私達の教育改革通信

  140 20104 春季増大号

 

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フジテレビとトヨタ

〜社会的に低下する責任意識〜

石川 雅章(フリーエンジニア)

 正月に帰省先でテレビを見ていて,「おや?」っと思ったことがある。それは,フジテレビの「平成教育委員会」という番組で出題された,以下のような問題。

 

3つの袋のうち,1つにお年玉が入っている。子供がまず1つ選ぶ。その中身を見ないうち,親が残りの2つから1つ選び,それが「空」であることが示された時,子供は,最初に選んだ袋と残った1つを,交換するのとしないのとでは,どちらが「(確率的に)得」か。

 番組の進行役,ビートたけし氏が説明した番組の解答は,以下のとおり。

最初に子供が選んだ袋にお年玉が入っている確率は3分の1。親が選んだ袋が「空」であると分かってもその確率は「変わらない」ので,残った袋の確率は「3分の2」になるから,「換えたほうが得」。

 この説明には疑問を感じた。最初に子供が選ぶ時は,お年玉が入っている確率はどの袋も「3分の1」,というところまではいい。ただ,その後親が選んだ袋は,「空」だと分かった時点で確率が「3分の1」から「ゼロ」へと変化している。状況は変化したのに,なぜ子供が最初に選んだ袋は「3分の1のまま」で変わらず,一方で残った袋の確率だけが「3分の2」に変わるのか。変わるのなら,親が選んだ袋にあった「3分の1」の確率は均等に分散して,子供の持つ袋と残った袋に加算され,それぞれ「2分の1」ずつになる……つまり,子供が選んだ袋と,残った袋は,換えても換えなくても確率は同じ,と考えるのが自然ではないだろうか。子供が選んだ袋と,残りの袋の確率に,どうして「そのまま」だったり「変化」したりといった「差」が生まれるのか,たけし氏の説明からは全く分からない。

 と,ここでごちゃごちゃ文章で論じても分かりにくい。ソフトウエアを作れるエンジニアとして,実際にパソコンでシミュレーションしてみた。まず,以下のようなプログラムを作成した。

  1. 0,1,2」の3つの数のうち1つを乱数で決め「当たり(お年玉入り)」とする
  2. 同様に3つのうちの1つを乱数で選び,子供が選んだものとする
  3. 残りの2つのうちの1つを乱数で選び,親が選んだものとする
  4. a〉もし親が選んだ数が 1 で決めた数と一致していたら,1 からやり直す
    (あとから親が選んだ番号にお年玉が入っている状況を排除する)
  5. 子供が選んだ数が 1 で決めた数と一致した(お年玉が入っていた)回数を数える

 この一連の処理を,たとえば1万回繰り返した場合,5 で数えた回数を1万で割ったものが,子供が最初に選んだ袋にお年玉が入っている確率となる。テレビの解説通りであれば 0.333 前後となるはずだが,実際の結果は 0.5 前後だった。つまり,親が選んだ袋が「空」だと分かった後でも,子供が最初に選んだ袋と最後に残った袋とは,当たる確率に違いはない。テレビ局がどう反論しようと,これはコンピュータで得た結果だ。揺るがない。
 ところが,このプログラムをほんの少し変えるだけで,違う結果になることがわかった。上記 4 の処理を,以下のように変える。

  1. 残りの2つのうちの1つを乱数で選び,親が選んだものとする(そのまま)
  2. b〉もし親が選んだ数が 1 で決めた数と一致していたら,3 からやり直す

 この場合も,「あとから親が選んだ袋にお年玉が入っている状況を排除する」という意味で,ほぼ同じ処理のように感じるが,違う結果となる。たけし氏の説明に近い 0.333 前後となるのだ。いったいどう違うのか。
 〈b〉の場合,「親が選んだ袋にお年玉が入っていたら,別の袋を選び直す」という処理になる。言い換えると「空の袋を選ぶまで選び直す」こと。更に言い換えると,「必ず空の袋を選ぶ」となり,これは「親は,どの袋にお年玉が入っているか(いないか)を知っている」ことに等しい。 でもなぜ「親が知っているかいないか」で,最初に子供が選んだ袋の確率が違ってしまうのだろうか。
 前述の〈a〉では,親もどの袋にお年玉が入っているか分からないため,親がお年玉を当ててしまう確率も「3分の1」ある。それが空だと分かった時点で「3分の1→0」へと変化し,その分が残った袋に等しく分散される。「たまたま空だった」場合の確率は,コンピュータ・シミュレーションの結果が示すとおり,「2分の1ずつ」となる。プログラムでは,もし親がお年玉を引き当ててしまった場合は「カウント対象から除外」され,子供が袋を選ぶ段階からやり直されるわけだ。
 一方〈b〉の場合,親がお年玉を当てる確率は「ゼロ」だと,始めから分かっている。最初に子供が選んだ袋にお年玉が入っている確率は「3分の1」で,残りの2つは「合計3分の2」,というところまでは条件は同じだが,次に親が選ぶ袋の確率は「ゼロ」であるから,残った1つが「3分の2」ということになる。最初に子供が引いた「3分の1」の確率よりも高くなり,たけし氏の説明に近くなる。重要なのは,親の選ぶ袋が「(3分の1→)ゼロになる」のではなく,「最初からゼロ」という点である。コンピュータでシミュレーションして初めて分かった,微妙な条件の違いによる結果の差だった。
 しかし,私がここでコンピュータ・シミュレーションの結果まで示して,「あの放送内容は適切ではない」とフジテレビにクレームを出したところで,取り合ってもらえないだろう。おそらくテレビ局側は「〈b〉に相当する内容を放送した」ようなことを言って,幕引きを図るに違いない。
 というのも,じつは私と同じような疑問を抱いた人が少なからず存在する。インターネットで「平成教育委員会,お年玉,確率」などのキーワードで検索をかけると,じつに多くの記事が引っかかってくる。そのほとんどに,述べて来たような疑問がつづられている。それだけ疑問を感じた人がいるなら,相当数の「クレーム」も既に局側に行っているのではないかと思う。しかし,フジテレビのウェブサイトで,該当する内容の「説明」なり「釈明」なりの記事があるかどうか探してみたが,少なくともこの原稿の提出前には,見つからなかったのだ。
 一方,該当する問題を紹介したページはあった。そこには,子供が選んだ後の残りの2つの袋のうち,お年玉が入っていない袋を「教えられた」とある。「親は知っていた」ことが前提にあったとも受け取れるが,微妙な言い方だ。
 番組でのたけし氏の説明は更にあいまい。少なくとも,3つの袋に「番号が振られる」などはなく,見た目では区別はつけられなかった記憶がある。そうした状況で,ただ「親が選んだ袋は空だった」と言われれば,「偶然そうなった」と解釈されても仕方がないのではないだろうか。これは前述のプログラムの〈a〉の処理に相当し,結果は 0.5 であるから,子供は袋を換えても換えなくても確率は変わらない,と考えるのが自然なはず。たとえ親がお年玉のある袋を知っていて,親が選ぶ確率が「ゼロ」だったとしても,「子供がその事実を知らなければ」偶然として捉えるしかない。子供から見た状況は〈a〉であり,「確率は同じ」と考えるのが妥当だろう。番組を見てそう解釈した人が多かったからこそ,それだけの「疑問を訴える記事」がウェブ上に公開されているわけだ。
 フジテレビのサイトにあった詳しい番組内容紹介ページは放送後に公開されたものだろうが,イラストのみの「紙芝居」のようなものになってしまっていて,実際にたけし氏がした説明の微妙さは分からない。

