私達の教育改革通信

   138  20102

 

教育通信ホームページ

http://cert.kyokyo-u.ac.jp/oka-index.html

http://www.easy-db.net/unno/kyouiku/

先事館制作室:進士多佳子〒1060032港区六本木7-3-8ヒルプラザ910

発行人:西村秀美,先事館箕面 562-0023箕面市粟生間谷西3-15-12

お願い:教育通信はオープンメデイアに移行します。A(購読)会員、運営に参画されるB(協力)会員及びC(編集)会員になる方を歓迎します。B会員には自己負担でコピーと友人への配布、C会員にはそれに加えて編集を輪番でお願いします。私達の教育通信が今後どう発展するか、この皆で育てる新方式がよい日本文化に成長することが望まれます。

編集::先事館吉祥寺 海野和三郎180-0003武蔵野吉祥寺南4-15-12

先事館狭山、菅野礼司 589-0022 大阪狭山市西山台1245 

先事館近大理工総研 湯浅学・川東龍夫〒577-8502東大阪市小若江

先事館京都教育大 岡本正志〒612-8582京都市伏見区深草藤森町1

先事館聖徳大学 茂木和行 165-0035 中野区白鷺2-13-


 

熱心な先生がいい先生か?

中條利一郎  

 中学校時代のN先生という国語の先生のことを書いてみよう。中学3年のことだったと思う。万葉集について教わることになった。終戦直後で参考書などが殆ど手に入らない時代の話である。先生がお手持ちの本などを使われたのであろう、万葉集の中身に入る前に、成立の過程にはじまり、そこに収められている歌の特徴まで、丁寧に、しかも熱を込めて解説して頂いたのを昨日のように思い出す。そこで終わればよかったのに、古今集との比較に及び、古今集に比べて万葉集がいかに優れているかを滔々と語られた。それから、旬日を経ずしてというほど短い日時ではなかったが、数か月後、今度は古今集について教わった。今度も成立過程から歌の特徴まで、やはり、熱っぽく語って頂いた。そして、古今集が万葉集に比べて優れている点についてまで話が及んだ。唖然としたというのが、その時の率直な印象である。

先生は、おそらく、参考書などを手にすることが出来ない生徒のことを慮って、対応する文献を調べて、丁寧に準備して下さったのだと思う。しかし、同じ先生の口から、万葉集は古今集より優れ、かつ、古今集は万葉集より優れていると言われたのでは、聴いている生徒はたまったものではない。万葉集学者と古今集学者の意見を、先生というフィルターを通すことなく、生のままで、紹介されたことによる混乱と思われる。これは指摘すべきだと思った。しかし、級友の前でそれをやったのでは、折角の先生の熱意に対して申し訳ない。授業後、先生を追いかけ、廊下で、先生の熱意が逆効果になっていると個人的に申し上げた。「そうか? 前のことまで憶えていてくれたのか?」ということであった。私に先生を追いかけるだけの勇気がなかったら、私は混乱を解決しないまま、その後の人生を送ったことになる。

それから、40年ばかり経過して、私はセンター試験の出題委員として、入試センターである課目の出題について協議していた。ある出題に対して、出題者でない委員の先生から「それは現在の学説とちがう」というクレームがあった。それに対して、旧高等師範の流れを汲む大学出身の委員の先生が「高校の教科書には現在の学説とちがうことはイッパイ書いてありますヨ。それをそのまま教えるのが高校教育です」と明言され、目から鱗の思いをした。それまでの私が漠然と考えていたことへの明言であった。教育は第一義的には真実を教えるべきであることは言うまでもない。しかし、場合によっては、真実以前(あえて嘘とは言わない)を教えることもある。

でも、その先がある。真実と真実以前とが混在して、つじつまが合わなくなっては、混乱を生じるだけである。

 万葉集と古今集、これは真実と真実以前というように対比されるものではない。ただ、万葉集学者と古今集学者の評価のちがいに過ぎないが、N先生の場合もつじつまが合っていない点では同じである。教育、これは人が人に教える行為である。熱心なだけでは混乱を招く場合がある。教える側でしかるべきフィルターにかけて、受講する側につじつまがあっていると受け取られて、はじめていい教育になるのであろう。

 

 

育む          水木鈴子

 

  今日も大切なあなたの 命をお守りし

 お育てさせて いただいています

そのあなたに 人間性を育てられている

  お父さんであり

 お母さんです

 

  

