私達の教育改革通信
第 133号 2009/9
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赤ちゃんにとって、「返事をしてくれない」、
「思いを汲み取ってくれない」テレビの危険性
坂本千鶴子
私は現在、西武新宿線「都立家政駅」近くで、スタジオ・ドリームを経営しています。洋書絵本と木のおもちゃの輸入販売、小さな英語クラスの運営、学校や英語の先生たちへの洋書絵本コンサルとチャイルドコーチング(認定)を通して、赤ちゃんとお母様たちに日本語の絵本の読み聞かせなどをしています。
一年半前、スタジオ・ドリームを西武線線路沿いの一方通行道路沿いに移転してから、その立地条件のマイナス面が私に発見させてくれたことがあります。それが、テレビを赤ちゃんのときから見ている子と、ほとんど、あるいは全く見ていない子の電車の走行音に対する反応の違いでした。何かに集中している、あるいは集中しているように見えていたのに、電車の走る音に毎回反応する子どもと、ほとんど反応しない子どもです。
移転後、初めて来てくれた赤ちゃんの中には、お気に入りのおもちゃで夢中で遊んでいたはずなのに、電車が通るたびに、反射的に窓の外を見る子どもたちがいるのですが、移転前から付き合いのある子どもたちの大半は、何かに夢中になっているときには、毎回反応するということがないのです。この違いの原因を考えているうちに、思い当たったのがテレビの影響でした。電車の音に毎回反射的に反応する赤ちゃんの保護者の方にうかがうと、ほとんど皆、0歳のときからテレビを見ていました。
移転前からスタジオ・ドリームによく来てくれている赤ちゃんや小さい子どもたちの多くは、日本語の絵本の読み聞かせをしてもらっていて、テレビはほとんど見ていないのです。
このことに気付くまで、私にとって乳幼児にテレビの見過ぎが及ぼす影響の主なものは、「音を選べなくなること」、「集中力に欠けること」、そして「赤ちゃんが必要とするコ
ミュニケーション力の発達や心の発育が、テレビに邪魔される」ことだと思っていたので、ショップに来てくださる保護者の方には、「テレビをやめて、その時間を、絵本を読んだり、歌を歌ったり、お話しながらのお散歩や外あそびに変えてみませんか。」と、お話していたのです。実際にそうすることで大きく変わった子どもたちが何人もいました。
しかし、移転後、電車の通過音への反応の違いで、子どもたちのテレビとの関係が読めたことで、いつの間にか私は、「テレビの影響=音を選ぶ力を奪う、集中力が欠ける」ということにばかり気をとられ、「コミュニケーション力や心の発達の問題」を忘れがちになっていました。
ところが、この2ヶ月の間に、それを大きく打ち壊してくれた子どもたちとの出来事がいくつも起きたのです。そして、その都度、「乳幼児期に必要な、基本的な信頼感を身につけることは、自分の思いを何かの形で表現するとそれに答えてくれる人がいると実感することによって培われていく」ということ、「人と人とのやり取りのなかでしか、コミュニケーション力は養われない」ということを思い返し、返事をしてくれないテレビは乳幼児から信頼感を奪っていると、実感させられたのです。
今回はこの中から2例を、大変長くなりますが、詳しくご紹介します。
テレビを「きらい!」と言った子どもたちの例です。
事例1.
Yちゃん 女の子 1歳6ヶ月、お母様は、優しい素敵な方です。
0歳から絵本の読み聞かせを楽しんでいるYちゃん。おとなしくて、人見知り、場所見知りをします。
1歳5ヶ月になって久しぶりに来てくれたとき、以前より生気が無いのが気になりました。
お母様にぴったりとくっついたまま、おもちゃにも手が伸びません。先回まで気にしていなかった電車の音に反射的に反応します。お母様に「テレビを見るようになりました?」と伺うと、図星でした。
週に数回行く児童館で全員揃って踊るダンスが教育番組で放映されているものなのだそうですが、Yちゃんだけがテレビを見ていないので踊れません。それがかわいそうで、その番組の時間だけテレビをかけてダンスの練習をしているとのことでした。
「それで、Yちゃんは楽しそうですか?」と伺うと、「それが、2人で公園で遊んでいるときのような元気がなくて」とお母様。
しばらくして、お母様にくっついたままのYちゃんの肩を抱いて、「Yちゃん、児童館に行ってダンスするの、本当はいやだったの?テレビ見て踊るのもいやだったんだね?」と訊いた途端です。Yちゃんは、大きな声で「うん、うん」と大きくうなずきながら泣きだしたのです。「そうか、お母さんと一緒に公園で遊ぶ方が楽しいんだけど、言えなかったんだね?」と訊くと、私の手を握りしめて「うん」と言って、大泣きになってしまったのです。Yちゃんの様子を見ていらしたお母様の目にも涙が溢れ、「ごめんね、Yちゃん。」と言って、泣かれてしまいました。そこで、私が、「わかった。児童館のダンスに行くの、やめようね。テレビもまた、やめようね。もっとお母様と公園でボール遊びしていただこうね?」というと、「うん、うん」と言いながら、わんわんと声を上げてしばらく大泣きが続いたのです。
長いこと、泣いて泣き止んだその表情があまりに晴れやかなのを見て、思わずお母様と顔を見合わせてしまいました。Yちゃんは、まだあまり声を出しておしゃべりはしません。こんなに声を出して泣いたのも初めてだったそうです。そのあと、その日初めてお母様のひざから、そろーっとフローリングに降りてきました。そこでおもちゃ遊びに誘うと、しばらくはビクビクした感じでしたが、突然、自ら遊びに熱中し始めたのです。「こんなに一つのおもちゃに熱中したのは初めて」と、お母様は驚いておられました。最後には、とても満足そうな笑顔でバイバイをして帰っていきました。
