私達の教育改革通信
第 155号 2011/7
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先事館制作室:進士多佳子〒106−0032港区六本木7-3-8ヒルプラザ910
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編集:先事館吉祥寺、海野和三郎180-0003武蔵野市吉祥寺南4-15-12;
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緊急の太陽エネルギー工学
海野和三郎
東日本大震災は大東亜戦争以来の惨禍を日本にもたらした。死者行方不明者数の多さ、罹災された方々の被害への対処は最重要問題であるが、それと共に、今後の課題も大きく表面化してきた。生きる希望を失って自殺する人の数が増えているという。世論は、脱原発か否かで、二つに割れているように見える。天災か人災かといった議論、責任問題などの議論もあるが、ここで議論する問題ではない。原発復旧など、緊急のエネルギー問題もあるが、近い将来のエネルギー問題、それから先のエネルギー問題もこの機会に真剣に考えなくてはならない。間もなく石油ピークが来る。エネルギーの取り合いによる戦争が、50年も経たぬ内にやってくるであろう。いや、すでに、シリア、リビア、アルジェリアなど古代の中近東・アフリカの文明を誇った国国に火がついているのは、歴史は繰り返すというから悪い辻占である。人類の生存を懸けたエネルギー問題もこの大震災の非常事態を、むしろ、契機にして、根本的に建て直すべきである。エネルギー問題の具体案を欠いた脱原発論は、全く無責任である。
万年億年かけて地球が貯めた化石燃料を百年で蕩尽する20世紀文明を化石燃料なしで更に発展させるのが、21世紀人類の宿命だとすると、エネルギーは保存量であるから、代替エネルギーを何処からか持ってこなくてはならない。水力、風力、地熱、潮汐、太陽光発電、等等、再生可能エネルギー、所謂自然エネルギーは、大いに利用すべきであるが、適地以外では、原発に代わるだけの需要を満たすには不十分であろう。補助金を付け、あるいは電力会社に高く電力を買い取らせて、太陽光発電を奨励するのは、太陽電池パネル
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紫陽花(花と話す)水木鈴子 詩画集より 梅雨(つゆ)の晴れ間は束の間のよろこび すぐに雨に変るから 紫陽花もまたその時どきで 表情を変えていく 変らないのは母さんの心配ぐせですね! 幼稚園の時もそうでした 三十才になってもまだまだ ?十才になっても少しも変りません いつでも 母さんは母さんの心で包んでくれる その心・・ 母から娘へ |
の製造に使うエネルギーが補助金となったに過ぎないとすると、脱原発には寄与しても、より本質的なエネルギー問題への寄与とは言えない。火山島地下1000m
のマグマの高温と3℃の深海水との温度差を用いる地熱海洋発電は有望だが、開発に100年はかかるであろうし、原発より危険であろう。エネルギー源で危険でないものはあり得ないが、最も安全なのは太陽エネルギーで、有効温度5780Kの光球を発し、約500秒かけて地球に到達する。太陽半径は、光速で約2.32秒だから、太陽エネルギーは、(2.32/500)2倍に薄められて地球に到達する。それが所謂太陽定数1.37kW/m2である。地球大気による減光を考慮して、その7割、約1kW/m2で地表に到達する。これを黒体で吸収し再放射する温度は絶対温度で約365K、約90℃。太陽熱温水器の水温がそこまで上がらないのは、斜め入射の影響と保温が不完全のためである。この太陽エネルギーをもっと有効に利用するには、平面鏡を組み合わせた非結像集光が最も簡便である。レンズや凹面鏡による集光は装置が高価で、且つ、集光温度の評価が不確かなので実用には向かない。非結像集光鏡の一例を述べると、中央に正方形の平面鏡、その上下、左右に2枚づつ、同じ正方形平面鏡を配置、蝶番で連結、斜め角に4枚の三角形平面鏡を配置して連結、正面から来た太陽光のすべての鏡からの反射が、例えば6m先で、中央の鏡からの反射光と重なるように鏡同志を連結すれば(13面村岡鏡)、ほぼ16倍集光が6m先で実現する。