 ここに,番組内容云々とはまた別の問題を感じる。
 マスコミの使命は,「事実を『正確に』伝えること」のはず。前述のように,「おかしい」と感じる人を相当数生じさせてしまっていて,果たして放送内容が適切だったと言えるだろうか。その検証も説明もなく,「それは受け取る側の問題」のような対処で済ませていいのだろうか。以前,同系列の関西テレビで起きた「発掘あるある大辞典」の問題の教訓は,活かされていないようだ。
 もっとも,フジテレビに限った話ではない。過去には NHK で,もっとひどい事例も起きている。それは「NHK スペシャル:奇跡の詩人」という番組。内容を疑問視する人は多方面に及び,なんと「異議あり!『奇跡の詩人』」というタイトルの本まで出版されている。
 私はその本をサラッと読んだ程度なので詳しいことは省略するが,内容は,ある「障害児教育法」によって「詩を書き,出版をするまでに至った知的障害児」の話。ところが放送後,インターネット上で「とても本人(障害児)が自分の意思で記述しているとは思えない」という話が浮上し、有志が集まってビデオを見て検証しようとしたところ,NHK からの「著作権」を盾にした「妨害工作」とも思える行動に遭う。一方で NHK は,「(実際に本人の意思かどうかの)検証番組ではない」との理由で,事後的な詳しい検証は一切していない,という。
 もう「構図」が前述のフジテレビと似ていることは,なんとなくお分かりいただけると思う。放送後に「内容の信憑性,正確性」に疑問が生じても,詳しい検証や説明がされていないわけだ。NHK の場合その理由はハッキリしていて,「視聴者の受け取り方が,放送局側の伝えたかった内容と異なるから」といったような主張で、「違った受け取り方」をした視聴者への疑問に応えようとする「責任感」のようなものは感じられない。こちらも「正確に伝える」というマスコミとしての使命感が欠落しているように感じる。

 そこへ持ってきて,今回のトヨタの「プリウス・リコール」の話。 問題がかなり異なるように思う方もいるかもしれないが,私としては「似た構図」を感じている。それは,リコール前のトヨタの説明である「ブレーキの利きに,運転者の感覚とズレがあるだけ」というセリフに見て取れる。プリウスの「運転者」は,テレビ局にとっての「視聴者」に相当すると考えれば,「運転者の感覚が(作った側の意図と)異なるだけ」だから「(リコールするほどの)不具合ではない」と結論付けようとすることは,「視聴者の解釈が,番組を作った側が意図したものと異なるだけで,番組の内容に問題はない」といった扱いに似ている。
 ただプリウスの場合,「人の命に関わる」ことでもあり,放送局のように「問題ない」で押し通すには限界があったのだろう。実際,そのことが原因と思われる人身事故も,既に起きていたと聞いている。今回のリコール問題では,「リコールするほどではない」との「トヨタ擁護派」も少なからず存在するらしいが、特に「自動車業界」にそうした主張があるという。こうなると,社会的にも「根深い」問題なのではないかと感じる。
 ちょっと話が変わるが,私はウィンドウズ・パソコンを十台前後所有している。ただ,どれ1つとして「購入」したものはない。全て「古くなったので使わなくなった」とか,「動きがおかしいので買い替えたために余った」といった理由で,譲り受けたもの。だから,それぞれちょっとずつ問題を抱えている。古いものは,もう最新の周辺機器やソフトウエアには対応できなくなっていたり,それほど古くなくても,「起動する度,必ず内部時計が狂っている」など,そのままではたいへん使いづらかったりするのだ。 しかし私は「エンジニア」だから,古いパソコンでも動くような,ソフトや中古周辺機器を探すことができる。少々の不具合は,部品を交換して問題のない動作をするまでに修理できることもある。そこまでいかなくても,設定を調整しながら「だましだまし」使い続けられる場合もある。ただ,そうして「だましだまし」使い続けられるのも,コンピュータの仕組みをある程度知っていればこそ。事情を知らない人に「少々の不具合で捨てるのは『環境破壊』につながるから,何とか工夫して使い続けなさい」と言うのは,無理な話。
 「プリウス」のリコール問題に話を戻すと,トヨタ擁護派も「自動車業界」に存在するわけで,そうした人達は,それなりに自動車の仕組みや動きについて熟知しているからこそ,そう感じるのではないかと思うのだ。
 今回の問題は,ブレーキの「ABS」と呼ばれるシステムにあるらしいが,私がよく利用するタクシーの運転手氏の話によると,ABS 車に初めて乗った時は「(ブレーキを踏み込んでも)止まらない!」という感覚のほうが強かったらしい。「不安だから(ABS を)機能させずに運転することも多かった」と言う。ベテランの運転手ともなれば,タイヤがロックしないように,チカラを加減してブレーキを踏むのが「常」となっていて,そうした人にとって ABS は,「余計なお世話」以外の何物でもなかっただろう。その延長で,ブレーキの動作に,豊田社長本人の言う「抜けるような」感覚が少々あったとしても,「クルマ」を知り尽くしている人にとっては,「少し早めにブレーキを踏み込む」よう「加減」すれば済む話,という感覚なのかもしれない。いくらでも「だましだまし」乗り続けられる程度の問題なのだろうが、それができるのは,自動車の特性をある程度知っている人であればこそだ。だいたい,「余計なお世話」な ABS が搭載されるようになったのは,そうした「加減ができない人」が多く運転するようになったためだろう。運転している人全てが自動車の仕組みや動きを理解している時代ではないのだ。むしろそうした人は少ないのではないか。
 「自動車業界」は,そうした「よく事情を知らない人」にも自動車を売りつけることで成長してきたことを忘れてはいないだろう。自動車の詳しい仕組みや動作をよく知らず,「ブレーキは思いっきり踏めば必ず止まってくれる」としか考えていない人にも,ABS のような仕組みを搭載していることを「安心の根拠」として売って来たのではないか。そうした人も運転する自動車で,わずかでもブレーキが利かない瞬間があり,しかもそれで実際に人身事故まで起きているという状況で,業界に「擁護派」が存在することには疑問を感じる。ましてやトヨタの自動車販売台数は世界トップクラス。それだけ「事情を知らない人」にも売りつけてきたと言える。それなのに,一時的にも,「運転者の感覚のズレ」を理由とした「リコール隠し」とも受け取れる態度があったことは,たいへん大きな問題だと思う。インターネット上でも「こども社長」という言葉が囁かれているくらいだ。コマーシャルに出てくる子役のことではない。これまでも不具合への対応が後手々々に回っている上,リコール会見時の緊張感にも乏しい豊田社長本人を指す言葉だ。

