私達の教育改革通信
第 118号 2008/6
教育通信ホームページ
http://www.easy-db.net/unno/kyouiku/
http://homepage2.nifty.com/jiyudaigaku/
先事館制作室:進士多佳子〒106−0032港区六本木7-3-8ヒルプラザ910
発行人:西村秀美,先事館箕面 〒562-0023箕面市粟生間谷西3-15-12
お願い:教育通信はオープンメデイアに移行しつつあります。A(購読)会員、運営に参画されるB(協力)会員及びC(編集)会員になって下さる方を歓迎します。B会員には自己負担でコピーと友人への配布、C会員にはそれに加えて編集を輪番でお願いします。私達の教育通信が今後どう発展するか、この皆で育てる新方式がよい日本文化に成長することが望まれます。
編集::先事館吉祥寺 海野和三郎180-0003武蔵野吉祥寺南4-15-12;
先事館狭山、菅野礼司 〒589-0022 大阪狭山市西山台1−24−5;
先事館近大理工総研 湯浅学・川東龍夫〒577-8502東大阪市小若江
先事館京都教育大 岡本正志〒612-8582京都市伏見区深草藤森町1
先事館聖徳大学 茂木和行 165-0035 中野区白鷺2-13-3-409
「教養」の美学(美学エッセー,1) 未来創庵 一色 宏
今日の大きな問題として、大学や学問をとりまく外的状況が著しく変化してきている。市場経済原理がいっきに学問の世界に入り込み、学問はサービス産業へと姿を変え、高等遊民は知識サービスの小売業者へと姿を変えられつつある。成果主義と補助金によって、社会にすぐに役立つ研究だけが重視されるようになって来た。目に見える成果をあげろ、という号令のもとに、多少、息の長い、またじみちな研究がほとんど不可能になりつつある。そのなかで最も深刻な問題は、あらゆる学問の基底をなすはずの、基礎的な思考や問題への感受性を養うことができなくなってきている。その基底にあるものこそ、本来の『教養』と呼ばれたものである。
教養はその国の文化と深く関わり、日本人が教養を持てるかどうかは日本文化の質の問題になってくる。岡潔先生は、『数学さへ、その国の文化や美意識と決して無関係ではない』という。自分たちはいかなる文化のなかにいて、いかなる美というものを引き受けているか、そこで自分たちが受け止めた『美しさ』とは一体何なのか、その無意識に育てられる感受性や感性こそが数学に必要なのである。たとえば、文化と不可分なその国の言葉『国語』への感受性、愛着、それを大事にしようとする感性がなければ、数学というグローバルな抽象的学問はうまくいかないという。この『国語』のもうひとつ先にあるものは『心』である。日本語には『こころが通じる』という言い方があり、英語にはないが、強いて言えば、『シンパシー』に近い。言葉のコミュニケーションではなく、言葉以前のところで意思疎通が成り立つもの、言葉を生み出す何かがあって、その何かが共有されている、という感覚である。
『文化』とは“cultivate”『耕す』という意味で『土地に根ざす』ものである。『教養の衰退』とは、学問が故郷喪失に陥っている、ということであり、『故郷を失った学問』こそが今日の深刻な問題である。『智』や『情』や『意』は真空状態で生み出されるものではなく、故郷の大地によって養われるものなのである。歴史の重みの中から少しずつ何かを生み出し智からは『都市的なもの』にはない。問題は『文化』が『文明』に変貌していることである。学問は、『教わる』ものではなく、『学ぶ』ものであり、『学び』かつ『問う』ものである。自らの『問い』をたて、そのために『学び』、そして、思索を深めることである。知識のグローバリズムや、覇権主義、競争主義や成果主義がますます拍車をかけている現代にあって、いかにして、人間生命の内面の感受性を取り戻すか、こらからの学問の重要な課題である。日本の学問は、日本人が自分のなかに宗教観や歴史観、美意識があることを見出して、それを『知』というものの拠点にすることから始めるほかはないのである。学問には『故郷』はどうしても必要なのである。
マシュー・アーノルドは言った・・・『教養とは、この世でいままでに語られ、かつ考えられた最もよいものを知ることだ。』・・・
「日本の教育、これでは国が亡びる」
大学名誉教授 青木亮三
0] ヒト社会の教育問題
古今東西の人間社会でも子供の教育は大事な問題でありました。動物は生まれると本能により自分で立って歩き、餌の捕り方も親から1年ほどで習えば独立します。
ところがヒトは直立のときに複雑な発声が可能となり、言葉の交信で社会文化をつくり、さらに手を自由に使って道具の発明から文字表現を手に入れました。これで高度な論理を組み立て、それを記録して文化を子孫に伝承発展させることができるようになりました。そのため子供が生まれてから10年以上も一人前でなく長い教育期間が必要になったのです。それでも昔の一般人は無学文盲でも家族の情愛が判る心をもち、周囲の人達との交際のための礼儀を習えば一人前と認められ、世過ぎ身過ぎができました。
ところが最近のわが国では、会社でパソコンを使って計算業務が出来ないと生計が得られないという状況になり、大学まで進学しないと一人前と認められないので、知識専門の偏狭な教育が進められているのです。これは日本だけの問題ではなく、たとえば私が住んでいたドイツでもインテリ進学のためのギムナジウムの受験に失敗した僅か6才の子供が自殺したり、華やかな観光の街の郊外には精神病院が満員になっています。