それからしばらくして、またYちゃんがお母様と一緒に来てくれました。その日も少し恥ずかしそうに、しばらくはお母様にくっついていましたが、表情は、前回よりずっと豊かです。あの大泣きした日から、本当にテレビと児童館通いをやめたそうです。その日は、前回とは比べ物にならないほど集中力が増していました。そして、前に遊んだコルクの大きな積木を出してあげると、どんどん高く積み上げたり、円形の積木を転がしたり、様々な遊びを展開していました。「すごい、すごい」と、お母様と私が手をたたくと、Yちゃんも自分で拍手をして嬉しさを体いっぱいに表していました。
お母様が、「実は、Yは本当にテレビが嫌いだったらしくて、歯医者さんの託児室で子ども用のビデオが流れていると、電源を切ってしまうんです」と教えてくださったときには、びっくりしました。
しばらくして、Yちゃんがお母様のバッグに手を入れました。お母様が「のどがかわいたの?」と訊くと、こくんと頷いたのですが、「あっ、水筒忘れちゃった。ごめんね」といわれ、Yちゃんは悲しそうな顔をしました。私のところには、水道水しかありません。伺うと、いつも水道水を飲んでいるから大丈夫とのことだったので、ピンクの花模様のついた透明なプラスティックのカップにお水を入れて「Yちゃん、お水、のむ?」と訊いてみました。すると、「うん」と大きな返事をして私の手から上手にその持ちにくいカップを両手で受け取り、おいしそうに、ゴクン、ゴクンと飲みました。今まで、私に何かして欲しいときには、必ずお母様を通したコミュニケーションだったのに、そのとき初めて、自分のしてほしいことを直接私に伝えてくれたのでした。
コルクの積木を買ってもらって帰り際、「Yちゃん、おくつ自分ではいてみようか?」と言いながら、少し手伝って最後の仕上げを自分で出来るようにしてみました。「できた、できた!おくつはけたね!」というと、本当に嬉しそうに自分でも拍手をしていました。そして、いつもは外に出ても、お母様にぴったりくっついたままだったのに、初めてトットコ、トットコと走ってお母様から離れて走ったのです。それから線路沿いの柵まで戻ってくると、その柵を一段、また一段とよじ登り始めたのです。お母様も私もびっくりです。
私はあわててYちゃんの背中に自分の体をぴったりつけて、支えていました。Yちゃんは嫌がりません。もうこれ以上は危ないというところで、それをYちゃんに伝えました。Yちゃんは私の言うことをしっかり聞いています。
それから長いこと、電車が通るのを二人でくっついたまま眺めていました。
「もう、暗くなったから帰ろうね」と言うと、何回かは首を横に振っていましたが、やがて満足そうに自分で一段一段柵を降り、お母様の自転車に乗って帰って行きました。
Yちゃんとお母様は大の仲良しです。たとえその大好きなお母さんと一緒でも、Yちゃんにとって、テレビは、踊りたくないダンスを強要する、もう一度見せて欲しいと思っても待ってくれない、イライラさせるだけのものだったのかもしれません。
★なぜ「せめて、3歳まではテレビを見てほしくない」のか
絵本のなかに描かれた食べ物の絵を見ながら、「おいしいね」といって摘まんで食べさせてあげるまねをすると、差し出す指をパクッと口に入れたり、絵にかじりついてしまったりするのは、大体0歳から2,3歳までです。
また、赤ちゃんは、自分が興味を持ったものを口でも確かめようとします。おもちゃでも、身近な雑貨でも五感をフルに使って物事を確かめようとするのです。
それ以上の年齢になると、食べるまねを楽しむことが出来るのですが、2,3歳までは、現実の世界から空想の世界へ瞬間に飛び込んでいきます。
この年齢は、「すべて、本気なのだな」と、感じさせられることがよくあるのです。
そんな年齢のときに、赤ちゃんにテレビは見て欲しくないと思うのです。
また、実際には、2〜3歳までテレビを見ていない子どもには、見たくないテレビを見ない能力が備わっていくようです。
実は、個人的な経験からも、3歳までの「実感」の強さを根拠としているところがあります。
私には、本来忘れなければならないといわれている、0歳から3歳までの記憶が、部分的なものですがいくつもあるのです。
3歳になってから引越しをして、とても寂しい思いをしたので、それまでの楽しい記憶が忘れられなかったのだと、最近になって思います。
私の一番早い記憶かと思えるものは、0歳のころ、母親に「おんぶ」されていた時に見えた母のうなじと、髪の毛です。それとともに温かい背中にくっついてゆられていた感覚が蘇るのです。私が話せるようになったのは、2歳になってやっとだったといわれています。
自分では言葉が話せないのに、人が私に語りかけていた言葉を覚えているのも不思議です。目覚めたときから夕方まで、親だけではなく、近所の人たちに絶えず声をかけられていたこと、私の名前を呼んでくれていた人たちの声の違いまでしっかり覚えています。
具体的な場面の思いでも、いろいろありますが、体に染み付いた感触として思い出せるのは、陽だまりの匂い、草むらの匂い、冷たい井戸水の感触、ひざの上の温もり、水溜りを覗き込むのが楽しかったこと、神社のひんやりとした空気、肩車されて揺れながら高いところから眺めた景色などです。
私が、「話せない0歳、1歳児でも、ほとんどのことをわかっている」と信じて赤ちゃんと接するのは、自分にこれらの思い出があるからです。
3歳ぐらいまでは、五感をフルに使って息をしていたのだと思います。すべてが実感なのです。
ところが、テレビの中の世界は触れることも出来ない、匂いもしません。こんな世界を赤ちゃんが納得できるのでしょうか?
