私達の教育改革通信

   137  2010/1

 

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花        

               水木鈴子

花は多弁にして静寂です

花の香りはそっとあなたの涙をぬぐいます

花の余韻はあなたを「独りぼっち」にさせません

花は全ての人を「良い人間」と信じる光を持って

います

未来に希望を結んであなたさまのご多幸を

心よりお祈り申し上げます。     一如

 

 

動き出した歴史の歯車を、もう一押ししよう

    菅野礼司

 21世紀になったら心機一転して、平和で住み良い世界を築こうと、皆が念願したはずですが、望み通りにはいかないですね。

 新世紀に入りもうすでに10年を過ぎるのに、世の中はなかなかよい方に進みません。むしろ地球環境の悪化、世界的経済恐慌、テロなど悪いことが起こりました。でも、悪いことばかりではなく、昨年はアメリカと日本で長年の閉塞感を破る「変化」の兆しが見えて、少しは先が開けたかと思いました。近年は人間の愚かさが目立つことが多く起こりましたが、これからは人類の賢さが発揮される時代にしたいものです。

 日本でも政権交代が起こり、歴史の歯車を自分の手で動かすことが出来ることを、日本人は実感したと思います。この半年で、不十分ながらもずいぶん新たな転換が

 

ありました。長く続いた自民党(と公明党)政権の悪弊

がかなり明るみに出ました。そして、情報公開が進み政治が大部身近になりました。そのことから私たちは多くのことを学びました。これは素晴らしいことだと思います。

 でも、その世界的「変化」の明るい兆しはそう簡単には拡がりそうにありません。オバマ大統領の「核のない世界宣言」の輝きもアフガン派兵増強で曇り、「COP15」の行き詰まりなど残念なことがありました。

 鳩山政権も厄介な問題を内に抱え、政策の面でも期待

はずれのところもありますが、とにかくこれまでの悪い政治姿勢を変えるよう後押しをしたいものです。菅財務新大臣は予算の執行法も公開するといっています。この姿勢を是非貫いて欲しいと思います。
 しかし、国民が監視を怠ると、民主党も昔の自民党のように逆戻りしかねません。建設的な批判を続けることが必要です。
 でも諦めずに運動を続ければ、環境問題、核兵器廃絶など少しづつ前進すると思っています。また、金融政策についても、世界各国が協力して投資家の無茶な投機を制限して経済的混乱を回避する金融制度もできそうです。

 私たちはせっかく動かしかけた歴史の歯車を、さらにもう半回転続けて廻すよう頑張るべきです。その峠を越えればかなり展望が開けてくるように思えます。
 そうすれば今年は景気も改善されて、良い年になるように思います。

 

「ことば」の不完全性と「複雑系」   

海野和三郎

最近、村上和雄さんの「ヒトの進化と心」(産経『正論』)に触発されて、「ことば」や「時間」の持つ意味が情報の発達と共に「こころ」に与える影響が必ずしも同じでなく、21世紀の混沌の時代に要求される「ヒトの進化」に問題を生じていることを述べた。しかし、新聞の論説などをみると、「ことば」の不完全性が理解されておらず、特に政治・経済・文化といった「複雑系」に対して1次元、良くて2次元的な我田引水の議論が多く、これが日本の未来を危うくしていることが危惧されてならない。

昔、旧制中学に軍事教練があり、そこで教えられた斥候の心得として「何時、何処で、誰が、何を、どうしていたか」というのがあった。敵軍という複雑系を記述する項目である。

英語で云えば、「when,where,who,what,how」である。 

最近、旧制高校時代の友人の医師から「何故、why」も大事だと指摘され、だてに長年医者をしていない、と感心した。英語で字数の少ない「who,how,why」がヒトが生きる上により本質的であると感ずるが、偶然だろうか。ともあれ、21世紀、危機的状況にある人類の政治、経済、文化を論ずるには最低3次元、誤解を防ぐには最低上記の6次元の記述が必要である。更には、宇宙性、霊性といった超越次元、或いは、理性・感性・精神性次元が必要であるが、ここでは、現実的複雑系の「モノ・コト」次元を対象とする。「モノ・コト」次元以外の次元にも関係する芸術や教育、宗教的行事などについては、例として考えることはあっても、直接議論の対象とはしない。

