私達の教育改革通信
第 141号 2010/5
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先事館制作室:進士多佳子〒106−0032港区六本木7-3-8ヒルプラザ910
発行人:西村秀美,先事館箕面 〒562-0023箕面市粟生間谷西3-15-12
お願い:教育通信はオープンメデイアに移行します。A(購読)会員、運営に参画されるB(協力)会員及びC(編集)会員になる方を歓迎します。B会員には自己負担でコピーと友人への配布、C会員にはそれに加えて編集を輪番でお願いします。私達の教育通信が今後どう発展するか、この皆で育てる新方式がよい日本文化に成長することが望まれます。
編集::先事館吉祥寺 海野和三郎180-0003武蔵野吉祥寺南4-15-12;
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先事館聖徳大学 茂木和行 165-0035 中野区白鷺2-13-3
花と話す 水木鈴子さんの詩
なのはな
水木鈴子
いつになくいい風が流れてきたから、
春を探しに出かけました。
風はふくらみ、
ゆかしさのあるあなたの香りを運んでくれます。
すうっと胸にとび込んできたやさしさで、
心はくつろげましたよ。
父さん、母さんに話さなかったけれども、
本当はね・・落ち込んでいたのです。
でもまた、やる気が咲きました。
おかげさまで!
二択から混沌へ
中條利一郎
私どもが子供の頃は「鞍馬天狗」に代表されるチャンバラ映画の全盛時代であった。「ハワイ・マレー沖海戦」で勝利の美酒に酔った時代より少し前のことである。その頃の子供は、両親に連れられて映画館に入ると、まず登場人物が善人か悪人かという二択(二者択一)からはじめる。「ネ〜、あの人はワルモノ?」という親への質問がそれである。善人か悪人かの同定をしてからでないと、その後のストーリーの展開に、安心して、ついていけないのである。これを子供は単純だと切って捨てていいのだろうか?
このところ、この「改革通信」では環境問題への発言が続き、環境への関心の強さがわかる。まだ、「環境」がキーワードにはなっていなくて、「公害」という言葉の方が市民権を得ていた時代、CO2の排出を続けると、それが上空に滞留し、太陽からの熱エネルギーがそこで吸収されるので、地球の寒冷化を惹き起こすという議論があった。勿論、今と同じように、地表からの熱エネルギーの吸収による地球温暖化を惹き起こすという議論もあった。高分子物理学を専攻している筆者にとって、ナイロンなどのC=O結合を持っている化合物のC=Oグループによる赤外吸収スペクトルの吸収強度が大きいことから、上空のCO2層が、太陽にせよ、地表にせよ、熱エネルギーの吸収源であることは容易に理解できる。しかし、識者の意見は寒冷化か、温暖化かのいずれかだけを主張するものであった。大人も二択に終始しており、子供の発想を笑える状況にはない。公害、乃至、環境に素人の筆者のところへは、それ以上の情報は届いていない。
「混沌」という言葉がある。「改革通信」でも139号に海野氏が使われている。言うまでもなく、「荘子」からの引用で、「渾沌」と書かれていたのが、常用漢字の関係で、今は「混沌」と書かれる。湯川秀樹先生のお好きな言葉で、混沌としている系を混沌から解放するのは愚かであるというのが本来の用法であった。今は混沌でさえも、その定義からはじまる。つまり、混沌とは何ぞやということを、混沌なく、説明しなければならない。量子力学で出て来る不確定性原理はその一つである。ある質点の位置と運動量(物理学に詳しくない人は速度と思って頂いて結構)を同時には正確に決められないという原理的混沌である。温度は多数の分子のエネルギーの平均値であるという統計力学的混沌もある。さらには、ある現象がエネルギーに支配されるのか、エントロピーに支配されるのかという混沌もある。物体の変形の一つである弾性変形は、金属の場合はエネルギー支配で、ゴムの場合はエントロピー支配で記述される。より、詳細には、内部エネルギーとエントロピー(に絶対温度をかけたもの)からなる自由エネルギーで記述される。温暖化か冷却化かというのも、どちらが支配的かで決まるものであろう。どちらの論者も、自分に都合のいい要因だけを用いて、我田引水をしており、そのため、筆者のような素人は、どちらが正しいのか迷い続けるのである。