もう一つ、例をあげさせて下さい。
事例2.
N君 1歳11ヶ月 男の子 お母様はとても穏やかな方です。
ある日、物静かなシニアのご夫人と一緒に男の子を連れた素敵なお母様がみえました。その男の子N君は、ショップに一歩踏み込んだとたん、ブラインドの紐は引っ張る、本棚は力任せに揺らす、次々に脈絡もなくショップの備品や商品に触るーと、まったく落ち着きがありませんでした。私は、まるで嵐が吹き込んできたようなショックを受けました。
言葉での注意はまったく意味がありませんでした。
体を張って止めなければならない危ない場面も何度もありました。椅子の上に立とうとしたとき、「椅子は座るところ、危ないから椅子の上には立たないでね」と言っている私の顔を見ながら、本当に立ち上がり、手を伸ばしても届きそうもないものを取ろうとします。思わず、「あぶない!」と言ってN君の体を抱きしめました。
すると、N君は、私が生まれて一度も聞いたことの無い、「ギーッ」という、私の鼓膜が痛みとともに振動で破れそうな高音の連続音で叫び続けるのです。ただ、不思議なことに、その声は、思い通りにならない怒りの声そのものなのに、N君は私を引っかくでもなく、暴れるでもなく、私の体にぴったりと自分の体をくっつけて、抱きしめられるに任せているのです。「危ないのよ、わかった?」と声をかけて、叫び声が収まったところで手を離す、すると、すぐにまた、次の危険なことを始めます。私があわてて「あぶないっ!」と言って抱きしめて止めると、また「ギーッ」が始まるのです。これを何回か繰り返している間、おばあ様と、お母様は「きかなくて、すみませんね」と謝り通しです。
最後には、入店のときから興味しんしんだったショーウィンドウにかざってある木の汽車、何度も「あの汽車は外から見るだけね」と伝えていたその汽車にテーブルの下を這って突進して言ったのです。私はN君の傍にいらしたお母様に「危ないから、止めてください!」とお願いしました。お母様は「Nちゃん、危ないから止めなさい」と、声をかけてくださいましたが、N君はききません。私は慌ててとんで行ってN君のずぼんのウエストを引っ張ってテーブルの下から引きずりました。N君は今まで以上の大きな「ギーッ!」という叫び声と共に大泣きです。大粒の涙を流し、鼻水を流し、その顔を私にぐいぐい押し付けてきました。それでも私にびったりくっついているのです。
N君は、まだおしゃべりはしません。でも、いたずらの合間に、電車が通ると私の腕をトントンたたいて教えてくれていました。「テレビ見ていますか?」と伺うと、ほとんどテレビがついている状態のようです。それを伺い、私は「あっ」と、思い当たったのです。
「そうか、N君、寂しかったんだね。ずーっと、ずーっとテレビを見ていて、テレビに何かお話してもテレビが何にも答えてくれないから、寂しかったんだね?」と、私が訊いた途端、叫び声が止まり、「うん!」とうなずいて、更に大声で泣き出したのです。「すぐにテレビを止めてください!」。私は今まで口にしたことが無いぐらいのきつい口調でつい、言ってしまいました。「テレビを他の部屋に移して、ゆっくりN君とお話してみてください」とお願いすると、「大きすぎて他の部屋には移動できないんです。」と言われ、びっくりしました。お母様は、「直ぐに布をかけて、コンセントを抜くことにします。」と、おっしゃいました。いつも巨大なテレビとにらめっこしていたN君。私はN君を更にギューッと抱きしめました。N君も私も顔も体も涙や汗でびしょびしょです。
「わかったよ、N君、もう大丈夫!お返事してくれないテレビ、見なくていいからね。お母様が一緒に遊んでくださるって。もう寂しくないよ!」
N君は更に大きな声でひとしきり泣きました。
やっと泣き止んだN君を腕から離してみると、そこには別人のように晴れ晴れしたやわらかな表情のN君がいました。そして、N君は、初めてショップの中をゆっくりと眺めたのです。私が積木遊びに誘うと、床にしっかりと座ってじっくり遊び始めたのです。その遊び方を見て、自分で色々と発見する力を持っていることに驚きました。おもちゃでじっくり遊んだことが初めてだそうですが、色々と工夫をして遊んでいる姿にお母様も驚いていらっしゃいました。
気が付くと、N君がショップに入ってから2時間がたっていました。帰るときには、落ち着いた表情で帰っていったN君。
翌日、どしゃぶりの雨の中、お母様がお一人で、前日にN君が夢中で遊んでいた積木を買いに来てくださいました。そして、日本語の絵本のセットもご予約いただきました。あの日、帰られた後、さっそくテレビを布で覆われたそうです。すると、いつもより落ち着いて食事が出来た気がしたとのことでした。
1週間して、お母様がN君と一緒に、絵本のセットが届いたと、来てくださいました。NJ君は落ち着いて明るい表情になっていました。そのとき、不思議なことに気が付きました。初めて来てくれた日、どんなに私にきつく注意をされても、そのしかっている私のところにやってきて、一度もお母様に泣きついていかなかったN君が、その日は何度もお母様のひざにのっているのです。