述語論理の不完全性については、「私はウソつきです」という記述が正しいとしても誤りとしても矛盾に陥るのと同様な否定形のパラドックスで、ゲーデルが証明した。このように、否定形の証明は1例でよいが、肯定形では、超多次元の複雑系を少次元の論理で記述する場合に不完全性が現れる。従って、政治・経済・文化・教育といった複雑系の「ことば」での表現には、多く、否定形が用いられるが、その場合、警告の表現は出来るが、建設的な意見は出来ない。それを建設的にする方法の一つにパラドックス表現がある。「自分以外の神を信ずるな」と“モーゼの十戒”の神が言うのは、「自分を信じろという」だけでなく「自分以外の神を信ずるものには手を出すな」ということのパラドックス表現で、“万能”の神はそうしたければ人間をその様に作ればよいだけのことである。恵子が「魚でない君に魚の楽しみは分からない」と荘子に断言したのに対して、「君は私でないのに、私が魚の楽しみが分からないと断言できるほど私の事が分かるらしい。それと同じ理由で私には鯉の楽しさが分かるのだ。」と荘子は言った。論理派の恵子は、自己の論理の適用範囲を超えた次元にいる荘子に自己の論理を適用して失敗した、とも解釈される。論理は、適用すべき対象の次元とその拡がりの限界を定めるか、若しくは、共通の了解の範囲に話を限らないと正否の黒白は着けられない。このことが、ゲーデルの不完全性定理の意味であると考える。

複雑系に対して、論理の適用限界を指定するには、「who,how,why」のように最低3つの次元が必要である。東洋ではそのことが早くから意識され、老子は「道一を生じ、・・、3から万物・・」と言い、易では「陰陽」2気の卦を3回行って八卦で占うのを基本とした。西洋では、神またはプロチノスの「一者」のように「1」への志向が優先し、「善悪」「天使と悪魔」の2項対立の「Yes,No」論理が主流となった。明確さと積極性にすぐれるが、「天地人」「真善美」といった調和が前面に出ないうらみがある。複雑系は「3」から始まることが明らかとなり、何故それが3からなのか、その機構が明確になってきたのは「フェルマーの最終定理」とその証明、及び、2008年度ノーベル物理学賞:南部・小林・益川の「3世代6個のコークによる対称性の自発的破れ」による宇宙開闢論ではないないだろうか。天体力学の2体問題が定常解であるのに対して、3体の一般の場合はカオス解であることからも、3が複雑系の入り口であることは明らかである。従って、政治家や評論家などが、1次元か2次元の否定論で政策の可否を論ずるのは無意味である。