科学というのであれば、考えられる因子の内、一つだけ取り上げて議論する二択をやめて、重要なものを網羅して、兼ね合いから議論する混沌で議論して欲しいものである。
「霊性」について
花岡永子
「人間とは何か」という問題は、古代ギリシアの哲学者・ソクラテス以来21世紀の現代に至るまで問われ続けられてきています。また、「宗教とは何か」という問題も、宗教の語源を廻って、1世紀のローマの哲学者キケロ(Cicero,
M.T.)や3〜4世紀頃のラクタンティウス(Lactantius,C.F.)やアウグスティヌスあたりから現代に至るまで、問われ続けてきています。ソクラテス以来現代に至る約2500年間を振り返るとき、宗教と人間が統一的に理解され得る地平は、「自覚」と理解されることも可能であります。しかし、真の自覚は、霊性によって可能です。また、宗教は霊性によって初めて成り立ちます。というのも、真の自覚である「自己の自覚」と「世界の自覚」は、自我が我執から離脱して、自然と自己と超越の次元が透明に「一」なる関係になる時に初めて、その透明な「一」から働き出ると考えられる「霊性」によって実現されるからであります。しかも、宗教は、そのような働きとしての霊性によって初めて真に宗教として成り立ちます。何故なら、宗教とは、自然、人間そして超越の次元が透明である場合に露わとなる「根源的いのち」ないしは「霊性」の自覚と理解され得るからであります。
以上のような問題連関の中で、21世紀における「宗教と人間」の統一的理解の地平が明らかになるように、以下において霊性の問題を論究してみたいと思います。
霊性について
21世紀初頭の現代においては、実体的な神仏である絶対的に超越的なものを核心とする宗教への反発が強いようです。勿論、西欧では未だ、R. Ottoの『聖なるもの』とかキリスト教における聖者が尊ばれる思想は、根強いようです。プラトン以来の、しかもその後、紀元1世紀前後にキリスト教の神と融合した、実体的、観念論的な、へ−ゲルに至るまでの西欧の伝統的な形而上学としての哲学の歴史を振り返る時には、「聖」への執着も理解できない訳ではありません。しかし、例えば、キェルケゴールが、その実存的パトスの初歩表現においては「絶対的なテロスには絶対的に関係し、相対的なテロスには相対的に関係する」ことを人間における必須のパトス的なものとしての情熱として主張していますが、最終的には人間の実存における苦悩や責めの意識や躓きやそれらの懺悔の段階を経ることによって、宗教性B(=特別の宗教性=キリスト教の宗教性)の弁証法的なものにおいては、絶対的で永遠な神と、時間内の現象界のものとの関係が矛盾のままに実存弁証法的に「一」に成り立つことが述べられています。
また、禅においては, 聖と俗との根源である「無聖」が究極的な境涯とされています。つまり、聖俗のいずれでもなく、同時にいずれでもあるところの、聖俗の根源が「無聖」と表現され、そこで、いわば「灰頭土面」の生き様で生き抜くことが目指されています。
以上の僅かな例だけからでも理解できるように、「神仏と人間」、「絶対と相対」あるいは「超越と内在」等の各々の両極的なものが同一であるとする思考法は、それが西田哲学におけるように絶対矛盾的自己同一的であれ、キェルケゴールにおけるように実存弁証法的同一であれ、ハイデガーの語る「根拠律」(=どんなものも根拠なくして存するものはない)の妥当する領域をも
突破しての同一性と差異性との究極的な同一性であれ、詳論の暇はありませんが、21世紀においてのみならず、古代ギリシアの哲学者・ヘラクレイトス以来存在しています。
さて、「神仏と人間の自己」との同一性やこれに連関しての「絶対と相対」あるいは「超越と内在」との同一性は、「根源的いのち」(=キリスト教では神のいのち、仏教では道元の語るような仏のいのち)ないし「霊性」において成り立つと理解され得ます。 宗教とか「神仏」という用語に比して、「根源的いのち」や「霊性」は現代の若人において抵抗は少ないようです。前者の「根源的いのち」は、古くは道元の『正法眼蔵』で、また近くは西田幾多郎やA.N. Whiteheadの哲学において重要な役割を果たしています。後者の霊性は、ヒブル語のruachもギリシア語のpneumaも、語源的には風を意味し、特定の宗教に限定された用語ではありません。
