私達の教育改革通信

   132  20098

 

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追従要求型教育の臨界点

〜ハインリッヒの警告〜

石川 雅章(フリーエンジニア)

 最近,大学で人命に関わる事件が2件ほどあった。ひとつは,中央大学で起きた教授の刺殺事件。もうひとつは,東北大学での学生の自殺事件だ。結果だけを見ると,一見「正反対」のような感じがするが,私はその根底に似た要因があるような気がしている。

 東北大学の事件では,その後の学校の会見で,教員側に不適切な対応があった旨の報告がされている。具体的には,詳しい理由を言わないまま,提出された論文を突き返すことが何度かあったという。

 じつは私も学生時代に何度か似たような経験をしている。卒業論文も,一旦突き返されてきた。ただその時は一応「理由」も告げられた。それは「綴じているバインダーが違う」というもの。「他の提出者と同じでないとダメ」だという。しかし,論文の提出のための手引きには,綴じるバインダーの形式の規定を見た記憶はない。だから私は,手に入れられる最も安価なものを使って提出したのだったと思う。
 他の学生はというと……私以外は,みな同じ形式のものを使っていた。それは,一般に「Zファイル」と呼ばれている,穴をあけずにレバーで紙を挟みつけるタイプのもの。でもなぜ私以外の学生は,揃ってその形式のバインダーで提出していたのか。それはたぶん,先輩から「そうするように」と聞いていたからだろう。たまたま私は,そうした人との付き合い方が「不器用」で,それを知る機会がなく,卒論提出のための手引き「だけ」を判断材料としたために,「不備」のような扱いを受けて突き返されたと思われる。

 しかしそれでは,論文作成に当たって,先輩とある程度「密」な付き合いがあることを「前提」にしているようなもの。「そうした人がいないのなら,論文は評価に値しない」とでも言わんばかりの扱いだ。だったら,そもそも「卒論提出の手引き」のような書面の存在自体無意味で,ただ「提出のし方は,先輩から聞きなさい」と口頭で伝えるだけと,何も変わらない。

 ひょっとすると,その「Zファイル」という名称を知らなかったために,記載しなかったのかもしれない。でも「名称」は分からなくとも,前述のように「穴をあけずにレバーで紙を挟みつけるタイプのバインダー」と書けばいいわけだ。もし,そうした説明文が思いつけない国語力の程度なら,図を描いて「このタイプのものを使ってください」とすれば済んだこと。そんな説明は一切なく,「バインダーが違う」という理由で突き返す。これが,提出を受けて評価する側として「責任ある対応」なのだろうか。そもそも,評価されるべきは「内容」であって,「バインダー」など関係ないのではないか。不信感だけが残った卒論だった。

 その数年前,コンピュータのプログラムの演習があった。FORTRAN77 と呼ばれるコンピュータ言語が課題だった。ところが,学校の計算機室を使うには手続きに手間がかかり,しかもいつも満杯でなかなか使えない。たまたま自宅のパソコンで FORTRAN77 が使えるようになっていた私は,課題について自宅でそれなりの結果を出して提出した。

 評価は「不可」。理由は,「学校の計算機を使う演習の意味もあるから,学校の計算機を使っていないとダメ」というもの。

 「先に言えよ。」……口には出さなかったが,理由を告げた担当の先生の顔に向かってそう思っていた。その「演習の意味」が事前に伝えられていれば,少々面倒でも学校の計算機を使っただろう。

 それにしても,演習で「学校の計算機」を使う必要があるなら,それなりの人数が使えるようになっていてしかるべきであるはず。満席の計算機室の前で,席が空くまで待っている時間は,たいへん無駄になる。だったら,自宅で同じことができて,同じ結果を得ることができる人は,自宅でしたほうが混雑も緩和する。しかしこの時も,結果や内容については一切評価されなかった。

 共通点は「必要な条件が『事前に』説明されていない」ということ。そしてその「条件」とは,内容とは直接関係のないもので,しかもそれが評価されない理由にされているということ。

 東北大学の自殺のニュースを聞きながら,そんな過去のイヤな経験を思い出していた。中央大学の刺殺事件はまだ真相が明確ではないが,報道からは,何らかの「恨み」が絡んでいるような感じを受ける。犯人に同情する気はないが,彼の在学中,東北大の自殺者や私が味わったような,「説明不足」や「内容無視の酷評」,あるいは,それを理由として一方的に「疎外」するようなことはなかっただろうか。

 「学校」では,細かなことは説明しなくても,「伝えた指示に異論を唱えず,従来通りの対応で従ってくれる」学生が,いわゆる「優秀な学生」なのだ。社会に出てからも,詳しい説明のない指示に対して「おっしゃる通りです!」と盲従する者が好まれ,引っ張り上げられていく。しかしそれは結果として,「寄らしむべし,知らしむべからず」といった「トップダウン」行政を助長してはいないだろうか。末端の消費者軽視の制度ばかり作らせる温床になってはいないだろうか。極端な「売上至上主義」を増大させ,状況が苦しくなったら労働者を簡単に解雇する,そうした企業の社会的意義を無視する「経営者」をのさばらせてはいないだろうか。

