私達の教育改革通信

   123  200811

 

 

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「今世紀最大の課題である地球環境問題を

自身の問題として考える」   海野和三郎 

 表題は、朝日新聞9/21、緒方貞子さんの「あいさつ」の‘みだし’である。9/29,麻生首相の所信表明演説にも、「持続可能な環境」が7つの重要事項の1つに挙げられている。今日、友人の一人が「1分間の太陽エネルギーで全世界のエネルギーがまかなえるというから、やりようによって何とかなるのではないか」と言った。多分、1年分のエネルギー消費の意味で、1年は約5万分だから、5万分の1の効率で太陽エネルギーから食べ物のエネルギーを得ているという意味であろう。地上に達する太陽エネルギーは1kW/m,夜と斜め入射の効果で平均その1/4、人1人のエネルギー消費は約1kWとして、約4m2に注ぐ太陽エネルギーを消費して人1人が生きていることになる。問題は、食料生産の効率である。食料生産可能な地表面積を全地表面積の1/10乃至1/100、作物が占める面積がその1/10程度、葉緑素が占める面積はその1/10程度、光合成による炭水化物生産の効率が約1/10とすると、食物生産の効率は約1万分の1乃至10万分の1となる。理科年表でみると、陸地面積は約1.51014m2、食料生産効率を5万分の1として、食物生産実効面積が30m2、1人あたり4m2として、10億人弱の人間を地球の自然が養うことができることになる。乱暴な計算だが、19世紀までの人口の説明である。20世紀になって、地球が億年貯めた化石燃料を100年で使い、トラクターなどの農業機械、運送、農薬など様々な化石エネルギー利用によって、人口も40億から60億へと増加し、間もなく100億に達しようとしている。同時に、CO2排出による地球温暖化が問題となり、代替エネルギーをバイオマスに求めると食糧不足になる。エネルギー、地球環境、人口(食料)問題の三重苦が20年後、石油の需要供給のバランスが崩れる石油ピークにやってくるという。何とかしなくてはならない。

 葉緑素を敷きつめた木の葉と太陽電池パネルとは、共に、太陽エネルギーの約10%を光合成または発電に使う。広葉樹は大量の水を吸い上げ、80%以上の余熱を使って水蒸気を大気中に放出し、対流を促進し、風を起こし、CO2を風にのせて葉に送り、さらに乱流拡散で葉緑素へ伝達し、そのため光合成の効率が10倍以上も高められる(矢吹効果)。太陽電池の場合も余熱を連結するソーラーポンド発電の予備加熱に利用することが、石油火力発電に負けないための条件の一つである。ソーラーポンド発電は、イスラエルが先鞭を付けた。下層ほど塩度が高い塩水の水槽に太陽光が入射して水底で吸収され温度が上昇しても、温度上昇による密度低下が塩度勾配に負けて浮力を生じないため、対流は起こらず、熱伝導は遅いから熱放射を透さない水は保温が非常によい。この太陽熱エネルギーの蓄積装置が、塩度勾配ソーラーポンドである。実は、海は天然のソーラーポンドで、数10mの深さで吸収された太陽熱は熱伝導では千年以上もかからないと表層まで出られないので、海流による一様化で1000mより深い世界中の深海水温は約3℃で、これが地表の標準温度である。

 熱機関としてのソーラーポンド発電効率を10倍強力にして、石油火力に勝つには、辻内式非結像集光系で半固定準全天10倍集光するとよい。最下段の太陽電池パネルは水冷し、温まった水は上部に連結した多賀式スポンジ粘性ソーラーポンドへ導いて更に加熱して沸騰水をつくり、蒸気タービンを廻して発電する。この2段構えの発電の効率を40%とすると、太陽電池パネルだけの場合に比べると、発電量は40倍、装置の費用を2倍とすると、電力価格は1/20となる。関心のある方設計図を見たい方はお申し出下さい。

 

「おだまき」      水木鈴子

愛は実践です。

与え続けることによって、美しく輝き続けますよ。

自分があのひとに与えたという記憶が、

輝きの美しさを妨げているのです。

ある日、あなたは声を大にして、

気づかせてくださったのですね!

以来、一日十善、いや三十善?

あなたからいただいた人生の大きな宿題に、

汗かいています。

花汗は、花幸せですか?