1] 戦後教育の跡
過去十数年来、わが国の小学校教育について授業参観などで問題を感じていた。それは戦後アメリカから指導されてきた「生活カリキュラム教育」と言われるものがある。日常の社会生活の一部分をモデルとして採り入れて、それについて生徒の直接体験したことをグループで話し合って感想をまとめる。
先生は「こんどは このようなことをやってみましょう」と提言するが、その後は生徒の学校内外での自主的体験を重んじて先生は直接に指導を行わない。その後の討論で生徒の思いつき意見が出ると「そんな話もありますね。他の人はどうでしょうか」と先生は他の発表を促すだけである。だから時間の割には体験例が限られ、場当たり総花的で感想の突っ込みも浅く、直感的なものに終わる。
こう云うお遊び発表会の教育では、余程経験、構想の豊かなエキスパート教師でないと、うまく重点を誘導して実りある結論に限られた時間内に纏め上げることは困難で、時間になると「それでは皆さん考えておいて下さい」で終わる。そのため自然に小学校の学力は低下したが、日教組も平和教育のみを強調して先生の質低下にはあまり危機意識をもたなかった。
児童教育には8から12才頃までの暗記能力の盛んな時期に、漢字、熟語、9x9暗算、割り算法など生徒の知識欲を啓発してどんどん知恵を記憶内に注入する必要がある。わが国の寺子屋教育の読み書き算盤はまさにその教育であった。現在インドで二桁の暗算が普及しているのもその例である。それがわが国の教育怠慢と、テレビ、漫画、パソコンに依存した現在生活によって、高校、大学生の表字文章作成能力、推論演算能力の低下には慄然たるものがある。修士論文がGoogle文章のコピー継ぎはぎであったり、さらに最近、社内報告書を纏められない新入社員に及んでいる。
2] 進学熱と塾教育
戦後経済の転換点であった所得倍増計画は工業化社会を支える大量の技術者育成による国民総生産の飛躍を目指すもので、そのためには上級学校への進学就職が入門となる。戦前は10数%であった専門学校、大学進学を若者の数10%が志望することとなり、大変な受験地獄を来たすこととなった。
その以前から一部の私学教育機関では将来の上級校進学のためにそれを意識して知識学習教育を進めていたので、公立小中校と私立校の間に大きな学力差が生じた。そうすると公立校の父兄は子供を放課後に進学塾に通わせ始めた。塾はテスト成績で生徒を競わせ速成教育を行った。しかしそれに従って知的興味を引き出せたのは一部上位生徒のみで、大部分の塾生は数学、科学公式に数字を当てはめるだけの計算や、国語、英単語の丸暗記で、全国統計の偏差値上昇を目標に格付け洗脳された。
塾学習は深夜にも及ぶもので、食事軽視と深夜帰宅で体力低下と睡眠不足のため、昼間学校での授業では不熱心になった。それもその筈、
バラ 水木鈴子
うっすらと汗ばむ季節になりました。
足の向くまま気の向くままの花散歩。
何やら雲ゆきがあやしくなってきて、
あらあらと思う間もなくバラバラバラ・・・ザザーっと通り雨。
「お濡れになりましたか?」
心配そうな声に振り返ると、
同じように濡れてしまった“あなた”がまぶしく光っていました。
「涼しさをくれた良い雨でしたね」
甘い香りと優しさが行き交うバラ園で、
束の間のおしゃべりです。
学校のカリキュラム進度は塾テストより一学期近く遅れ、父兄は昼間の学校では休息をとって来いと云い、教師ですら公立校では障害児や養護児童、或いは情緒不安定問題児という少数生徒の世話が中心になることを認め、一般生の教育は塾まかせという問題状況になっている。
それでも一部の教員はアメリカ式自発教育と、能率的な誘導指導教育を繋いだ授業を懸命に試みていた。そのため補修や部活動で先生や生徒も過密なスケジュールで疲れていた。だから所謂「ゆとり教育」の以前に既にわが国の公立学校の教育には矛盾が蓄積し、「付いて行けない」或いは「付いて行くのを拒否する」生徒による学級崩壊が始まっていたのである。
3] 学級崩壊とゆとり教育
それに対応するのに教育現場の実態調査と検討論議を充分行うことなく、文部科学省から突然に「ゆとり教育」の提言があった。
直接の動機は中学高校の教科書指導要領の内容が年々増加改訂され、それを生徒がもはや消化しきれない状況にあると判断されたからである。その過密は、発展する現代技術社会に適応する若者を教育生産するのが公立学校の役割とする産業界の強い要望の結果である。教科書編纂委員に経産省などから種々の分野内容の追加要望が寄せられて、例えば数学に集合論、確率論、行列論、統計論など、物理学には熱力学、原子核、素粒子、化学には高分子、光合成、地学には宇宙進化論、などである。これらは、以前は大学における教育科目とされたものである。結果として分厚い教科書を前にして最大の被害者は無力な生徒となる。
何よりも無駄な重複は、中卒、高卒、大卒それぞれが一応の完成された労働力として通用することを要求するために各過程の教科書に同じ題目のまとめが現れて重複し、大部分の生徒は上級校進学の度毎に既に習った内容の再復習をさせられることになり、入学時の新鮮な学習意欲が著しく減退する。その点で小中高一貫教育の私立学校などではその無駄が省かれている。
このような状況の打開には、基本的なものの考え方を重視して、「大事なことだけをキチンと教える」戦前からのわが国教育の理念に立ち戻るのが一つのやり方である。