 世界共通の学力テストで,日本人の子供は「与えられた情報を元にして自分で考えて判断したり,説明したりする能力が低い」といった結果が出て,文科省がアタフタしている。しかし,当の「学校」が,ひいては「社会」が,「キチンと説明して理解してもらおう」といった姿勢に欠け,「そんなことは言わなくても分かるだろう。分からないヤツが悪い。モンク言わずに従がえ。さもなくば評価しない」といった対応を,ずっと続けてきたわけだ。子は親の鏡,人の能力は置かれた社会状況を反映する。私に言わせれば「当然の結果」なのだが。

 早めにそうした「追従要求型教育」を改める必要があるように思う。しかし結局は,「文科省」をはじめとするオヤクショも「追従者の引っ張り上げ」でできあがっている組織。アタフタして制度を少々変えたところで,状況は変わらないだろう。できれば,末端の「教育現場」から,「意識」を変えていって欲しいものだ。

 「ハインリッヒの法則 1:29:300」というものがある。「1つの重大事故の前には,少なくとも 29 件の軽事故と,300 件の『未事故(ヒヤリハット)』がある」という。これを知ったきっかけは,東京の六本木で,自動式回転ドアに挟まれて子供が死亡した事故。その前には,同じドアで負傷事故が 32 件ほど起きていたと言う。その数字が,まさにこの法則とよく合い,存在を浮かび上がらせた。もしそのドアの管理者がこの法則のことを知っていたら,死亡事故が起きる前に何らかの対策を打っていたかもしれない。「モノ作り」に携わる技術者などにとっては,「品質管理」や「安全管理」の観点上,心に刻んでおくべき法則だと思うが,恥ずかしながら工学系である私も,学校卒業後十年以上経って起きたその事件で,初めて知った。残念ながら,工学系の学校でもそんな程度にあまり深く触れられていない。

 一方この法則は,工業製品だけではなく,サービスの「苦情管理」などにも応用的に考えらることがあるようだ。単純に当てはめると,「1つの重大な『不祥事』の前には,関連する『クレーム』や『相談』が少なくとも 30 件ほどあり,その背後には,クレームを出すまでもないものの,不満を感じている顧客が 300 人はいる」というような感じだ。最初に挙げた大学の死亡事件が,その重大事故に当たる「トップ2」だとすると,その「裾野」には,学校の指導のあり方に対して,心理的「もやもや」を抱えた学生が,相当数存在する可能性があると言えるのではないだろうか。今までも似たような事件がなかったわけではないが,最近,立て続けに起きたということは,そうした「もやもや」が,いよいよその「臨界点」を超えつつあるということではないだろうか。「ハインリッヒの法則」は,「29 件の軽事故や,300 件の未事故の段階で,早く気付いて対策をとれよ」という警告でもある。同様な事件が連鎖しないうちに,意識を変える必要があるのではないかと思う。

 

うなぎ川柳

金沢 一輝

朝から、昼は鰻と決めていたわけではない。日本橋で友人の個展を見て、さて昼飯、思いついたのが、日曜日もやっている、このところご無沙汰の鰻屋だったという次第。いつも思うことだが、鰻屋に「創作うなぎ料理」などという代物が加わることはなく、メニューは変わりようがない。旨さと値段と客の数だけのこの商売も大変だろうが、変わらず繁盛しているように見えるのは、同慶の至りだ。

 

数年前、神田明神下の鰻屋で見た全日本鰻屋連合の小雑誌「うなぎ百撰」で、うなぎ川柳なるものを読み、そのおかしさがいたく気にいった。以来、鰻の川柳が気になりだして、片っぱしから集めることになったが、一端をご紹介したい。現代ものも鰻好きの面目を伝えて面白いが、鰻は昔から川柳の格好の素材になったようで、なかなかの句が多い。

 

鰻はさばいて料理するには素人には手に余る。その事情は、今はもちろん昔も変わらないようで、天然鰻が獲れてそれからが大変、そこらあたりを活写した句。

 

  「やあ釣れた釣れたと鰻手におえず」(孝三郎)

  「釣ってきたうなぎ是非なく汁で煮る」(川傍柳)

  「悪い思いつき生きたうなぎを呉れ」(やない籚)

  「錐よ金槌よと素人のうなぎ」(柳多留)

  「素人にかかってうなぎ死に切れず」(枯泉)

 

そろそろ土用の丑だが、集中的にさばかれる鰻は災難である。この風習、かの平賀源内が贔屓にしていた鰻屋のために、「本日、土用の丑の日」という張り紙を書いてやったことに始まると聞いたが、本当だろうか。丑の日は江戸前だけでは足りずに、旅鰻という地方産も、土用丑の日にはどっと江戸にやってきたそうだ。