 

 

「職人の美学」(美学シリーズ6)

未来創庵  一色 宏

 

手仕事が主流であった時代は小さな社会であった。作り手は誰であるかを知っていたし、使い手は自分の気に入った作り手を選ぶことができた。そうした小さな社会で生き抜くためには、作り手は常に最高の品を作り出すことを心がけなければならなかった。その心構えや職業の倫理、職人の仲間の仁義や礼節を、物を作り、使ってもらうことで身につけていった。

職人達はだれもが「一生が勉強です」「これでいいということはない」「満足だと思ったらおしまいだ」と言う。師匠のもとでの修行を終えた後、職人はいかに技を磨き上げていったか、それは学校や職業訓練所などではなかった、徒弟制度と呼ばれる職業訓練の方法であった。師匠から弟子に、技や技を駆使して生活していくうえでの必要な事柄や精神を受け継いでいく職業の伝承であった。そこには教科書はなく、仕事のできる師匠がいて、覚えたい者がそこに入門し、そこで一緒に暮らしながら仕事を覚えるというものであった。弟子の側は教わり、覚えるのであるが、教える側は仕事の馬に弟子を置き、仕事を見せる以外、特に教えるという行為はなかった。叱ることはあったが、弟子は「見て覚える」以外になかった。

徒弟制度の基本は覚える側の姿勢の問題であった。例えば、鍛冶屋・刀鍛冶などでも同じく、炭切りから始まる。炭を三種の大きさに切り揃えた。作る物によって鉄を熱する温度が違い、使う炭の大きさも違うからだ。炭も松炭,櫟炭と作る物によって変わるのだ。その次が火の手伝いである。一人前になるに炎の色ですべての温度がわかるようにならなければならない。同じ温度で焼き入れするために覚えることは欠かせない。火の色と鉄の焼き加減は炎の色を頭に叩き込み、叩いて延ばし形を整えるコツは慣れで、手に覚えさす。季節やその日の気温、天候を考えながら、一定の温度に鉄を焼き上げ、一気に冷ます。他人にも弟子にも説明できない勘としかいいようがない。師匠が焼いた鉄の温度を目で憶え、再現できなければならない。徒弟制度は、学校の教室ではないから、どこまで自分が覚えたかは自分に聞くしかない。試験があるわけではないのだ。師匠の仕事と自分の作業を重ね合わせ、「何を見ていたのか」と叱られ、時には叩かれながら、覚えるしかなかった。

「師匠」「親方」以外にも厳しく職人を育てた人たちがいた。ひとつは職人の作った物を買い取った問屋である。商品の吟味は厳しく、傷や不出来があれば職人に突き返した。この厳しい目は職人にとっては過酷であったが、職人の腕を上げる役をはたした。親方が弟子を叱るのとは違った目での評価がそこにはあったからだ。問屋の他にも目の肥えたお客がいて、手を抜くことはできなかった。

見る人がいて、見る目があって、十分の報酬を払ってでも職人の腕をとことん追求する人たちも職人の師であった。体や手に記憶された技はわすれることはない、悩むことがない。手は疑問を持たない。そうなるまで修行を積み上げたのだ。常に疑問を持ち、悩み、惑う心に打ち勝ち築き上げてきた職人の美学であった。巧みなもの作りの職人気質に栄光あらん事を!!           未来創庵 

 

友人からのたより        

4名の日本人ノーベル物理学賞・化学賞受賞のニュースで沸いている昨今であるが、旧友山田光男君からのたよりに、昔のノーベル賞にちなんだはなしが書いてあるので紹介する。 今年は日仏修交150周年記念行事の一環として、フランス・アカデミーから使節が来たこともこれに関係する。                (海野記)

前略           

 先日は、久しぶりに懐しい松高、鳥居松などの昔話、嬉しく存じました。貴兄の「天文学を志して」を興味深く拝読、私が薬学を選んだのも、内地決戦が近いのと、父(註:山田延男)の死因を調べるのに役立つと思った次第。    ノーベル物理学賞受賞のニュースを見て、父が生きていれば一九三五年の人工放射能のノーベル化学賞をキューリー夫人の娘イレーネと一所に貰ったのにと思いました。

山田光男

(註:当時は、放射能障害について何も知られていなかった。実験を一手に引き受けて、強い放射能を浴びて実験を続けた山田は、身体を悪くし帰国して亡くなった。山田の実験データで研究が完成した顛末はイレーネが母に送った手紙にあり、今もその手紙が残っている。)

ニュートンと改暦問題    近藤正明

 

筆者は社会・人文系の大学で天文学をおしえています。 10年前、これから2000年を迎える年になって、小学校で教わって、天文学者になるきっかけになった、水金地火木土天海冥と、4と400で割れる年は閏で、100で割れる年は平年とするが、忽然と沸いてきました。呪文のように覚えるとはいっても、何処かで何故なんだろうと思っていたのだと思います。小学校の先生に、もしかしたら質問していたかもしれませんが、覚えておりません。 社会・人文系の学生に格好の材料と思い、調べ始めました。 