 前述のテレビ局の話同様,「受け手の立場で考える」ことが,産業界全体に希薄になりつつある,ということではないだろうか。テレビは「マスコミ」であり,自動車産業は「マスプロ」である。どちらも,一度に大量の人を「利用者」とする産業。サービスや製品を提供する側は,提供を受ける側が「どのような人達か」をキチンと把握し,それらの人達が「間違い」を起こさないように努める責任があるはず。しかも大企業ともなれば,何か問題のあるものを世に送り出してしまうと影響は莫大なのだから,それなりに責任も大きいはず。最近の大手企業の振舞いを見ていると,そうした責任を感じているのかどうか,疑問に感じることが多い。述べてきた放送局や自動車メーカーに限らず,航空会社や金融機関などが最終的に「破たん」にまで至るケースが相次ぐ現状を見るにつけ,どうも,社会に対する「責任感」が,どんどん薄れてきているのではないかという気がする。

 2 月 20 日,経済産業省が,日本産業界の競争力低下に危機感を抱き,「産業構造ビジョン」をとりまとめるというニュースを聞いた。その中身に「韓国の制度を参考にする」と言うほど,今の日本の産業界は深刻らしい。ただ,述べて来たようなことから判断するに,その重要な原因の一端は,組織内部の「意識」や「体制」にあるような気がする。「制度」云々で解決するような問題ではないのではないか。
 誤解を生じさせるような説明を鵜呑みにした人が,実際の事例と合わずに「やっぱり私には理系はダメだ」と思わせてしまいそうなマスコミの教養番組。通常の感覚と異なるブレーキの動作にヒヤリとして「もう運転したくない」と思う人を増やしそうなマスプロの自動車。事情を知らない人達に向けて大量にもたらされる「配慮に欠けた」ものが,「理系離れ」や「テレビ離れ」,「クルマ離れ」,引いては「競争力低下」を加速させているような気がする。その加速にブレーキをかけたいということなのだろうが,「経産省主導」で止められるかどうか,プリウス以上に心許ない。(参考:
ダイヤモンドオンライン:自動車業界に広がるトヨタ擁護論!

 http://diamond.jp/series/ecocar/10030/

モンティホール問題
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%95%8F%E9%A1%8C

 

 

東宝サラリーマン喜劇にみる

「社縁」のコミュニティ

佐々木聖

会社のホームドラマ

 戦後の日本社会は地方から都市へ人口が流入することで高度経済成長を成し遂げてきた。サラリーマンの増加によってコミュニティの基盤は「地縁」から「社縁」に移った。しかし、その「社縁」が機能していたのも、終身雇用・年功序列が守られていたバブル経済のころまでだ。「地縁」も「社縁」も失い、少子化で「血縁」も薄まっている「個人」は、気がつくと「孤人」になっていた。携帯メールを一心不乱に打つのも、誰にともなく140文字のつぶやきを繰り返すのも、コミュニティを取り戻そうとする姿と見えなくもない。いま、教育からビジネスまで、あらゆる分野で「人と人とのつながり」が「再生のためのキーワード」として語られることが多いのは、日本社会を鬱屈させている濃霧が「コミュニティの喪失」から発生しているためではないか。

 だが、この小稿で述べたいのはそんな大きな問題ではない。おそらくバブル崩壊以後に社会に出た世代くらいからは、「社縁」といわれても具体的なイメージが思い浮かばないだろう。しかし、日本の高度経済成長を支えたコミュニティは確かに「社縁」であったことが一目瞭然となる格好のテキストが、レンタルDVDショップの棚にも並んでいる。昨年末に96歳の長寿を全うした森繁久弥の代表作のひとつ、東宝映画の一連の「社長シリーズ」だ。

 1952(昭和27)年の『三等重役』をその源流として、1956年の『へそくり社長』から1970年の『続社長学ABC』まで、およそ年2本のペースで33本(番外編も入れれば39本)つくられたサラリーマン喜劇。ひとことでいうならこれは「会社を舞台にしたホームドラマ」である。

 もちろん喜劇なので極端に戯画化されている。しかし喜劇だからこそかえって、もとになる設定や題材は「いかにも現実にありそうなこと」でなければならない。テレビのお笑いの「あるある」ネタ(日常の些細なことに目をつけ、なるほどそういうことってあるよねえ、と気づかせて笑いをとるネタ)も、この鉄則に基づいている。喜劇が悲劇よりもはるかに成立しにくいのは、現実にありそうなことを前提にしないで虚構の世界への敷居を高くすると、「シュールな笑い」などといわれて、マニア受けはするが多数の共感を得られないからだ。「SFで喜劇をやれるのは天才」と筒井康隆はかつて述べていた。

 前提の制約が大きいから、一度うまくいけば同じキャラクターと同じパターンの繰り返しになる。寅さんやチャップリンは二人はいらない。洋の東西を問わず、成功した喜劇映画が少なく、過去に集中しているのはこのためだ。  

 いずれにせよ喜劇の設定や題材には、なにがしかの同時代的な風潮や慣習や規範が反映しやすい。「社長シリーズ」のような会社を舞台にしたホームドラマが、「あるある」ネタとして高度経済成長の時代には成立した。「会社=家庭」なら上司は父親であり、部下は子どもだ。この対応関係は社長の森繁久弥と秘書の小林桂樹の間で(人気の出た喜劇の定石通り)シリーズ全体にわたり繰り返される。森繁社長は戦後の家族における父親像を反映してか、かつての家父長的な権威を象徴する存在ではない。秘書は社長の命令にとりあえず従順だが、バーのマダムや芸者との浮気を監視するお目付け役も社長夫人から言いつかっている。浮気の現場や証拠をつかまれると、社長は(もしくは秘書のほうから)交換条件を持ち出して揉み消そうとする。それも昇進や賃上げといった生臭い話ではなく、色恋沙汰がらみの「お互いさま」的な他愛ない話が多い。ともあれ父たる社長は、母たる夫人や子たる社員に首根っこを押さえられているのだ。これがホームドラマとしての「社長シリーズ」の基調となっている。戦後民主主義のもとに生まれた核家族の父親像に恥ずかしいほど瓜二つではないか。

 