 

  「丑の日に籠でのり込む旅うなぎ」(柳多留)

  「土用丑桶で命がもつれ合う」(定雄)

  「丑の日の鰻ことさら逃げまわり」(菊路)

 

 被害者・鰻と加害者・鰻屋のおやじの関係も、格好の題材となる。鰻屋の生すで鰻がもつれ合い、白い腹を見せながら物凄い速さで泳いでいる。真昼の恐怖というところか。のんびり遊泳している鰻など見たことがない。真実(ここでは残酷さ)を機智と諧謔でまぶしてしまう川柳の本質がもっとも良く出た佳句が多い。鰻を擬人化し、川柳が俳句と異なり、徹頭徹尾人間を詠むものだと言うことがわかる。

 

  「うなぎ屋のうなぎはじっとしておれぬたち」(瓜人)

  「うなぎ屋の手つきに鰻あきらめる」(水笑)

  「包丁を研ぐ音うなぎ聞いている」(芳浪)

  「俎でうなぎ包丁睨みつけ」(露声)

  「鰻また逃げて見習い叱られる」(敏雄)

  「順番がきたとうなぎのあわてよう」(不詳)

  

鰻屋はちょっと高価な庶民の食堂だった。鰻屋のおやじがバタバタ団扇で匂いと旨さをたたき出して、客を誘う。お見舞い、寄席、お参りとかの帰り、「おぅ鰻屋か、ちょっと寄るか」と贅沢しに寄っていく。医者からの帰り、栄養つけるかということもある。五十回忌くらいの法事になると、もはやめでたいと言って、山芋が鰻に化けたこともあったようだ。江戸から明治大正昭和へ、くらしの中のちょっぴり非日常の営みに、贅沢の相棒として鰻がいた。ただし、以下の句、鰻は脇役、主役は人間とその暮らしである。

 

  「江戸前の風は団扇で叩き出し」(不詳)

  「うなぎやの隣り茶漬の鼻で喰い」(柳多留)      

  「お決まりのうなぎ屋へ行く寄席帰り」(三郎)

   「退院後すぐうなぎ屋へ行くつもり」(照子)

   「山の芋鰻に化ける法事をし」(柳多留)

   

 さて日曜日昼どきの鰻屋。やっぱり鰻は座敷で食いたい。お通しで一杯となると、客が出入りする一階より二階の座敷だろう。日曜日の二階は、サラリーマンでごった返す平日の昼とは、雰囲気を変える。どこの帰りか、卑しからぬ老紳士と奥方がぼそぼそしゃべって食っている。デパートから直行の子供連れがいる。こんな見事な句もあった。「丼へ子供顔中入れて食い」(夜舟)。大年増がひとりゆっくり食べている。そんな風情を眺めながら、う巻きとうざくで熱燗。しゃかりきで働いていた頃、友人と飲む蕎麦屋の夕方の酒も疲れた体にしみて、格別だったが、鰻屋の昼の酒もいける。酒と飯で小一時間というのもまたいい。次の川柳、鰻屋の中のお客を描き、どことなくおかしい。

 

   「丁寧に二階に通され並頼み」(平四郎)

   「備長で焼いた鰻を懐かしみ」(不詳)

   「夫婦して鰻を食えばおかしがり」(不詳)

   「待つほどに竹のうなぎも松となり」(不詳)

   「ありえないデートのうな重並なんて」(共水)

 

鰻の食し方は、白焼もたまにはいいが、やはり我らが蒲焼に止めを刺すだろう。いつかニューヨークの立派なレストランで、おいしいからと薦められた、独特のソースがかけられたべた焼きのイールは半分も食べられなかった。何ゆえかくも無残なる食い方なのか。どうせ食べられるにしても米国鰻が哀れ、そんな感じさえしたものだ。蒲焼は、鰻そのもの、焼き方、タレ、もさることながら、大事なのはお米である。飯にタレだけかけて食ってみると、米の微細な感じが分かる。これが駄目だと旨さは半減、大損させられた気になる。

 

  「うなぎ通ついでに米もほめている」(富美子)

 

子供のころから鰻が好きで、蒲焼を半世紀食ってきた経験からの私見であるが、今、東京で2千円以上のうな重を「並」・「竹」で出す店なら、米は無論、鰻も良質、安心できる。むろん、「本当の天然物」(=太平洋マリアナ諸島近海で生まれ、黒潮に乗って徐々にシラスウナギ(稚魚)に成長、日本沿岸域にたどり着き、さらに日本の河川や湖に上り成魚に育った純粋の日本鰻)は流通もしていないし、食べることはまず出来ない。2千円以下では当たり外れが大きい。旧態依然を旨とする鰻屋で、変わったものは鰻の出自だ。今、「本当の天然物」は1%にも満たない。天然の鰻が獲れると地方新聞の記事になる時代で、99%以上養殖物である。これに国内物と輸入物があり、前者がさらに国産稚魚からのものと輸入稚魚からのものとに分かれる。加えて複雑な流通形態がいっそう玉石混交にしている。「氏」入り乱れ、「育ち」さらに入り乱れ、訳がわからない。