さて、「自然」、人間」、「超越の次元」という三大領域は、古代ギリシアからの哲学的思索の事柄でありました。これら三領域が透明に「一」の関係内にある時に、霊性は初めて働き始める力であると考えられます。つまり、霊性は、自然だけからも、人間だけからもあるいは超越の次元だけからも生れ出てくる働きとか力ではなく、三領域が透明に「一」に関係している時のみに,心身一如においてのみならず、身心一如に働く力と考えられます。西田が語る、『碧眼集』の中の言葉「天地同根、万物一体」が体得・体認される時に、自然、人間、超越の次元の三者から同時に、しかも「一」に、生れ出てくる働きとしての力であります。つまり、身心の内外から湧き出てくる働きとしての力であり得ます。
そこで、霊性が働き出すことのできる、自然と人間と超越の次元のあり方について、以下において簡単に考察してみたいと思います。
@「自然」について
現代においても、私達は奥深い山や大海原の大自然に触れると喜びに満たされます。緑が少なく、工場の排気ガスに満ちた都会では、子供たちは病に冒されやすいようです。人間も自然の一部でありますから、美しい自然の中では人間の心も健康になり、汚染された自然の中では人間の身心も汚染されやすいようです。自然のギリシア語(phusis)の語源は、M.ハイデガー(1889-1976)によれば、「自ずから然る」という日本語の自然に甚だ近い意味を持っています。また、自然のラテン語(natura)の語源では、ものの「本質」とかものが「生まれること」を意味します。これらの語源の意味にふさわしく、私たちは「自ずから然る」ものには、心が魅せられ、身心ともに安心を得、また日常生活においても、ものの本性に従って行動しようとします。更に、いのちが新たに生まれることでは、「いのち」が満たされる。また、詩歌や文学の世界での自然描写にも、私たちは身心ともに一体化し得ます。しかし、17世紀以来の、自然を、対象化し、搾取し、機械技術によって、いわば征服し続けてきた自然の虐待や、「自ずから然る」方向を抑圧し、人間中心主義に堕落してきた科学・技術は、霊性を最も酷く遮蔽する働きをしてきたと思われます。現在、地球環境は最悪の状態に陥っています。霊性の働きが生きたものとなるためには、17世紀以降の人間中心主義で自然を対象的に取り扱ってきた科学・技術の方向転換を試みることが最重要な課題と考えられます。
A 「人間」について
人間の個が宗教哲学の中心問題となり得たのは、キェルケゴールにおいてでした。人間が「類」(=人類)の視点から論究されたり、「種」(=国家、民族、部族、教会,寺院、各種のグループ等)の視点から取り扱われたことは珍しくありません。前者は、ソクラテス以来へ−ゲルに至る西欧の主流の形而上学としての哲学が例として上げられます。後者は、経済的構造としての下部構造とその上に建てられている上部構造を説くマルクスの唯物史観や前半期の田辺哲学等が挙げられでしょう。
しかし、人間を「類」と「種」と「個」の透明な「一」の関係の内において考察しようとした哲学としては、西田哲学やA.N.ホワイトへッドの哲学が挙げられます。ここでは後者の、63才まではイギリスの大学の数学の教授でありましたが、定年後はアメリカのハーヴァード大学の哲学の教授になり、数学から哲学に転向したA.N.ホワイトヘッド(1861-1947)の有機体の哲学をその一例として挙げてみましょう。この哲学は宇宙論の表現(expression)、
人類の宗教経験の解釈(interpretation)そして究極的、全体的経験の解明(elucidation)を目的としました。彼は若い時から理系と文系の学問は根本的には同一の原理によって成り立っているという自らの直観によって導かれておりました、しかも、この有機体の哲学では、類と種と個とが透明な「一」の内で理解されています。この哲学では、森羅万象の一々のみならず、神すらもが究極的カテゴリーとしての「創造性」によって創造された一つのactual