余談になるが、今日(12/17)の産経志塾に人類学者長谷川真理子氏:「ダーウィンと進化」生物史理解し世界を見よ;防衛大校長五百旗頭真氏:東アジア・太平洋を生きる日本」人材活用で立派な国を;中国問題評論家石平氏:「建国60周年の中国と日中関係」戦略を持って向き合え;日本将棋連盟会長米永邦雄氏:温かい心や義の精神を;が載っていた。いずれも傾聴すべき立派な議論であるが、ここでは、長谷川氏の「進化には2つのプロセスがあり、1つはダーウィンのいう自然淘汰で、もう一つは遺伝子的浮動という遺伝子レベルの偶然に支配された中立進化。自然選択と中立進化が組合わさった好例が南極海に住む血液中に不凍物質を持つ魚。進化にベストということはなく全て状況次第。だからこそ数百万の種があり、同じ数だけの生き方がある。」を考える。この点を、前記の村上和雄氏の「ヒトの心と進化」との関係でいうと、長谷川氏の所論が数億年の生物進化の歴史を「生物史」として外観的客観的に理解したのに対し、村上氏の所論は生物進化の発生機に於ける生物の外的条件に対する対応を主に問題とした点にある。つまり、村上氏の挙げた進化の3つの要因:1.気候変動などの物理的要因2.食物・環境ホルモンなどの化学的要因3.精神的要因について、1.2.とは当然として、3.については、長谷川氏は偶然性若しくは生物の多様性で対応してことさらに精神性を強調しないが、村上氏はサムシング・グレートの存在を頭に置いて精神的要因を強調する。私見では、生物を生み出した地球環境に奇跡(サムシング・グレート)乃至は高度の偶然を感ずるが、その後は、生物・地球環境の無限次元に近い複雑系に於ける混沌にひそむ創造性として進化を考えている。その中でも、21世紀人類生存の危機における進化は、新しい手段として、「ことば」(知性・情報)が主であるが、恐らく「ことばの不完全性」のマイナスをもプラスに転ずる精神性も重要であると思われる。ヒトという複雑系の進化には、「ことば」の不完全の中にも創造性を見出す必要がある。サムシング・グレート(如来)がそれを助けてくれるであろう。

エネルギー・地球環境・食料の3問題を抱えた21世紀「ヒトの進化」には、「25%CO削減」「核兵器保有削減」だけでは、殆ど無意味で、世界的合意は必要であるが、何よりも3元論的な具体策が必要である。森や海が地球を護っている叡智に加えて、ヒトの英知を加えた21世紀の農学・工学の開発を急がねばならない。

 

 

宗教における「真の自己」とは何か

    花岡永子

 人間の各人における「宗教的悪」とは、人間の各人の個は、ただ自らに与えられているだけではなく、真の自己になるべき課題を担ったもとして存していることが自覚されていないことと理解され得ます。つまり、宗教における悪とは、自己が一生涯かかって真の自己になるべき課題的存在であることが自覚されていないことと言えます。このような悪の考え方は、キエルケゴール(1813-1855)に源を発していると言えます。キェルケゴールでの人間の実存は、各々の実存が自らの実存に関係する自らの実存の自己関係と、実存の各自を措定している人格的な神との各人の自らの実存の神関係という二重の関係性を透明に保つ課題性を担っています。「自己が自己において自己を見る」という「自己の自覚」と各人の各自己において「世界が世界において世界を自覚する」いう「世界の自覚」との両面を包摂する「自覚」の視点から考察すると、自己の課題性は、「自己の自覚」と「世界の自覚」の両側面から各人に明らかになってきます。

  しかし、今回は、自己の自覚の方向から真の自覚とは何かを考えてみたいと思います。というのも、本来は自己と世界の両者の自覚は「一」に成り立っているけれども、真の自己から出発して考える時には事柄としては、当然の事ながら、自己の自覚が基本となるからであります。発生論的には世界が土台となって、その上に「自己の自覚」が成り立つ訳ですが、自らにおける事柄においては、どうしても自己の自覚が先ず重要となります。というのも、「自己の自覚」が正されて、初めて自己の自覚が世界の自覚によって成り立っていることが自らに明らかになるからであります。浄土真宗の親鸞の「悪人正機の論」においても、個人の「罪悪深重」の自覚が重視されています。親鸞の「悪人正機の論」とは、周知のように、「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」の内容通り、善人でも救われるのでありますから、いわんや罪意識の自覚のある悪人が救われるのは当然であるという意味です。世間一般では善人は救われ、悪人は救われないと考えられています。しかし、浄土真宗では、悪の自覚は、つまり自らを罪人と見なす自覚は、深ければ深い程、阿弥陀仏からの救いも深いという逆説的な考えになっています。また、キリスト教においても、新約聖書においては、自己義認的に生きる律法学者の祈りよりも、自らの罪を自覚している売春婦や取税人の祈りの方が真の祈りであると見なされています(ルカ18、9−14参照)。

