私達の教育改革通信

   122  200810

 

 

教育通信ホームページ

http://www.easy-db.net/unno/kyouiku/

http://homepage2.nifty.com/jiyudaigaku/

先事館制作室:進士多佳子〒1060032港区六本木7-3-8ヒルプラザ910

発行人:西村秀美,先事館箕面 562-0023箕面市粟生間谷西3-15-12

お願い:教育通信はオープンメデイアに移行しつつあります。A(購読)会員、運営に参画されるB(協力)会員及びC(編集)会員になって下さる方を歓迎します。B会員には自己負担でコピーと友人への配布、C会員にはそれに加えて編集を輪番でお願いします。私達の教育通信が今後どう発展するか、この皆で育てる新方式がよい日本文化に成長することが望まれます。

編集::先事館吉祥寺 海野和三郎180-0003武蔵野吉祥寺南4-15-12

先事館狭山、菅野礼司 589-0022 大阪狭山市西山台1245 

先事館近大理工総研 湯浅学・川東龍夫〒577-8502東大阪市小若江

先事館京都教育大 岡本正志〒612-8582京都市伏見区深草藤森町1

先事館聖徳大学 茂木和行 165-0035 中野区白鷺2-13-3-409


素晴らしいノーベル物理学賞三人と

化学賞の同時受賞     菅野礼司

 7日夜嬉しい大ニュースが飛び込んできた。素粒子理論でノーベル賞受賞は湯川・朝永先生以来、久々である。実験では6年前に小柴さんが受賞した。
 南部さんも、小林・益川さんもこれまで何度も有力候補に挙がっていながら、引き延ばされてきたから、もう駄目かと思っていた。 最近ノーベル賞は実用的な研究にウエイトが向けられているので、基礎研究は遠のいたと思っていたから。 南部さんは、当然もっと早く受賞すべきだった。長生きしたから受賞できてよかった。南部さんは視野が広く今度の受賞論文以外にも、いくつかの重要な課題に対して先駆的な理論を切り開いてきた。小林・益川さんもその理論が実験で実証されたとき、もう直ぐ受賞かと言われたのに引き延ばされた。
 いずれにしても、今年物理部門で日本人が独占したことは、湯川・朝永以来伝統の素粒子論研究のレベルが高いことを示

すもので素晴らしい。二つとも物質のもつ自己発展力と自然の奥深さ豊かさの一部を解明したものである。

私が大阪市大に着任したときは、南部さんは既にシカゴ大学教授になっていたので、指導を受けたり一緒に研究したことはない。南部さんが時々帰国されたとき、話をしたり物理の議論をした程度なので、市大当時の話は、間接的な伝聞しか知らない。 小林・益川さんとも昔は京大の基礎物理研究所の研究会で度々議論したり、お茶を飲みながら雑談した。

私が大学を卒業した頃は、日本はまだ貧乏で研究費が無く研究者は大変だった。理論屋さんはまだなんとかやれたが、実験物理屋さんは本当に苦労していた。その後加速器も作られ、最近は実験分野でも素晴らしい業績を上げられるようになった。小柴さんの実験物理と湯川先生以来、今度の受賞で、理論と実験の両方とも揃って高レベルであることの証ができた。理論実験ともに今後も何人かの受賞候補がいる。
 継いで8日にまた化学賞を下村氏が受賞したとのニュース。驚きと同時に本当に喜ばしいことだ。
 それにしても日本における最近の大学・研究所は、基礎研究が非常に軽視され、危機にさらされている。科学も文化の一部であるが、特に基礎科学はそうである。物質文化はどんどん進むが、精神文化軽視の風潮は強まるばかりだ。政府の科学・技術政策は目先の成果を追い、その傾向が強い。大学での科学や文化的部門の基礎研究は研究費などの削減で危機に瀕している。

今度の受賞は30年も50年も前の研究成果である。今の科学・技術政策では、ノーベル賞的な研究は廃れて行くであろう。よく言われるように、ノーベル賞は目指すものでなく、地道な研究の結果である。
 
もう一つ言いたいことは、マスコミの騒ぎ方である。日本のマスコミはノーベル賞となると異常に大騒ぎをする。しかし、ノーベル賞ほどではないがそれに匹敵するような国際賞はいろいろあるし、それに値する研究成果もある。だがそれらの賞を受賞してもほとんど取りあげないか、小さく書くだけである。

 毎日の紙面やテレビ画面がスポーツで賑わっているのも不満である。物理・化学・生物・地学や数学などの分野で、高校生のオリンピックがあるが、物理オリンピックでは金・銀・銅メダルを何人も取っているのに、ほとんど無視されている。ノーベル賞以外の国際賞や理科オリンピックなども、常々大きく取りあげて若者が科学に目を向け、やる気を起こさせるような報道姿勢が望まれる。
 また、科学や文化について啓蒙的な記事にもっともっと紙面を裂いて欲しい。