教員養成制度について

                 菅野礼司

 民主党が教員の資質を上げるための方策として「教員養成課程6年制」を打ち出した。教員免許の更新制を廃止する代わりに、教員養成期間を2年延長する案である。この制度案に対して異論が出されている。教育の現状を憂いて、教育制度の改善策を考えるのは結構なことであるが、それには日本における教育現場の実体を十分調査検討した上でなさるべきである。私もこの制度改訂に反対である。今の教育問題の本質はそのようなことで解決するとは思えない。

  この改革案に対する異論でもっともと思われるものに、河合塾理事丹羽健夫氏の批判的意見が昨年12月26日付朝日新聞に紹介されていた。その主な理由は次の2点であった。一つは、現在の教員研修内容が現場のニーズに合ってなく無駄であると指摘する。この6年制はフィンランドの教員資格(修士課程修了)を真似たもので、教育システム全体を見ずに「修士」という部分だけを安易に取り入れては大変なことになる。なぜならば、日本では教員という職業の人気が低いのに、「6年制」を実施すれば教員養成系大学の志願者が減り、かえって教員の質は低下するという。次に、日本で教員の人気が低いのは、教員は雑務に追われ、その上、「いじめや」父兄からの苦情など様々な問題に対応しなければならず過酷な労働を強いられているからであるという。それゆえ、養成期間を延ばすよりも、まず本来の教育に力を注げるように、教員数を増やして教員の雑務を減らし、そして少人数学級にして教育環境を良くすることが先決である。また、教員の正規採用が少なく「臨時的任用」が増えている現状を改めるべきである。このような現状のまま、「教員養成課程」を6年にしたら志願者が激減して逆効果であると主張している。

 この批判意見に近い考えを私も抱いていたから、強い共感を覚えた。私は教員養成や研修制度の実状を見聞したことがあるが、研修法と研修内容の根本的なところに問題があるから、あまり効果はないと思っている。

 丹羽氏の指摘されたこれらの点の他に、現在の教育内容と関連して教員養成制度についてもう一つ付け加えたいことがある。それは教科目選択制の弊害である。教育の効果を上げるには教員の実力と資質を向上しなければならないが、現在の教科目選択ではそれは不可能である。

 戦後日本の教育は、小学校からすべての教科内容はばらばらに縦割りにされ、しかも同一教科の中でも個別知識を覚えさせるだけで、それら知識を関連づけて体系だった知識として教えることが少ない。この悪弊は入試問題に象徴的にみられるが、その歪んだ教育法にさらに拍車を駆け、ずたずたにしたのが教科目の自由選択制であり、さらに入学試験における少数科目選択制度である。教科目の大幅な選択制により、体系的知識を分断して「摘み食い」的に断片的知識を憶えさせるという悪弊が助長された。教科縦割り教育の上に、科目選択制が加わり一層ひどくなったわけである。基礎をはずした知識は浮き草のように浮ついたものであり、現象的な断片知識に終わるので身に着かない。

 学生集めと受験生数を増やすために、大学入試科目数は減少し続け、その辺害があちらこちらにでています。大学入学生の学力不足のために、入学後に大学で補修をしなければならないところが続出している。 

とくに理数科は知識の蓄積が必要なので、小学校の時からしっかりと教えておかねばならない。それを実行するには、教員の指導力が十分でなければ不可能である。しかし、今の教員養成制度は、中・高校・大学で教科目選択制が行われているために、基礎学力、特に理数科の力が不完全・不十分な教員が多い。「教科縦割り個別知識詰め込み教育」と「教科目選択制」のゆえに、摘み食いの断片的知識を覚え、体系的知識を身につけていない。そのように教育された教師は、同じ教育スタイルで次代の生徒に教えるという悪循環を繰り返している。理数科は断片的知識の寄せ集めではなく、有機的に関連づけられた知識の体系です。櫛の歯が欠けたようなぼろぼろな知識の持ち主では理数科はまともに教えられないだろう。したがって、小学校教員は国語や社会だけでなく、しっかりした理数科の基礎を、また、中学校の理科教員は理科の全科目と数学の力を十分に身につけるような教員養成制度にすべきである。そのためには、義務教育の教員養成過程では科目選択制を廃止すべきである。少なくとも、教科目選択制の弊害を減らすように教員養成制度を変える必要があると思う。

 科学教育は知識の習得とそれを用いた演習を基礎から積み重ねることによってなされるものですから、一旦落ちこぼれると上級に行くほどその程度はひどくなり、その結果、理科嫌いになる。基礎からの積み重ねを必要とする科目は、後で勉強し直すのが難しく、取り返しがつかなくなることが多い。それゆえ、初等教育からしっかりとした知識を教育しておくべきである。義務教育の先生の役割は大変重要だから。