 ところで、宗教における「自己の課題的存在」の自覚がないという悪が克服されて、善悪の彼岸に、たとえ一瞬であれ、生き得るのは「真の自己」に「覚」する時であります。としますと、宗教における「真の自己」とは一体どのような自己なのでありましょうか。

 真の自己とは、勿論、自我でも実存でも虚無的個でも

ありません。しかし、生まれ変わった、(アガペー)( =神的愛)と慈悲で支えられている自我、つまり自己であり、生まれ変わった、(アガペー)と慈悲に支えられている実存、つまり自己であり、また生まれ変わった、(アガペー)と慈悲で支えられている虚無的個、つまり自己であります。次いで言えますことは、真の自己とは絶対の否定性、つまり一切の実体的(=永遠で普遍で不変)な立場を否定し切って、絶対無に生きる自己であります。しかし、自らの我執に大死して生きるとは、自我が大死した後に、更にこの大死した自我に死に切って「真の自己」に生まれ変わった自己に生き、愛と慈悲に支えられて愛と慈悲に生きようとする自己に生まれ変わることであります。この二重の絶対の否定としての大死は「絶対無」ですが、この二重の大死は各人の生涯に亘って無限に新たに繰り返されて行くことになります。と申しますのも、私達の一人ひとりは、毎日新たな問題を突きつけられて、日々新たに生じてくる新たな問題の解決の為に東奔西走し、それと同時に常に沈思黙考し、ともすればニヒリスティックな気分に陥りそうな社会の状況に耐え、瞬時瞬時に非連続的に運ばれて行き、非連続の連続という仕方で形成されて行く歴史の中で生きて行かなければならないのが、現実の私達の姿であるからであると考えられるからであります。

  西田幾多郎の高弟の一人であった久松真一は、真の自己とは「無想の自己」(formless self)であると語りました。西田自身は『善の研究』の中で実在の根本的方式を「一なると共に多、多なると共に一」と記し、唯一の実在である純粋経験において真の自己が覚するのですから、西田における「真の自己」は、「一即多、多即一」と表現し得る実在の真っ直中での、「実在と一なる自己」と言えます。また、西田の高弟の他の一人の西谷啓治先生(私の京大の学生時代の指導教授)は、真の自己とは「自体」ないしは「如」としての無我の自己と、もし今仮にご存命ならば、語られることでありましょう。

 しかし、以上の哲学者たちの「真の自己」の定義が理解され得るためには、「空の論理」とも名づけられている「四句分別(テトラ・レンマ)」が理解される必要があります。名詞のlemma(レンマ)はギリシア語のlambano(“把握する“という意味の動詞)から派生しています。Tettara(テトラ)はギリシア語の「四つの」という意味です。四句分別とは、従って、大乗仏教における四つの句での森羅万象の理解の仕方であります。四句とは,インドの龍樹(紀元150年頃〜250年頃)の著書『中(観)論』に従うと次の四つの句です。 1.「AはBである」(肯定)。2.「AはB ではない」(否定)。3.「AはBである、と同時に、AはBではない」(1と2の両肯定)。4.「AはBであるのでもなく、同時に、AはBではないのでもない」(1と2の両否定)。(3と4の論理は、アリストテレス以来の西欧の論理にはない論理です。)

 以上の「四句分別」で重要なことは、ものが何であるかは四つの句で表しても厳密には表わし切れないということです。四句がたとえ百句になっても千句になっても、つまりものが何であるかの説明の句がどれだけ増えても、ものが何であるは表現し切れない、というのがこの「四句分別」の示していることなのです。