公私混同のおおらかさ

 「会社=家庭」なら仕事とプライベートの公私混同も「あるある」だ。日本的経営のこれほどわかりやすい戯画化もまたとない。あからさまな一例がこのシリーズの母体となった『三等重役』(源氏鶏太原作)からすでに見られる。

 ちなみにこの「三等重役」という言葉自体もすでに日本的経営の淵源となる重要なキーワードといってよい。敗戦後の占領軍によるパージで公職追放されたオーナー社長に代わり急きょトップの座についたサラリーマン社長を指す当時の流行語で、創業社長が一等重役なら二代目は二等、社員からの叩き上げは三等というわけだ。今にして思えば、いわれのない揶揄というほかないレッテルを貼られた人たちが高度経済成長を牽引した(ただし、この時点ではパージ解除になったオーナー社長が元気であれば戻ってくる可能性もあるわけで、リリーフとしてのペーソスもこの言葉には込められているのだろう。この映画でもそのことがモチーフのひとつになっている)。三等重役たる食品会社の社長(河村黎吉)は「わが社ほど民主的な会社はありませんからな」と胸を張る。

 で、その民主社長が何をやるかといえば、妻帯者の社員にはボーナスを奥さんに直接手渡しすることにする(若い世代にはかつて給料は銀行振込ではなかったという解説が必要かもしれない)。この映画の舞台は地方都市という設定なので、まだ「地縁」と「社縁」が地続きだった当時、幹部社員の奥さん連中が集うコミュニティである美容院で、賞与明細を偽造して差額分をへそくりにまわす社員が多いという週刊誌の記事を読んだ彼女らが、訪れた社長夫人(沢村貞子)を「社員を家族のように思って頂いている」とおだて上げ、ぜひとも今度のボーナスから私たちに直接手渡してほしい、と頼み込むのだ。この作戦が功を奏し、夫人に頭の上がらない社長はこの要望を受け入れる。会議室に苦虫を噛みつぶした顔で居並ぶ社員を横目に、社長は喜色満面たる夫人たちに賞与袋を手渡す(彼女らのほとんどが正装として和服を着ているのが時代を感じさせる)。帰る道すがら、「奥様、お紅茶でも飲んで行きませんこと? 一杯呑んで帰る主人の気持ちが何だかわかるような気がいたしますね」と笑い合う夫人たち。しかし直後に人事部長(森繁久弥)が社長に神妙な顔で「誠に申し訳ありません、私の手違いで特別賞与分を入れるのを忘れておりました」。自分のボーナスも夫人に渡った社長はそれを聞いて「それはいかんではないか。…キミもなかなか老獪よのお」とニヤつき、このエピソードにオチがつく。

 

ガバナンスの源流

 この何とも牧歌的でおおらかな「会社=家庭」の公私混同ぶりにため息をついていると、さらに(いまとなっては)衝撃的な場面が現れる。庶務課の社員(小林桂樹)が「魚の缶詰に針が入っていた」という消費者からのクレーム電話に応対するのだが、「わが社の工場は完全オートメーションで製造しておりますのでそんなことはないかと……。何の針でございましょうか? 釣り針? ははあ、きっと漁師さんがとり忘れたんですな。以後気をつけますです」やれやれと電話を切り、まわりで笑いを噛み殺す同僚たち。

 これがサラリーマン喜劇の「あるある」として通用した時代。ガバナンス(企業統治)だのコンプライアンス(法令遵守)だのCSR(企業の社会的責任)だのでがんじがらめの現代企業にとっては、この国にもそんな過去があったことはできれば知らないでおきたかった話なのか。いやしかし一面では、魚なんだから釣り針のひとつくらい入っていたって食卓で気をつけて取り除けばいいではないか、というこの時代の「おおらかさ」に郷愁めいた感慨も覚える。

 かと思えば「社縁」の時代から今なお変わらない日本企業の特質を発見する場面も高度成長期のサラリーマン喜劇にはある。『社長道中記』(1961年)で加東大介の開発部長が「新製品でございます、ひとつ味見を」と森繁社長に差し出すのは「かたつむりのフレンチグラタン」「かえるの大和煮」「まむしの蒲焼」の缶詰。ぞっとしない森繁社長は健啖家で知られる小林桂樹社員を呼びつけて「食べてみたまえ」。小林桂樹は「これは塩味が強いので酒の肴向き、こちらは甘いのでご婦人やお子様向きでしょうか」などと感想を述べると、森繁社長はすかさず加東部長に「きみ、メモしておきたまえ」。さてこの三つの新製品を商社の三橋達也社長に売り込むため宴席を設けて森繁社長、三木のり平支社長、小林社員が缶詰のかぶりものをして宴会芸を披露するというこのシリーズお定まりのギャグが展開されるのだが、こういうのを見ていると、最近とみに語られる、日本の中小企業は技術には優れているがマーケティングに欠けている、という指摘に思い至らざるをえない。市場リサーチをしてターゲットを絞り込みニーズを把握して製品を開発するのではなく、技術を駆使し製品を開発してから売り先を考えるから、いきおい「営業=接待」とならざるをえない。程度の差こそあれ、こちらは今に続く「あるある」といえるのではなかろうか。「スリッパ片方でも売って見せる」と豪語する営業マンはもはや伝説の部類だが、現実に存在していて筆者もかつて会ったことがある。とはいえマーケティングさえすれば売れるのかといえばそれはまた別の話なのだけれども。

 低成長の時代に失われたコミュニティを再生するため昔の「社縁」に戻ることはできないし、戻る必要もない。しかし社縁の時代だけにあったある種の「おおらかさ」と、社縁の時代から続くある種の「行き詰まり」を「仕分け」してみるのに、かつてのサラリーマン喜劇は格好の材料を提供してくれるのだ。

 

老いの履歴(ヒステレシス)

                長屋のり子

今朝、アメリカの大統領の名前がどうしても思い出せなかった。どうしても、その、幼稚園児しっている「オバマ」が出てこなくて、「イエス、ウィ・キャン!」と、彼の物真似をするコメデイアンの名前から近付いてとり出そうと記憶の回路を迂回させてみた。そう「ノッチ」だ。そんな詳細まで脳は記憶しているのだ。「チェンジ!」大丈夫、慌てなくていい。