 選択制を制限してなるべく多くの科目取る様にし、そして入試科目をもっと大幅に増やさなければ、教育の危機はさらに深刻になるであろう。この危機的状態を脱するには、大学の自主性や良識に待っていたのでは不可能で、国公立も私学も一斉にやらなければ実現不可能である。大学での専門に応じて、文科省が最低入試科目数を指定すべきである。

 教員養成制度を、このような選択科目廃止にすると、教員志願者が激減すると言われるかも知れない。今の教育界の状況ではそうだろう。だから、教育職に魅力を感じ、人気がでるような環境を作らねばならない。取りあえず、煩瑣な雑用を減らし、少人数学級にして、先生が教育に情熱をもって専念できるように環境を作り、さらに待遇改善をすべきであろう。現状の教育危機を救うには、まずこれを最優先すべきであると思う。

 

物理教育者としてのホィーラーの遺産 法橋 登

1.はじめに

 米国物理協会 (AIP) の広報誌Physics Today2009年4月号は20084月に96才で亡くなったホィーラーを特集した。二次大戦中の原水爆開発計画への関与とブラックホールの名付け親として知られるホィーラーは戦後研究によって現代的一般相対論の父と呼ばれる。ここでは、特集記事の中から、物理教育者としてのホィーラーを論じた科学史専攻大学院生のPhD論文「ホィーラーのメンターシップと消えない遺産」(1)とホィーラーが二次大戦開戦前夜にPD時代の恩師ボーアとプリンストンで再会し、共同論文を書いた数カ月を回想した「核分裂のメカニズム」(2)の二編を概観したあと、ホィーラーの三人の教え子が三つのテーマを分担した「ホィーラー、相対論、量子情報」(3)からホィーラーのPhD学生だったファインマンのホィーラー評を紹介し、ホィーラーの教育遺産を考えてみる。

2.ホィーラーとメンターシップ

「大学はなぜ学生をもつのか。教授を教えるためである」というホィーラーの格言で始まる上記科学史論文はホィーラーをこう評している:「ホィーラーの最大の貢献は物理学の本体よりも教え子と物理学者の共同体にある」。注釈によると論文タイトルにあるメンターMentor はギリシャ神話の英雄ユリシーズが息子の教育を託した信頼できる教師を指す。頭文字のMを小文字にすると助言・感化者になるから、メンターシップは助言・感化力と訳せる。メンターはホィーラーを、ユリシーズは物理本体を指すが、本体corpusの頭文字を大文字Cで書くと信仰対象としてのキリストの聖体になるので多少の批判も含まれる。ホィーラーがPD時代をプリンストンで過ごさなかったのは、進路についての話し合いのなかで当時30才のオッペンハイマーから自然の不思議や謎に対する謙虚さが伝わらなかったからだという。聖体Corpusは原爆の父とよばれたオッペンハイマーを念頭においている。

3.ホィーラーとボーア

 193812月、ベルリンのハーンとストラスマンがウラン核分裂を発見した。翌1939116日、海路ニューヨークに着いたボーアは、コペンハーゲン埠頭でフリッシュから託された核分裂ニュースをニューヨーク埠頭に迎えに出たホィーラーとフェルミに伝えた。ボーアは船中で、ローマのフェルミが1934に発見したウランの中性子捕獲を説明する複合核モデルを液滴モデルに転換することを考えたが、プリンストンに着くとホィーラーに核分裂機構の共同研究を提案し、核爆発には希少元素ウラン235の国家計画による天然ウランからの濃縮の必要を話した。ホィーラーはウラン235238の核分裂に必要な中性子エネルギーの閾値をZ2/AZは陽子数、Aは捕獲中性子を加えた核子数)の関数として導き、当時未知の元素だったプルトニウム239の核分裂の可能性を示した。ボーアがフリッシュから託されたニュースを公式に発表したのは126日に開かれた米国理論物理学年会初日の午後、ハーンとストラスマンの実験を解釈したフリッシュとマイトナーの共同論文のコピーを手渡されてからだった。ボーアとホイーラーの共著論文「核分裂のメカニズム」は二次大戦が欧州で始まった1939

91日に発表された。

 戦後の1949年夏に基金を得たホィーラーはコペンハーゲンから遠くないパリに家族と住み、同年春にボーアに送ってあった原子核の集団運動に関する共著論文草稿へのボーアの修正加筆を待っていたが、同年秋に米国のレインウォーターから届いたプレプリントの内容が草稿