中央の鏡を50cmx50cmとすると4kW弱の集光である。集光ポットの底に黒体板を置けば、365Kの2倍、730K〜450℃を得る。その熱で沸騰水を作り、蒸気タービンで発電すれば、発電効率25%として家庭用1kW発電が簡単な仕掛けで可能である。しかし、それには様々な注意が必要である。天候に対する配慮はあとで述べるが、第1に、上述の第1鏡と集光太陽ポットのほぼ中間に、第1鏡中央鏡の3倍以上の縦横サイズを持つ第2平面鏡を太陽高度と天頂との中間に設置し、第1鏡中央からの反射太陽光が第2鏡で反射して第2鏡の真下においたポット中央黒体板を垂直に照射する構造がよい。太陽鍋のように下から集光太陽光を当てると、大部分のエネルギーが反射と大気の流れで無駄になってしまう。ポットを第1鏡の(下)前に置くとして、第1鏡の南に固定するか、太陽と同じ方位に動かすかで、第1鏡を極軸の周りに1日半回転するシデロスタット駆動するか、1日1回転するシーロスタット駆動するかであるが、何れにしても、第2鏡はポットの真上で高度は太陽高度と天頂の中間に設置するのがよい。第1鏡とポットとのほぼ中央に置く第2鏡を第1鏡中央鏡の3倍以上にする理由は、設置の誤差をカバーする意味もあるが、薄雲に覆われた太陽周辺の雲からの太陽光をもポットに取り込むためでもある。また、ホーン状のフードをポットの上方に付けるのも曇り空への対策になるであろう。要は、太陽光を無駄にしないことである。その為に、海の知恵と森の知恵を借りて、ポットの保温を良くし、また、棄てるエネルギーを再利用して、エネルギー効率をできるだけ上げる工夫をする。それについては、以前書いたこともあり(海と森の太陽エネルギー工学)、長くなるのでここでは省略する。
太陽光を集光して使う理由は、太陽熱発電で考えた場合、高価な熱電素子の面積が集光に逆比例して小さくて済むし、蒸気発電タービンのような熱機関は環境温度からの温度上昇に比例して発電効率(同じエネルギーでの発電量)が上昇する。家庭規模または小集団住宅規模の場合、太陽熱発電の余熱を更に上部の沸騰水装置に取り込んでタービン発電し、更にその余熱水を暖房や家庭用温水装置として利用するとよい。
ドイツはアフリカの砂漠を利用して、大規模太陽熱発電を10年で立ち上げる計画であると聞くが、ドイツ式大規模計画は、集光システムが大がかりになり、その先見性は大いに評価されるが、原発に比べてもかなり高価な電力づくりとなると考えられる。その理由は、大規模発電には、太陽光の大規模集光を必要とするが、地球環境で、究極的に火力発電方式を取る限り、集光装置を簡潔で安価なものにする必要があるからである。石油、石炭の枯渇が激しく、高価になる30年後には有効に利用されるであろうが、それまでは、今の太陽光発電と同じく補助金をつけないと利用されないであろう。それが脱原発を掲げたドイツ理想主義の行き方であろう。いざとなれば、ドイツには、多量の良質の石炭の埋蔵があり、フランスからの原発電力供給もある。すぐには役に立たなくても、ドイツ式砂漠での大規模集光型太陽熱発電は評価できる。同様の大規模太陽光集光装置は三鷹光器がずっと以前からやっている。電力は経済で云えば、エネルギーの世界の共通通貨のようなものであるが貯蓄には向いていない。太陽エネルギーは、発電以外の用途も多い。
少し視野を拡げて考えると、情報革命と並行して、エネルギー革命が現在進行中であると言える。一国の経済にとってエネルギーは、人にとっての食べ物のようなものである。また、電力は文明社会にとって、共通の通貨の役目をしている。不自由しない時には忘れているが、戦中戦後の食料不足のときは必死になって食料を漁ったものである。ほぼ私と同世代の梅原猛氏の原発廃絶論を以前新聞で読んだが、原発に頼らず、エネルギー問題をどう解決するのか、具体案なしの議論は無意味である。むしろ、エネルギー問題を中心に、人類は新しい進化の時代に入ったと考えるべきであろう。10万年前、人類は、農耕(牧畜、水産)文明と言葉を発明し、社会生活をする現代人に進化した。21世紀に入り、情報革命とともに、エネルギー革命と精神文化革命が進行して、新しい人類に進化することが期待される。精神文化革命については、他の文系の方々の議論を待つことにして、ここではエネルギー革命について述べる。