もうそこまでだ・・・となだめるように自分の頭に言い聞かせてみるが、脳裏にのぼってくるのは「ステファノ」「ゴレゴ」「スピノザ」・・・。全く脈絡関連のない変な名前ばかりがゆるく脳漿を泳ぎ、どうしても「オバマ」に辿りつかれない。日本海に面した市の名前と偶然にも同じだったじゃないかと、ドライブスルーした街を思い浮かべる。「羽合」とハワイの語呂合わせに夫と笑って通り過ぎた街!違う。ハワイなんて名の大統領が居る筈がない。そうだ、ハワイで育ったと聞いた大統領だ。あの日本海をまるでフリルのように縁取る原子力発電所に近い街だ。そこまで思い出せるのだから、悲観しなくていい。もうすぐだ。大丈夫、だいじょうぶ、焦らなくてもいいと、自分を励ましつづける。うん、うんと自分に肯き返しながら、不安が胸をすぎ、焦燥が募る。日本海の静かな寂しい街の、国道の気配、波の打ち寄せ方まで思い出しているのに、市の名前が思い出せない。大統領の妻の名前はミシェルだ。任命式の日、ニナリッチの金色の薄い羽根のようなカーデイガンを羽織っていた。職業は弁護士。夫婦の恋の履歴まで思い出せるのに、やってくるのは、そうした意味のない輪郭ばかりで、それが頭の中を堂々巡りする。泳ぎ廻る。その空転にやっと、脂汗が滲みはじめる。そういえば、ものところ、人の名前によく躓く。先週は俳優の竹中直人が思い出せなかった。竹中労が強く押し出て、直人が出て来るまでに三分かかった。

 遠い山陰の伯父に痴呆が始まった時、伯父はまず、言葉から失った。朝から晩まで、照っても降っても空を呆っと仰いで「ジャン・ルイ・バロー」と悲しげに呟きつづけていた。水仙が咲いてもジャン・ルイ・バローで、抱き寄せた猫でさえジャン・ルイ・バローと虚ろに呼んだ。映画『天井桟敷』のジャン・ルイ・バローだ。伯父の凄惨な混濁の日々。

 アメリカの大統領は一体誰だ!わたしの暗い悲鳴。痴呆の入り口に違いない。絶望の黒い洞の咆吼の口が遂に私に向いたのだ。母が、赤いレンガの美容院の悲しみの階段に、薄明、蹲っていて保護された霧の日があった。“どうして其処に行ったのか、考えても考えても分からないのよ、蒼茫の夜明けが寂しかったのね”とそのあと母は清々しく、なんの軋みも見せず、純粋に内へ向かう声で云って、微笑っていた。嗚咽のようなものが私の帰還を震わせて這いのぼってくる。そのあと母も亦呑み込まれた。この貪婪な黒い洞のバキューム力の獰猛、視界が分厚くかすむ。私は、アメリカ大統領の名前がきっと永遠に思い出せない。

 今朝からドラスティックに私の履歴(ヒステレシス)が始まる。その索漠の淵に立った今日の日付を書き込もうとして、今日の日付が、思い出せない。ジャン・ルイ・バローの十三月に私は歩み出したのか?兎にも角にも、息をつかねば、大きく息をつかねばと私は焦る。その息のつきかたが既に、今朝はおもいつかない。広がる恐怖の虚空。しめつけられるように心臓の鼓動が遠くなる。私の(新しい戦慄)。エントロピーの増大。

           (「小樽詩話会」より転載)

 

西へ行きます            青柳和枝

 

ある日  地の奥深く       無酸素の水のたまりの中で

今の世に現れた縄文の巨木たち   時空を超えた静寂の生

わたしはそれらが語りかける声を  聞きました

その夜のこと     この地球が生まれるとき宇宙から賜った

わたしの体の中のひとかけらの鉄が  熱いエネルギーとなって

わたしを動かしていることを     知りました

 

出会いの        石のごとく放つパワーを全身で感受し

結ばれた線に  両の手を合わせないではいられなくなりました

それは出会いではなく   再会なのかもしれません

 

そんな青たちが いえ   この世界の

すべての青が      わたしにはほほえみかけてくれている

 

西へ行きます          背を向けるのではありません

拭い去ることのできない涙は抱えたまま  十分の一世紀を経て

いま        あの時の 木の間越しに弾けて笑った青に

もう一度逢いたくて          だから わたしは

きっと逢える気がする西へ       西へ 行きます

(山尾三省さんの妹さん、文士で詩人の長屋のり子さんが、友人の青柳和枝さんの詩とともに「教育通信」に丁度良い長さの随筆を送ってきたので、無断で「小樽詩話会」(2010/3)より抜粋転載させていただいた。うんの記)

 

 

未来と繋がる、ある方法

“展覧会をつくる”という共同作業

太田菜穂子

歳をとるということが意外にも快適なものであることに気がついたのは一昨年のこと。ある人が撮ってくれた写真の“自分の本当の顔”との向き合わされた瞬間だった。自分の顔、生まれてこのかた、毎日見ていたはずの顔なのに、こうして真っ正面から向き合うことはなかったことに、その時改めて思い知らされた。

朝、顔を洗い、お化粧をし、髪を梳かす、鏡の中に映っていた私自身、それが“他人が見ている今の、本当の私ではないこと”をその写真ははっきり語りかけていた。目尻や口元の細かい皺、ほほのシミ、あごの線のたるみ、老いという症状がそこにははっきり刻まれていた。ただその時、今まで味わったことのない暖かい感情が心の中にじわじわと満ちてきたのを感じた。たれ目だけれど、視線の行方に暖かさを感じさせる目力、こめかみの蒼く浮いた静脈、ゆるやかに結ばれた口元、意志を感じさせるあごから首筋の線。若き日の私自身を魅了した大人の女性たちの特徴をそこに発見することもできた。

それにしても人間はなんて面倒な生き物なのだろう。若い時は円熟と成功に憧れ、歳をとると若さと自由にこだわる、目の前にある“今”と向き合うことを“潔よし”としない。人生という永くて短い、一夜の夢のような“時間”にあまりに過剰な願望を託しているようだ。

“歳をとることの快適さ”という表現が正しいか否かは別として、少なくとも私の場合、今の自分を向き合うことが出来るようになった分だけ、人生が楽しく、軽くなったことは事実だ。過剰な期待を自分にも周囲にもしなくなった分、“今”とつきあう時間の質が変わり、その使い方が巧くなったからかもしれない。少なくとも私の“若いころ”は、出来もしないくせに、出来るはずだというイリュージョンの中で、地道な努力をすることなく、時間を無駄づかいしていた。 しかも本人がそれをどこかで自覚しているがゆえに最悪のスパイラルに陥ってしまっていた。“本当のことに向き合うこと”、これはそれなりの覚悟と大人の勇気がいることなのかもしれない。

さて私が“写真という表現”に関わる仕事をして早20余年が経った。まさに“光陰矢の如し”、写真の基本となる光と影が分かるのにこんなにも時間を要したのかと思うとちょっと不甲斐ない。ただ、後悔をしている時間はない。費やしてしまった時間と労力を未来にむかって生かしたいと考え、今年、ある決断をした。ささやかだけれど、真剣な決意だ。つまり、私の失敗を積極的に若い世代に語り、その問題点を分析し、彼らの場合にあて嵌め、“今の問題”への解決として、共にアクションを起こすというものだ。私は今、『展覧会をつくる』という共通のゴールの下、彼らと共に“今”とい時間の質を高めている。