お母様が、「絵本を読んであげるようになったら、初めてひざにのってくるようになったんです。それに今まで無かった後追いがすごくて、トイレまでついてくるようになって。」
それを伺い、N君はお母様のことを、今までの何倍も大好きになったんだと思いました。N君はそれまで返事をしてくれないテレビと向き合っていたから、お母様の素敵な声をちゃんと聞いていなかったのかもしれません。
★ 最後に
私は、医療の専門家ではありませんから、テレビと障害との因果関係、症状、治療法などには言及できません。また、現在の医学情報を通して、「テレビ視聴が自閉症の原因には、なり得ない」という事や、「乳幼児のテレビ視聴が脳に何らかの悪影響をもたらすかどうかの結論を出すには、まだデータが不十分」と言われていることも、認識しています。
しかし、現実に、『お気に入りを見つけても「もう一回?」に、答えてくれない、一方的に話しかけておきながら、速いテンポで勝手に流れていってしまう、なじみも実感も無い世界を次々と繰り広げるテレビ』を毎日見ながら、戸惑い、寂しい思いをしている赤ちゃんや子どもたちがいることと、その子たちが、テレビの無い生活を始めることによって、笑顔を取り戻せるという事実は、お伝えしていきたいと思っています。
ひとりでつくる映画の可能性————『精神』
佐々木聖
■起きていることをただ見よ
ドキュメンタリーといえども、ふつう前もって構成台本をつくる。どんな材料をどんな切り口で料理するかは、あらかじめ決めておくものだ。テレビであろうが映画であろうが、製作費を出すスポンサーに対して、それが商品として成立することを説得するための材料を提供しなければならない。だから企画書というものが存在し、プロデューサーはゴーサインが出た企画どおりに制作が進行するかどうか、構成台本を必ず要求し、チェックする。
それが必要ないのは、完全なる自主製作以外にありえない。いや、自主製作であろうと、構成台本なしに現場にのぞむのは、よほどの勇気がいる。なぜなら、この材料をこうした切り口で取り上げればこんなふうになるだろうという仕上がりをあらかじめ想定できないところに、創作の動機は生まれにくいからだ。そのためにドキュメンタリーの作者はふつう、対象に対する丹念な取材・調査をもとにした構成台本をつくり、それに沿った映像を撮影しようとする。
では、そんな手続きをいっさい取り払ったドキュメンタリーは果たして作品として成立するか。それは現在公開中の想田和弘監督『精神』を見ればわかる。取材・調査なし、構成台本なし、ナレーションなし、テロップ(字幕)なし、音楽なし、モザイクなし……通常のドキュメンタリー作品で使われる手法をすべて廃した「ないない尽くし」で、その現場で起こっている事態の推移をただひたすら自分の目で見定めよ、と観客に要求する映画が『精神』である。
■映像の多義性を失わない
とりわけこの映画の場合、「モザイクなし」というのに驚かされた。というのも、撮影対象が「こらーる岡山」という精神疾患の診療所で、画面に登場するのは統合失調症や鬱病の患者さんたちだからである。想田監督は映画公開と同時に出版された著書『精神病とモザイク』(中央法規)でこう述べる。
「モザイクが守るのは、被写体ではなく、往々にして作り手の側である。それを掛けてしまえば、できた作品を観た被写体からクレームがつくことも、名誉棄損で訴えられることも、社会から〈被写体の人権をどう考えているのか〉と批判されることもない。要するに被写体に対しても、観客に対しても、責任をとる必要がなくなる」。
また、ナレーションやテロップや音楽を入れないのは、「本来多義的であるはずの映像を、一義的で平坦なものに変えてしまう」からだという。
「例えば、ある人物をナレーションなしで映し出すとする。観る人は、彼を〈太った人〉と思うかもしれないし、〈笑顔の素敵な人〉と思うかもしれない。ところが、そこに〈躁うつ病を患う○○さんです〉というナレーションを入れたらどうか。その瞬間に、映像からは多義性が失われ、〈躁うつ病患者の絵〉という一義的でフラットな記号に堕してしまうのである」。
テレビ・ドキュメンタリーの現場で、映像の多義性を作り手の意図した一義性に封じ込めようとする制作方法に疑問を感じた想田監督は、いっさいの予断を排除し事態の推移だけを律義にキャメラが見守ることによって、そこから何を感じとり、考えるかは観客にすべてを委ねるこうした手法を「観察映画」と呼んでいるが、おそらくその元祖はアメリカのフレデリック・ワイズマンだろう。1967年のデビュー作『チチカット・フォーリーズ』以来、ナレーションもテロップも音楽もモザイクもなしで40本近いドキュメンタリーを撮り続けている人だ。『Zoo』(93年)『Domestic