とほぼ同じだったのでボーアに示したところ、ボーアはホィーラーと米国の協力者ヒルとの共著論文の発表をすすめた。A. ボーア、モッテルソン、レインウォーターが1975年度のノーベル賞を受けたとき、ホィーラーは理論の枠組みを広げるていくと物理は哲学になると友人に話した。

4.ファインマンのホィーラー評

 1970年代の始めにホィーラーがCaltechに近いレストラン(4)で1939-42年と1962-5年にホィーラーのPhD学生だったファインマンとファインマン教授職をCaltechで継いだソーンとランチをともにした。その席でホィーラーは年齢が20才以上離れた教え子二人にこう質問した:「時空の特異点で物理法則が突然変異すると、宇宙はビッグバンのたびに違う物理法則をもって生まれるのではないか」。ソーンの証言によると、このときファインマンはソーンに向かってこう話した:「今の学生はホィーラーがいつもクレージーな話をすると思っているが、自分の時代にはホィーラーの一見クレージーな発想の玉葱も皮(クレージネス)を剥いていくと芯に深い物理的真理が隠れていることが多かった。陽電子論文(1949)も、世界中の電子が同じ質量と電荷をもつのは、世界が未来にも過去にも進む一個の電子からできているからだ、

というホィーラーの電話がきっかけになった」。

5.ホィーラーの教育遺産

 ホィーラーは観測と応用例に乏しかった一般相対論の冬の時代をその後の黄金時代につないだ若野省巳(5)を含む多くの教え子との共著論文や刊行物によって1988年にアインシュタイン賞を受け、1976年にテキサスに移るホィーラーに宛てられた100人を越すプリンストンの教え子の手紙を集めた「家族集合:学生と教師」や1997年に製本された51冊の哲学ノートは米国物理学センターと哲学会の保存資料として次世代への教育遺産になった。プリンストン大学は300万ドルの基金を提供してホィーラー記念教授職を創設している。

参考文献

1.T.M.Christensen,Physics Today April 2009, 55-59: オレゴン大学学位請求論文

2.J.A.Wheeler, Physics Today November 1967, 49-52.

3.C.W.Misner,K.S.Thorn,andW.H.Zurek.Physics Today November 1967,...49-52.April 2009, 40-46.

4.原文ではカルフォルニア工業大学Caltech 近くでArmenia料理を出...Burger Continental Restaurantとある。

5.B.K.Harrison,M.Wakano,J.A.Wheeler, 

The structure and evolution of universe, 11th Solvey Conference,Brussels(1958),p.124.; B.K.Harrison,K.S.Thorn,M.Wakano,J.A.Wheeler, Gravitational Theory and Gravitational Collapse, U. Chicago Press, Chicago (1965).

 

日本における風力発電の現状と今後の見通し     河野 仁

ヨーロッパでは風力発電の位置づけが高く、2020年にはEU全体の電力需要の20%を風力で発電することが可能であるとされて考えられています。それに対して、わが国では風力発電の位置付けが極めて弱く、経済産業省の将来エネルギー計画の中で、2030年に風力は0.52%、太陽光発電は2.5%であり、風力発電はヨーロッパにおける位置づけの1/40程度であり、また、日本国内の太陽光発電と比べても5分の1に過ぎない小さな位置づけです。これは実に不自然な政策であり、EU並みに風力発電を日本の電力需要の20%程度のレベルにする計画を持つべきであると、筆者は考えています。

風力発電は空気の運動エネルギーを電気エネルギーに変換するものですが、風力発電の出力Eワット)は空気の密度をρ、風速をU、風車の羽が回転する部分の円の断面積をA、エネルギー変換効率を とすると、次の式で表されます。 この式でわかるように、風力発電の出力は風速U3乗に比例します。これは、単位時間に風車を通過する空気の質量が であり、空気の運動エネルギーが と表されることによります。発電量が風速の3乗に比例するので、風速の少しの違いが発電量に大きく効いてきます。現在日本で風車が建てられている、つまり採算がとれるのは、年間平均風速が6m/s以上の場所であると言われています。日本における風力発電期待可採量については、長井ら(2009)による研究が行われており、陸上だけで2008年度の受電電力量の11%を開発可能であるとしています。この計算の前提条件の中に、年間平均風速が6m/s以上の場所が入っています。しかし、ドイツでは年間平均風速が5m/s以上のところで風車が建てられています。これは、ドイツでは日本と比べて、売電単価が高く保障されていることや、建設コストが安いことによると考えられます。日本でも、風力発電が増え、建設コストが下がれば、この11%という数値は大きくなる、更に、洋上風力発電の潜在発電量はヨーロッパでは陸上よりも大きく見込まれており、島国の日本では洋上風力発電を加えればその可能性は更に大きく広がると考えられます。