 

 「知らぬ間に中国鰻が帰化してる」(春爺)

 「書いてある産地信じずうなぎ食う」(温風)

 「きも吸いの釣へ天然ものと知れ」(真砂巳)

  

スーパーで売っているもののほとんど、また格安のうな丼、うな重に使われる鰻は、大体輸入物である。日本人ほど、鰻を食べる国民はいない。世界の70%を消費するという数字もある。欧州物が中国へ輸出され、さらに日本に再輸出され、どこかの養殖池でひそかに鹿児島産とかに化ける鰻もいたそうだから油断ならない。天然物に勝るとも劣らない養殖物の高級品は、シラスウナギが、日本の良心的な業者によって、時間とコストをかけて丁寧に養殖されたものである。コスト高は、天然池での養殖がすたれ、ほとんどハウス池での養殖になったことにもよる。俳句だが、それは「鰻池いくつ廃れて浮葉かな」(祥子)という光景につながる。しょっちゅう新聞を賑わす偽装鰻だが、需要が強く、流通が複雑、加えて相変わらず国産信仰が強いので、後を絶たない。うなぎの養殖は、精子卵子レベルでのいわゆる完全養殖はいまだ実現していない。とにかく稚魚のシラスウナギを獲ってきて池入れして育てるしかない。完全養殖が実現すれば、事情は大幅に変わるだろうが、残念ながら、現時点においては、旨くて安心できるものかどうかは、プロがつけた末端でのうな重価格2千円以上か否かで見分けるしかないというのが悲しき現実のようである。  

   

さて、鰻には肝吸い。好きな人は多いものの、自分は苦手である。ある時、肝吸いは要らないと思い切って言ってみたら、露骨にいやな顔をされて勘定書から百円引かれていた。以来、野暮は言わないと決めた。ただこういう肝吸いもある。

 

  「サービスの肝吸い肝が見当たらず」(頑次郎)

 

名古屋に行くと、蒲焼を細切りしたひつまぶし。お茶漬けも楽しめるし、本当によく考えた食の傑作だ。鰻の焼き方の東京風、関西風だが、どちらも旨い。付け加えれば、最後に大事なものは漬物。黄色い沢庵とかは勘弁してほしい。白菜でも胡瓜でもいいから、その店自慢の漬物で満足して〆めたいものだ。そして、これぞ究極の鰻好きの本領。

  

 「一度でいい鰻は飽きたと言ってみたい」(夏海)

   「うな重が空になってもみつめている」(邦夫)

   「口に入る土用は四季にかかわらず」(不詳)

 

 古川柳にも、現代川柳にも、鰻を詠んだ佳句はまだまだあるだろうと思う。うなぎ川柳、さらに集めて楽しみたいものだ。この稿を書きながら、あらためて鰻は日本人の暮らしの中に様々な形で根づいている特別な魚だと感じる。川柳の世界でこれだけ親しまれ、楽しまれている魚はほかにはない。時代の移り変わり、人々の暮らしぶりの変化、その中で鰻はちょっと非日常の感じがする魚として、変わらず愛されてきた。今では贅沢品とも言えなくなり、だからこそ乱獲が横行し、天然物が消え、養殖物一辺倒となってきたのであるが、たとえ養殖物であろうとも、これからも日本人に愛される鰻は非日常性を漂わせながら、人間の日常に、醒めた非日常の視線で切り込む川柳という世界で、格好のお題として詠まれ続けるだろう。

【出典】「柳多留」、「新版川柳歳時記」(奥田白虎:創元社)、「「川柳動物誌」(西村在我:雄山閣出版)、「うなぎ百撰」(うなぎ百撰社)、鰻生産・販売各社ホームページなど

(元JFEホールディングス専務執行役員・中部大学客員教授)

花と話す水木鈴子さんの詩

       みずきすずこ

今日、噂の気むずかしい人に出会いました。

あなたの美しさの前では、思わず知らず

やわらかな笑顔がひろがりました。

「桃の花が好き!」

たったひとつの共通点から

おしゃべりの輪もひろがりましたよ。

人に好かれる人って、

人を好きな人って・・・・・ことなんですね。

嬉しい発見です。

なのはな      

いつになくいい風が流れてきたから、

春を探しに出かけました。

風はふくらみ。

ゆかしさのあるあなたの香りを運んでくれます。

すうっと胸に飛び込んできたやさしさで、

心はくつろげましたよ。

父さん、母さんに話さなかったけれども、

本当はね・・落ち込んでいたのです。

でもまた、やる気が咲きました。

おかげさまで!