Violence』(01年)、『BALLET アメリカン・バレエ・シアターの世界』(95年)、『コメディ・フランセーズ————演じられた愛』(96年)などの作品がある(後の2本は日本でもDVDが発売されている)。
ただし、弁護士の資格をもつワイズマンの場合は、モザイクなしでの撮影を許可してくれた被写体のすべての人と契約書を交わしているそうだが(蓮實重彦『映画論講義』東京大学出版会)、『精神』で想田監督が依拠しているのは、山本昌知医師はじめ「こらーる岡山」のスタッフ、患者さんとの信頼関係のみである。むろん、すべての患者さんが撮影を承諾したわけはなく、現場での患者さんの抗議にあわや制作ストップか、と思いきや診療所のスタッフが穏やかなにとりなして撮影が続行できた経緯なども先の著書には紹介されている。
■半世紀を経て実現したカメラ万年筆
映画の冒頭から山本医師の診療のようすが映し出されるが、そこで二人ほど続く患者さんの長いモノローグを山本医師と共に聞いていると、「なぜこれほどまでに自分のことを理路整然と語れる人が……」と不思議に思うが、やがて映画の時間が進むにつれ、そんな疑問をもつことは誤りだったことに気づく。きわめて用心深く心の奥底に錨を沈めて自分を見つめ、同じような鋭敏さで他者に接する研ぎ澄まされた精神のありようこそが、ほんの一瞬でも崩れた心のバランスの傾きを次第に大きくしていくのにちがいない。
病歴を語るうちに、人生の転機となったある深刻な事件をカメラの前で語りだす女性は、その場面が映画に使われることを最後まで逡巡したあげく、結局は承諾した。一般公開に先立って海外の映画祭で上映された際の質疑応答で、同じような精神疾患に苦しむ観客の一人が勇気をもって「あの女性は私そのものです」と発言したという。
ここで描かれている「精神のありよう」は、モザイクという隔離の壁の向こう側にあるものでは決してない。ほんの少し想像力を働かせれば、誰にとっても他人事ではないことがわかるだろう。「病んでいるのはどっちか?」というのは、よくこのたぐいの問題提起に使われるフレーズだが、それは正確ではない。
境界線を設けること自体、疑ってみてはどうか。そのことにこの映画は気づかせてくれる。孤立を防ぎ、人とのつながりを取り戻すための精神疾患の治療のありかたといった課題を考えるうえでも(もちろんこの映画自体にそうした社会的メッセージがこめられているわけではない)、年間自殺者3万人を超えるこの国で、こうした映画が公開され観客を集める意義は大きい。
さらに重要なのは、この映画が映像のもつ大きな可能性を示唆していることだ。これはほとんど想田監督一人によってつくられている。カメラの小型軽量化、高性能化が、それを可能にした。被写体との信頼関係というただ一点の前提があれば、わずかの予算で、機動性の高い、制約を免れた作品をつくることができる。前世紀半ば、アレクサンドル・アストリュックというフランスの映画作家が「カメラ万年筆説」を唱えたが、半世紀を経てようやく、テクノロジーの進歩が真の意味での「個人映画」を生みだすかもしれない。とりわけ『精神』のような題材では、一人だけが責任をもつ個人映画の手法によってこそ組み立てられた「ないない尽くし」の映像が大きな価値をもたらしている。
となると問題はメディア・リテラシーだ。われわれはテレビでも映画でも、あらかじめ「映像とはこういうものだ」という一種のコードに基づいて作品を受けとめる。そこから自由になるのはたやすいことではない。現に、この映画を見終わったあとは、どっと疲れる。あらかじめ作り手の意図にのっとって何かしらの結論に誘導するプロセスをたどらないから、観客はいったい画面では何が起こっているのか、ひたすら凝視することを要求される。
もちろん、撮影された素材(この映画では70時間分という)から何らかの取捨選択が編集で行なわれているから、作り手の意図が全くないわけではない。そもそも、どこかの放送局が標榜する「中立公正な報道」などというのは絵に描いた餅に過ぎず、「ドキュメンタリーは事実を客観的に描き、フィクションは虚構を主観的に描く」などという図式もありえないことはメディア・リテラシーの初歩の初歩だ。「起きていることをただ見よ」といっても、その映像が取捨選択された時点で、作り手の主観が大きく入り込んでいる。だが、観客の解釈に委ねられた多義性の許容度は通常のドキュメンタリーより遥かに大きい。「映像を見て考える」新たな経験を生きるか、それともそんなことは面倒か。
現に、この映画を見終わって劇場を出しな、後ろから若い女性二人の「なにこれ?」という、吐き捨てるようなセリフを耳にした。「見たくないものを見てしまった」「わけのわからない体験をした」と感じる人も少なくないだろう。だからこそ一見の価値がある、と言っておきたい。
→『精神』公式サイトは、 「http://www.laboratoryx.us/mentaljp/index.php」です。
新約聖書の本文批評について
大江真道