ここでいう改暦問題とは、グレゴリオ暦では1700年は平年とするのに対し、旧来のユリウス暦では閏年となる為に、グレゴリオ暦受け入れを拒否していたプロテスタント諸国が受け入れるかどうかの問題です。 そもそも、グレゴリオ暦という改暦がユリウス暦に対して行われたのは、13世紀にオックスフォードの人達が、イースターの日が、その定義の「春分の日の後の満月の起こる週の日曜」からずれている事を問題にして、改暦を提案しました。しかし、その方法をめぐって、ズレを閏年を数十年やめて調節するか、一挙に日数を飛ばして春分の日を調節するか、それによって、月の暦に対する影響をどうするか、実際、閏年は当時224日を2回にしていましたから、その事をうまく使う事で、月の暦がうまくいっていました(わずか300年で1日のずれです)。 1太陽年はユリウス暦より、133年で1日短くすればよい事がはっきりしていきますが、その方法をめぐって300年たっても決着せず、コロンブスの新大陸発見後、新大陸は勝手にイースターをするとか、ルッターの宗教改革が起きてしまうとか、1543年にはコペルニクスの地動説が出現、1572年にはティコの超新星という、昼間も見える新星がカシオペア座に現れる、1577年には、西から東にまたがる大彗星が現れるは、物情騒然とする中、待ったなしの状況に追い込まれます。 ローマ教皇庁のクラヴィウスは、春分の日の321日は変えず、105日の次は15日にして一挙に10日飛ばして調節し、閏日は2242回を止め、229日にし、そのかわり、100年毎の月の暦の調整表を作る事で解決し、1太陽年の長さを、365.2425日と近似、ピエトロ・ピタチが提案していた、「4と400で割れる年は閏、100で割れる年は平年とする」事で、133年に1日縮める案を採用して、1581年グレゴリオ暦が発布されました。

コペルニクスは過去のデータを信用して、1太陽年は歳差を伴いながら長周期変動をするというものをだしていましたから、プロテスタントの地域は、グレゴリオ暦がベストではないと、受け入れを拒否しました。 イタリア、スペイン、フランスは即受け入れていますが、コペルニクスを出したポーランドも早く受け入れています。 イギリスは国教会が拒否していました。しかし、1642年のニュートンの生まれた時代にピューリタン革命が起こり、王室関係者はフランスに亡命します。 亡命先では、グレゴリオ暦で運営されており、関係者も親しみました。

1660年に亡命していたチャールズ2世が王政復古した後、まづ取り組んだのがこの問題です。Royal Societyを設立して、その役割に、諸外国の情勢を情報収集するという項目があるのは、そのためだと思います。 具体的には、事務局を担当していたフックが、エドモンド・ハレーをダンツィヒのヘヴェリウスの所に、観測の様子を調査するように派遣したりする事にあらわれています。最初にイースターのずれを注意したのは、オックスフォードの人達ですから、伝統的に王立協会に注意を促していました。

グレゴリオ暦発布から7,80年たって、どうも1太陽年の長周期変動はないようだという雰囲気の中で、ニュートンが登場してきます。1666年の24才の時、リンゴの実が落ちるのを見て、地球の引力に気づき、太陽‐惑星、惑星‐衛星、地球‐月間に、共通の重力が働いていると、所謂、万有引力を発展させます。フックとの軋轢があり、その間の発展は隠されますが、168082年の大彗星の相次いだ出現で、ニュートンは、彗星の軌道が、太陽からの引力による長楕円である、もしくは放物線であると考えている事が明るみに出ます。その時のハレーとの有名なやりとりはご承知のとおりです。 ハレーに送られてきたその証明は、運動の3法則から説き起こした立派なもので、出版をハレーの自費で行うという、栄誉にハレーは浴します。

1687年に出版された「Philosophia Naturalis Principia Mathematica」(プリンキピア)は当初第1篇、第2編の「物体の運動について」のみの出版で、第3編の「世界体系」は別になる予定のようでしたが、第1編からの引用が多く、フラムスティードの勧めで1巻にまとめて出版されたようです。 この後、1713年に第2版、1726年に第3版が出されますが、改定の殆どは、第3編にまつわるものです。 変わらない結びは、彗星の軌道は、万有引力で初めて説明できたのであり、当時大陸で主流だった、デカルトによるエーテルの渦説では説明できないという、当初からの目的のデカルト説論破で終わっています。

何といってもその白眉が地球‐月系にケプラーの法則を当てはめ、月の加速度を出し、その3600倍が地上の重力加速度である、とする所ですが、そのほか感嘆するような議論を随所でして居て、当時第2の聖書と呼ばれるぐらい読まれたのもむべなるかなです。しかし、よく読むと気になるところがあることに気づきます。一度も1太陽年という言葉が出てきません。1恒星年は出てきますし、歳差の原因を初めて、地球の自転による膨らみに、月と太陽からのモーメントを受けて年に50″の歳差が出るとしたのですから、間接的には1太陽年を与えた事にはなるのですが。

1686年に初版を脱稿してすぐに、名誉革命に巻き込まれます。カトリックだった、ジェームス2世がケンブリッジ大学の人事に介入したためでした。プロテスタントを貫いたのは、ニュートンの役割が大きかったと言われています。その後、ジェームズはフランスに亡命して、プロテスタントのオレンジ公ウィリアムが国王になります。 ニュートンはその後、1692年頃から極度のノイローゼになったといわれています。1693年には、錯乱したような手紙が残されています。従来、その原因として、研究室が火事になって、「光学」の原稿の一部が消失したためとか、諸説あるのですが、筆者は、1700年を控えて、グレゴリオ暦を受け入れるかどうか悩んだのではないかと、推測しています。 といいますのは、錯乱した手紙の中に、亡命したジェームスとの接触が伺えるものがあるからです。