entity(現実的実有)から成り立っていると理解されています。そして、現実世界は「多」から「一」への合生(concrescence)の過程であると同時に、各々のactual entity は、究極的な実在性のうちに存してもいると考えられています。このようなホワイトヘッドの哲学では、「類」と「種」と「個」とは常に同時に「一」に成り立つことが可能であります。勿論、各時代の「社会」には「種」の段階に大きな困難な問題があったことは、彼の著書『観念の冒険』(1933年)の中での、古代の奴隷制度、中世の農奴の制度、近世の産業奴隷のあり方についての論究のなかで、露わに見抜かれています。しかしながら、彼の有機体の哲学には、未だ絶対の否定を意味する「絶対無」のパラダイムが生きていません。従って、これまでの欧米の世界の哲学における他の四つのパラダイムでの立場(=ソクラテス以来ヘーゲルに到るまでの現象界を土台とした「相対有」、キエルケゴールに始まる実存を核心とした不安や絶望や退屈ガ核心となる「相対無」、思索や文化や生活の枠組みとしてのパラダイムが相対有や相対無である次元から絶対的な実体(=idea=原型 、ousia=本質、eidos=形相、絶対的人格としてのtheos=神等)が求められる「絶対有」そしてニーチェが代表者となっているような虚無的な個としての「生」がその上に成り立っている「虚無」)が、ホワイトヘッドの有機体の哲学によって支えられ、生かされることはそれほど簡単な事ではありません。しかしながら、ホワイトヘッドにおいても、彼の後半期の主著『過程と実在』(1929年)の最後の第五部第二章第七節の最後にも語られているように、最終的には、創造性(creativity)によって被造物と同時に創造された[神]の愛によって森羅万象は、調和とリズムの内に活かされることが可能となっています。
B「超越の次元」について
プラトン的な永遠で普遍で不変なイデアやこれと融合したキリスト教の中世的な神は、現実の時間の世界からは遊離した超越の世界として21世紀初頭の現代においでは力なきものとなっています。 現代において有力で生きた超越の次元と見なされる世界は、時と永遠とが渾然一体となった世界であると考えられます。極言すれば、「神仏が各人の私で、各人の私が神仏である」世界であります。仏教(禅)では、人間の真の自己の本質である「自性」は「仏性」であり、「仏性」は無実体的という意味で「無自性」であると理解されています。キリスト教でも、例えば、エックハルト(ca.1260-1328)の神秘思想の究極の境涯である「神性の無」においては、「神の根底」は、各人の「私の根底」であり、各人の「私の根底」は「神の根底」であると語られています。
このような考え方には、勿論多くの反論があるでしょう。しかし、その反面、考え様によっては、長い人類の歴史の中で、現代は遂に、エックハルト的な、あるいは仏教的な境涯に達したと言えもするのではないではないでしょうか。ヨセフとマリアの子であるイエスが神のひとり子であると言えるのであれば、全人類の一人ひとりもまた神のひとり子と言えるのでなければならないと考えられます。また、西田以前の東西の哲学や宗教哲学では、超越が内在する「超越的内在」が妥当していましたが、西田哲学以後の宗教哲学では、むしろ逆に、「内在的超越」が主張されるようになり、「内在即超越、超越即内在」が妥当するようになってきました。
このような状況では、宗教と霊性との間の距離が縮まり、「霊性」あるいは「根源的いのち」の自覚としての宗教と、自覚には至っていない「霊性」や「根源的いのち」に生きることの間の距離が縮まり、遂には「宗教」と「霊性」とが種々の新しい形で「一」となる可能性が生じてくることが大いに期待されます。
「30年前のイラク写真展」
立石昭三