 

地球システムの危機への対処

                      海野和三郎

人類にとって、地球システムは、エネルギー・地球環境・人口(食料)の3問題が複雑に絡み合った未曾有の難局にあることは、皆熟知している。それを、もっと強力にかつ具体的にアピールするために、世界の専門家集団が国連、世界銀行、ロックフェラー財団などのバックアップでまとめたものが、英国インデペンデント紙に載った。その『文明破壊の警告』が、地球システム倫理学会経由のメールとなってきたので、その内容を紹介するのが、ここでの目的の一つであるが、それに加えて、日本的アニミズムのやり方で作った簡便な危機脱却の処方箋を末尾に提案する。

惑星の将来:気候変動は「文明を崩壊させるだろう。」権威ある新研究は不足と暴動の陰鬱な展望を示すが、あらゆる陰惨にも拘わらず幾らかの希望もある。ジョナサン・オウエン、英国インデペンダント紙、2009年7月13日(月)付:人類が気候変動の惨害を生き残る機会を戦い取るには、月に人間を送ったアポロ・ミッション規模の努力が必要である。賭金は高い、維持可能な成長なしには「何十億の人々が貧困に呪われ、文明の多くは崩壊するだろうから。」
 報告書は6千7百頁にわたり、地球全域から2千7百人の専門家の寄稿によっている。その検証は国連事務総長バン・キ-ムーン氏によれば「国連、その構成諸国および市民社会にとってかけがいの無い将来への洞察」を提供するものである。
 地球的リセッションの衝撃がキー・テーマであるが、研究者達は地球のクリーン・エネルギー、地球全域の食糧供給、貧困および民主主義の成長がリセッションによって悪化する危険があると警告している。同報告書は「あまりにも多くの貪欲で欺瞞的な決定が世界のリセッションを招き経済と倫理の国際的相互依存関係を見せ付けてくれた。」と言う。 しかし執筆者達は、脅威が又、全てにとって積極的な将来への潜在力をも提供しうると示唆している。「良い報せは、地球的金融危機と気候変動計画は人類がそのしばしば利己的で自己中心的な青年期をもっと地球的に責任ある成人期に移ることを助けることになるかも知れないという事である・・・多くの人々は現今の経済的災難をもっと緑の技術の次の世代に投資し、経済や開発の諸仮定を考え直し、世界をより良い将来の行程に乗せる好機と受け取っている。」
 直接の問題は高騰する食料およびエネルギー価格、水不足および「政治的、環境的、経済的状況による」移住増加であるが、これは世界の半分を社会的不安定と暴力に陥れ得る。気候変動の結果は悪化しており、2025年までに人口がまだ更に増え、適切な水を得られない人々が30億人になりうる。そして巨大な都市化、動物生息域への侵入増加および集中的な家畜生産が新たなパンデミックを引き起こしうる。
 世界はその挑戦に対処する資源を持っているが、一貫性と方向性を欠いて来た。NATOとロシアの会合と共に合衆国と中国の最近の会合、G20の誕生プラスG8の継続的作業は地球の政略的協働の改善を約束するが、「この協力の精神が果たして継続し、決定がこの報告書で議論された地球的挑戦に本当に対処するに必要な規模でなされるかについては、これから見守る必要がある。」  気候変動の結果の規模は未曾有のものであるが、原因は概して知られているし、その結果は大体において予想され得るものである。しかし、「効果的で適切な行動の為の連携は未だ緒に着いたばかりであり、環境問題は対応や予防政策が採用されるよりもっと早く悪化している」と同報告書は言う。
 ミレニアム・プロジェクトの長であり報告書執筆者の一人であるジェローム・グレン氏は次のように言っている「我々の地球的挑戦への解答はあるが、それに対処するに必要な規模の決断が未だなされていない。三つの大きな移行が世界の経済とその自然環境の両方の助けになる。即ち、出来るだけ真水農業から海水農業への移行をする事、動物飼育の必要なしにより健康な肉を生産する事、ガソリン車を電気自動車に代える事である。」
 グレン氏の提案は具体的であるが、第3のガソリン車を電気自動車に代えること以外は、もっとよく聞いてみないと分からない。それより、日本的アニミズム方式で、海と森が40億年の進化で会得した太陽エネルギー工学を、家庭規模で取り入れる方がよさそうである。アニミズム方式の良いところは、無駄が殆ど無いことである。木の葉の光合成と太陽電池パネルの発電とは、太陽光のエネルギー利用の効率は、共に、10%のオーダーで、80%以上の熱エネルギーは捨てられる。ところが、森は、打ち水の原理で、その余熱を使って風(対流)を起こし、その風でCO2を運び寄せるばかりか、葉裏での風の流れを乱流にして、CO2の葉緑素への拡散を20倍にもして光合成を促進する(矢吹効果)という。一方、海に入射した太陽光は、数10mから100m以上にも達して吸収される。通常の池や湖では、夜間外が冷えると昼間吸収した熱は対流によって外へでてしまう。季節変化に対しても同じである。しかし、海はこれと異なり、下層ほど塩分が濃く比重が高い傾向があり、そのため対流が起こらず、100mの深さで吸収された太陽熱が熱伝導で外へ出るのに3000年ほど掛かる。海はその間に海流で平均化され、世界中の深海温度は約3℃となり、これが地球環境の基本的平均温度になっている。海の対流阻止機構は、塩度勾配ソーラーポンド機構とよばれるが、海は長年の『塩の指』という二重拡散対流不安定性で獲得したと考えられる。ところで、このソーラーポンド保温は、水の僅かな粘性を利用して、3mm程度のスポンジ状構造で太陽光を吸収するポーラス・ソーラーポンドでも可能であり、この方が家庭規模のアニミズム太陽エネルギー工学に向いている。即ち、太陽電池パネルで発電に使えなかった80%の余熱をポーラス・ソーラーポンドの予備加熱に用い、更に、太陽光で加熱・保温すれば、無駄のない太陽エネルギー利用ができる。ただし、これだけでは、億年地球が貯めた化石エネルギーを100年で使うという逆効率の掛かった化石燃料の価格の安さに勝つことは出来ない。気候変動に対応して衣食住を発明して進化した時と同様に、新たな人類の危機に際して、人知の投入が必要である。家庭規模1kW発電で考えると、口径2.5mの球面鏡を上下左右、(50cm)2の平面鏡20数枚張り合わせて近似したような鏡を、極軸を軸に1日半回転するシーロスタット第1鏡とし、斜め上空適当な位置に固定の平面第2鏡を置くと、地上に設置したソーラー・ポット内の‘第1鏡の固定焦点’の位置に(50cm)2の解像度で太陽の非結像集光ができる。集光度は約20倍。晴天であれば、20kW弱がソーラーポットに入り、その内10kW弱が最下段の太陽電池パネルに達し、1kW弱の発電をする。発電の余熱と上部のポーラス・ソーラーポンドで吸収される太陽熱、合計18kWは沸騰水をつくり、蒸気タービンを廻して、2割程度の効率で発電するとすれば、3.5kW、太陽光パネルと合わせて4.5kW。夜間は働かないからその半分、天候のことなどでの稼動率を考えても、家庭用1kW発電は現在使用されている太陽エネルギー工学の範囲でクリヤーされる。ざっと装置の見積もりを、30万円として、10年使えば、約3000円/月。家庭規模で、使用する電気代よりずっと安上がりである。この方式には、太陽エネルギー工学のあらゆる改良が、そのまま、利用可能であろうし、集団住宅用に規模の拡大もできる。また、集光の解像度を上げれば、高温を用いる利用になるが、アニミズムからは遠ざかるように思われる。