しかし「ゆとり教育」の対応は別のものであった。それは米国の教育システムの影響によるもので、即ち現在の塾教育による生徒の間の格差を基にして、優秀な生徒の私立校一貫教育によるエリートコースは認める。それに対して公立校にはアメリカでの、言語も雑多な構成による一般人(common people)対応の公立学校(public school)をモデルにした、ごく一般的なレベルの教育で良いとした。例えば直径1mのドラム缶の周囲を測ると3.14mであるが、14cmも短い3mで良いとする。これでは江戸の桶職人の知恵でも使い物にはならない程度の低さである。
わが国の公立校もこの程度のレベルで無理な詰め込みは止めて、授業時間数も週5日程度に減らして生徒の心に「ゆとり」を持たせれば学級崩壊や非行少年の問題も無くなるだろう。という発想または政策であった。
4] 社会変化と教育問題
しかしその結果は決して文科省が予期したものではなかった。先ずわが国の社会に対する認識に誤りがあった。アメリカと異なって日本社会での公立校の役割は大きく、社会の伝統的な一般人(majority)は公立校の教育に大きく依存していることである。
最近の家庭が子供の教育費のために経済収入の追及に走り、母親も昼間は家に居なくて、祖父母と別居の核家庭では社会常識や情操教育が行われず、すべて学校に任されているのに、公立校教育が空洞化したことに大きな問題が発生した。
すなわち小学校1〜2年の情操教育(美しいものが好き)、対人社会教育(挨拶、躾)、3〜6年の基礎知識の吸収意欲の満足(本を読む)。中学校1〜3年での思春期対応と、自分とは異なった考えの人との対話能力、思い遣り。高校以降での社会的生きがいを探す教育(興味ある分野の探求、助け合い、人間史)。これらの学校教育内容が欠如したために、社会に正常に対応できないニートや、新聞面を騒がせる仲間いじめ、家庭内暴力、殺人などが多発している。
5] コンピュータの影響
ここでもう一つ、現代社会の人間育成についての欠陥がある。それはヒトの思考は大脳で行われるがそれは現在のコンピュータ論理とは基本的に異なるものです。未知の問題について考えるときには、いろいろな考え方を並べて「ああでもないこうでもない」と並行処理して、ある時点でそれらを総合化して一つの観点に辿り着き、あらためて全体を見直すことで新しい理解や概念が得られる。このように個々の事象の学習から新しい認識や解決の筋道を得るというのは現代社会の問題解決にきわめて重要なことなのです。
ところが現在の中高校での授業は如何であろうか。余りにも多くの章課題を列記した教科書で、それら互いの関連性も判らぬまま辛抱強く学習する努力(勉強)に、多くの生徒は耐え切れない。それは小さいときからテレビ、マンガなどの画像入力に頼って、文字を読み長文の理解に耐える努力を怠ってきたからである。その上、全体を理解してから論理の筋道を組み立て全体の大意を把握する習練を行って来ていない。それは第一に現在の小学校では作文教育を徹底していない。その前にお母さんが幼児期に童話を子供に読み聞かせて対話を行っていない。
その次に重要な事は、生活の中にパソコンやケータイが浸透している。それらは単に計算だけでなく、ワープロや検索などを通じてヒトの思考形態にまで深く影響している。現在のコンピュータ論理はノイマンがヒトの思考を真似しょうとしたがとても複雑で、現在の計算機では同時並行型演算処理が無理なので、簡単な順次直列演算法すなわち1step毎にand, or, notの選択を行わせて段階的に進めて行くもので、人間思考の最も単純なものに過ぎない。ただし演算は速いので多くのstep計算を短期間に行うことができて、一見複雑な問題もヒトの限界を超えて処理する能力がある。しかし絶対に人智のすべてに代わるものではない。例えばパソコンで恋人の心の動きは読めない。
小学校からパソコン教育が採り入れられ、社会でも自動販売機やカード清算が一般化してこれからの幼児の思考にどのような影響が出るかが問題である。事実、大学生の中にはパソコン処理には実に迅速得意であるが、論文思考の組み立てには殆んど適応できない者が現れてきている。パソコン採用のもっと直接的な影響が教育界に現れている。それは現在の小中高教育はすべて最終目標を大学進学に置いているが、文科省のセンター試験などは大量の受験生の成績判定に迅速公平を期すためにコンピュータ採点を行っている。そのためには自分の考えを詳しく文章で解答する形式は無理で、たとえば与えられた4つの答えの中から1つの正解または誤解を選択して次々に○×印を付ける多数選択方式である。この種の試験では解答者の思考の論理過程を観察することは出来ない。結果として学校とくに塾速成教育ではすべて、試験には正解か、正解でないか、を瞬時的に判断する賭博的思考能力と公式の丸暗記のみが奨励されている。そのため現代日本の若者の思考は単純で即決で、科学文化活動に必要な「多様な要素に軽重の判定を付け全体をまとめてじっくり結論に到る」ことが無く、ヒトの高度な大脳論理活動を低下させている。実際に現在型のパソコン、映像機器の万能的普及が、やがて人類文化の衰亡を招く怖れが生じて来ている。
6] 現在の大学教室風景