写本 新約聖書の本文には、原著者自筆の原本はなく、すべて写しによって伝承されてきた。これを写本(manuscuript)という。略記号ではMS、pl、MSSという。写本は伝承の間に種々の理由から改竄(coruruption)され、相互に部分的あるいは多くの部分にわたって相違している。この相違する読み方(reading)を異文(variant〈reading〉)という。種々の写本を比較照合し、すなわち校合(きょうごう・collation)し、そのなかから最適の異文を選んで本文(text)として定める。このような原文再建(restoration)の作業を校定という。
原文再建 3種類の資料が使用される。@ギリシア語写本、A古代訳、B教父(Father of the Church・使徒的信仰の代弁者として承認されている者の呼称)の引用である。これらの資料を証拠(evidence,witness)という。このなかでギリシア語写本が主要な証拠であって、古代訳、教父の引用は二次的な証拠である。しかし、翻訳も良質の底本の読み方を反映している場合、ギリシア語写本に匹敵する証拠となる。教父の引用は、部分的、断片的であるが、初期の教父の引用は貴重な証拠となる。
ギリシア語写本 数は5,000を超えるが、次の4種類に分けられる。
@パピルス(papyrus)(81)、A大文字写本(uncial majuscule)(267)、B小文字写本(miniscule)(2,768)、C日課書(lectionary)(2,146)である。このほか、わずかではあるが陶片(ostracon)と護符(talisman)がある。
パピルス 最も古い写本はマンチェスターのジョン・ライランズ図書館にあるライランズ・パピルス(457年)である。パピルスには断片的なものが多いが、チェスター・ビィーティー・パピリー(Chester Beaty Papiry)や、ボードマー・パピリー(Bodmer Papiry)のように長文のものもある。新約の主要な写本は、大文字写本(シナイ写本、ヴァチカン写本、エフライム写本、ベザ写本)は4世紀から10世紀にわたるは新約の主要な写本である。小文字写本は9世紀以降16世紀のものであるが、抜粋断片によっては非常に古い本文を保存している場合がある。
写本の概観 4種類の本文型(text-type)を区別することができる。西方、アレキサンドリア、カイザリア、ビザンチンである。
@ 西方(Western)本文 2世紀前半、パレスチナかシリアに起源をもつ初期本文で敷衍や付加が見られ、「西方無加筆」(Western non interpolations)という欠文があり、セム語法があるのが特色。使用したのはマルキオン、タチアノス、ユスチノス、イレナエウス、ヒッポリュトス、テルトリアヌス、キピリヌスである。
A アレキサンドリア本文 原形は2世紀とされるが、300年頃、アレキサンドリアの学者たちにより、文体、文法の修正、ヘレニズム的校訂を受けたもの(後アレキサンドリア本文)がある。ヴァチカン写本、シナイ写本が主要証拠である。
B カイザリア本文 エジプトに発し、オリゲネスによってカイザリアにもたらされ(前カイザリア本文)、ワシントン写本、レイク・グループ、フェラー・グループ、28が属する。そこから、エルサレム、アルメニア人、グルジア人に運ばれた(本来のカイザリア本文)と考えられる。これは本来のカイザリア本文とされる。コリデテイ写本、565、700、オリゲネス、エウセビオス、アルメニア語訳、グルジア語訳がこれにつながる。古シリア訳もある程度、カイザリア本文と親近性があるとされる。カイザリア本文の特徴は西方本文とアレキサンドリア本文との中間に位置し、西方本文を残しながらアレキサンドリア本文に従っているとされている。
C ビザンチン本文 3世紀末,あるいは4世紀始め、アンテオケにおいて校訂され、後にコンスタンティノポリスに広まり、10世紀から14世紀にかけて各地に広まった。本文の部分的変更と調和化が特徴で、エルゼヴィール第2版(1633)の序分の語句により「公認本文」の名称があるが、改竄が多いとの理由で通常斥けられている。
印刷された本文 最初の印刷はコンプルートム聖書(Comtutention Rolyglot)で(1514年印刷、1522年に刊行)であるが、最初の刊行は1516年のエラスムス版(Erasumusu)であった。これらは、その後のエティエンヌ(Estienne)、エルヴィゼール(Elzevir)などの諸版とともに、主としてギリシア語小文字写本を典拠とするビザンチン型「公認本文」であった。1881年のラッハマン版が公認本文から離れてから、ティシェンドルフ(Tischendorf、第8版、1869,1872)、ウエストコット=ホルト(1881)の諸版は、ヴァチカン写本、シナイ写本など、4世紀の重要大文字写本を根幹とするアレキサンドリア本文である。これより一世紀さかのぼるパピルス資料のみによる新約本文の再建が進行している。