また、これとは別に、硫黄島地下1000mのマグマの高温と深さ1000mの深海水温度3℃との温度差を高圧下で利用する地熱海洋発電を10年がかりで国が開発することを要望する。国防に使う予算と同程度の予算で、世界のエネルギー問題が、未来に亘って解決するであろう。

 

「世界の希望としてのYubanda」

   ―日西墨友好400年の思いー

`島庸二

【400年前に何が?】

 今年は日本とメキシコの友好400年の年に当たるそうで、日本の各地で記念の催しが開催されていますが、

 

 房総半島の太平洋岸、御宿という町では、皇太子殿下をお招きしたりしてかずかずの記念イベントが大々的に予定されております。その中の一つとして、日西墨友好400年記念の現代美術公募展が開催され、私も審査員の一人として関係しております、400年の友好と聞いて、はて、その頃、両国の間にいったい誰がどのようにして友好関係をつくり出したのか、山田長政?、支倉常長?あたりかといぶかる向きもきっとあるに違いありません。現にいま東京世田谷美術館で開催されている「メキシコ美術展」のオープニング・レセプションでの酒井忠康館長の挨拶も、まずそんなことから始められたくらいです。しかしその立役者は、じつは南房総の一漁村の、名もない漁師たち、海女たちだったのです。

 

【ロドリゴの遭難】

 ことの発端は、1609年(慶長14年)9月30日、フィリッピンのマニラを出発しメキシコに向かう途中の一隻のスペイン籍のガレオン船サン・フランシスコ号(1000tくらいだそうです)が、房総沖で大しけに遭い、浅瀬に座礁、難破して、373人の乗員が初冬の冷たい海に投げ出され、房総半島のYubandaという、太平洋沿岸の小さな漁村に漂着した、というものです。Yubanda。それは遭難したなかに、任期を終えメキシコへ帰国する途上のドン・ロドリゴ・デ・ピペロというフィリッピン臨時総督が、後にスペイン女王への報告書として書いた「日本見聞記」のなかで、そのとき手厚く救助に当たってくれたYubandaという村の漁師たちの献身によって、乗員の大半の317人もが救助され、その後日本の権力者(家康)によって手厚く保護された経緯をつぶさに報告しているのですが、そのロドリゴというクリオールの耳にYubandaと聞こえた村の名はじつはIwawada、つまり岩和田で、現在の千葉県夷隅郡御宿町岩和田という、この辺一帯は、昔からアワビやサザエを穫る海女の潜水漁をおもにする地域で、私のアトリエもその岩和田とは地続きの小さな入り江の、やはりそうした海女たちの村のなかにあります。