近代の国と国との戦争においては昔の傭兵による戦争と違って兵士は徴兵制度により、より安くリクルートできるし、その安い兵士も戦死傷者を最少にすべく武器の無人化、遠隔操縦化が進み、なんら罪の意識なく攻撃を続けられる体制は整っている。そして先進国が兵器の近代化も薦め、大量破壊、多数殺傷をするような武器を開発している。被攻撃国の犠牲者はその数すら判っていない。原爆という大量殺戮兵器による被害を蒙った日本で反戦運動が盛んなのは当然のことであろう。しかも近代戦に於いては戦闘員である兵士の死よりはその巻き添えになる無辜の民間人の死傷者がはるかに多い事は間違いない。米国務省ニュースによると米軍及び有志連合軍の死傷者数の発表はあるがイラク側の死傷者の数字統計はない。メデイアに発表された数字を集計したIBC(Iraq Body Count)と云うNPOの統計があるのみである。そして戦争の結果、家仕事を失い安全なところに逃れる難民の数はその何十倍、何百倍になるであろう。
アラブ諸国ではラマダーンはよく人々に守られ、日中は断食をして日没後に食事をする。その際はイラクのナツメヤシの実を先ず食べるのが習慣であった。これが初めてイラクと云う国名を聞いたことだった。私は1986年から「幸福なアラブ」と言われるイエメンに国際協力事業団の一員として赴任していたが、1991年、米軍のイラク攻撃―湾岸戦争が始まる前に帰国した。
2008年、私は荒神橋西詰めにある基督教教会でイラク人による現状報告を聞いた。その場には京大文学部アラブ語科の岡真理教授も参加されていた。彼女はパレスチナ問題の専門家でアラブ語も堪能であるし方々で開かれている反戦運動への参加も多い。私はアラブ文化に接したこともあり、請われて京大のアラブ語科で講義の一コマを担当した事もあった。
イラクは四大文明の一つメソポタミア文明が発生した地域にあり、その歴史は紀元前27世紀に遡る。その東側の国境はイランに接し西はシリアに続く。同じイスラム教国でもイランはシーア派が主流を占め、イラクはスンニ派が多く、1980~1888年イラン、イラクが戦争状態にあったこともあり、イランを嫌うアメリカはその頃イラクへ軍事援助をしていたこともあった。イラクはチグリス、ユーフラテス川の流域、肥沃な三日月地帯といわれる地域にあって文明の十字路とされ、周囲の部族の征服によりシュメール人、アッカド人、アムル人、アッシリア人、バビロニア人、アレキサンダー、ササン朝ペルシア人、アラブ系のウマイア朝、アッバース朝、モンゴル人、テイムール帝国、オスマン帝国、イギリスの委任統治領、イラク王国を経て21回も支配者が変わった。そして1991年の今回のアメリカによる攻撃になった。第二次大戦前にはドイツによる中東への侵攻計画として3B政策〈ベルリン、ビザンテイウム、バグダットを結ぶ鉄道〉の対象になったこともあった。今回の米軍によるイラク攻撃は1990年のサダム・フセインのクウェート侵攻がきっかけであったが本当の理由は石油の利権獲得にあったとも言われる。オバマ氏はイラクからの撤退を表明したが未だにバグダットでは反米を示す自爆作戦の戦火が絶えない。
反戦の意志を伝えるには戦争の悲惨さを強調する事もよいが、戦争前の平和な時代の人々や風景を見てもらいたいと考える京都の若い人のグループがある。
2008年、戦前のイラク映画、風景画展を京都、百万遍の思文閣で展示した。デーツの茂る豊かなナツメヤシ、子どもの集い遊ぶオアシスや水郷、古代、数々の遺跡の写真などを公開した。これらの風景は戦禍により大部分が焼失した。このグループはバグダット博物館の破壊された展示品も京都、花園の春光院で展示した。これはバグダット博物館所蔵の貴重な書籍が空爆により修復不能になったものを展示したもので、文明の発達には五千年ほどかかったものが近代兵器により一瞬にして瓦礫と化すのは人類に対する罪悪である事を京都市民に知らそうとしたものである。
2009年秋には、もと三菱重工業社員として1977~~’80、プラント輸出に関わった吉原茂氏及び1974〜‘77沖電気社員としてイラク通信網の整備に関わった井上秀俊氏らの協力を得て入手した写真展を伏見、本町の「チイロバ・カフェ」で開催。現在も「イマジン イラク」として紫野、エイコンズ・ビレッジで開催中である。写真展の他にヨルダン、シリアに逃れた何百万人のイラク難民の取材に当たったジャーナリスト,西谷文和氏,安部ひろ江氏の映像とトーク報告も加えた。
戦争には正義の戦争などない。特に近代の戦争は兵士の戦死より多くの無辜の市民を殺し、その何百倍の難民を生む。戦争で平和を実現する事は不可能である。