万年億年かけて地球が溜めた化石燃料を100年で蕩尽したために、石油ピークが間もなくやってくるが、エネルギー不足による20年後の経済大恐慌、50年後のエネルギー取合の世界戦争が心配である。その間の代替エネルギーとしての原子力が、震災の影響で、10年は立ち遅れることになり、太陽熱発電の普及をここ数年の間に実現する必要に迫られている。
エネルギー不足が顕になると経済大恐慌が起こりかねない。当分の間は原子力がエネルギー需要を満たす予想であったが、天の与えた警告、東日本大震災によって、人類のエネルギー問題は新しい進化の時代に入ったと見るべきである。以前、10年100年掛かった情報伝達が、1秒に縮まった21世紀のエネルギー戦略は、誰にでも理解できる単純且つ有効なものでなければならない。非結像集光を中心とした太陽エネルギーの、自然界以上の効率の良い使い方の開発が、以前農耕文明を発明した現代人への進化に対応する、新人類進化となることが予想される。50年後のエネルギー取り合いによる世界戦争をそれで予防することを目標に、全人類がタータガタ:如来蔵(宇宙自然に対する畏敬と未来の命を守る決意)で頑張りたい。脱原発の運動が今世界的に広まっているが、注意したいことは、エネルギー不滅の法則があり、他のものと違い、代替エネルギーを定量的に充分に用意することが不可欠なことである。特に、電力は経済に於ける流通貨幣のようなもので、文明社会に一刻も欠かすことはできない。脱原発を言うには、その前に、定量的に充分なエネルギー供給の道を用意しなければならない。それに答えるエネルギー源としては、化石燃料の枯渇が20年後に迫っている現在、太陽エネルギーを非結像集光で直接有効利用する方法が、最も、簡便かつ本質的である。
何度も同じことを言うが、黒体輻射温度の4乗が輻射強度に比例する(ステファンの法則)から、太陽光を地上でまともに受けた黒体温度は絶対温度365K、集光すると集光度の4乗根に比例して受光黒体の温度が上昇する。平面鏡を張り合わせた簡単な非結像受光装置で、例えば16倍集光すれば、絶対温度365Kが730K、地上平均温度を300Kとすると、400°程度の温度差となる。一般に、熱機関の仕事の効率は温度上昇に比例するから、沸騰水を数分で作り、蒸気タービンで発電しても良し、太陽熱発電パネルを併用してもよし、1kW発電が家庭規模で2m・2mの集光鏡をシデロスタット式に第1鏡を極軸の周りに1日半回転させるだけで可能となる。
この方式は、石油火力発電より格段に安い電力を、使う場所で作る利点があり、天候に左右される欠点も対流を阻止して数日保温をする機能を受光するソーラーポットに持たせることにより、かなりの程度緩和されるであろう。しかも、この仕事は、大企業よりむしろ町工場的であるから、不景気になりそうな日本の生産業への梃入れと、世界戦争予防の役に立てば、一石二鳥であろう。新人類への進化の糸口になれば、一石三鳥である。何よりも、将来に希望が持ちにくい世相をタータガタ(如来蔵)で一気に払拭したいものである。
福島原発事故の「想定外」について
菅野礼司
福島第一原発の事故について、東京電力も、政府、原子力安全委員会などみな、今度の事故を「想定外」といって、弁解し逃げている。マスコミもこの「想定外」の言い訳につられて、現代科学でも予想できなかったものがある、と言っている。この「想定外」には二つの落とし穴があり、それを認めることは次の過ちに繋がるであろう。
第一の落とし穴