日本は中緯度の偏西風帯に位置し、上空には常に強い西風(偏西風)が吹いています。また、季節風も吹き、更に、海岸からの距離が小さいために、海陸風も吹きます。このような地理的な特徴から日本は世界的に見ても風は強い方であり、ヨーロッパに較べて日本の風速は同等以上です。現在(2005年時点)、風車は東北、北海道に全体の57%が導入されていますが、日本の南北方向の年間平均の風速差*は変動係数で8%と小さく、全国に風力発電が可能な場所があります(*ここでは、地表面摩擦の影響を受けない高度1500mの風速で議論しています)。地形上は海上、島、海岸線、半島、山頂等が風の強い場所であり、風車はこのような場所に多く建設されています。海上の風が強い理由は、陸上に比べて地表面の摩擦が小さいために、上空の強い風が地上近くまで降りてくるためです。例えば、関西国際空港では地上10mで年間平均風速が約6m/sありますが、これは、大阪市内の高さ100mのタワーで観測する風速に相当しています。海岸付近は海陸風が発達するために内陸に比べて風は強くなります。海岸線が長く、しかも山国である日本は風の強い場所が多くあります。上空は地上と比べて、地表面摩擦の影響が相対的に小さくなるために山頂は平地と較べて風が強く、日本の上空1500m高さにおける年間平均風速は9.5m/sあります。

また、季節変化に関しては本州や北海道では季節風の影響で冬に最も風速が大きくなりますが、沖縄では逆に夏に風速が大きくなります。これは、梅雨前線や台風の影響によるものです。沖縄は台風の風が強いのは一般に良く知られていますが、梅雨前線の影響はあまり知られていません。沖縄では梅雨前線が1ヶ月間位停滞することがあり、年間積算発電量にはこれが大きく影響してきます。前線付近は風が強いのですが、陸上では地面摩擦の影響あるためにその影響はあまり分かりません。高い山の上や、地表面摩擦の小さい海上では風速が強くなります。小さな島であり、ほとんど海上の風が支配する沖縄では上空の風が地上まで降りてきており、そのために前線の影響が顕著にでていると考えています。日本の風は変化に富んでおり、風力発電という視点から見るとこのように興味深いことが数多くあります。

風力発電は運転時にはCO2や大気汚染物質の排出が無くCO2の排出は設備の製造、輸送、建設時等に限定されるので、化石燃料を使用する発電と比べて、CO2排出量が極めて少なく、シンプルで、環境にやさしい技術です。石炭、石油、LNG等の化石燃料を使った火力発電ではCO2だけでなく、SO2, NOx, 煤塵等の大気汚染物質が排出され、SO2, NOxは酸性の霧、雨をもたらし、また、NOxは光化学オキシダント、オゾンの原料となり、樹木の枯れに影響を与えていると考えられています。わが国では風力発電について、次の3つの問題が言われています。@バードストライク、A騒音、B風速の変動による発電の不安定性です。バードストライクに関して、アメリカでの統計によると風車に追突する野鳥の死亡率の第1位はビルのガラス窓、続いて猫、高圧線、自動車列車、殺虫剤、通信用タワーであり、風力タービンによるものは、0.01%に達しない。また、火力発電の排煙、自動車排ガス等による大気汚染(酸性霧、オゾン)により日本の樹木が影響を受け、大峰山系や大台山系等日本のいくつかの山で樹木の枯れが進んでいますが、こういった自然破壊と比べると風車の影響は微々たるものです。温暖化では更に生態系に大きな影響が出ると予想されるが、このようなバードストライクと比べて桁違いに大きな被害を見ないで、物事の大小関係を見ないで、風車だけをターゲットに上げるのは、酸性霧やオゾン、温暖化による気候変動の影響についてよく理解されていないためと考えます。風車に鳥が当たると死ぬというのは、子供でも分かる議論であり、それゆえに一般受けし易いですが、酸性霧、オゾンに関しては、自動車や工場の排ガス中のSO2が大気中で酸化され、硫酸や硫酸化合物になる、また、NO2が太陽の紫外線によって光化学反応を起こしオゾンや硝酸、硝酸化合物が生成され、これらが雲に溶け込んで酸性霧となるということを勉強する必要があり、また化学や物理の基礎知識が必要です。気候変動に関しては気象学の知識が必要になります。