現在の大学、専門学校の新入生を教育して実際に感じることは、先ず90分講義受講の緊張に耐えられずに私語、仮睡に入る。それでも夏休みまでには一応黙って受講するようになったが、テキストを持参せずともケータイをいじっている。教師が重点を板書してもそれを筆記するノートを持っていない。記銘のためにノート必携と注意するとルーズリーフ1冊のみ持参してすべての講義を列記するが復習はおろか、試験前日まで分別整理も行わないので各ページがどの月日の何の講義か判らない。それは中学高校で教師が試験直前にまとめプリントを偽親切で配布していたため、生徒にしてみれば講義ノートの必要が無かったのである。やっと講義中にノート書き込みの習慣をつけても、日頃から文章写しに不慣れのため筆記速度がきわめて遅く、書きながらその意味を辿ることが出来ずに絵文字のように機械的に描いて、思考停止なので頭脳への記銘効果は期待できない。また書きながら教師の説明が聞き取れないので、「先生は書くときは喋らずに、喋るときは書かないで下さい」と訴える。まったく大学の講義でありながら、小学校の国語の授業程度の進度しか望めない。
これでは将来、卒業後の社会において、営業活動など対話筆記をすることが不可能であり、まずこの能力の訓練が大学教育の第一歩と考えられる。すなわち人の話を聞いたり、報告書を流し読みしながらその大意、すなわち内容の要点を把握して、その場でメモする技術に習熟することである。これは大脳生理で、言語視聴覚野と前頭連合野を同時刺激、並列興奮作動させる高度な知能であるが、動物でも全力疾走しながら仲間と交信連係するなど、習得によって得られる並行処理能力である。ところが最近の学生はビジネス社会に必須の、この訓練能力を殆ど有していない。相手の意見を聞きながら自分の意見をまとめることが出来ずに、やり込められると頭の中が真っ白になって暴発するのである。この様な板書講義方法は前近代的といって近頃は、ビデオやパワーポイント画面を使った講義がもてはやされている。確かに学生にとっては目で見て判り易いとの評判である。しかし静かな授業を終わって明かりを点けると大部分の学生は暗い教室で熟睡しており、熱心な学生でも後でテストすると確かな記憶には残っていない。快い了解と記憶に刻み込むことは別なのである。
まとめ能力の育成を停滞させている現在教育の問題がもう一つある。それは中高校で落ちこぼれ生徒を多数含む学級で、教師はカリキュラム未消化と試験不合格者の続出を避けるために、試験前の最終授業日に、「今までの授業は判らなくても良いから、先生がまとめたこの1〜2ページのプリント内容を暗記してくること。その公式に数字を当てはめて計算すれば合格点を与える」と言って生徒を勇気付ける。このような教育が習慣となった生徒にして見れば日頃の授業はどうでもよくなる。ただ出席点や受験資格を得るために授業を受けるが、日頃の板書ノートもテキスト判読も教師の説明も、単位取得には何の関係も無いのである。このような学生が大学に入学してもまた、当然のように試験前に「まとめプリント」の配布を要求する。まさに一部教師の余計な親切が学生のまとめ能力の育成を阻んでいる。
7] 深刻な教育実状
この頃の若者は○×式の判定で試験に合格しても、努力に比例した質的評価は得られずに、すべて正解数の量的評価なので、快心の答案という質的満足感とは無関係である。卒業時にも取得単位数だけが問題で、合格点以上でさえあれば良くそれ以上の努力は必要無いのである。これでは真に創造的で優秀な人材は育成されない。
最近、高校で物理など理科を選択履修して来た大学新入生は全体の13%未満の状況である。これは上記のように中高校の教科内容が余りに膨大で、教育が羅列的であることへの若者の無言の拒否反応と考えられる。その上に少子化が進む中で、全国の理工科系大学の志願者はますます減少して全入の事態に近くなっている。そのため、まったく電気を知らない工学生、生物を習ったこともない医学生が続出している。これでは講義を進められないので、仕方なく国公立も含めた各大学で、入学後夏休みまでの数ヶ月で、数物系教科の速成補修教育を行っている。それも進学塾や私立高校での速成専門の講師を大学に迎えてやっているのである。
これでは日本の若者教育の退化は単に「ゆとり教育」の時間数を元に戻すだけではどうにもならない事態に到っていることは明らかであり、わが国の将来を考えて誠に寒心に堪えない。
8] どこに問題があるか
教育経験から言えることは、学生の教化は大学に入学してからでは既に遅い。未知のことを学ぶ興味と意欲は小学校から、或いは就学前の祖父母のお話の感動から始まる。それを考えるとき現在の公立校の教師は一体何を教えているのであろうか。
確かに日々の教科日程は教育指導案内で細かく指定されている。また教科書は総合、A,B,I,II,IIIなど多岐に渉り、教科内容も基本以上に細かく選択並列化されている。その結果、文系学生は世界史を履修せず、理系学生は大部分、生物のみを選択する。結局、普通高校では殆どすべての学生は向学意欲などとは関係なく、大学進学を希望するだけという学歴社会のひずみを受けている。
知能適性テストの調査から、日本人の中で論理的思考に耐える系統的知能素質を持つものは大体人口比18%程度で、これは民族の遺伝的形質にも関係しており戦前戦後の社会変化でもさして変わってはいない。戦前はそれが高等教育進学者数に大体相当していたのが最近は教育の機会均等の理念から高校卒業者の半数程度が大学進学を目指して高度な知識教育を受ける。そのため教室の理解度や学力の低下は否めないものとなっている。これは必ずしも日本人の知能低下を意味しない。人間の総合的知能は現在の一面的な学力テストの偏差値ではとても測りきれないもので、例えば複雑な要素が錯綜して解析が困難な政治や経済の問題における直観的総合判断力は、現在の社会的活動においてたいへん重要なものであるが、それは要素解析を基本とする科学に基礎を置く教育では評価できないものである。