 

【海女の村に伝わる伝説】

 梅雨があけていよいよ海水浴シーズンになりますが、私のアトリエのあるこの南房総の太平洋沿岸一帯は、さすがに波も荒く、流れも急で、このごろはあまり耳にしませんが、私がこの村に住むようになった50年ほど前には、ちょっとした台風でもよく難破したり座礁する船が、何年に一度かにはあったものです。私も昔この辺で遭難したという外国籍の船の羅針盤を一つもらって持っていますが、晴れた夏の海遊び、サーフィンなどでもよく溺れる事故が後を絶ちません。ですからこの辺の漁師は、浜辺で網の繕いをしたりしながらでも、絶えず沖に注意を向けて、誰か溺れそうにしているとすぐに目の前の船を出して救助にむかうというのです。

 

 なんでも人間は、中心体温が30℃より下がると意識も脈も触れなくなり、やがては死に至るのだそうですが、長時間冷たい海につかって、凍死寸前で浜に打ち上げられた人々を蘇生させるのには、人の体温でゆっくりと温めてやるのがいちばん効果的なのだそうです。体温で温めるとなると、これはやはり皮下脂肪を豊かに蓄えた女性=海女たちの力に頼る他ないわけで、「間違っても湯に浸けたりしちゃおえねえ(いけない)」と、ここの漁師たちに昔から伝えられている蘇生術のことを、この村の長老である淡路屋さんは、新入りの私たちによく聞かせてくれたものです。

 

 そしてそのついでに今では伝説となっている、上述の400年前に起こったロドリゴの大遭難事件の昔話を聞かせてくれたものです。難破して海に投げ出された乗員はロープや策具、板きれなどにつかまって10月の冷たい海に一晩中浸かっていたわけですから、体の冷え方も激しかった筈で、何人もの乗員が凍死寸前で浜に打ち上げられたということです。その有様に村の漁師たちは、誰彼無く、先ず濡れた衣服を脱がせて乾いた布でよく拭き取り、その体を、やはり裸になった海女たちが自分たちの定法通りにその体温で直接温めるなどして蘇生させ、結局317人という大半の命を救った、という昔話です。

 

【海女たちのせつない話】

 体温を奪う海水との戦い。これは遭難者ばかりでなく、海女たちにとっても日常的なものであって、私がこの村で聞いた海女たちの話は、どれもせつない感動的なものでした。産み月になっても海に潜るのは常識で、なかには海の底で産気づいて、そのまま上がった海女小屋で産み落とす、といったことさえあるそうです。そのとき母体はすっかり冷え切っているために、赤ん坊の血色はなく、紫色になって生まれて来るのだそうです。さっそく仲間の海女たちが手伝って、いそいでボロにくるんで抱いたり焚き火で温めるのだそうです。その時も「けっしてお湯につけたりしない」つまり産湯は使わせないのだそうです。

 

 些か余談にわたりますが、海女にはもう一つ呼吸の戦いがあります。空気を目一杯吸い込んでそのまま詰めて、海底まで一気に潜る “息詰め” の技術はなかなか身に付くものではなく、海女たちの修行の大きな部分を占めている、と、私の村いちばんの海女照子さんはいいます。ときとして息継ぎに失敗して命を落とす海女もあるということです。

 

 こういう話を聞くたびに私は、目の前の浜に、限りなく打ち寄せる波のうねりを見ながら、かつて海の生物から進化して陸に上がって、以来、すっかり海の中で生きるすべを忘れてしまったわれわれ哺乳類の、遥か太古の昔をおもうのです。

 

 このあとロドリゴの一行は、江戸におもむき二代将軍徳川秀忠ならびに駿府の大御所家康にまで謁見し、殆ど一年近く豊かな日本体験をした後、日本に対する最大限の好印象を抱いて、三浦按針によって建造された帆船を家康から貸し与えられ、無事、メキシコへ帰国ます。こうして日本とメキシコ、その宗主国スペインとの強い友好関係が始まります。

 

 そうして書かれたロドリゴの「日本見聞記」。ところがこの「日本見聞記」には、着物や穫れた魚、米・味噌といった必需品を惜しみなく分け与えてくれた村人の献身的な救助の有様は書いてあるのですが、案の定というか当然というか、Yubandaの海女たちに、そのようにして助けられたという肝心なことは書かれていなかったのです。

 

 書かれた言葉と、音声の言葉。いま私は、案の定というか当然というか、と思わず書いたのですが、自分の体が生み出す体熱を、瀕死の他者の体に限りなく伝導しようとするYubandaの海女たちの、限りない贈与の気持ち、命を愛おしむこころ根=母性の発する熱量は、十七世紀の初め、ポルトガル、スペインに端を発し、世界を席巻していた植民地主義の覇権精神を表徴する言葉に文字化されるには、ついになじまないものがあったのだと思うのです。