福島第一原発に限らず、地震国日本における原発の安全性は不十分であることは、良識ある専門家からしばしば指摘されてきた。しかし、自民党政権時代から政府の原子力推進政策に乗って、前通産省・前科学技術庁(現経産省・文部科学省)を中心にして原子力産業は強引に進められてきた。その方針に対して批判的意見を述べる者はすべて退けられ、日陰に追いやられた。あるいは、陰に陽に圧力をかけられて、生き伸びるために方針を転換せざるをえなかった組織や会社も多々あった。このような状態を背景に、政・官・財のつくる原子力村は「安全神話」を築き、その上に胡座をかいていた。原子力村の馴れ合い体制に浸かって、原子力産業の甘えの体質ができた。それゆえ、本来公表されるべき情報はおろか、事故情報の隠蔽も大目に見逃されてきた。こうして、「安全神話」にひたって大災害に対する安全対策を怠ってきたために、いざ大事故というときに応急対応ができなかった。事故を過小評価して、対応が後手後手と遅れたために、次々に予想以上の悪い事態を招いた。まさに人災である。
福島原発については、大地震に次ぐ大津波の対策が不十分であること、そして地震・津波により引き起こされる事故の危険性は指摘されたが、「そのような事故は絶対に起こらない」といって東電も原子力安全保安院、安全委員会も耳を貸さなかった。ところが、その指摘通り、津波による電源破壊、冷却装置の停止、炉心溶融、水素爆発、圧力容器の破壊などの事故が連鎖的に続いて起こった。事故後彼らは予測が甘かったことを認めざるをえなかった。
地震強度と津波の高さも、それによる原発事故も、すべて科学・技術的に予測され指摘されたことであり、「想定外」ではなかった。「想定外」であったのは、「安全神話」をつくって油断していた東電を初め、原子力村の人たちである。本当にそう思っていたのなら、「想定外」という言い訳は、彼らの想像力と判断力がいかに貧弱であったかを示すものであり、科学・技術に対する誤解である(この「通信153号」「科学・技術に対する過信と軽視は危険」を参照されたい)。これで日本の技術に対する信頼は低下した。
第二次の落とし穴
現代科学・技術についての評価を誤らせることである。今度の原発事故の可能性は、科学的に予測できた。これまでの原発の安全性基準は甘いことを指摘し、この事故も想定できたのは科学・技術によってなされたものである。現在の科学・技術力を持ってすれば、原発は格段に安全なものになりうる。そのことを知ってか知らずか、原発は科学によっても予測できないとか、コントロールできないほど危険なものであるかのようなマスコミ報道をみた。このような判断には首をかしげたくなる。もちろん、絶対安全な技術は存在しないし、本当に想定外のこともありうるから、科学・技術の過信は危険である。人力は自然の力を超えることはできないし、まして自然支配など不可能である。しかし、上記のように、現代科学の予測能力を疑ったり、実状以上の不信を抱くことは、逆の行き過ぎを感ずる。科学・技術に対する正しい認識と評価がないと、「想定外」という言い訳を許すことになるし、また要らぬ風評や心配を煽ることにもなる。科学・技術の軽視もまた危険である。
原発は、一旦事故が起こった場合に、他の事故とは異質の大きな危険性がある。それゆえ、自然エネルギーで賄えるなら、原発はない方がよい。だが、現代の科学・技術力で、原発は本当にコントロールできないものかどうか、科学的検討を真剣にし直す必要があるように思う。
原発に限らず、真面目な科学・技術者の意見を無視してきたこれまでの日本の行政の体質が問題である。自民党および公明党も混用な原子力政策と原子力村の体質を見逃してきた(馴れ合ってきた)責任を強く感じて、原発事故の救済に献身的に立ち向かうべきである。そして、原子力政策に関して、根本的な体制・組織と体質の改変に協力すべきである。それができないなら、せめて根本的体質改変を妨害しないようにして貰いたい。
菅首相の政治能力について評価は低いが、少なくとも原発とエネルギー政策に関する既存の組織に対する強い不信と、それを根本的に改変しなければ成らないといって、奮闘している菅首相の姿勢を応援したい。この改革では、政・官・財の癒着体質を崩すこと、制度・組織の根本的改組(新たに作り直す方がよい)と同時に、各種委員会の人選法を改めねばならない。そして真っ当な専門家の意見が反映できるようにすべきである。制度・組織の運営はすべてそれに携わる人により決まる。
また、現場での判断でも専門家よりも素人の上役が決める体質は困ったものである。この際、このような組織、機構の運営も根本的に改革すべきである。