「新人類進化論」
海野和三郎
産経2010/4/5、石原慎太郎「日本よ」“日本は、立ち上がれるか”、に曰く、「高齢になると、自分の死について考えるが、この頃は、それに加えて『一体この国はこれからどうなるんでしょうかな』という言葉が挨拶代りになっているという。「高福祉低負担」の財政無視、「物欲優先」の世界観と「世界の時間空間的縮小」が、日本の前途を絶望的にしているという。具体的な対策は書いてないが、産経4/11に「たちあがれ日本」「血が煮えたぎっている」とある。私も高齢者の一人として石原さんの運動の成功を祈りたい。
4/17,地球市民機構のゼミで、坂本輝正氏の「経済学の再構築試論」を聴いた。これまでの経済理論を総括した素晴らしい経済学原論であった。ただ、時間の都合で、第2部第4節:人類の危機、地球の危機、<新自由主義でもケインズでもやっていけない>;1.人口急増、2.世界的貧困人口、3.金融投機の利得、4.世界各国で社会体制崩壊、5.ピークオイル(エネルギー問題)、6.地球温暖化対策、7.戦争(局地戦)、に対する説明は、次回に持ち越された。
私の関心は、1,5,6の3項目に対する具体策と、3,4に関係すると思われる経済学の原理の改革である。これらの問題はすべて経済の問題であるが、その原因となり起動力となっている要因は、現在の経済学の論理で先見的に解釈できるものではないが、しかし、経済学の扱うべき問題であるので、新たな経済学原理の導入が必要である。3,4の問題に関係して、所謂、100年に一度の経済恐慌の問題がある。今の経済学の原理は大まかに云って金融経済と自由市場経済の二本柱で、この二者とほぼ直交関係にあるべき第3の原理ともいうべき複雑系経済学が殆ど制度的に機能していない。もともと、複雑系という言葉は経済学から出た言葉であると云うが、スーパーコンピューターを使って複雑系経済カオスの動向を誤差評価つきで予報する機関を設ければ、経済恐慌などは起こらないか起こってもさざ波程度になると思われる。新自由主義でもケインズでもマルクスでも金融経済と自由市場経済と直交関係にない。老子が「3から万物」と云ったように、混沌を生ずるのは独立な3原因が必要であり、逆に、混沌を理解するには少なくとも3つ以上の要因の非線形相互作用として理解しなければならない。
しかし、1,5,6の問題は、経済学など通常の人知人力の及ぶ範囲を超える問題点を含んでいる。億年かけて地球がためた石炭・石油などの化石燃料を100年で消費するのが原因となって、エネルギー・地球環境・人口(食料)の3問題が、あと2,30年で、人力の及ばぬ破局に陥る恐れがある。そのPoint of No Returnは何時なのか、それがどの様な破局となるのか想像できないが、少なくとも、人類の未来のために出来るだけのことをする義務が現代人にある。最も心配なのは、CO2による地球温暖化がある臨界点を越し、カーボンハイドレートのような更に強力な温暖化ガスをツンドラから湧出させて温暖化を加速し、さらに北極海底温度ひいては海洋大循環による太平洋などの海底水温の上昇、そこからのCO2湧出などが予想されるところである。約11年周期を主とする太陽磁場エネルギーの湧出は、1℃以下の少振幅で、現在は温暖化を抑えているが、10年後には逆に働くであろうし、油断できない。平均温度の変化が3℃を越す地球温暖化または寒冷化は、生物にとって、進化を駆動する環境要因である。また、1.5.6.の問題は、本来ならば50年100年で状況が変わるべき事柄であるが、それが10年、20年で問題となる点で通常の経済現象とは違っている。結論的に云えば、それは人類進化に関わる問題である。数百万年の昔、猿人は体毛の長さを変え、或いは、大陸を移動し土地の高低を選んで気温の変動を凌いだが、百万年ほど前からは、人類は、より急激な気候変動に対し、衣食住を発明し、更には、言葉の機能を発達させ集団社会生活を発明して現代人類に進化した。それと同じことが、時間尺度を1万倍縮めて、21世紀の現代、進行しつつあると考えられる。問題の発端はエネルギー問題で、化石燃料の使い過ぎにあり、それが地球環境問題を引き起こし、人口増加で不足しがちな食料も代替エネルギーに使われようとしている。