 

 思うにこの事件は、世界を吹き荒れ今もって私達の上に重くのしかかっている植民地主義の覇権争いの頂点に、一時生じた生温かい隙間にあって、西の果てのスペインと東の果ての日本という、遠い遠い他者同士が、遭難という不幸な出来事を介しながらも、極めて幸せな出会いを果たし、ポストコロニアリズムといった現代的な問題に、ひとすじの光を与える事件だった、といえるのではないかと思えるのです。

 

★ここで、今回編集を担当された茂木先生から以下のような貴重なご指摘をe-mailで頂きました。

 

(e-mail)三浦按針によって建造された帆船でロドリゴらの一行が帰国したとは、

家康あるいは徳川幕府の懐の広さを示すものと言えるのでしょうか。

 

ここは、当時のオリエンタリズムの在り方ないしは鎖国直前の日本の状態を考えるうえで、極めて大切な部分であるので、それにお答えする文章を加えて、補足させて頂きます。

 

 これは決して「家康の懐の広さ」というようなものではなく、日本の権力とスペインの植民地主義との間の利害関係の一致によるものなのです。家康にとっては自国が当面する銀の採掘、精錬の効率化を、当時銀の世界的産出国であったメキシコの優秀な技術の導入によって図りたいとする課題があり、「日本見聞記」によれば、実際に家康からロドリゴに対し、スペイン人の銀精錬工派遣の要請、産出した銀の分け分についてまでが話し合われたということです。その他にも武器や、スペインの先進科学技術の導入、また日本産出品の輸出といった問題がありました。

 

 一方、ロドリゴ側には、まずキリスト教の布教を先立てて、強大な軍事力にものをいわせて、あわよくば他国を植民地化するという大目的があり、当時盛んに使われたガレオン船も海賊からの護りという目的はあるにしても、20門もの砲台とともに多くの兵力を擁していたということです。そのうえに必ずといっていいほど聖職者や銀細工職人、採掘技師、輸出用の武器を、これらは当時列強の植民地政策ツールのワンセットとして、それらのエキスパートとともに必ず乗り込んでいたようです。ですからその事情はロドリゴの船も同じで、ロドリゴにとっては図らずも植民地貿易の対象国としての日本リサーチのチャンスに恵まれた、といったところです。

 

 しかし彼らにとって日本という国は、貿易の相手国として、それほど魅力的な国ではなかった筈で、つまり、日本には彼らが求めて止まない、そして植民地政策の発端となった香辛料というものが、全くといっていいほど産出されません。したがって当面の目標は銀と、シンガポール、メキシコ、スペイン間の寄港地としての利便性に置かれていました。それと一足早く日本に布教を開始したポルトガルのイエズス会、或はオランダのそれと、遅れて参入したスペインのフランシスコ会との宗教的覇権争いを勝利させる、という役割もあって、実際に家康に先行のオランダの布教を中止させるように請願した旨が「日本見聞記」で報告されています。

 

 余談ですが、かのグーテンベルク印刷機が最初の活版印刷機を、天正のローマ少年使節団と共に、マカオ経由で長崎に持ち込まれるのが1590年7月21日、(邦暦では天正18年6月20日)つまりロドリゴ漂着のわずか18年前で、となると日本の印刷術は、ポルトガルの植民地政策の先鋒として日本に布教活動を行っていたイエズス会の重要な布教ツールとしてまず始まった、と云えるものなのです。

 

 ところで家康の示した好意については、もうひとつ大切な点がありました。おそるおそる上陸したロドリゴの胸の内には、自分がフィリッピン総督であった去年(1607年)のこと、暴動の罪で囚われていた200人からなる日本人捕虜の弁明の正当性を認めて、彼らを釈放するだけでなく、船と旅費を提供して祖国まで帰国させてやり、その後日本の大御所(家康)から深甚の謝意を伝えられさえしている、という一事があり、「私(ロドリゴ)はこのことをしっかりと心に刻み、この人(家康)の謝意に常に大きな期待を抱いていた。そうして、ようやくその期待に応えてもらう機会が到来した」(大垣貴志郎訳)と「日本見聞記」で述べているのです。つまりわれわれが一方的にロドリゴを助けたわけではなく、その前にロドリゴからも助けられていたのです。とすると恐らく家康とロドリゴの間にはそうした一連の相互的なやりとりが意識されていた筈なのです。

 

 冒頭にも述べたように、いま私達はロドリゴ一行を「助けてやった」という、自ら発する言葉としては、どことなくこそばゆい感じのお祭りをしようとしています。これはこの地域に住む私の気持ちですが、「助けてやった」という声をもう少し抑えて、「相互扶助」の祭り、といったニュアンスをもっと打ち出せないものだろうか、と思っているのですが、如何でしょうか。

終わり

(画家/編集者)

                   (編集 茂木)