放射線汚染土壌が問題になっていますが、この際微生物的環境技術を用いて、放射線汚染の浄化のみならず、もっと本質的に肥沃でかつ化学性物質の少ない良質の土壌に改良すべきでしょう。
以下に、簡単に土壌改良に必要な資材と工程をご案内いたします。
@
微生物、A家畜糞尿、Bミネラル(花崗岩の粉末)を用い、後述のように完熟させ、
(A)発酵フミン化堆肥を製造します。堆肥の完熟には8ヶ月ほどかかります。同時に、(B)活性炭の粉末(炭の構造中に無尽蔵に残留する多元素微量ミネラル群によるキレート作用により放射能を取り込みます)を製造致します。両者が準備でき次第(A)と(B)を混ぜたものを土壌にふり、すき込みます。年に2回(できれば3回)、3〜4年間続けて頂くことで、放射能汚染はゼロとは言えませんが、かなり解消されると考えられます。また、完熟堆肥にミネラルを加えておくことで、微生物とミネラル豊富な、農耕に極めて適性の高い土壌に改良されていくと期待されます。
なお、汚染地域を浄化するためには相当量の材料が必要になります。そのため、長期熟成堆肥プラントは、将来、家畜の生産地ごとの規模で設定する必要がありますが、糞尿の堆肥化を全国規模で進めることにより、現在至る所で問題となっている糞尿処理悪臭問題の解決にもつながります。
この計画では、プラント建設、資材の調達には2,3年必要です。しかし、今回の事故に於いて現状を打開できる方策がすぐに見つかるでしょうか?現状を拝見します限り、処理方法の決定から実行に至るまで、数年かかる見通しと伝えられています。そのため、土地改良を目的とした資材の調達には充分な時間があると考えます。また、活性炭の製造には災害で発生した廃材を利用してはどうでしょうか活性炭製造を被災地で行うことは雇用にも繋がります。何より被災者自身のお手をお借りすることは、被災された方の故郷を復興するという気持ちを強くしますし、自分達で人の住める、農耕も可能な土地に改良したという誇り高い自信こそが、その後の地域発展にもつながるのではないかと思います。是非とも復興途中にあっても未来の見える、心の明るくなるような施策のために、この提言を役立てて下さい。お願いします。
【発酵フミン化堆肥の製造手順】
@津波によっての破壊物の残骸debris)のうち、木材と呼んでよい物を拾い上げて積む。(小さい山にして、すぐ崩しつつ取り出して炭焼き窯に放り込めるように)
A
適当な距離・間隔を置いて炭焼きの簡易窯を
(ドラム缶か、トタンか、を利用しながら)、土泥、山砂などで造る。(東北は山林の豊かなところで、炭焼きの技法を指導してくれる人たちは山ほど居られる。その人たちを核に自分達の仲間で共同作業する。)200メートルおきに1基くらい密に炭焼きの簡易釜をつくる。連続して炭を焼く。出来上がったものを微粉末にする。手作業でも、簡単なハンマーミルでも可。炭を粉にする。この作業に、1窯あたり数人が共同し、日当7,000円〜8,000円を得る。
[炭素化合物である木質部は炭として焼けてしまうが、その中に鉱物質である微量ミネラルは炭の中に残る。而も有機炭化物とミネラル群は共に、遠赤外線を放射して地温の保全に貢献することが昔から分っている]
B
a.長期熟成堆肥(私達の場合、200日以上の多段的発酵工程を経由、1g当り2〜3億の微生物が堆肥中に存在するようになる
b.珪藻土(昔、七輪、カンテキを作っていた材料
多孔質!!)多孔質で、中生代の原生動物に由来する。軽量である。ただ、ゼオライトより花崗岩の方が多分(粉砕して0.2mm以下)より多元素共存で結晶も多様で、後々の稲作に何十年も貢献する。
c.炭の粉 これら(a,b.c)を適当割合に混合(人力でOK)。簡単な攪拌機で焦らず、従事した地元の人々に、とりあえずの日当を十分、十二分に支払う。(雇用の急促進!!)
C
10a(1反)の田、畑に10トン(または8トン)の割合で散布、よく土壌と混ぜる。耕耘機で10日に一度ぐらい、3〜4回満遍なく混ぜる。
D
頻繁に目標(作業)田畑での放射線量を量る。少なくとも10日(理想的には1週間)に1度。線量が多いところにはBの混合土砂を少し多めに入れる。(満遍なく撒く必要は2回目からはない?)