1694年に突然目が覚めたように、弟子のグレゴリーを伴って、グリニッチのフラムスティードに会いに行き、月の観測データを計150個もらいます。これは、チャールズ2世の肝いりで1675年にグリニッチ天文台が作られる際に、「月距法」という、月の位置を精密に予報して、月を時計代わりにしようという目的がかかげられていましたから、月の精密な観測データを持っていたためでした。 ニュートンは「月距法」の為にとも考えられますが、以下でわかりますように改暦問題に備えたためだろうと思われます。 その後、ケンブリッジ大学を代表する代議士をやりながら、造幣局の監事になっています。 そして、1699年の暮れには、長官になっているのです。 一見、ニュートンは改暦問題にはなんのかかわりも無いように見えます。

ところが、未発表の1700228日付の原稿が残されています。 その冒頭に、1太陽年は365.2423日、1恒星年は365.2563日である事を明記して、月の議論へと進んでいます。そのなかの月運動のモデルは、プリンキピア第1版のものより、より具体的なモデルづくりがされています。 何故、月にこれだけの時間を割いたのでしょうか。多分、神聖ローマ帝国が1699923日付で、「グレゴリオ暦を受け入れる、但し、月についてはケプラーのルドルフ表によって復活祭を決める」という事に反発したものだと思われます。この法令は、ライプニッツの働きが大きかった事が知られています。ルドルフ表が月についてはうまく言ってないことは、周知の事実ですし、イギリスでは早くから、その改良の試みが、ホロックスやハレーによってなされ、フラムスティードも関与してきていました。何故70年も前のルドルフ表なのかという、憤りのようなものを感じたのかもしれません。

ライプニッツ自身も不満を持っていたようで、1700130日付けの手紙が王立協会に、ルドルフ表には触れないで、グレゴリオ暦の満月の決め方が平均朔望月で決められていて不正確だから、一緒に調べてみないかという問い合わせをしました。王立協会はニュートンに問い合わせたところ、ニュートンの返信は、228日の原稿の頭の部分を簡単にまとめたもので、グレゴリオ暦には触れず、ルドルフ表に対し補正をすることを進言しました。この進言の手紙は425日に王立協会で読まれています。 ライプニッツに対する返事は、オックスフォード大学の大数学者ウォリスがあたって、「ニュートンの言っている事は、例の過ぎたる奥ゆかしさでよくわからない。しかし、ユリウス暦が正しいといっているようだ。 復活祭は二ケアに戻って、満月の日にする事もあり得る」というビックリするような内容のものでした。このような返事が出てくる下地はすでにあって、ウォリスは神聖ローマ帝国の動きを知っていたようで、神聖ローマ帝国の発布の2ヶ月前にカンタベリー大司教に手紙を書いています。 「もしもグレゴリオ暦に従った時、フランスと一緒になるのはいいけれども、スコットランドが従わず、国が混乱する恐れがある」といった内容でした。ニケアとは、、キリスト教がローマ国教となったため、ユダヤ教の流れの太陰太陽暦とローマのユリウス暦を調整するための325年のニケア公会議の事で、スコットランドは、冒頭のイースターの定義の他に、満月の日を復活祭にと主張したquatro-decimanse(満月の14日)という分派が流れ着いた場所であったのですが、それがこんなところで出てくるとは、といった感じです。ウォリスに言われたのでは、ライプニッツも黙らざるを得なかっただろうと思われます。

  ニュートンの228日の原稿の内容はその後、弟子のグレゴリー(オックスフォード大学天文学教授)の天文学の教科書の中に、月のニュートンのモデルとして、ラテン語で紹介され、後に、グレゴリーによる英語訳の単行本「Newton’s Lunar Theory」として出版されています。そして、その1702年にニュートンはナイトの称号を授けられているのです。 単行本は内容的に不満があったらしく、さらに精密化されて、1713年の第2版に命題35問題16「与えられた時刻に対し、黄道面に対する月の軌道の傾斜角を見出す事」への注に付け加えられました。第1版では、注の中にあったフラムスティードへの言及があった箇所が削られてしまっています。 第3版でも、更に精密化されていますが、注の最後に自分のモデルで出てくる非一様性は、当時の観測では検出できないので、精密な観測で確かめるように促しています。 

筆者は、この非一様性が確かめられたかどうか確認していません。 又、ニュートン・モデルが完成されたかも確かめていません。 ニュートンのモデルでは、地球を止めておいて、地球が月の楕円軌道の焦点になるようにし、その長軸が平均の周りにふらつくようにして、長軸の中心が円を描くようにします。 そして、その円状の位置は、太陽の方角の半分になるようにするというものです。 地球を止めたために、太陽は平均の位置の周りに円運動(本当は楕円)をしているとします。 第3版になると、月の楕円軌道の中心の描く円の上に更に小さな周転円を加えます。 しかし、このように幾ら近似を高めても、太陽を動かすと解が収束しない事を、1877年にアメリカのヒルが明らかにしています。 ですから、その後、急速にニュートン・モデルは専門家の興味を失っていったんだと思います。