 結論的には、「真の自己」が如何なる自己であるかは、「絶対の無限の開け」(この場合の「絶対」は、内在的な現象の世界の次元に対してその次元を超越しているという超越の次元からの表現であり、「無限」は内在的に表現されていて、「限りがない」という意味で使われ、二元論的に表現されています。本来的には、この「開け」は勿論、二元的ではなく、現象界をも包摂する「一」なる開けです。)とも理解できる「絶対無」や「空」が自らによって経験されることにより理解され得ます。この開けは、私達の日々の生活の中に常に開かれていますが、世俗の世界、欲望の世界に各々の個がとっぷりと浸り過ぎているために、各個はそれに気づくことができないでいます。森羅万象に通底している真の自己が経験され得るには、私達の一人ひとりが修行とも言える日々の生活が先ず真剣に過ごされることであると考えられます。

 

「いのちの輝き」  

小田川方子

 昨平成20年の秋、世界中を震撼させた金融危機は、未だに測り知れない傷跡を我が国にも残している。そんな中で、イチロー選手の大リーグ連続200本安打の世界記録達成は、日本中の人に大きな喜びを与えた。現地で観戦したアメリカ人の一人が、昔だったら、彼は偉大な‘samurai’になっていたであろう、と語ったのが印象に残った。すでに国際語になっている‘samurai’とは、どういう存在であろうか。たとえば、それは大河ドラマ「天地人」の主人公のように、戦国の世において、天地の理を追求しつつ、共に生きる人々のために、様々な困難に精一杯の力で立ち向かって、「いのち」を輝かした人物であろうか。野球の試合という限られた場でありながら、イチロー選手の見事な打球の姿には、偉大なる何かに開かれたものが感じられる。彼自身、打席での例の同じ動作の繰り返しは、もやもやした雑念を払って、投手との関係に集中するためであると述べている。そこに開かれてくる自由自在な境地は、かつて武士達の精神的バックボーンであった禅の心に通ずるものではなかろうか。

 戦国の世を経た江戸時代に活躍した白隠慧鶴(1685-1768)は、臨済宗中興の祖と云われる傑僧であったが、彼の生き方そのものは、まさに‘samurai’的であると感じられる。彼は駿河の原の宿に生まれ、11歳のとき地獄についての説教を聞いて煩悶し、14歳でその地の松蔭寺で出家得度した。彼は道を求めて関東各地から関西、さらに越後から信州に至り苦修するが、24歳のときある狂人に箒で打たれて失神し、意識を回復して両眼を開いた瞬間、豁然と大悟した。しかしその後、長い間の精励や苦労のためか、極度の神経衰弱と結核を患い、方々に名医を捜し求め、ついに京都の山中で白幽という仙人から治病法を教わった。そこで彼は、禅修行からいったん離れて、「内観法」という独自の方法を実習し、ついに心身の軽安を覚えるようになった。その体験は、彼が晩年73歳のとき人に乞われて出版した『夜船閑話』に記されている。そこでは、まず、全身の気を「気海丹田」(下腹部)から更に腰部と「足心」(足裏の土踏まず)まで充実させ、次いで「わがこの気海丹田、腰脚足心」が「わが本来の面目」であり、「わが本分の家郷」、「わが唯心の浄土」、「わが己身の弥陀」であると繰り返し念ずれば、大元気が充満し、諸病が全快すると説かれている。この内観法は、現在に至るまで多くの人々に尊重されている。私の父も、若い頃事故による肋膜炎で苦しんだが、野村瑞城著「白隠と夜船閑話」(人

文書院)に出会って快癒し、生涯繰り返しこの書を愛読

して、数え年100歳の天寿を全うすることができた。

 しかし注目すべきは、白隠が「夜船閑話」で、内観の結果心身が健康になっても、それで足りたとするのではなく、さらにますます進んで大悟境に入る覚悟がなくてはならぬと付け加えていることである。この言葉に繋がるのが、彼の75歳のときの『延命十句観音経霊験記』の最後の部分である。そこでは、正坐して気海丹田に精神を集中するとき、暗黒の深い穴である大難処にぶつかるが、このときもっぱら口に「十句経」を唱え、心は常に気海丹田の宝処に向かってひたすら参究して退かなければ、その大悪所は粉砕され、観世音が広大無辺の宇宙の根本仏として現れ、さらに一歩進むと、高尚安閑の悟境に達する。しかしそこに止まらず、さらに、無数の衆生と共に等しく仏道を成就する願を保ち続けるのが正しい修行であるとされる。『十句経』とは『観世音。南無仏。與佛有因。與佛有縁。仏法僧縁。常楽我浄。朝念観世音。暮念観世音。念々従心起。念念不離心』である。