E
その後、ナタネを(春)撒く、油を搾取する。これで農機は動く。ナタネを見渡す限り、原発の付近でも土づくりをしたのち、種を撒いておく。線量が減る上に油が採れる。ロシアでテスト済み!
花岡永子:カントが到達した『美の形』を読む
真善美同一論 海野和三郎
花岡永子さんの哲学論文(形の文化研究vol.6,15,2011)を紹介するのは私の手に余る。カントは、晩年認知症で、30年間も援助してくれていた男性の秘書に、毎朝、「あなたはどなたでしたかね」と尋ねて礼儀正しく挨拶をしていた、とまえがきにある。私も認知症が日増しにひどくなり、どうなることか心配であるが、カントにあやかって泰然と思索生活を送ってみたいものである。欠点は長所というが、認知症のいいところは、日常的な出来事はすぐに忘れてしまい、物事の本質的な事柄は飽きないでいくらでも考え続けられることである。カントも多分それを利用したに違いない。(閑話休題)
“カントでは理性(=広義の理性)は理論理性(=悟性)と実践理性(=狭義の理性)とに分離されてその働きが考察された。その後で、理論理性と実践理性の両者は判断力によって総合的に理解されようとした。”“これら両者のいわば相反する二つの理性の働きが目的論的に総合的に働く判断力(Urteilskraft)によって総合されようと試みられている。”“規定的判断力はは「構成的原理」として働き、反省的判断力は統制的原理として働くが、自然の形式的目的性を快・不快の感情という「趣味的な感情」によって美学的に判断する「美学的判断力」の対象がカントにおける一方での自然や芸術における「美の形」である。”“しかし、他方、「美学的判断力」も「目的論的判断力」も本来的な人間のあり方も真の人格として、漸近的に近づくことを可能にする力であると考える。”俗に言えば、『真・善・美』は、同根であり、それを判断する力が人間には備わっている、という事を精密に論理的に分析してくれているようである。
最近、友人の大森操君が“読め”といって送ってくれた本の一つ『藤原正彦;日本人の誇り』(文春新書2011/05/05)に、カントと同じようなことを言った数学者の話が出ている。『“20世紀の巨星と言ってよい数学者ヘルマン・ワイル博士は、数学、物理に大きな足跡を残しただけでなく哲学者ハイデガーと何度も議論するなど哲学の専門家でもあり、又文学にも造詣の深い人でした。彼の次男マイケル・ワイル氏に二十年ほど前、ワシントンにある彼の自宅で会ったことがあります。マイケル・ワイル氏を紹介してくれたのは、友人の美人バイオリニスト、マユミ・ザイラーさんです。彼女が拙宅に泊りに来た時、こう言ったのです。「そう言えば私の友達のマイケル・ワイルという元外交官は、お父さんが数学者とか言ってたわ。知って?何とかワイルという数学者」「まさかヘルマン・ワイルじゃないだろうね」「そうそう、ヘルマンとかいってたわ」「何!それはもの凄く偉い学者だよ」私は仰天しながら言いました。「そんなこと言ったってどのくらい偉いか分らないわよ」「音楽で言ったらバルトークかマーラーといった所だ」「何!そんなに偉いの」今度は彼女が仰天したのです。このマイケル・ワイル氏が私にこう語りました。「父は常々、真、善、美は同じ一つのものの三つの側面にすぎない、と強調していました」
ヘルマン・ワイルは、私達夫婦の媒酌をして下さったフィールズ賞受賞者小平邦彦教授の学問上の師でもあります。ワイルの言葉をその息子の口から聞いた時。「真、善、美の三つが大切だとはよく云われることだが、それが同一とはまた大胆な主張だなあ」と思っただけで大した関心を払いませんでした。真イコール美については数学者の端くれとして直ちにピンときたのですが「善」というのが当時の私には理解不能だったのです。とは言え、巨星の言葉として、以来、この哲学的な言葉は大きな謎のように私の脳裏にひっかかっていました。かなり時がたってから、日本人が道徳上の善悪を宗教や論理ではなく、「汚いことはするな」などといった美醜によって判断してきたことに気付いた時、ヘルマン・ワイルの言ったことが単なる哲学的独り言ではないと納得したのでした。「真、善、美」は同じ一つのもの」というのは万物の本質を突いた恐るべき指摘なのです。美しいものを目指すことが万事において、真へ達する道であり善に到達する道なのです。”』
カントは、(ゲーデルの不完全性定理からみても)不完全な論理構造であるヘーゲルの弁証法すらない時代に、認知症を利用して、三つの「批判」を通して真善美の統一を果たした。藤原正彦さんによれば、日本人は昔から真善美はおなじものと思っていたらしい。「善の研究」にみられるように、西田哲学はそれを利用して、論理的に発展させて「絶対矛盾的自己同一」の“開け”としたらしい。それについては、故玉城康四郎先生とピラミッド(無限回)四つ切りモデルで、体積ゼロ表面積(情報量)無限大の「絶対矛盾的自己同一」の幾何学モデルをつくり、論争した思い出もあるが、長くなるのでこの辺で終わることとしたい。
明日を担う経営者・テクノロジストのための
「実務者から見たドラッカー」
(東京自由大学:人類知の遺産ゼミ) 海野光三郎
1.