1983年にノーベル賞を受賞した、天体物理学者チャンドラセカールが「一般読者のためのプリンキピア講義」というものを1995年に出されましたが、どう見ても、微分方程式を使って議論をしていたとしか思えないという、議論を紹介しています。

  プリンキピアの面白さを授業で行うのは時間的に難しいと思うのですが、「理科ごころ」を養うのに一番適しているのではないかと思っております。 しかし、つぶしてしまうと反論されるかもしれません。 チャンドラセカールの上述の本の結びに書かれた、「ニュートンは1つの時代の人ではなく、あらゆる時代に通用する!」というのには、同感です。

表題のテーマについて書く機会を与えて下さいました、海野先生にお礼を申し上げます。

 

 

小田川利嘉先生のいいお話 (1)

(「白寿への健康法と心がまえ」より)

人生はこれからだ(満90才)

いつの間にか、知らぬ間に年をとって、老人になりました。

人間はいつまで生きても、これでよいと思うことはないのではないでしょうか。

人間は一人では生きられません。自分の力で生きているところと、他の力で生かされているところがあるようです。

自分の体は自分だけのものではないので、大切にしなければいけない、と思われるこの頃です。

人間は生きようと思っても生きられるものではないし、死んでもよいと思っても死ねるものでもないが、死にたくないと思っても明日のことは分からないし、時が来れば死んで行きます。

生きている以上、感謝の気持で、何か世のためになりたいと思っても、年を取ってくると容易には出来ません。あまり口を出してもよくないし、何事も平和におさまる事を願っております。

なるべく人様の邪魔をしないように、また迷惑をかけないように、心掛けている積もりでも、自分の気のつかないところで、そうなっているかもしれないと懸念しています。

ニュースをテレビや新聞で見ていると、これでよいと思うこともあれば、また何だか変な方向に向かっていると気になることもあります。なるべく明るいものを見て、人生を明るくするようにつとめております。

若い人の気持を理解したいと思いますが、時代の差はあらそえず、理解出来ないところもあります。

いままで、自分の体力と能力の範囲で、精一杯生きて来た積もりで間違いなかったと思っていましたが、今となってよく考えてみると、あれはこうすればよかったと思いあたることいくつかあります。

老人の中には頭も体も弱って、子供と同様になった弱い方もあります。弱い者はだまし易いので、全財産をだまし取られた話もよく聞きます。子供には誘拐防止の法律があるのですから、老人詐欺防止法というような法律があってもよいのではないでしょうか。

私は自分に「まだ七十過ぎたばかりだ。元気を出せ」と言い聞かせて、若い気持ちを失わないようにつとめております。平素はなるべく年のことは忘れるようにしています。時々年を聞かれることもありますが、一般には本当の年は言わないことにしています。年寄りだと馬鹿にされてごもかされたこともあります。旅先の宿では十五位さばをよむことにしています。

他方、老人は感覚はにぶいが無欲ですから、人間が話している言葉の裏側の、本当の姿を垣間見る場合もあるのではないでしょうか。

老人は健康保険その他で、多額の負担をかけて、世間の世話になっていることも忘れてはいけないと思います。

医療を考えてみますと、健康保持と病気治療という面と、また東洋医学と西洋医学とがあります。

東洋医学には、健康保持と永年の慢性病を治療する効果があります。

東洋医学は、人間の生命力を生かすために、人間の体力にあわせて、自然治癒力を助成して、自分の力で自分をなおすという考え方です。

それでハリ、灸、漢方薬のいずれでも、その中から、自分の体に最も適合したものを探し求めて、これを時間をかけて実行して効果をあげます。

いくつになっても「人生はこれからだ」と精一杯元気を出して、自分の道を前向きに歩むよりほかに道はないのではないでしょうか。(平成四年九月)

 

 

台日交流秘話  杜聡明博士

                  周明徳

杜聡明博士(1893-1986)は、フィラデルフィアでの麻薬教育会議に日本を代表して出席、「台湾に於ける阿片問題」と題し、台湾の阿片中(依存症者)の漸減状況を英語で演説して好評を博した。後に台北帝大医学部教授となったが、32歳の当時は総督府立医学専門学校教授で欧米留学中であった。それらの功績により、昭和43年(1968)、明治百年記念に、日本に功労のあった外国人百名中唯一の台湾人として表彰された(勲二等瑞宝章)。

 昭和5年(1930)台湾総督府更正院(阿片中矯正医院)創立、杜博士は医務局長となり、7年後台北帝大医学部創立、教授に就任、戦後も、台湾医学界の元老且つ泰斗として生涯斯界に多大の功績を残された。以下に、彼の人生史を略記する。