 

アメリカの国立公園について

中島道郎

 私は京大医学部出身ですが、山岳部だったので、「京大山学部昭和30年卒」で通しています。1958(昭33)年京都大学チョゴリサ登山隊に加えて貰いましたが、その当時、日本の医師の中でヒマラヤを経験した人は十指に満たず、珍しい存在でした。それで、選考委員の先生方に買い被られたのだと思いますが、1961(昭36)年度のフルブライト留学生に選ばれ、丸2年間、アメリカのヴァージニア大学で勉強する機会が与えられました。其処で勿論勉強したわけですが、その合間にアメリカの山や自然公園を歩いてきました。

 私の知る限り、アメリカの国立公園は現在51ヶ所ですが、Encyclopedia Britannica 1962版によれば、当時は28ヶ所しかありませんでした(表1)。滞在中に体験出来たのはそのうちの3ヶ所(アカーディア、エヴァグレイス、シェナンドア)だけだったので、帰途、サンフランシスコまでクルマでアメリカ大陸を横断しながら、短期間に可能な限りの国立公園を見て帰ろうと考えました。表1の*印9ヶ所が、その滞在中及び帰途立寄った公園で、その後家族旅行や学会のついでに加わった3ヶ所に#印を付けました。限られた紙面ですので、そのうちのシェナンドアについてお話したいと思います。そしてもし宜しければ、イエローストンとグランド・キャニオンについても、いつかお話しさせて下さい。

 シェナンドア国立公園 (Shenandoah National Park)

 この国立公園の南入口(Rockfish Gap:岩魚峠)は、大学所在地シャーロッツビルの町から西へ、僅か30kmの所にあるので、それはもう、何回も行きました。入園料は僅か2ドル(3?)だったように記憶します。春はダッグウッドの花盛り、夏は蛍、秋は紅葉、それは見事です。これは、Blue Ridge Mountains(青い山脈!)と呼ばれる1筋の山並みで、山頂を縫うようにしてドライブウエー(スカイライン・ドライブ、全長170km)が走っています。それは、大阪平野と奈良盆地に挟まれた生駒―金剛山脈を連想して頂けるといいかと思います(但し、山の様子はむしろ比良山脈に近い)。この山並みの西側は広い盆地で、シェナンドア・バレーと呼ばれています。バレーすなわち谷は谷でも幅20qもあり、概念としては、鹿ケ谷の「谷」ではなく、伊那谷の「谷」です。有名な「おー、シェナンドア」という美しいメロディーのフォークソングがありますが、その舞台です。

 夏ともなると、いわゆる「夏時間」で、日没までの長い時間を有効利用すべく、実験が一区切り終ると、稜線上のレストランに行き、西の方、ウエスト・ヴァージニア州との州境の山々の端に沈む夕陽を肴に、食事をする、という贅沢を味わいました。上に「夏は蛍」と書きましたが、この公園内の蛍は、それは見事です。1本の大樹全体に群がり、それが一斉に点滅を繰り返すのです。後年、1970年の日本山岳会エベレスト登山隊に参加した際、帰途は雨季に入っていましたが、その道々で眺めた蛍の大群も同じでした。最近、私の病院のある高野川でも蛍が増えてきましたが、到底及びません。