プロジェクト名は『HIKARI 5人5色』、5人の新進気鋭の作家たちと『HIKARI』をテーマに展覧会を作り上げている。作品のセレクション、展示スタイル、広報、会期中のギャラリートークに至るまで、徹底的に“他人にとって作品がどう映るのか?”を検証しながら準備を進めている。

 

GALLERY 21

特別企画展

HIKARI 5人5色—

会期 2010年6月8日(火)〜7月19日(月・祭日)

 

参加作家

岩田栄二      Eiji IWATA

胡 セリーン    Celine WU

杵嶋宏樹      Hiroki KISHIMA

田尾沙織     Saori TAO

西山功一      Koichi NISHIYAMA

 

時代を記録し、時代を記憶する写真。

5人の写真家の作品を通してそれぞれの写真家の“HIKARI”について考察する企画展です。テーマとなる“HIKARI”とは現代という時代にだけ存在する“リアルタイムのHIKARI”をさします。“今という時代”にオリジナルなスタンスで向き合い、異なるビジョンと思考で紡ぎ出される写真、今回は5人の写真家の判断、思考回路を通過し、“写真にされたHIKARIのすがた”をじっくり検証してゆきます。

 

路上で出会う被写体を淡々と描き出す岩田栄二のクラシックなHIKARIとのつきあい方。湿度や温度のデリケートな差まで感じさせる、胡セリーンのインティメートなHIKARIの存在感。焦点を強烈に指示しつつも、柔らかな色調で、変わりゆく時間と情感を重ね合わせる杵嶋宏樹のHIKARI。 時代を覆う説明できない不安や戸惑いを感じさせる田尾沙織の突き抜けた明るいHIKARI。 限りなく制御された西山のフラットな姿勢によって浮かび上がる“場所の充足感”を伝えるランドスケープのHIKARI。 

新進気鋭の作家がそれぞれのセオリーとマナーで語りかけます。

 

5人の作家の“今”に関与する、これはコーチングでも教育でもなく、私自身が“未来の時間”に繋がってゆく積極的な行動であると思っている。一緒に考え、一緒に行動すること、その確かな記憶こそ、信じられるものとして継承されてゆくものとなるのではないだろうか?

GALLERY 21 Curator)

 

 

英国大学院初の選択科目 “Digital Heritage” を通して学ぶミュージアムとビジターの新しい繋がり

                    岡田香子

IT化」の波は、ミュージアムにも例外なく押し寄せている。以前はカタログやパンフレットだけであった主たる媒体は、モバイルテクノロジーや設置型のパソコン等に変化してきている。また、ミュージアムのウェブサイトもビジターとの新しい関係を生み出すひとつのツールへと発展した。2002年、欧州委員会は文化施設や記録に従事する機関は、この現状に対応を早急に図らないとならないと提言した。テクノロジーの発展により、ミュージアムとビジターの関係が変化したといえる。

 ここでは、私が2007年にマンチェスター大学大学院、美術館・博物館研究修士課程に在籍した際、選択したUK初の授業科目Digital Heritage(デジタル・ヘリテージ)’で学んだことをレポートしたいと思う。

 

 Digital Heritageは文字どおりに訳せば「デジタル文化遺産」とでもなろうが、科目の内容はいささかそのイメージとは違っている。デジタル技術を駆使してミュージアムとビジター結ぶための方法論を学ぶ科目である。前述したように、ミュージアムでは、様々なレベルでデジタル化が進んでいる。以前は、紙であったものがコンピュータになったり、以前は主流であったオーディオガイドも様々な形に変化している。ニューメディアをどのように生かしていくか、理論とアプローチの方法を学ぶのが目的の授業である。この授業を選択したのは、イギリス人4名、フランス人1名、アメリカ人1名と私の7名で、お互いを良く知ることができ、それでいてディスカッションのできるちょうど良い大きさのクラスだった。

この科目はあくまで理論を学ぶものであり、ウェブ構築等の実践的な技術を学ぶものではないということは、この授業の特徴のひとつだと言えるだろう。たとえばミュージアムのウェブサイトが、ビジターにどのような効果を与えるかを考えることがテーマなのである。授業は、講義、ディスカッション、グループプロジェクト、校外学習で構成されている。講義やディスカッションを通して基本的なことを学び、それを授業のハイライトでもある、後半のグループプロジェクトに結びつけなければいけない。

プロジェクトの課題は、「ミュージアムのニューメディアを考える」。まず、大学関連ミュージアムから、一館が各グループに割り当てられる。そして、その館内から適当な展示物を選び出し、それを題材にするのだ。成果物は、デザイン画と小論文。そして、プレゼンテーションで、2つのグループが点数を競い合うのだ。共同作業も評価の対象となるので、プレゼンも小論文もみんなで分担して完成させなくてはならない。

私たちのグループは、大学の付属であるマンチェスター博物館を割り当てられた。様々な展示物から、メインコレクションのひとつでもあり、また近年いろいろな意味で話題になっているミイラ展示を選んだ。話題の一つに、遺骨やミイラの展示に関するガイドラインの問題がある。同じマンチェスターにあるボルトン・ミュージアムで、リバプールを拠点に活動しているアーティスト(タビサ・キョウコ・モスズ)が2007年の展覧会において、人間の実際の上腕骨を埋め込んだ作品を出品した。綿素材でできた腕に花や植物の刺繍が施され、そこに上腕骨が埋め込まれているのだが、まるで人間の両腕が切り取られたように見える。繊細なつくりの刺繍の美しさと生々しい骨とのギャップが、見る人によっては不気味とか異様に感じられる作品である。

ボルトン・ミュージアムには遺骨の展示や扱いに倫理規定があり、芸術的な目的のみの展示は許可しないことになっている。また、すべての人骨等は、歴史的な文脈でこれをとらえた解釈説明をしなければならないことになっている。この規定にしたがって、この作品はオリジナルでは飾らず、動物の骨に置き換えたレプリカ展示となったいきさつがある。私がインタビューしたミュージアムのシニア・マネージャーによれば、人骨はwebサイトから購入されたもので、インドないし中国からのものと考えられるが、考古学的な説明にとって必要な発掘の場所等が明確ではないという。

しかし、ボルトン・ミュージアムのパートナー組織である20-21ヴィジュアル・アート・センターでは、作者のモスズの人骨使用のコンセプトを受け入れてオリジナル展示に踏み切ったのである。彼女は作品に添付した資料「論争の種」において、本物の人骨を作品に使う理由を次のように説明している。

「本物の骨は鑑賞者に衝撃を与え、死、生、肉体、魔法など、いろいろなことを考えさせるきっかけを与える。私は人骨についての倫理問題も含め、人々の感受性について作品を通じて探ろうとしているのだ」