現在、最も普及しているもの ネストレ・アーランド版(Nestle−Aland)(第25版−1963、第26版1983・異文研究資料はおよそ1万)である。これ以外にはフォーゲルス(H・J・Vogels)、メルク=マルティーニ(Merk−Martini)、ボーベル(J・M・Bover)、スーター(A・Souter)、キルパトリック(G・D・Kilpatrick)編英国聖書協会版、タスカー(R・V・G・Tasker)→(NEB〈ニューインgリシュバイブル〉の底本1964)、五聖書協会共同刊行版(1966)で、最後のこれは聖書翻訳者の要求に最適の新約本文を提供しようとして発行されたものである(異文研究資料は1440)。
□ 新約本文を対象とする研究所 ●ウエストファーレン・ウイルヘルム大学の「新約本文研究所」(Institute for
neuetestamentlichec Textforschung)は1959年の設立でクルト・アーランドが初代所長をしていた。●クレアモント大学院神学研究所(カリフォルニア州)にある「古代及びキリスト教研究所」(Institute for Antiquity and
Christianity)のなかにある「国際ギリシア語新約計画」(International Greek NT
Project)はあらゆる異本資料を網羅提供する仕事をしている。●ボイロン(ドイツ南西部)に「古ラテン語聖書研究所」(Vetusu Latin Institute)がある。1951年の設立。写本と教父の引用を完備し何冊かが出版されている。
「NESTLE-ALAND NOVUM TESTAMENTUM GRAECE」序文
(日本聖書翻訳研究会 1991)の要点
本版とその本文 エーベルト・ネストレが1898年に「ギリシア語新約聖書」の初版をだしたが(ヴェルテンベルグ聖書協会)、そのときずば抜けて広く用いられていたのは「公認本文」の版であった。19世紀の学界はそれを新約聖書本文の最も貧弱な形であると断固として表明した。その分野における主要な版は「ティシェンドルフ」Tischendorf版(1841年から,1869−1872年の「第8大聖書批評版」editio octava critica majorまで)と、「トウリゲリス」Tregelles版(1857-1872年)と、「ウエストコット=ホルト」Westcott=Hort版(1881)であった。しかし、大学、教会、そして学校において国際的に広く用いられたのは「公認公文」であった。例えば、1904年まで英国聖書協会 British and Foreign Bible Societyによって頒布されたものであった。それはこの分野におけるネストレ版の出現まで続いた。
エーベルト・ネストレの「ギリシア語新約聖書」を生みだす動機は、実用的な考察であった。彼は19世紀の学界によって達成された本文を一般に通用させることを望んだ。このために彼は三つの版を基礎とした。これは、「ティシェンドルフ」Tischendorf版、「ウエストコット=ホルト」Westcott=Hort版、「ウェイマス」Weymouth版(これは1894-1900年の「ベルンハルト・ヴァイス」Bernhard Weiss版に取って代わられた)であった。これら三つの版の本文の照合から「多数派本文」が作りあげられた。三つの版が相違する箇所は、二つの版の一致によって本文を決定し、残る版の読み方を脚注に記した。三つの版がすべて異なる場合は、ネストレは折衷的な読み方を採用しようとした。この方法はそれ自身新しいものではなかった。
1873年に、「学校と大学のためのケンブリッジ・ギリシャ語聖書」The Cambridge Greek
Testament for School and Collegeが「ティシェンドルフ」と「トウリゲリス」の版に基づく本文をつけて出版された。しかし、両者相譲らない場合のその本文の決定要素は、「公認公文」(あるいは必要に応じてラッハマンLachmannと、シナイ写本Codex Sinaiticusが用いられた)であった。さらに細部の違いにさえ至るまで諸版の読み方をその脚注に記すことによって、ネストレがその版を準備する際に支払った細心の配慮は無駄ではあり得なかった。エーベルト・ネストレは当初から、他の新約聖書写本(特にベザ・カンタブリギエンシス写本Codex Bezae