そのため以前は学校で必ずしも試験成績に得意でない生徒は義務教育の後は実業科などを経て就職により実業界に進んだものである。これはわが国だけでなく欧州などでも職業マイスター制度により、充分な待遇が社会的に認められている。しかるに戦後の日本では個人の社会的評価が一面的に捉えられ、一億総会社員となりさらに管理職をめざして、学歴、資格による単純評価を求める結果、本来は知情意、総合的な人間育成の学校教育を著しく歪ませることとなっている。
9] 教員の文部管理職化
政府文部科学省は教育から官僚的規制態度を排すべきである。現在すでに校長,教頭を管理職として教育の現場から外しているが、さらに一般教員についても教育指導要領に忠実に則とった実務者として計画通りの授業進行報告作成業務に忙殺しており、現場の教師専門職から、官僚システムの中に組み込んで教員を体制化しょうとしている。
教育はそのようなもので規制されるべきでなく、何よりも重要なのは、若者の人格を育てる教師の原点に戻るべきである。そのため日々の授業課程を組むのにも、最低限の基本項目がきちんと教育されれば、参考項目の取捨選択はそのクラス、その風土の実状を勘案して教師の自主性に任せるべきである。何よりも重要なのは授業内容の系統的な学問の流れに沿って学生の知的興味と学習意欲を引き出すことである。ところが教育現場では益々、細切れ的な教育委員会の規定強化がすすんでいる。
その結果公立校の先生は現在報告事務などに忙殺されるなか、何時の間にか他律的になり、たとえばゆとり教育の週3回の総合学習時間を与えられても何をやって良いか判らないという有様である。それが形骸化すれば文科省中教審は何の反省も無く、早速にまた総合授業時間を短縮化して英語授業など詰め込み化への朝令暮改を始めている。
10] 塾を見直せ。
現場の魅力ある授業のためには塾教育を批判するだけでなく、むしろ塾先生の意欲的な教育態度を見習うべきで、相互交流が望ましい。現在の生徒は上級校入試を控えて孤独でストレスの多い生活を送っているが、いちばん頼りにするのは学校の先生ではなく塾の先生である。塾へは親が言うから止むを得ず行ってるのではなく、学校の先生には相談しても頼りにはならないからである。
塾は義務教育のような学校通学の強制力もなく、つねに他校との評判比較で生徒の移動があり、厳しい経営環境である。それだけに単に受験技術だけでなく、如何に生徒の心を掴むかという点にも充分に留意努力している。
11]
教師は伸び伸びと自主的に
その点で身分を保証されている公立校教員は上部管理者への気遣いに拘わらず、むしろ子供との対話をもっと重視すべきである。そのためには日々の管理業務から開放されて伸び伸びと子供と接して全人格的教育を心掛けて頂きたい。昔は各校に名物先生がいて、決して能率的教育のベテランでなくとも、卒業後いつまでも生きる上での想い出になる先生がいた。今日、先生方は決められた毎日の授業と事務が終わると一刻も早く学校から離れ、休暇には海外逃亡でもしないとノイローゼ寸前の先生が多数います。このような事態をまず解決して余裕のある教師生活を回復せぬ限り、わが国本来の教育は達成されないと思われる。生徒の家庭が崩壊寸前のとき益々それが重要と考えられます。
何も精緻複雑な知識教育は本人が大学進学以後に社会活動での必要性を自覚して勉学吸収する機会に任せるべきです。また全国各校がすべて画一的教育の必要も無い。各校の個性的教育が許されるためには生徒学生の進学転校の選択自由も認められるべきです。各校の校長の教育企画方針により個性的な教師が集まり特色のある校風が築かれれば持続的な教育が期待されます。もしそれが校長の偏狭な独りよがりであれば学生が去るのみです。
12]
教育界の人間復興
考えてみれば、わが国の教育界は、昭和以後の戦争を通じて国粋軍人教育、それが戦後の反戦平和教育をめぐってのイデオロギー闘争、さらにその後の日教組追い出しのための管理職強化と対立。いままた君が代裁判と道徳教育の復活など、およそ教育の現場での教師と子供の人間関係や情愛を踏み超えての外部からの対立がもちこまれました。 そのうえ、最近は教育指導要領による一律的な教育の効率重視主義が蔓延しています。
どんなに社会が経済中心の効率化が進み、システム制御や機械化やロボット化が進んでも最後に残る分野は、人の教育のためのマンツーマンシステムであり、きめ細やかな心の交流であります。たとえ非効率でもこれを忘れては今後の日本の国家の継承発展は危ないと思われます。最後に、どうか人生の先達を見失い途方に暮れている生徒を忘れないように願いたいと存じます。
感性と想像性を育てる
落語と囲碁 菅野礼司
この前、私の研究室の卒業生数人に誘われて寄席に行き、その帰途は例によって酒談となりました。その論断風発の中で、落語は子供の感性や想像性を養うのによいから、子供に聞かせるべきだ、ということで意見が一致しました。私は囲碁が子供教育によいと思い、「囲碁教育研究会」をやっているので、囲碁にも共通点があると思いつきました。
なぜ落語と囲碁か
囲碁と落語とは妙な取り合わせのようですが、いろいろな共通点があります。しかも、囲碁も落語もともに想像力を育て感性を養うので、子供の教育によい影響を与えると思います。そこで、落語と囲碁を子供に勧めるために、ここに取りあげてみました。
まず、道具が単純簡潔であること、内容的には自由度が高いので演者(打ち手)の個性がよく現れることです。
落語の道具は扇子と手拭い(時には机、座布団)だけの簡素なものです。話題と内容は自由に作れ、しかも同じ出し物(演目)でも演者によって脚色して色を持たせることができます。それを一人で演じるので、噺家の創意工夫と芸の力によっていかようにも表現できるという点で、自由度の非常に多い演芸です。