モスズによれば、ミュージアムが収集している遺骨やミイラなどは、植民地時代という背景において手に入れられたもので、倉庫に置かれているだけではただの「モノ」に過ぎないという。実際、彼女はボルトン・ミュージアムの倉庫のガラスケースに置かれた恐らく南米のものであると思われる古代の保存遺体を見たとき、悲しい思いをしたという。彼女は、展示されることによって、遺体たちも生身の人間であったという事実を尊重でき、遺体に対して敬意を払うという思いを来館者に伝えることができる、と信じているように思われる。

このように、ミイラには「人間の尊厳」について考えさせ、生と死という大きな問題へと私たちを誘う力を持っているのである。私たちがインタラクティブ時代のミイラ展示法として考えたのは、展示室にインタラクティブ・キオスクを設置し、他のビジターや館外のウェブサイト利用者、またミュージアムスタッフとの交流を促すという提案だった。インタラティブ・キオスクは設置型のパソコン端末である。ちなみに、欧米のミュージアムでは、このような端末が双方向型のメディアとして置かれつつある。

(参考:

http://www.archimuse.com/mw2007/papers/hsi/hsi.html

これを使うことで、ビジターは倫理的な問題についてほかの来館者と議論をしたり、ミュージアムスタッフに質問をしたりすることができるのだ。情報を受け取るというだけではなく、情報を交換できるという点が、今までのミュージアムの設置型パソコンとは異なっている。たとえば「展示されているミイラが自分の親だったら?」「ミイラは返還すべき?」等の質問を、ミュージアムから投げかける。そして、それに対する意見を館外からもWebを通じて書き込めるようにする。また、その反対にビジターから質問を他のビジターに投げかけたりすることもできる。それを、誰でもが使いやすいパソコン型端末にするという案を出したのだ。

対するもう一方のグループは、マンチェスター市内のウィットワース美術館で当時やっていた「歴史を暴く―奴隷を忘れてはいけない」という展覧会を題材に、同美術館のウェブサイト内にインタラクティブな掲示板を設置するという案を出した。結果、数点違いで負けてしまったのだが、国際色豊かなグループの中で、主張しつつもお互いを尊重しなくてはならないという貴重な経験をすることができた。

オーディオガイドの時代には、一方的であったミュージアム内テクノロジーは、インタラクティブなものに変化している。それが、ニューメディアの特性だ。それをどのように、実際のミュージアムに取り込むか、実際の展示物を題材に構想を練るという経験は、良いトレーニングになった。設計を考えるのみではあったが、コースを通して、テクノロジーとミュージアムの関係を深く考え、形にするという作業を疑似体験できたと思う。

 

 Digital Heritage2010年現在も、マンチェスター大学同課程内に選択科目としてある。また、ミュージアム研究の盛んなレスター大学でも今年からは、単なる科目を超えて専門の修士課程ができた。Master of Art(学術修士)Master of Science(理学修士)の選択肢があり、芸術と科学の双方から、ミュージアム・デジタル化へのアプローチが可能になっている。

 新しいミュージアムメディアは、これからも誕生し続けるだろうが、根底にあるのはビジターとミュージアムの結びつきである。技術のひとつひとつを見ていくことが大事なのではなく、ミュージアムがビジターにどのように関わっていくか、またどのように伝えたいのかを深く考えることが大切なのだと痛感した。そして、当然のことながら「何を」伝えたいか(たとえばミイラ展示における「人間の尊厳」といったような)がミュージアム教育の核となることであることを改めて学んだ授業であった。

 

編集者の自由

飛田八郎

元新聞記者の大学教師が「教師は一つの編集者である」との視点で書いた『編集者としての教師』(注)を読んで「なるほど」と思い、私が学んだ前橋高校のユニークな教師たちを思い出した。受験戦争が厳しさを増す中で教師たちは「受験勉強は各自でやれ。高校は受験対策をするところではない」と言い切いた。「学問の楽しさを伝え生徒と一緒に学問の入り口まで行くのが教師の仕事だ」という態度が徹底していた。

そのころ『一般社会』という教科があった。その教師の髪型から私たちは「河童」という渾名を付けた。河童は教科書を用いず、最初にアリストテレスについて長々と語った。そして「これから一人一人に『講演』をしてもらう。テーマは何でもいいから話したいことを話せ。時間は8分。時間内に自分が話せる分量を知るため原稿は必ず400字詰め原稿用紙に書け。『講演』の後クラス全体で質疑応答を行う」といった。授業は教師が講義をするものと思っていた私は驚き、そんな授業に強く反発した。そこで自分の番になったとき『アフリカの思春期の女性』をテーマとし、少々ふざけた話をした。材料はヨーロッパの探検家たちの著作を引用して日本のジャーナリストが書いた随筆から、さらに孫引きをしたのである。そこへ取って付けたように自由奔放であることと社会的規制について少々の理屈をこねただけである。男女間のきわどい話まで含めたので河童が怒り出すと期待した。河童が怒ったら「こんな授業こそおかしい」と言い返すつもりだった。ところが話し終えても河童はにやにやしているだけだった。

全員の講演・質疑応答が終わると河童は「これまでは予行演習で、これからが本番だ。各自が予行演習の経験をもとにもっといい『講演』を考えろ」といった。私はこんどこそ河童を怒らせようと考えたところ、数人の友人から「こんどはちっとはマジメな話をしろ。河童は講演や質疑応答の態度を採点して一学期の成績を付けるつもりらしいぞ」といわれた。私は日和ってしまい『ベルグソンにおけるエラン・ヴィタール』を演題とした。翻訳書を読んで巻末の解説から引用して話をまとめ、ベルグソンの翻訳書を読んだいきさつを付け加えただけである。書物の中でエラン・ヴィタールのところはフランス語をそのまま載せていただけなので、私は読み方がわからず、勝手にエラン・ヴアイタルと読んでいた。いま思っても汗顔の至りだが、話し終えると河童が「ぼくはずっとこういう講演を待っていた。うん、きょうはよかった」というので私はめんくらった。河童は自身の旧制高校時代の寮生活に触れ、「諸君も受験勉強があろうが哲学書をうんと読め」と勧めた。私が少々いい気になると河童はぴしっと付け加えた。「しかし、ありゃ、フランス語だぜ。エラン・ヴィタールと読め」

 さらに質疑応答に移ると一人の友人が「ぼくもベルグソンを読んでいますが」と立ち上がり、ややこしい問題を吹っかけてきたので私はますます慌てた。意外な友人が意外な分野の話をし、思いがけない着想や見方を語った。結局河童は一学期間を費やして、じつに巧みに分厚い書物をまとめた編集者だったといえそうである。私が最初のうちはひどく反発した授業だが、いまから思うと不思議に充実した、いい時間であった。