低周波音の問題は、2009年の風力エネルギー利用シンポジウムで話題になっていました。幾つかの場所で被害が出ています。低周波音は羽の風切り音ですが、エネルギーのピークは2から3Hzにあります。人間の音として聞き取れる下限界は20Hz程度なので、これは音ではなく、振動として感じています。これに対する対策ですが、ドイツなどでは、民家を風車から最低300mとか、できれば500mとか、一定距離を離すガイドラインがあり、そのことにより、低周波騒音が軽減されます。音は球面波で広がりますので、そのエネルギーは距離の2乗で減衰する。低周波音は防音対策が難しく、距離減衰を使うのが一番確実です。日本には風力発電を民家から一定の距離を離すガイドラインがまだありません。至急ガイドラインを作る必要がありますが、風力発電に対する環境省の対応は遅れています。

現在の発電単価は1kWhあたり、原子力5.9円、火力7.3円、風力914円、水力11円、太陽光46円(出典、日本のエネルギー2006)であり、風力は火力に比べ少し高いが、その差は34割程度であり、差は大きくはありません。また、太陽光と比べると風力が1/41/5と安い。また、この単価については古くなった原子力発電所の処理をどうするかによって違った見解も出てくると思われます。ここで、風力や太陽光は後追いの技術であり、これが普及していくと発電単価が下がってくると予想されます。

また、各電力会社の設備容量の5%以上風力発電を導入した場合に、風の変動を受け発電量が不安定になる問題については、系統連系の整備や蓄電対策が必要であることが指摘されています。これについては、電力会社の技術開発に対する積極的な姿勢が求められます。

(兵庫県立大学環境人間学部大気環境研究室)

 

地球環境の異変について

菅野礼司

 地球温暖化の原因について、多量のCO2排泄が指摘されて定説になっている。だが、その説に対するいろいろな反論は後を絶たない。その中でも目を引くのは、昨年発表された赤祖父俊一氏の論文である(「『金融財政ビジネス』:「止まった気温上昇CO2犯人説の真偽を考える」2009.11.)。彼は世界的に有名な地球物理学者であるから、その主張は大きな影響力を持つだろう。このまま無視できないと思う。

赤祖父氏の主張: 

赤祖父氏は「大気中のCO2が急激に増加しているに

もかかわらず、地球の平均気温の上昇は2000年頃

から止まっている。これは実際に観測された事実であ

る。しかし、気候変動に関する政府間パネル(IPC

C)の研究者はその事実を無視し、一時的変動だと主張している。平均気温上昇の停止は、CO2による気温上昇を打ち消す理由があるからにほかならない。それは自然変動、すなわち小氷河期の回復に乗った準周期変動による可能性が大きい」と言って、政治・経済的背景を指摘すると共に、実際の気候観測データに基づき一般的見解を否定している。さらに、COPの会議など無駄だから止めるべきだ、日本のCO2削減目標はナンセンスだという。/
 赤祖父氏のような地球大気の専門家に、その分野の素人の私が反論することは困難であるが、「地球温暖化」だけを採りあげて、CO2増加のせいではないというのは一面的判断であって危険であると思うので、敢えてその理由と私の判断を述べることにする。 
IPCC批判について
 赤祖父氏は、IPCCの報告は誤りであるといって、背後に政治的意図があるかのごとく批判している。しかし、千人を越すこの科学者集団は良心的科学者の研究組織と思う。IPCCの発足に当たって政治的問題があったとしても、これだけ広範囲の分野にわたり世界中の多数科学者を政治的意図で長年研究させ、都合の良い結論を出させることはできないと思う。
 IPCC報告が地球温暖化の原因をCO2にあると結論づけたことは、それなりの理由があるだろう。以前のこれまでのIPCCの報告は、結論をだすことに慎重で、表現に配慮していたようであるが、最近の報告では、温暖化とその原因についてはっきりと結論した。ただし、100年後の温度上昇予測については、不確定要素があることは赤祖父のいうとおり幅があるだろう。地球は複雑系であり、長期気象予報はまだまだ難しい。