自らの成長も自らの責任である。
自らに問いかける意味
人は責任を負うことで存在が明確になり、一周りも二周りも大きくなることができる。責任を負うことはある意味自由であるとも言える。「仕事に飽きないように予防策を講ずるのも、仕事自体を心躍るようにすることも自分自身の行動次第だからである」ドラッカーは「能力がなくては優れた仕事はあり得ず、人として成長もあり得ない。能力は仕事の質を変えるだけででなく、人間そのものを変える」という。そして「自らの成長につながる最も効果的な方法は、予期せぬ成功を見つけ、追求することである」と語る。自分に問い続けることで事故刷新を繰り返し、新しい自分に出会わなければならない。成長とは予め計算して手に入れられるものではなく、自らを知り、機会を掴む準備をしてきたものだけが手に入れられるからである。そしてそれは自らの責任を全うせずにはあり得ない。
2.
時代は組織社会であり、知識社会である。
3.さらに情報社会である。
現実を動かす基盤となるもの
「組織は常にそれ自体が専門化した存在である。すべての組織が目的によって規定される。いまやあらゆる先進社会が知識社会となった。」知識を扱うには責任が伴う。知識こそ世の中を変える行動の基盤であるとするドラッカーの知識社会を現在われわれがどれほど実現できているだろうか。そして知識が情報という言葉に置き換えられつつある現在の状況についても「データは情報の原石にすぎない。原石に過ぎないがデータが情報となるには目的のために体系化され仕事に向けられ、良し決定に使われ無ければならない」、「情報力とは情報を入手する力ではなく、情報を解釈して利用する力を意味することになった」と、専門家と呼ばれる人々に対して警鐘を鳴らし続けている。
4.企業という組織を考える
5.マーケッテイングを組織の中核にせよ。
利益は企業存続の条件
今や社会的な課題の殆どが組織によって達成されている。つまり組織の定義とは「共通の目的のために働く専門家からなる人間集団であるといえる」が、企業についてはどうだろうか。「企業をはじめとするあらゆる組織が社会の機関である。組織が存在するのは組織自身のためではない。社会、「コミュニティ、個人のニーズを満たすためである。」「組織は目的ではなく、手段である。」とドラッカーは言う。そして、「利益とは企業存続の条件である。利益とは未来の費用、事業を存続させるための費用である。諸所の目標を実現させる上で利益に欠ける企業は、限界的な危うい企業である」利益を上げているほど良い会社と言われていた時代に、「利益とは企業存続の条件に過ぎない」というこの言葉に私たちは強い衝撃を受ける。求めるべきは利益ではなく、顧客である。組織としての企業の目的は顧客の創造にある。「顧客は誰か、顧客はどこにいるか、顧客はいかに買うか、顧客にいかに到達するか」を考えることが事業を発展させる第一歩なのである。
6.成果を上げるには人の強みを引き出す。
7.知識が行動の基盤である。
8.知識労働の生産性を向上させる。
知識で現実を動かす
ドラッカーは、「知識とは行動の基盤となるべきもの」で、それは人や組織にたいして、何らかの成果をもたらす行動を可能にするものであり、なにかを、あるいはだれかをかえるものであると語る。「知識労働の生産性の向上を図る上で問うべきは、何が目的か、何を実現しようとしているか、何故行うか」であり、知識労働に従事する者は組織に貢献して初めて成果をあげることができる。「企業は個人の貢献の力を引き出すものであり、自己啓発を動機づけるものが文化である」そうして初めて企業が文化足り得るのだ。ドラッカーは知識労働の生産性を向上させるための条件として「仕事の目的を考える。働く者自身が生産性に責任を負う。継続してイノベーションを行う。継続して学び、人に教える。知識労働は量より質の問題であることを認識する。知識労働者は組織にとってコストでなく資本であることを理解する」の6つを挙げている。