 日本領台の2年前(明治26年)、杜聡明は三芝郷の山手の寒村「北新庄」(大屯山系の西側)の篤農家の三男として生まれた。(李登輝前総統も同郷)14才も年上の長兄は漢学者で北新庄区長を歴任した人で、そういった家庭に育ち、明治36年(190310才の杜聡明は滬尾公学校(後、淡水公学校)に入学、日本式初等教育を受けた。明治42年、杜聡明は滬尾公学校を主席で卒業、台北庁長より優等賞を受賞。公学校卒業後、台湾の最高学府だった台湾総督府医学校(五年制)に難なく入学した。大正3年(1914)同医学校主席卒業、同年総督府立中央研究所入所、細菌学専攻、翌大正4年より6年間京都帝大へ遊学、その猛勉強ぶりを以下に記す。

 最初の役年間は賀屋隆吉博士の内科教室で研修、その間、細菌学など基礎医学の聴講、夏休みには大阪血清薬院で研究に没頭、大阪医科大学でドイツ語、フランス語を学び、京大に戻り森島博士の推薦で有機化学、無機化学、物理化学など聴講した。この間も、英語、ドイツ語、フランス語などの勉強に精を出し、休日のない多忙な歳月を送った。京大6年間の遊学中に8篇の論文(内1篇はドイツ語、1篇は共著)を発表し、学力は同教室の尾崎良純教授に次いで第2番目であった。

 日本での遊学を終えた杜聡明は、翌大正11年4月、弱冠29才にして台湾総督府医学専門学校(医学校の後身)の教授を拝命した。同年の12月には、日本政府より医学博士の称号を授けられた。外国籍初の医学博士であり、台湾人「博士号」の濫觴でもあった。

 大正14年(1025)12月24日、杜教授は官命を受けて欧米遊学の途についた。最初に入港したサン・フランシスコより北米横断鉄道に乗ってシカゴ経由でニューヨークに到着した。翌年の6月24日に米国より欧州へ赴く予定の彼に、同月2日台湾の上司から一通の電報が届いた。この電文の内容は、次(7)月5〜9日フィラデルフィア市で挙行される「第1回国際麻薬教育会議」(The World Conference of Narcotic Education)に参加し、台湾の阿片矯正精度の成果を講演せよ、であった。この会議で杜博士は唯一の東洋から来た講演者として好評を博し、New York Timesは、“政府の麻薬販売を良策と主張す”、との題目でその成果を報じた。報道の一部、原文のまま:

 “Morphine, heroin and cocaine no longer are a problem in Formosa” he said. Japan prevents the sale of these drugs. Also, Japan has complete monopoly of the sale of opium for smoking. Its sale is permitted only to those registered as addicts, and they can obtain it only under medical supervision.”

 In 1901, he said, 5.7 percent of the population of Formosa smoked opium habitually. By 1924 the Japanese Control measures had brought this down to 1 per cent.

 <逸話>細菌学者として世界に名声を博した野口英世博士が、以前一時帰国して京大で講演した際に、無名の一留学生であった杜聡明も聴講に参加した。医学博士となった今、米国滞在の好機とばかり、ロックフェラー研究所に勤めていた野口に面接を申し込んだ。通常、訪問客を簡単には接しない野口博士は、紹介状を見て意外にも杜博士を快く研究所に招いた。因みに、野口も杜と同様に大学の卒業証書なくしてイキナリ医学博士の学位を取った。この日の状況を、≪杜聡明回顧録≫は次のように伝える:

【単に敬意を表する為だったので、野口博士の研究の邪魔にならないように、数分間で退出するつもりのものが、思いもよらず会話は投合した為に引き止められ、そして一緒に昼食をとる迄の間、側で彼の実験を拝見させて貰った。昼食どき二人で一緒に食堂に入るや彼は即座に会話を日本語より英語に切り換えた。これは国際人の礼儀作法として、第三者の前で相手の知らない言葉を使わない事が淑女紳士のマナーである事を無言のうちに示して下さった。続いて午後も引き止められ、この間いろいろと貴重な教訓を拝聴した;もっと多くの米国人と接すること、暇さえあれば図書館を充分に利用すること・・・であった。】(日本語訳:周明徳)

 昭和3年(1929),杜博士は欧米遊学を終え、同年3月3日マルセイユより香港経由で帰台した。彼が帰台後間もなく、台湾総督府はそれまでの立派な阿片政策に反し、トンでもないヘマな法令を出して台湾人有識者らの顰蹙を買い、国際連盟に告訴される事件があった。

(阿片政策については、行政側の対応に特許者の登録制があり、吸引者には登録者、未登録者、密吸引者があり、吸食のやむを得ない重症者ありで、統計上の数字と実際とは異なる。昭和3年の阿片令改正は、新しく阿片吸引者の鑑札を特許した。しかし、それが実状にそぐわない政策で、どこか不具合があったようである。)