 IPCCが、温暖化の研究に関する「学者としてできることは終わった。後は政策者の仕事である」といったとすれば、とんでもない発言と批判されても仕方がない、と赤祖父氏はいう。 さらに、温暖化防止の国際会議は意味がない、CO2削減は待ったなしの問題ではない、日本の25%削減政策は馬鹿げているというのも、同様に一方的偏見であろう。
温暖化ではなく「気候異変」「環境異変」というべきだ
 地球温暖化にのみ目を向けて、温度上昇は自然変動のうちだとか、CO2増加と自然変動の両方だとかいって、CO2増加効果を論じていることがむしろ問題である。温暖化は進んでいると思うが、自然変動の要素がどれくらいかは明らかでない。これだけで確定的結論は出せないかも知れない。だから、他の現象にも目を向けて多面的に判断すべきである。
 地球は一つのシステムとして高度の複雑系であるから、多くの要素が複雑に絡み合って変化・発展している。温度上昇だけを問題にするのでなく、気象変動、海洋変動、氷河減退、砂漠化など総合的に研究して判断しなければならない。地球の平均気温の変化ではあまりはっきりしなくとも、気象異常は明らかである。激しい気温変化、梅雨期のズレ、集中豪雨、台風の発生状況の変化、他方では砂漠化の進みなどは、コンピュータ計算をしなくとも肌で感じうることである。さらに、エルニーニョの変化、海水の酸性化、海水の表面温度の上昇、海流変化、氷河の減退と深海水流の変化などいろいろな要因が絡み影響し合っている。(ヒマラヤ山脈の氷河は2035年までに消失するという警告は、科学的根拠の薄いインド科学者のコメントを載せたNGOの報告をそのまま引き写したということがわかり、IPCCは撤回し謝罪した。しかし、北極やヒマラヤの氷河がかなり減退していることは観測されている。)
 大気の温度変化についても、一様に上昇しているのではない。1950年以降、北極圏では100年あたり2.29℃も上昇したのに対し、赤道付近では1.25℃との観測データがある。つまり南北間の温度差が相対的に小さくなっている。これが大気の大循環を変化させているそうである。また上下方向では、CO2効果で地表では温暖化しているが成層圏ではむしろ寒冷化が進んでおり、大気全体としては実は温暖化も寒冷化もしていないそうである。そうならば大気が不安定となって対流活動がより活発化することになり、気候異変の原因となる。
 地球環境の異変はいろいろな所にでているから「温暖化」ではなく「気候異変」、「地球環境異変」の問題として多面的に捉えるべきである。手遅れになったら取り返しはできない。だから、赤祖父氏のように「待ったなしではない問題」といって、CO2削減よりも温暖化についての研究に力を注ぐべきだといって、悠長に構えているのは危険であろう。
 コンピュータを使うまでもなく、経験的に分かる自然現象として明らかに気候異変は見て取れる。異変が決定的になってからでは、対策は間にあわない。相乗効果のために、ある変化が閾値に達するとカタストロフィックな変化が起こり、そのとき複雑系はカオス現象を起こし引き返しが効かない。巨大な玉が坂道を転がり落ちるように加速されていき止まらなくなる。
真の科学的判断は総合的判断による 
 科学史の教えるように、自然科学の説や法則の真偽は、一種類の実験や、一種類のデータだけで決定的なことは言えない。一つの理論をひっくり返すには、あるいは新たな仮説を承認し受け容れるには、多くのデータと多面的な綜合判断に基づいて問題点を絞り込み、最終的結論に到達するのである。
 まして地球のような複雑系の場合はなおさらのことである。地球の温暖化や気候異変はCO2によるものか否かは、平均気温の上昇のみ見て単眼的な判断ではなく、地球のあらゆる異常変化を基に多面的(複眼的)な総合判断が必要である。それが本当の科学的方法である。

 

時間とは何か(『解析時間学』よりアブストラクト)  工藤正司

 時間とは何だろう。この疑問に我々人類は、歴史上も今日も解答をもっていない。しかし、私はここに、解析学の手法によって得られる解答を示そうと思う。

 通常、私たちは、運動を不変な(静止した)カンバスの上に描く。しかし、私たちが、カンバスは不変であるという観点に立つ限り、時間についての解答を見出すことはできない。つまり、私たちは、ヘラクレイトスや老子の哲学にあるように、万物(カンバスを含め)は変化している、という観点に立たねばならないのであって、変化する事象を変化する事象の中で研究しなければならないのである。

このようにして得られる結論は、次のようである。

(1)時間は、主観が客観的な変化事象を把えようとするところに生まれる。 (2)私たちが日常用いている時間(直線的な時間)は、ただ、特別な形式の変化、すなわち微小ではあるが無限小ではない量子作用によってなめらかに変化しているような事象の集合にしか生まれない。 (3)この形式の変化は自律的(閉鎖的)であって、私たちは、この変化事象を基底として、全ゆる変化事象を見るように性向づけられている。