囲碁も道具とルールが単純・簡単ですから、自由度が非常に高いゲームです。囲碁の道具は碁盤と白黒の碁石のみで、すべての白石と黒石はそれぞれ区別がありませんから、碁盤上に置かれるまでは全く平等です。そして、ルールも囲碁は他のゲームに比べて単純です。だから、それだけ自由度が高く、打ち手の個性と技量がよく反映されます。
落語
落語は、演者が高座に座ったままでしかも一人で何役も演じるので、大変な芸の力を必要とします。扇子一本で箸や煙管、また刀や杖などに見立てます。手拭いも皿・小鉢、杯、頭巾、財布、本・手帳など実にいろいろな物に代用されます。扇子や手拭いといった単純なものでこれだけの物を代用するのですから、その表現の迫真さは噺家の芸の力によって微妙に違ってきます。他方、それを見る方の客は、自らの想像力によって、話の流れにそってその表現をリアルに感じとるわけです。この点は、日本の伝統芸能の歌舞伎や人形浄瑠璃のように、多様な道具と舞台装置を用い多人数で演ずるものとは異なるところでしょう。
落語の噺の中に出てくる人物の個性、また2人の場面や大勢の寄り合いの場面の雰囲気を、話術と顔の表現や体の動作で醸し出す芸は素晴らしいものです。しかも言葉をなるべく省略して説明を単純化し、前後の流れと「間」の取り方でそれを補っているわけです。だから、聞く方も想像力を働かして理解します。それには感情移入のできる豊かな感性が必要です。聴衆は噺家の醸し出すその場の雰囲気に知らず知らずのうちに引き込まれて笑いを誘われます。同じ演目を何遍聞いても新たな笑いを楽しめるのはこのためです。そこには高座の噺家と聴衆との間での無言の応答によって両者の意気があってゆき、一つに溶け込むからです。噺の中の「間」は話術の大切な要素ですが、噺家と聴衆の間にも「間」があって、その「間」がうまくとれた時一つになるのだと思います。
最後の落ちを本当に笑えるのは、洒落や頓智ばかりでなく豊かな感性と想像力が働くからでしょう。落ちには「洒落落ち」、「考え落ち」や「見たて落ち」などいろいろありますが、感性と想像力がないと、その場で笑えないこともありますね。その落ちにも噺の流れに合った旨い落ちと、あまりぴったりしない落ちがあります。いずれにせよ、落語はこのように非常に優れた伝統芸能の一つと思います。
折り紙
一般に、道具立てが簡素で仕きたり(規則)が単純なほど自由度が多くなるのは当然でしょう。自由度が多ければそれだけ使い手(演者)の自己表現の度合いが増し、能力・技能を発揮する余地が増えます。ということはそれだけ奥が深いということです。
たとえば、折り紙がそのよい例です。四角い色紙を指先で折ることで、鶴、風船、船、兜など、実に多様なものを作り出します。折り紙には決まった規則はありません。どのように折り何を作るかは全く自由ですから、新作の折物を考案するとき、折り手の想像力と技能によって創造性が発揮されます。それはまさに自己表現です。逆にそれを見る方は、ある程度の感性と創造力を働かせてその象徴的な形を読みとり鑑賞します。だから飽きないのです。子供の玩具でも、手の込んだものや精巧な機械仕掛けのものはすぐ飽きてしまいますが、単純な積み木やブロックなどの方が飽きずに長持ちします。それは創意工夫による自己表現の余地が多いからです。
日本古来のもので、折り紙と似たものに風呂敷があります。風呂敷も自在に使えて用途の多い物です。もう一つ、簡潔でいて変化に富み奥深い表現力をもつ俳句も日本独特の文学ですね。詠む方も鑑賞する方も豊かな感性と想像力が必要です。
囲碁
囲碁のルールは、
・黒と白は一手ずつ交互に打ち、碁石は碁盤上に引かれ
た線の交点(碁盤目)のどこに置いてもよい、(相手の石で囲まれた穴の中は着手禁止、またコウという特種な例外がある。)
・相手の石の縦横をすべてこちらの石で囲めばその石は
取れる、
・黒石と白石でそれぞれ地(碁盤目)を囲み、囲った地
の多い方が勝ち。
このように囲碁は、単純な道具と簡潔な規則で地取りを競うゲームですから、自由度が高いです。しかも盤面に何もないゼロ状態から出発するので、打ち手の構想にしたがってうち進める自己実現のゲームともいえるものです。
それに対して、将棋やチェスなどほとんどのゲームでは駒の役割が決まっていて、最初の置き場所と動きが制限されます。だから、ルールも複雑になり、それだけ自由度が減ります。(麻雀やトランプなども牌や札の役割が決まっている点では同じです。)
自由度が多いと言うことは、打ち手の意図を着手に含ませる余地、つまり自己表現の余地が多いということです。碁盤上に何もないゼロから出発し、多くの地を囲むように打つ構築型ゲームですから、ある程度先を読んで結果の図(石の配置)を予想する構想力と思考力を必要とします。この訓練によって論理的思考力のみでなく、創造性が育成されます。また、着手の選択は、結果の図を想像して、まず感性による直感であり、その後で読みの裏付けで決定する場合が多いです。その直感力は訓練によって磨かれ高められます。だから感性の育成になります。囲碁は右脳(感性)と左脳(論理)を使うゲームであるといわれます。
囲碁は自由度が高いので、変化も無限に多いです。19路盤の場合、石の並べ方の数は10の300乗通りを超えるでしょう。ですから、尽きぬ深みがあります。囲碁はいろいろな点で最も優れたゲームといわれています。