9.ミッション(使命感)で組織を動かす。
10.マネージメントで組織をうごかす。
11.イノベーションで組織を動かす。
組織は目的ではなく手段
マネージメントとは変化する世の中にあって、大勢の人間が共通のミッションの下に成果をあげるための方法である。そして、ミッションの価値は正しい行動をもたらすことにあり、そうでなければ、単なる意図になってしまう。「ミッションとは、組織に働くもの全員が自らの貢献を知りうるようにするものでなければならない」「マネージメントに出来なければならないことは、学ぶことができる。しかし学ぶことの出来ない資質、後天的に獲得できない資質、はじめから身に付けていなければならない資質が一つある。それは才能ではない。真摯さである。イノベーションとは製品利便性、欲求の創造である。或いは用途の開発である」そして、次のような言葉残している。「製品とはサービス、プロセスとチャネル、制度と政策のすべてが、できあがった瞬間に陳腐化を始める」ドラッカーは既存のものはすべて市場において陳腐化することを前提としている。即ち、イノベーションの発展はいかに陳腐化したものを計画的かつ体系的に捨て去るかに掛かっている。
12.そして人を動かす。
13.そのうえで変化を捉える。
自ら変化を作り出す
チェンジエージェント(改革推進者)となるためには組織全体の行動様式を変えることである。全員が、変化を脅威ではなくチャンスとして捉えられるようになることである」人はあくまで資本であってコストではない。そこを取り違うと組織として致命的なミスを犯すことになると警告する。「重要なことは、人材の質を維持し、向上させ続けることである。有能な人材をひきつけられなければ、立ち腐れガ始まる。その結果生じる衰退を逆転させることは出来ない。不況期においてさえ、有能な人材は、挑戦や機会がなく、何かを達成したり成果を挙げたりすることの出来ないところには止まったりはしない」「人材の育成こそ最も重要な課題である。雇用と人事を手放すことによって人を育てる能力を失うならば、勝利に目がくらんだとしか言いようがない」そして、個々の資質や能力、これからの知識社会のあるべき姿について、次のように考察する。「徹底して検討すべきことは、自らの強みは何か、その強みはどこに適用すべきかなのだ」「自らの強みを知り、その強みに集中することによってのみ、不況期にあって、一足先に飛び立つことが可能となる」「極めて多くの知識労働者が知識労働と肉体労働の両方を行う。そのような人たちをテクノロジストと呼ぶ。テクノロジストこそ先進国にとって唯一の競争力要因である。」
14. 最後に社会(政治)を考える。
マネージメントを生きる
「歴史をつくるのは、政治家、軍人、哲学者ではない。一人ひとりの働く人間である。未来において何かを起こすということは、新しい事業を作り出すということである。」かつて、19世紀に勿論、1929年の世界恐慌にいたってさえ、政府による経済運営を可能と見るものはいなかった」。さらに景気変動はその要因が世界市場の出来事でもあるという理由から、「政府による契機のコントロールを可能と論ずるものはいなかった」。しかし、ドラッカーは明解であった。「公的機関も企業と同じように効率的にマネージメントすれば成果を上げられると、くどいほど言われてきたが、それは間違いである。公的機関に欠けているものは、成果であって効率ではないからだ」 混沌とした時代にあってもいつまでも色褪せることのない言葉がここにある。
(編集 海野)