 しかし、他方で私たちは、自然の中に、異なる形式の変化事象をも見出すことができる。例えば、鏡面反射や物質間のエネルギー交換などである。(これらの変化は、私たちの空間・時間の中では、表現できない。)だから、私たちは、時間が客観的な世界に普遍的に存在すると考えてはならないし、又、カントの言うように、時間は主観にだけ付着すると決めつけてもいけないのである。そうではなくて、時間発生の機序は、次の通りである。            @ 自律的な変化事象にあっては、状態は、その状態をとるが故の仕方で崩れて別の状態に移るという具合に変化を続ける。(ここでの状態は、状態を変化させる唯一の作用でもあるので、これなる自律的に変化する対象を「単相系」と呼ぶ。そして、「単相系」は、変化する状態から出発する限り、静止に落ち込むことはないことが知られる。)

A この作用による状態変化は微小とする。但し、無限小にはならないとする。又、なめらかな変化とする。

B 私たちは、微小な変化を引き起こすさようは、ただ線型的な、(1次の)作用のみに限定されることを見出すことができる。

C 線形(1次の)作用は、常に幾つかの不変な状態(固有状態)をもつが、その個数は、私たちが変化を表現(認識)するのに必要十分な不変状態の個数に比べて、常に(いかなる次元の世界においても)一つ、ただ一つ不足する。               

D 私たちは、変化を表現(認識)するためには、この一つの不足する不変状態の代わりに、一つの変化する(静止していない)状態を代用しなければならない。

E この代用として使われる一つの状態は、微小ではあるが無限小ではない量子作用によって可付番的に変化する。

Fこの代用として使われる一つ変化状態の変化の計量こそ、単純で一様に増加する、一つの、ただ一つの次元をもち、かつ、時制(過去、現在、未来)をもつところの時間(直線的な時間)に外ならない。

 

私たちの時間の「単純な」増加は、静止していない状態の変化量から生じ、「一様な」増加は量子作用から生じ、そして、「時制」は、可付番的変化から生ずるのである。そして量子作用は、私が解析学によって得た「単相系」と呼んだところの自律的(閉鎖的)運動に起因するのである。(但し、量子が無限小にならないというのは、解析的に加えた条件である。又、なめらかな変化というのも、そうである。)

これまでに述べたことは、私たちの時間は、実は、ある解析学的条件に依存して生まれるものであり、従って、もし私たちが何か異なる解析学的条件を設定するなら、又別種の時間をうることになることを示している。これは、空間についての幾何学と同様であり(私たちは一連の解析学的条件に依存してユークリッド幾何学あるいはいくつかの非ユークリッド幾何学を得ることになる)、「解析時間学」が生まれることを予告している。

ところで、実は、時間はどこにも観測することはできないのである。とすれば、私たちはどうして時間を時計によって知ることができるのか、という疑問が起こるだろう。この疑問の解答は次のようである。即ち、

私たちが生きている宇宙は、実の3次元空間を持っているが、ただこの宇宙の中だけで、私たちは時間を把えることができるのである。実際、これは数学の法則、すなわち、「連続運動は、ただ、実の3次元空間の内部においてのみ、一本の軸をもつ」、という連続群論に関連している。(このことはまた逆に、私たちの宇宙空間がなぜ実の3次元なのか、という理由をも示している。)

しかしながら、私たちが宇宙で把えるところのものは、時間そのものではなく、実の3次元空間に於ける空間的変化量にすぎない。空間的変化量を時間に呂頃のものは「時計」である。だから、時計はただ、実の3次元空間を持つこの宇宙にしか存在し得ないのである。実は、この時間においては、最高速度が存在し、かつ、その値は絶対的である。(アインシュタインが言うところのものはこれである。すなわち、「光の速度を超える速度は存在せず、光の速度は絶対値である」)

このように、時間について私が発見した解答は、驚くほど単純である。しかし、解答に至る道筋はきわめて入り組んでいる。そのお陰で、私たちは、物理学に関して多くの知見を得ることができる。そのうちの幾つかは、既に本誌で述べたが、より根本的には、例えば、物理学の根拠は何か?力学に関するニュートンの、又はハイゼンベルクの法則はどうして現在のようなものなのか?量子力学の法則はどうして決定論的でなくて確率論的なのか?等々多様である。(これらが、演繹的に導かれることで、解析学に依るところの以上の結論が、時間についての解答であると、私は判定するのである。)(09.8.21

(編集 菅野)