囲碁の別名には、烏鷺、爛柯、手談などいろいろありますが、その中でも「手談」が囲碁の性格を最もよく表しています。囲碁は2人の対局者が碁盤向かって着手を進めていけば、言葉を交わさなくとも一手ごとに互いに相手の意志が伝わるから手談というわけです。対局者は熱中すると盤面に溶け込み一つになります。上手な打ち手は、着手のうちに相手は何を考え何を意図しているか、さらにまた感情の動きまでも読み取ることができると言います。それは感性の力によるところが大です。
囲碁にも「間」が大切です。一手ごとの時間間隔がうまく噛み合うと、よいリズムが生まれます。こちらが打つと碌に考えずに直ぐ打ってくると、そのペースに引きずられて早撃ちになりミスすることが多いです。別に一定の時間間隔で打つ必要はないですが、考えるべき時には考えて、相手の意志に応える「間」をとることで意気が合います。
このように、落語と囲碁には多くの共通点があります。まとめると
道具と仕きたり(ルール)の単純簡潔さ、自由度が
高い、創意工夫の余地が大、自己表現の場、個性が発揮される、「間」が大切。
それによって、感性、想像性、創造力が育成される
日本の伝統文化
落語は日本固有の伝統文化であることは明らかです。囲碁は昔中国から伝来したものですが、日本の文化に溶け込みました。特に江戸時代に徳川家康によって家元制度が造られ保護育成されてきました。この制度は他に見られない日本固有のものです。その中で囲碁のレベルが高められ、日本的囲碁理論が生まれました。日本独自の囲碁規約も作られました。戦後、中国や韓国に、日本から高度の囲碁技術が逆移入され、今では世界的ゲームになりました。したがって、囲碁も日本の伝統文化と言ってよいでしょう。
落語をじっくりと聞くことのできる子供、静かに囲碁を打てる子供は、落ち着きのある感性豊かな人間に育つと思う。しかも、自ら考える習慣や、想像力と思考力も養われ個性のある人間になるだろう。近年、落ち着きのない子供が増え、平気で人を傷つけたり殺したりする風潮が増している。そのような人は感性が乏しく、感情移入できないから他人の痛みがわからないのだろう。その悪弊を正すためにも、この優れた伝統文化に触れ、あるいは体験させたいと思っています。
真実を知り、新しく楽しい生き方を!
(隔月刊;虹140号より抜粋) 田中優
すぐそこに迫ってきたピークオイル
ap bank(エイピーバンク)。ミスターチルドレンの桜井和寿さん、小林武史さん,坂本龍一さんの3人が出資して作っている新たなバンクです。これは非営利のバンクで,融資先は一般市民や非営利のNPO団体など,金利は固定の1%の単利です.1億円融資しても1年間で100万円の利子しかつきませんから赤字になります。その資金を集めるため「ap bank fes」というコンサートを毎年開催しています.コンサートには3日間で8万人位集まりますが,チケットはプラチナチケットで全然手に入らない状態です。そこでの売り上げを市民に戻し、環境に良いこととか地域を起こしていく事業に融資をしているのです。そのバンクがどう役立つかという話の前に、今世界の中で起こっている3つの大きな問題について、まづ理解してほしいと思います。
一つ目がピークオイル問題。その問題を見ていくのに、まず最初に知ってほしいのは中国の石油事情です。1993年まで、中国はまったく石油を輸入する必要がありませんでした。ところがそこから急激に石油輸入量が増え2010年の時点では世界第2位の石油輸入国日本を抜き、2020時点には日本の2.5倍になります。当然、世界の石油の需要はひっ迫することになります。その中で、ピークオイルという問題が出てくるわけです。
世界中の巨大な油田は、だいたい1980年より前に見つかっており、その後は小さな油田しか見つかりません。石油がどこにあるかは地質学的には解っています。それらの地点は振動をかけることで油田があるかどうかわかりますから、今後は新たな油田が見つかる可能性はほとんどないのです。ただ両極だけ例外です。北極の下には地球上の石油の4分の1が眠っているといわれ、ロシアが深海4千mのところに、昨年の9月、ロシア国旗を立てました。北極はロシアとアメリカとが面していますから、これからは両国間で、きな臭くなる可能性があります。その北極と条約で守られている南極を除くと、油田はもう見つかりません。
一方、石油の消費量はどんどん伸びています。途中73,79年のオイルショックの時、ちょっとなだらかになったほかは、もう一つ、シェル石油のハバートさんが見つけたハバート曲線があり、油田から採れる石油の生産量はどんどん伸びるのですが、ピークを迎えると、どんなにがんばっても採れる量は急激に下がっていきます。1956年にハバートさんが、アメリカは70年前半にピークを迎え、その後は、採れなくなると予測しました。その時は、「そんな馬鹿なことがあるか」と哄笑されたのですが、アメリカは1971年にピークを迎え、現在、アメリカの油田はどんどん採れなくなり続けています。この油田の発見と石油消費量とハバート曲線(石油生産量)を組み合わせると、需要に生産が追いつかなくなる時期が推定できます。