 物理の教師は「ヤットコ」という渾名だった。「力が無くてやっとこすっとこ授業をしている」という意味のひどい渾名だった。その日は、ベクトルの問題を黒板に書き、自分で解いて見せた。ところが最後にX=Xになってしまった。「へんだなあ」とヤットコは考え込み最初からまたやり直した。こんどは0=0となった。ヤットコはいよいよ頭を抱え込み、深刻な表情をした。そのとき終業のカネが鳴った。ヤットコは「ちようど時間となった。きょうは悪い解き方の見本を示した」と負け惜しみのようなことをいい、「次の時間までにぼくも考えてくるから諸君も考えておくように」といった。ヤットコが出ていくと同時に教室にはどっと笑い声が上った。「やっぱりヤットコだ」などといいながら、私たちは物理の得意な友人を取り囲んだ。「ああでもない」「こうでもない」と言い合い、そのうち正しい答えに到達した。だれもがヤットコのしくじった問題を征服したという満足感を味わった。次の時間にヤットコは「ベクトルの問題では最初にあらゆる条件を書き出さなくてはいけない。そうしないと先日のようにX=Xになっちまうぞ」といって、こんどは速やかに正解を示した。生徒のほうは先刻承知であった。

後になって私はヤットコがすべて演技をしていたのだと気が付いた。先輩たちに聞くとヤットコは毎年ベクトルの問題で正解を出せずに苦しむ場面を見せた。しかもそれは必ずカネの鳴る間際であったという。つまり計算ずくで「だめな教師」を演じたのである。そうすれば生徒のほうがヤットコより先に正解を出そうと意欲を燃やすことも計算ずみだったのである。するとヤットコどころか物理の計算も生徒の心の計算までもできていたことになる。こんな形で生徒の意欲を引き出したのだから優れた編集者に違いない。優れた編集者はときには無知を装うものだ。ピエロを演じ続けたヤットコに私はいま一種の凄みを感じる。

数学の教師はあまり教科書を用いず、「平凡な解き方は教科書を見ておくように」といい、授業中はいつも意外な解き方をした。教科書には座標上で解決していく解き方が載っていても、教師は座標を用いず、図形を黒板に書いた。「ここでマナコをカッと見開け。すると補助線がおのずと見えてくる。これを幾何学的直観という」などといって補助線を引き、後は幾何学の定理を組み合わせるだけで、さっと正しい答えを出すのである。もちろんそんなことだけであらゆる問題が解けるわけではないが、つねに予想外の解き方をした。生徒のほうはすべての場合に通用する解き方を手っ取り早く知りたいが、教師はそんなマニュアルの存在を否定して「頭をいつも柔軟にせよ」といい、新しい発想を勧めのである。

また教師は「ぼくはこんど生物の教員の免許も取りました」といった。昔の物理学校を出た人だから生物学とは無縁である。しかし、家の周りの草の姿を眺めているうちに関心を持ち生物学を独習した。ためしに教員の資格試験を受けたら受かってしまったとか。そのため授業中にたびたび話が生物学に脱線した。生徒を連れ出して校庭をまわり、草木の説明をしたことまであった。数学の授業がたちまち屋外での生物の授業に変わった。そんな中で教師は生物界に現れる数の不思議さを語った。私が黄金分割やフィボナッチ数を知ったのは、こんな屋外の生物学的数学の時間だった。

国語の教師は著名な歌人であり、見事な書でも知られる人だった。やはり教科書はほとんど用いず、自分でプリントを作って配布した。いつも細かな文字でびっしりと書き込んだ大学ノートを用意し、じつに中身の濃密な講義をした。その準備のために徹夜をすることも多いらしく目をまっ赤にしていた。授業中は独自の文学論を展開した。それは文学サークルの主宰者が同人に語りかけるようでもあった。あるとき黒板に見事な文字で「人生の肯定」と大書した。「これが文学の根底である。根底にこれがなければ文学ではない」といって、当時の一部の人気作家を強く非難した。また教師は日本の近代詩は蕪村に始まるとし、蕪村の近代性をたっぷりと語り、さらに湯浅半月について自分の研究を語り続けた。

期末試験には論述式が多かった。たとえば「次の詩歌を論評せよ」という問題があって「花散て又しづかなり園城寺」という句が最初に出ていた。論評せよといわれても何を書けばいいのか、さっぱりわからない。私はさんざ考えた末、教師が芭蕉の「古池や蛙飛びこむ水のをと」のを説明したとき「古池は『静』である。飛びこむ蛙の音は『動』である。その一瞬の『動』がかえって古池の『静』を一段と強く意識させ云々」と語ったことを思い出した。そこで「園城寺は数百年の静寂の中にある。そこへひとひらの花弁が散る。その一瞬の『動』を作者は見逃さず、改めて数百年の静寂を思って云々」と書いた。後に知ったことだが園城寺の句は江戸時代中期の俳諧師・上島鬼貫(うえじま・おにつら1661-1738)のもので「花見客で賑わった園城寺も花が散ったら静かさを取り戻した」という意味だという。何だ、そんなに平凡な句なのかと思ったが、私の解答は丸ごと間違っていたのである。ところが返された答案を見るとバツではなく半丸になっていた。さらに教師による細かな書き込みまであって、かなりの点が与えられていた。友人たちに聞くとやはり誤答であっても、教師の細かな書き込みがあって相応の点が与えられていた。

結局教師は文学サークルの主宰者であり、生徒たちのことは、いささか頼りなくても同人として扱ったのである。むろん教師は同人雑誌の優れた編集者であったといえる。

このようにユニークな教師たちがそろい、自由な(ときには一見むちゃくちゃな?)授業が行われた。たぶんそれは当時のリベラルな校長が自由な授業を教師たちに勧めた結果に違いない。

教師が編集者だとすれば、いったいどんな書物を編集するのだろう? 少なくとも仕上がった書物は次の新たな創造につながらなくては価値がない。それには編集者が自由でなければならない。

そんなことを考えているとテレビで「近ごろマニュアル通りに教育できない教師が増えた」「そこで若い教師にベテラン教師を組ませて授業に当たることとし云々」という報道があった。しかし、教師をむやみにマニュアルに縛り付け、自由な発想を枯渇させてしまったら、そこから何が生まれてくるだろうか。私が昔の高校教師たちを思い出すのは、ただのノスタルジーのためだけではあるまい。

(注: 茂木和行「編集者としての教師−コーチ、指揮者、それとも…」聖徳大学FD紀要:聖徳の教え育む技法第4号、2009.12pp.137151。教室における教師は、学生たちの中に潜む可能性を引き出し、価値あるメッセージとして教室という情報空間で紡いでいく、一つの編集者である、との視点で書かれている。教師は指揮者である、とする教育哲学者の林竹二らの考え方に触発されて生まれた小論である)        (編集 茂木)