このピンチをきりぬける道は、原子力が簡便であるが、せいぜい1000年程度しか保たないし、太陽エネルギーか地熱の有効利用を発明するのが正統的な21世紀新人類進化であろう。火山島地下1000mの地熱海洋発電は、概算すると、全人類の需要の1000倍をまかなって有望であるが、まだ、安全な技術は出来ていない。それに反し、シーロスタット方式で、平面鏡を結合して非結像による30倍集光でエネルギー密度を上げた太陽光を、固定のソーラーポット(太陽電池と太陽熱温水器に、森の熱エネルギー有効利用法と海の対流防止ソーラーポンド熱エネルギー保存法を加味した容器)に導けば、机上計算では、石油火力より10倍安く電力を得ることも可能である。他にも、竹・大麻・真菰(稲)など通常の植物より10倍速い成長で、連作可能な有用植物による温暖化防止や、新聞(産経4/19)によると,筑波大渡辺信教授の「光合成で“重油”を効率よく生産する、緑藻」もあるという。化石燃料やウランなどを浪費せずに未来に伝えるのが現代人の義務であることを考えると、重油を海藻で作ってみることは地球自然がどれほど天与の恩恵であるかを評価する上でも大変参考になる面白い研究である。
結論として、地球の進化と人間の進化、これが21世紀の最大の問題である。
家督について
立石昭三
(伏見医報(’09年12月)「家督の相続について」 深草南班 立石昭三 より)
日本の家は男系で長子相続のように見えるしまた社会的にもそう期待されているが実際はそうだろうか?老健施設に勤めているとご老人の入所者のお見舞い、お世話に来られるのは殆ど実の娘さんばかりである。例外もあるが息子さんは殆ど顔を出されない。男は一家の収入を得るために外または家業で働き、家を守るのは女性と言うのは今もそうなのであろうか?これだけ女性が社会に進出している時代でもご老人や病人のお見舞い、お世話をするのは女性が殆どのような気がする。中には家を継いだ長男(いわゆる家督相続人)の嫁が来られる事もあるが実の娘さんには仲々及ばないようである。
第三世界を回っているうちに男系長子相続というのは必ずしも自然な事ではないような気がしてきた。一人っ子政策をとる中国では唯一の子が家業を継ぐのであろうが大抵の国では子供たちは上から順に外へ働きに出てしまう。すると親が老化する頃まで一緒に過ごすのは末っ子と言う事になる。タイや蒙古では末子相続が普通である。京都の私どもの親類でも末の娘さんが親を世話して親御さんを見送り、今や婚期を失し1人になって周りはその老後を心配するようになった。
妻と娘、これも一概に言う事は出来ないだろうが経験上は母と娘は一卵性双生児のように実に気が合うのであろう。我が家でも孫の病気の相談、買い物や遊びの約束から、お祝いやお香典など、人様との付き合いの打ち合わせ、その日のおかずなどまで話し合っている。またそれを横で聞いているのもいいものである。これではものの考え方から価値判断、おかずの好み、ひいては家の匂いまでも母・娘の間は似てくるのが当然であろう。男どもは男女二人のカップルが結婚して、妻が夫側の姓になると「これで妻も夫側の人間になった」と満足するようだがこの頃は夫婦別姓もかなり見られるようになってきたのは喜ばしい。
子どもたちが小さい頃、妻の姉妹の家に行って異口同音に言う事は「あの家はうちと同じ家の匂い」と言う事。これは親の兄弟の家、母方でも男子の家では聴かれなかった言葉である。家の匂いとは普段作るおかずの匂いが染み付いているのでもあろうし、夫の家に来たお嫁さんは実家の味を新家庭に持ち込むので「お袋の味」とは一寸違うのかな、と思う。私が妻の母方の姉妹の家に行ったときも同様であった。食事のおかずの傾向、家の匂いは女系で引き継がれるように思う。娘達と結婚した婿たちも始めは関西風の味付けを「味が薄い」と言っていたのが数年から数十年すると歳月敵せず、サブリミナルにすっかり馴化(Acclimatization)され、実家に帰ると却って「味が濃すぎる」と感じるようである。実家の母としては息子が妻側の味に慣れ親しむのは悲しい事だろうが女系社会では当然の事である。どうも日本の男系長子相続というのはタテマエで実際は女系末子相続と言うのが自然に感じられる。現在、親身に付き合っている親類縁者を考えても母方の女系図で考えると納得させられる事が多いように思う。