 この「スカイライン・ドライブ」に並行して歩道が設置されています。これは南西・ジョージア州から北東・メイン州まで、3200km以上も続いている「アパラチアン・トレイル」の一部です。その、自然に対するこだわりは徹底していて、道路脇の駐車余地から踏み跡を通って一歩トレイルに入ると、もうそこは完全なる自然の世界。エンジンの騒音は時々しか耳に入らず、静寂そのもの。現在、日本でもそれを真似て、「東海道自然歩道」だの、「京都一周トレイル」だのというものが作られていますが、悲しいことに、日本は国土が狭すぎて、そう容易く静寂は得られません。もうひとつ羨ましいことは、このドライブウエーに沿って設備されているレストラン・ロッジ・ガソリンスタンドの3点セット施設は、全部森の樹々の中に隠れるように設計されているということです。トレイルの方々にある展望台から見渡しても、そういう施設が目立たないのです。トレイルを歩く人々

(トレッカー)には一見不親切なようですが、そんなもの、地図に示してあれば十分で、人工物の見えない自然を保つことのほうが大事だという思想なのですね。

 スカイライン・ドライブの反対方向、つまり、「岩魚峠」から南西800km、グレイト・スモーキー・マウンテンズ国立公園までの間の自動車道はブルーリッジ・パークウエーと呼ばれ、同じように山脈の峰を縫ってのドライブウエーですが、生活道路でもあるので、無料です。その代わり、途中所々景色のよい所があって展望台になっているのですが、立ち寄ろうとしたら駐車料が要ります。しかも、そこに駐車しなければ景色も見られないようになっています。つまりこの国では、景色は個人財産なのです。

 医学に『登山医学』という学問分野があります。登山の安全に医学知識の進歩と普及の面から寄与しようという趣旨の学問ですが、その中心は『高所登山医学』です。現在、標高8,842mのエベレスト峰の頂上に立つ登山者の数は、毎年200名を超えます。そこでは酸素分圧が地上の1/3以下なのに、そういうことを可能にしたのがこの学問です。そして、その分野の草分け的存在、Dr. Charles Snead Houston(ハウストンと読む)バーモント大学名誉教授には、私は個人的に非常に懇意にして頂き、1982年に私が京都で「日本登山医学研究会(現日本登山医学会)学術集会』を主宰した時、「高山病と高所生理学」と題する特別講演をやって頂いたりしていた間柄だったので、ご存命中にもう一度お目にかかっておきたいと思い、機会を作って、一昨 (2008) 年初秋、先生をヴァーモント州バーリントン市のご自宅にお訪ねしたのです。その時は、先生は非常にお元気だったのですが、翌2009927日にご自宅で亡くなられました。96歳でした。行っておいて本当に良かったのです。で、先生をお訪ねしたその足で、シェナンドアを再訪したのでした。ほぼ半世紀を隔てて再訪したシャーロッツビル市もヴァージニア大学もひどく変っていて、道に迷ったりしましたが、スカイライン・ドライブも周囲のブルーリッジ・マウンテンズも様子は全く変っておらず、ようやく始まった紅葉に若き日々の記憶を重ねて、思わず涙しました。

 シェナンドア国立公園は、確かに景色は宜しいが、でも、高山・深谷・大瀑布といった道具立ては全くなく、広大なアメリカ大陸には、この程度の景色は至る所にあり、なんでこれが国立公園?と思わないでもありません。現に、国立公園の人気ランキングでは下位のようです。

でも私は、一見平凡なたたずまいの中に落ち着いた雰囲気を漂わせているこのシェナンドア国立公園は大好きです。そう、今の若者たちが好む言葉で言うと「癒し」系の自然公園です。もし、首都ワシントンはじめ、米国東海岸地方を訪ねる機会がありましたら、レンタカーでこの地を訪問する計画を付け加ええられるようお勧めします。

 (表1) The National Parks in the United States

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

竹と大麻 

海野和三郎

地球温暖化問題の最も信頼できる権威である山本良

一氏の「残された時間」によれば、この5年が温暖化地獄回避の勝負で、長引けば長引くほど厄介になる、という。戦後渡米した松島訓さんの弟子ジェームス・ハンセンが、数10年前にスペクトル吸収線の毛布効果の理論を東大天文の私の所で会得してCO2の温室効果による地球温暖化理論の世界のリーダーとなった経緯もあり、私としても、山本説に全面的に賛成である。では、どうするか。鳩山さんは、CO2排出25%削減を言うが、具体策は全然見えない。