 杜博士が欧米遊学より帰台した翌(1929)年4月、台湾総督府専売局より阿片烟膏とその副産物の性質及び反応実験などの研究を嘱託された。間もなく彼は朝鮮、満州、上海、等の主張を命じられ、そして烟毒実況を調査してきた。彼は帰台後、総督府に台湾で阿片中らの矯正医院創設の必要性を建議した。台北更正院設立の約五ヶ月前の事であった。昭和5年(1930)1月15日、「阿片矯正所規定」が発布され、即日府立中央研究院内にあった「マラリア患者治療所」を阿片中臨時矯正所に当てた。次いで同年3月29日、今の重慶北路に台北更生院が新設した。この更生院は総督府警務局に隷属し、衛生課長が院長を兼任したが、実務は杜博士が担当し、運営から管理まで殆ど彼一人で立派にやり抜けた。第二次世界大戦後間もなく、政権交代によりこれが台北省立戒煙所と改称され、その翌(1946)8月、前後17年間にわたる轢死を持った台北更生院は、その任務を果たして閉鎖するのであった。この間に矯治した阿片中患者数は1万1千4百98人を数えた。

 民国八十五(1996)年、慶祝淡水国小(淡水公学校の後身)創立百周年記念式典に、次の学友5名が表彰された。第一名:杜聡明(1893-1986医学界の泰斗);第二名:李登輝(1923--中華民国総統);第三名:周明徳(1924—気象官リタイア);第四名:陳清水(1910-1994 プロゴルファーの嚆矢);第五名:施乾(1899-1944 慈善事業家) 官服を脱ぎ捨てた施乾は私財を投じて台北市大理街に乞食収容所、「愛愛寮」を建て、阿片中、身体障害者、性格欠陥者〔怠惰、放蕩〕、犯罪者(合法的に生存不能)、親譲りの乞食、などを収容した。医務室は不可欠であるが、私設ゆえ医師を雇用する余裕は皆無であった。数名のボランテイァ医師の一人が杜教授であった。施乾の病没した昭和19年度の杜教授のタイトルは、@台北帝大医学部教授、従四位勲三等、A同大学付属医学専門学校兼任教授、B熱帯医学研究所所員、C警務局更生院嘱託、という多忙さであった。

勅任官である杜教授が乞食らを診察する___この義診は当時の常識をかけ離れた崇高な義挙である。筆者の母校・「淡水公学校」に尊敬すべき人道主義者の杜聡明、施乾両先輩に、筆者は限りない誇りを痛感するものである。施乾夫人(清水照子、京都の方)は、夫君の崇高な博愛の精神を敬慕して、周囲の猛反対を振り切って結婚し、そして掛け替えのない貴重な人生を乞食相手の慈善事業に捧げた。彼女は戦後も四人の幼児を抱えて日本に戻らずに夫の遺志を引き継いで愛愛寮を経営し続けた。今日愛愛寮に収容されている者は、もはや乞食ではなくて身寄りのない者とか、重病患者ばかりである。しかし施乾ご夫妻の博愛の精神は今も脈々として愛愛寮で受け継がれている気がしてならない。照子夫人は廿世紀の末年ごろに天命を全うしたとか。謹んで施乾ご夫妻のご冥福を祈る(合掌)。

 

未来予測について       海野和三郎

今日(20.10.26)の産経新聞「昭和正論座」に、高坂正堯氏が30数年前の経済成長期に石油パニックの予測を警告した記事がある。第1面のトップには、麻生首相の「国際的な役割優先」で、総選挙圧力と対抗しているが、経済の先行きが読めない苦しさがあるようだ。同じ第1面に、加地伸行氏の「理科振興、国語教育が近道」がある。何れも、未来予測の問題がからんでいる。「何の為に先を見るか」:昭和正論座の解説には、社会は計画化を必要とする、だから先を見る必要がある。予測の最大の効用は警告にある、何か手を打たなくてはならないという警告が目的である、とある。その警告が軽視されたのは、日本人のおごり、大きな経済力を持つようになるというプラス面が重視され、悲観的な材料マイナス面を軽くみたためであるという。それと、もう一つは、日本だけが経済成長というプラスを集めうるのか、国際経済交流には相手がある点を忘れていたのではないかという。要するに、第2次世界大戦に突入したのと同じことの繰り返しで、今後われわれは何回も何回も驚き、醜態を演ずることになるだろう、という。では、どうすればよいか、1971年、通産省が出した「資源問題の展望」には、世界の資源の需給関係の偏りが持つ問題点を指摘すると共に、資源ナショナリズムの歴史と背景、及びその主張をかなり正確に捉えている、という。つまり、時の官僚に先見の明があったが、政治家やジャーナリズムが盲目であったということになる。

