情報をもたらす。それゆえ、進取の気性も生まれた。

 大坂の商人達は、自らの存在価値を意識して商業活動の正当性を確立することを目指した。そのために、彼らは独自性のある優れた学問所・塾を自らの力で創り上げ、自分たちの学問を発展させた。そうして創建されたのが、徳堂(享保9年(1724,先事館(明和8(1771)心学明誠舎天明5年(1785))、次いで適塾(適々斎塾)((天保9年)1838)などである。

 

 石田梅岩が説いた石門心学が、18世紀末以降に大坂に普及した。彼の弟子達が心学明誠舎を創設し、大坂商人道の確立と商業経済の理論形成に大きな役割を果たした。なかでも石田は売利の正当化を説き、商人の利益は武士の世襲的な俸禄と同じだと言っている。  懐徳堂は当時の豪商達が創設し、やがて大坂の学問所の中心になった。多くの特色ある逸材を育てた。山片蟠桃はその第一人者である。

  先事館は麻田剛立が開いた天文学の優れた私塾。優れた観測機器を用いて天体観測を行い、麻田流暦学を遺した。蟠桃もここで学び強い影響を受けた。

 緒方洪庵が開設した適塾 大坂の洋学は幕末期に大きく進展したが、その核となったのは適塾である。医学と蘭学中心の塾であったが、西欧列強の進出に対応するために、広く西欧の文明・技術を吸収して日本の遅れを取り戻す人材の養成に力を注いだ。

 自由闊達な町人の創設したこれら有名な学問所や塾の特色は、狭い専門知識の教育に閉じこもることなく広い学問領域をカバーし、批判精神に満ちた独自の学説を唱えたところにある。その学風が塾生の視野を広くし、互いに切磋琢磨して逸材を輩出した理由と思われる。 それらが、経済活動や社会の発展のためばかりでなく、大坂町人の精神的な支えともなったであろう。

 教育の目的と評価は、制度によって上から押しつけることではなく、また目先の成果で評価するものではない。自由精神の学風のもとで、視野を広めて批判精神を育て、学ぶ者の個性を伸ばすことであると改めて感じた。

               (編集 菅野)