従来、「石油は後30年か50年でなくなる、だから問題だ」と言われてきましたが、実は、問題なのは「石油の生産が需要に追いつかなくなる時」なのです。みんなが石油を使いたい時に、石油の生産量が下がり始める。この生産量のピークを「ピークオイル」と呼んでいるのです。100年以上も前から使われ、なくなるのにあと30年から50年ですから、そんなに遠い将来ではないが、ピークオイルはそれよりも早く、それを問題にしている多くの学者が、2010年頃にピークがくるといっています。「もうすでにきている、来てしまっている」という人もいるし、「あと30年は大丈夫」という石油業界の意見もあったりしますけれども、多くの人たちは2010年ころと言っています。つまりその頃になると石油生産量は頭打ちになりますので、石油が足りなくなります。あと2年ほどですが、その時には「車に乗らないで下さい.電気も使わないでください」ということになりますが、みなさんできないですよね。つまり、どんなに高くなってもみなさんは石油をかうということになります。ということは、ここには絶対に金が儲かるポイントがある。2010年時点で石油を握っていれば大儲けができる。しかも石油の儲かるポイントはきまっていて、最上流の油田から最下流のガソリンスタンドまでの中で、常に儲かるのは最上流の油田です。ですから、この時点で油田を握っていれば、お金を儲けることができるということになるのです。
そのようなピークオイル問題が近づく中で、日本政府は何をしようとしているのかと言うと、一昨年の8月に出した「原子力立国」というプランです。日本は原子力でやっていくんだということで、核燃料サイクルを使い、使い終わった原子力の燃料から再処理工場でプルトニウムを取り出し、ウランと混ぜ合わせてグルグル回すプルサーマルをやろうとしています。しかし、このプルサーマルのプランは二つだけ問題があります。一つはプルトニウムを取り出して混ぜ込むのですが、新品のウランの方がはるかに安いということ。だから、新品のウランをそのまま使った方が全然安いので経済性がない。もう一つは、再処理をかけるためにはしばらく冷やしでないと再処理できないのですが、その冷やす期間が100年から300年かかります。それまでには新品のウランの方が枯渇していますから、全く意味がありません。また、高速増殖炉を使ってプルトニュームを再利用するというプランもありますが、この高速増殖炉というのは世界中でうまくいっていません。日本でも12年前にもんじゅが事故をおこして止まったままです。これを再開させようとしていますが、大変危険です。4049年後と言われたこの施設は成り立っていないし、この先40年後に成り立つと言っていますが、これは現実的ではありません。だから政府も将来にと書いているのです。こうした馬鹿げたことをやろうとしているのが、今現在の日本なのです。(次号に続く)
司法権を無視した政府
−これでも法治国家か?
菅野礼司
遂に憲法9条に対して名古屋高等裁判所から判決がでた。イラクへの自衛隊派遣は憲法違反であると。これまで司法権は極力この問題に触れないように避けてきたが、やっと司法の手で自衛隊の海外派遣と憲法を結びつける判断が下された。
日本では司法は行政の僕のような姿勢をとってきた。憲法に限らず、国政選挙や行政に関する高裁や最高裁の判決で、これまで政府寄りの判決に対して随分歯がゆい思いをしてきた。ようやく海外派兵は憲法違反であると明言した、気骨ある裁判官がでた。この裁判官と判決に声援を送りたい。
ところが、政府は「この判決に拘束されない」とか、「イラクの航空自衛隊の活動は関係ないから続ける」と臆面もなく言った。
憲法は国家権力の行き過ぎを戒めるための歯止め役として設けられ、そこに憲法の存在意義があるということは、歴史的にも国際的に認められていることであろう。それにもかかわらず、この日本政府の姿勢は、三権分立を無視し、憲法を超えて行政の独裁を宣言したようなものである。このような政府の態度を許し放置してはならない。
これまで長年の間、日本政府は憲法9条を政府の都合の良いように拡大解釈して、憲法違反的行政を行ってきたから、護憲や三権分立に基づく民主主義の精神は完全に麻痺しているのであろう。憲法9条に限らず、原子力3原則や外交問題で情報を秘匿し、国会で嘘の答弁を繰り返してきた。これらも偽証として弾劾されずに見過ごされてきた。それゆえ、国民もそのような政治風土に慣れさせられてきたから、「またか」程度にしか政府の態度を受け止めないのだろうか。この裁判の原告側やそれを支持する人たちは、判決の意義に満足して喜んだが、それ以上強く政府を追及することをしない。もっともけしからんのは、マスコミは政府の答弁を報道するだけで、その非を咎めないことである。
国を挙げてこの問題をもっと真剣に議論し、護憲の精神と三権分立の民主主義を確立するように努力すべきだが、マスコミは世論を喚起しようとしない。社会学者、法律家、政治家、ジャーナリズムなど皆あきらめているのだろうかその後の動きがない。
法治国家としての存在を疑わせる最近の事件は、日本教職員組合の研究集会が開けなくなったことである。有名なホテルが会場使用を契約しておきながら、間際になって会場使用を拒否したためである。ホテルの不当な態度は契約違反であるから会場の使用を認めさせるよう、日教組は裁判所に訴えた。それに対する裁判所の判決は、ホテルの処置は不当であり、日教組に会場を貸すべし、というものであった。しかし、それでもホテルは、右翼の妨害や圧力を恐れて、日教組に会場を貸さなかった。日教組の研究集会を妨害する右翼団体を警察は取り締まることもせず、裁判所の判決は無視された。
これでは日本は法治国家とは言えないだろう。国民の違法行為は厳しく取り締まるが、政府の違法行為に対しては甘く見逃されてきた。憲法違反、権力者の違法こそ最大の罪であり、厳しく追及されるべきであるのに逆である。「長いものには捲かれろ」ではますます正当な権利が侵害されて行くだろう。戦前の繰り返しでは困る。これからでも遅くない。何とかしなければならないと思う。
(編集 菅野)