Cantabridgiensis)の読み方を第二の大抵はごく短い脚注において表示し始めた。これら初期の段階から、彼の息子エルヴィン・ネストレErwin Nestleがドイツ新約聖書学会 Deutsche Nuetestamentertagungの提案にこたえるとともに、その方針に従って、1927年の第13版において、異文資料編(脚注)を備えた現代「ネストレ」を生み出した。これは前述の三つの版(さらにフォン・ゾーデンvon Sodenも含めて)の読み方を残したものであるが、諸写本、古代訳、さらに教父文書の証拠を、より顕著に提示している。この脚注はきわめて包括的になったので、その使用者が時には多数決の原理から意見を異にしつつ、そしてそれを学問的総意によって取り替えることにしつつ、その本文について独自の判断をすることができるようになった。その提供する情報はエルヴィン・ネストレによって彼の父が諸版に対して示したのと同様の配慮をもって絶えず拡張された。しかし、(これはその弱点であるが)その情報は、もっぱら他の版の異文資料に由来していた。クルト・アーラントKrut Alandは、1952年の第21版において、この作業に初めて参画した。そして、その時から彼は原資料に照らして、脚註における証拠を再検討し始めた。さらに最近発見されたパピルスの読み方を導入し始めた。「ネストレ」と間もなく一般的に呼ばれるようなったこのものは、何十万部も頒布された。それはギリシア語版(1963年の第25版は繰り返し増刷されている)だけでなく、二ヶ国語版においてもそうであった。他のポケット版が比較的脇役の立場となる一方で、それは間もなく「新公認公文」の一つとなった。エルヴィン・ネストレが構成した「多数派本文」は新約聖書本文に関する19世紀の新約聖書学界の見解に対応しているだけでなく、20世紀の学界の見解にも対応しているということである。本文における批評記号の方式(これは恐らくP.シュミーデルSchmiedelに本質的に由来している)は、明らかに研究者に最大の忍耐を強いてきた。しかしまた、この方式は異文資料欄において最小限のスペースに比べようもない豊富な情報を提供することを可能にしてきた。
にもかかわらず、その本文自体の起源は、19世紀の諸版の中にたどることが明かに可能であり、特に ウエストコット=ホルトの特殊な理論が本文を形成する際に支配的な影響を与えた箇所においてそうであった。さらに、1930年代以来発見された紀元200年ころからの豊富な新約聖書パピルスが本文の歴史における全く新しい局面を開くにつれ、ネストレの基本的には機械的な手法への評価は増加した。1963年のネストレ・アーラントの第25版は、1956年の第22版にすでにみられた暫定的な性格を持っていた。つまり、最初の諸版の持つ枠組の中での実質的な展開と改善によってこれらが記されたのであるが、一方、本文と脚注との全く新しい形は、K・アーラントによって準備されていた。その作業がかなり軌道に乗ったころ、米国聖書協会American Bible Societyが、E・A・ナイダNidaを通して、この事業に一層の主導権をとるようになった。これは世界中の何百という場所でそうであるように、その当時に提起されていたところの新約聖書を現代語に訳する問題が出てきた。何百もの翻訳委員会が、彼らの特別な必要を満たすために企画された「ギリシア語新約聖書」の版を求めていた。そのような版とは彼らの作業のために、異文の数を制限して特に重要な厳選された異文資料欄を備えたものであり、異文の評価のための指針を提供してくれるものであった。主要な現代語訳とギリシア語本文の諸版において、難解な箇所がどのように解釈されてきたかを示すために、句読法の脚注も必要とされた。編集委員会の本文決定を説明し、細部にわたって述べるために、一般の注解書も計画された。というのは、初めからその計画は一人の編集者のものではなく、指導的な本文批評家の国際的チームの事業として認められたからである。E・A・ナイダは、その熱心さ、理解力、手腕によって多くの聖書協会(最初に米国聖書協会、ヴィユルテンベルグ聖書協会、スコットランド国内聖書協会、特にオランダ聖書協会、英国聖書協会)の支持を得たのみか、編集委員会(K・アーラント/、ミュンスター、M・ブラックBlack/セント・アンドリューズ。B・M・メツガーMetzger/プリンストン、A・ヴィクグレンWikgren/シカゴ、初期にはA・ヴェヴスVoobus/シカゴ、そして後に、彼に代わってC・M・マーティニMartini/ローマがメンバーであった)の継続的な協力を得ることに成功し、こうした広範かつ根気強い努力を通して、1966年、「ギリシア語新約聖書」The Greek New Testamentの初版を生み出した(「ネストレ・アーラント新約聖書」26版の成立過程については省略)。
参考文献
B・M・メツガー『新約聖書の本文研究』橋本滋男訳
『ギリシア語新約聖書』ネストレ・アーラント校訂本
27版 (1995年以降発行の岩波版『新約聖書』は27版を定本としている。)
田川建三『書物としての新約聖書』
日本聖書協会・新共同訳『聖書』
New
Interpreter’s Bible (シリーズ、T〜XU、Abington Press)
キリスト新聞社刊 『聖書大辞典』1971年 聖書の本文研究(旧約は左近淑、新約は蛭沼寿雄が執筆)
(収録できないほど多く発行されているので、手持ちの数冊を列挙しました。)
(編集 湯浅・川東)