1971年当時と21世紀の今日と大きく変わっている点と変わっていない点とがある、エネルギー・地球環境・食料(人口)問題三つ巴の現在の難局は、1970年代に始まったアメリカの大規模農業による世界経済の一極支配に始まると言うと言い過ぎであろうか。貿易自由化の波にのって、日本の米作り農家は、休耕田制度をとり、食料・飼料を大幅に輸入に依存し、同時に、国防を半ばアメリカにたより、余力を電子機器・自動車などの工業製品の製造輸出に向けて国力を増強した。プラスもあればマイナスもある。それを、欧米と異なる独自の文化と教育に他文化の長所を取り入れて、21世紀向き未来志向の文明をつくりつつある。アメリカ経済の一極支配は、20年後に迫った石油ピークの前に崩れつつある。その理由は何か、世界経済を日本が救えるのか。その方法は何か、それが我々現代人に科せられた未来予測である。単なる、警告に留まらず、世界経済救済の処方箋を提示しなくてはならない。資源小国の日本、技術大国の日本、「和をもって尊しとなす」国の宿命であろう。

アメリカのグローバル経済は、30年の長きを維持した。恐らく、自由資本主義金融経済、いわば金貸し経済と、先物取引、負債までも商品化するデリバテイブなどのギャンブル経済とが両者の長所短所をコントロールする経済原理と結びついて一時代の準安定経済をなしていたのであろう。これが何故破綻したか。根本的な原因は、石油の需要供給の崩れる20年後の石油ピークにあると考えられるが、その根本をふまえて、3年以内の緊急対応策と、10年以上100年を見た長期対応策が不可欠である。両者に通ずるものとして、一つは、経済学の立てなおしを提案したい。高坂正堯氏の30年前には無理であったが、今では、コンピューターを使った複雑系科学の手法で、政府機関としての経済予測機構をつくるとよい。毎日の株価であれ、金利であれ、各地の気温・降水量、台風・地震、穀物の生産、農地面積、鳥・動物、河川の水量、人口の増減、出版事情、等等、あらゆる毎日データを1次資料とする。それらの平均値を引き分散で割った値を2次資料(変量)とする。それらの資料の1日変動1週間変動はまた元の変動と独立な量であるから、規格化して変量とする。この様にして、超多次元の変量空間にすべてのデータをプロットする。次に変量xと変量yとの相関を計算する。その毎日の値を(x,y,z,…)空間にプロットすると、一般に超多次元の楕円体に似た分布が得られ、その主軸が決定される。最長軸の方向が第1主成分、以下、第2主成分、・・となる。幾つかの主な主成分が、(国家)経済の指標であるが、それら変動の様相がどの主成分に依存しているかを調べて政策の予測をする必要がある。更に言うならば、そうした予測は、最初にどういう変量をデータとしたかの選択にも依存するから、経済の達人がそれに絡んでいることも必要であり、且つ、経験を積んで、常にシステムの改良を絶えず定期的に行う事も必要である。元来、複雑系科学は、経済学からでた概念と聞くが、経済学に複雑系科学を採り入れている様子はあまり聞かない。

政府機関にそうした経済予測機構が出来て、短期の対応として、原子力発電、休耕田の復活、昔の水車小屋を近代化した小規模発電、太陽光、風力発電等最初にやるべきことは沢山あるが、10年以上100年オーダーの危機に対応できるとは思えない。その理由は、植物の光合成によるバイオマスの食料生産効率は、地球に注ぐ太陽エネルギーの約1万分の1程度である。これで支えられる世界人口は19世紀末の程度である。人間は農業機械・運輸効率を上げて、世界人口を10倍にしようとしている。一方、化石燃料は、バイオマス生産までは効率1万分の1と同じとして、地下に閉じ込め化石燃料にする効率をそのまた10万分の1として、億年地球が貯めた化石燃料を100年で使い切る効率のよさ100万倍で、薪を焚いてエネルギーを得る効率に比べ10倍以上の人口増が期待できることになる。でたらめな計算であるが、21世紀エネルギー・地球環境・食料(人口)三つ巴の人類生存の危機の説明である。その危機を脱する処方を書いたのが、冒頭の論説である。

 最後に、加地伸行氏の所論について、一言だけ述べると、「理科振興」には国語教育が近道、はその通りである。しかし、4人のノーベル賞受賞が理科離れに歯止めがかかるのも事実であろう。英語教育についても同様である。国際化の時代、小さいときから英語に親しむことは効率がよい。しかし、国語教育の時間を減らしてはマイナスである。英語の歌を土日のあそびに幼稚園で歌わせるとよい。理科振興のためには、森の持つ超ノーベル賞研究(矢吹機構)の話をしてやり、多賀式粘性ソーラーポンドを自作させ、1時間で沸騰水を作らせ、海が如何に地球を守っているかの感動を伝えるにしくはない。子供たちは人類の危機に敏感である。

 編集を終わろうとする今日(10/31)の産経新聞に、「経済が告げる」田村秀雄『市場破壊に転じた株価先物』、「正論」三木光範『金融危機の「工学的」落とし穴』の二つの論説がでていた。私の誤解でなければ、共に、金貸し経済とギャンブル経済の組み合わせが持つ不安定性を制御する法的安定化機構が、当然のことながら、ある変動の限界を越えると働かなくなることの警告で、本稿の議論と一致するものと考える。本稿及び冒頭の論説では、その根本的原因は、エネルギー・地球環境・食料の三つ巴危機にあるとした。早く、何とかしなければいけない。             (編集:海野)