「ゆとり教育と決別」25%教科書ページ増の意味
海野和三郎
2010/3/31(水)、新聞第1面の見出しである。「朝日」「産経」以外の他の新聞でも恐らく同様であろう。すべての改革には長所と短所がある。「ゆとり教育」の意味を根本に遡って考える必要がある。「ゆとり教育」の発端は、有馬朗人さんが文部大臣の頃、公務員の週休二日制への対策であった。戦後、経済復興が著しく、ともすると生産過剰となり、使い捨ての横行する時代となった。それが、日米など国際経済収支の問題にもなった。いわゆる、’日本人の働き過ぎ’である。この問題は、西欧では「週休二日制」で対処されていたが、資源小国の日本では、それまで、「土曜半ドン」が公務員の一般的制度であった。
資源小国の日本が「週休二日制」をとるには、資源は輸入するとして、その代り技術大国になる必要がある。それを矛盾なく両立させるには、少なくも2つの問題がある。その前に、なぜ週7日なのか、地球自転公転周期(1日、1年)、月齢と宗教行事などの関連もあるが、省略する。第1の問題は、小中学校の先生方は、教師という聖職者であるのか、教職公務員という労働者であるのか、どちらでもあるとすれば、「週休二日制」を初等教育の教員に例外なく実施すべきか否か、「土曜半ドン」制の方が良いのではないか、という問題である。その裏には、学力低下の問題があり、資源小国の日本が技術大国に成長するこの困難さへの危惧があった。高等教育には、この問題はない。学生も教師も必要に応じて土・日も学校行き、或いは自宅で仕事も勉強もできたからである。第2の問題は、「働き過ぎがなぜ起こったか」であり、当時はその原因にまで遡って議論した人は殆どいなかった。それは、21世紀になって特に顕著になった「化石燃料の使いすぎ」による「エネルギーの枯渇と地球環境問題、(人口)食料問題」である。これら3難問の結合した人類生存の危機に対処できるのは、地球環境そのものを活用した太陽エネルギーや地熱など無尽蔵のエネルギーを利用した新エネルギー工学の発明以外になく、それを可能にするのは第一に教育の力である。石油ピークはあと20年くらいで来るであろうし、地球温暖化のPoint of No Returnはこのまま行くと10年後に迫っている。
1つの改革には必ずプラスとマイナスが伴う。また、プラスかマイナスかの判断も量的には個人差がある。この前の「ゆとり教育」にも、プラスとマイナスがある。初等教育に於ける「週休2日制」は、いわゆる「働き過ぎ」とは殆ど関係ない。日教組の先生方には組合運動が公然とできる時間が増えるプラスがあったであろうが、生徒の学力低下への影響の方が大きいであろう。学問教養を広い目で見る「ゆとり」のプラスも「学力低下」のマイナスとは比較にならない。そこで、文科省は「総合教育」を発案した。いい先生が上手に教えれば、授業時間数はそれほど問題ではない。実際、学力低下しなかった東北や長野や私立の学校には、そうした先生が実績を上げていたようである。
以前の「ゆとり教育」施行の時と今回の「分厚い教科書で、話し合って学ぶ」、「言葉の力」を基礎に、とある、新・小学校教科書の時とでは、時代が違うので、教える内容が違ってくるべきであるが、それを別にして、力のある良い先生のやり方を教科書に一部真似させる今回の教育方針の改革はそれなりに評価できる。ただ、依然として、と言うより、以前に増して、授業時間の不足が問題である。今回の改革案で問題になったかどうか知らないが、小学校の英語教育必修化の問題もある。英語教育を国語教育の助けになるようにするには、幼稚園児くらいから英語のやさしい童謡を歌で教えるのがよい。しかし、それには、土曜学校が必要である。今でも、武蔵野市や多くの私立小学校では、土曜学校があり、成功していると聞く。週休二日制を、教育については、止めて、せめて以前の「土曜半ドン制」を復活する必要がある。資源少国日本が技術大国となり、人類生存の危機にマイナスをプラスに転じて世界に貢献するには、教育改革が必要であり、その教育改革を成功させるには日本人の勤勉さを活用する必要がある。
(編集 湯浅・川東)