最近、地球市民フォーラムの講演会などに出席して、この地球温暖化問題にも有効に働くであろう具体策をいくつか聞く機会があった。一寸意表をつかれたのは、渋谷潜水工業の渋谷正信さんの「海の森づくりプロジェクト」の話で、これは農水省あたりの国家プロジェクトでもあるらしいが、海の農業、海の林業を興す話であった。海の農林業には、陸水で運ばれるミネラル特に鉄分が必要であるが、コンクリートで固めた河川や護岸工事で、海藻も碌に生えず、魚の産卵、生育の場所が無くなり、従って、魚群も寄りつかず、日本近海は熱帯雨林を完全に失へばアマゾンやボルネオの森林がなってしまうであろう不毛の状態らしい。しかし、逆に、飛行場のようなコンクリートで固めた大規模工事を海辺に造るような場合であっても、魚礁を同時に併置する配慮をして、鉄分などを散布すると、2,3年で魚の群れが見られるようになるという。数千年前の海の森が、多分、原石油製造の場であったであろうことを思うと、21世紀の海の森林がアマゾンの森と同じく有力なCO2削減の場となる可能性はある。日本にはアマゾンはないが、太平洋も日本海もある。漁業育成も兼ねて、CO2削減の海の林業を国家プロジェクトとしてはどうであろうか。普天間飛行場の移転先がどこであろうと、海の大森林形成と一体であることが望ましい。

表題にある「竹」と「大麻」の話も素人の私が聞いてなるほどと思うCO2削減の話である。3億年ほど前であろうか、石炭期の森林には成長の早い植物が繁茂し、太陽エネルギーと水とCO2を使って光合成し、石炭を大量に地中に埋めて、太陽自体の増光による温暖化を防止した。その植物と同じ働きを21世紀の日本列島で行うのが、成長が他の植物より10倍速い竹と大麻ということである。山元学校の山元さんによれば、竹は生長が速いだけでなく、竹炭を撒くと土壌が活性化し、例えば、松林に松茸が生えるようにもなるという。多分、竹林は風が通りやすく、葉は風に羽ばたいて、CO2を葉緑素に送る矢吹効果が理想的に行えるためではないだろうか。また、大麻(へンプ)は極めて有用な植物であるが、一般に栽培禁止になった経緯はマリファナの麻薬効果のためであるらしいが、麻にも大麻草(へンプ)以外に亜麻、苧麻、マニラ麻など多種あり、へンプに限ってもマリファナを含むもの繊維質のみを主成分とするもの、マリファナの興奮性を打ち消す成分をふくむものもあり、また、マリファナ自体習慣性はあまりないという。大麻吸引の習慣は古来日本にはなかったそうであるが、敗戦後、木綿からナイロンといったアメリカが強い繊維産業と拮抗しうるへンプは目の上のこぶとして、禁止の対象になったという説もあるらしい。化学製品や繊維として石油製品と拮抗し得るだけでなく、石油と違って地球環境保全に強い大麻(へンプ)は、マリファナ禁止の青少年教育と両立させられる方策を考えるべき時が来ているようである。

  CO2の地球温暖化問題や土質改良に強力な助っ人となる植物としては、竹と大麻以外に水稲がある。水田はCO2を吸収し、山からの水は連作を可能にしている。稲と竹と大麻を三種の神草とするような日本を含む東南アジア諸国の新国策農業があってもおかしくないであろう。エネルギー・地球環境・食料の三重の危機を、原爆戦争で自滅することなしに、自然そのものの力、海の農林業、陸の三種の神草の力を借りて乗り切るのが、21世紀の衣食住による人類進化というものかもしれない。エネルギー・地球環境問題における根元的な人類の危機打開の具体策とともに、衣食の次元での進化も不可欠である。

編集 湯浅・川東