 

花と話す、みずきすずこさんの詩

『泰山木』       みずき すずこ

さまざまな歴史と時間をのみこんだ長寿さで、

ご存知かと思いますが、

私たちは生活の便利さと快適さを求めるが故に、

こわれないもの、燃えないもの、くさらないものを、発明してしまいました。

寛容で美しく浄化された花を、

咲かせてくださるあなたから       

お叱りを受けないうちに、

何とかしなければなりません。

地球上の一員として、ああ--- 何とかしなければ---

 


 

モンゴルの水銀中毒調査に参加して

小森田精子

大阪大学外国語学部(旧大阪外国語大学)の今岡良子さんが現地で調査していた「モンゴルの水銀中毒」に自然科学者の参加を呼びかけられたので、今回の調査に参加しました。モンゴル学者の今岡さん、地質学者で、以前JICAからモンゴルの地質研究所に行っておられた、科学者会議公害・環境問題委員会委員の坂巻幸雄さん、そして私とモンゴル学科の3年と4年の学生さん三人が調査隊員でした。はじめてのモンゴル旅行は3年の学生さんと私ですが、モンゴル語がまったく分からないのは私のみというわけで、恵まれているのか哀れなのかは微妙なところでした。

大阪関西空港(以後、関空と略)からウランバートルに行く航空便は、直行便、北京空港経由、韓国仁川空港経由のルートがあります。直行便は夏だけで、9月に出発の私たちは大韓航空で出発しました。

9月8日午後に出発し現地時間の午後10時半にウランバートル(以後、UBと略称)に到着しました。先発隊の今岡先生がおつれあいの運転で空港まで迎えに来てくださいました。今岡さんの自宅に直行し、簡単な自己紹介などをしてモンゴルの第一夜の眠りにつきました。

9日は、最初に行った歴史博物館は停電で見学ができませんでした。UBは石炭の火力発電で電灯、暖房のスチーム、温水(かなりの熱湯)を集中配備しているので、いまだに停電は日常茶飯事なのです。国会議事堂の前の広場では、7月の暴動との関連で警官の母たちが警官に防衛のための武器を持たせるなどの要求を掲げてハンガーストをしていました。午後は、自然史博物館に行きモンゴルの自然について実物を見ながら学びました。

10日と11日は、UBにある数箇所の市場で12日から出発する調査のための必要物資の買い込みをしました。飲み水、野菜、果物、調味料、酒、日常雑貨などなどです。

水銀中毒事件は、難しい問題が錯綜していました。ウランバートルを拠点として、全域に広がっている金採取の処理に使う金属水銀とシアン化合物の被害調査です。

129時に、2003年のJICAの調査に参加したトゥメンバヤル先生の事務所に行き、ボロー川周辺の水銀汚染について話を聞き、現場まで案内してもらいました。社会主義国時代からモンゴル・ロシア合弁会社がボロー川で金を採掘し水銀を使い始めましたが、1956年に金を精製する釜が割れ水銀が漏れました。ボロー川の川底の土壌に2、3トンの水銀があり、土壌にも水銀が含まれているとのことでした。

非合法に金の採取などに関係し、水銀とかかわる生活をしている人を日本の漫画の影響を受けて「ニンジャ」と呼んでいます。ニンジャやその家族の尿に含まれる水銀量は、適量の2から16倍になっていること。この状況がこれからも続くなら被害者が生まれる可能性があると話されました。先生の調査で、尿などの検査をした時に震えなどの水俣病の症状をもった人もいましたが、先生の調査は無機水銀についての狭い範囲の調査しかできず、土壌や植物、動物、人に蓄積された有機水銀の調査はできませんでした。それらの調査には本格的な検査装備と人的組織が必要です。

ボロー川のさらに北にダルハンという大都市があります。その都市の南のホンゴルでは、去年、閉鎖している化学工場で中国人が金の精製をして、水銀、シアン化ナトリウムを含む水を漏らした中毒事件が発生し、WHOも参加した国際的な調査が行われました。検査機器がモンゴルにはなく、ホンゴルの住民百人余から採血し、韓国と中国(モンゴル自治区フフホト市)の研究所が測定しました。ソウルの研究所の検査結果では、血液中の水銀含有量は基準値以下、フフホト市の行った結果では、血液中のシアン化ナトリウム含有量は基準値以下でした。日本の水俣病研究センターの坂本氏も参加して水銀の調査をしました。坂本氏から今岡先生への連絡では、「今年2月に、モンゴル国保健省およびWHOからの要請でホンゴルにおける住民の水銀曝露評価調査を行い、200人以上のホンゴルと対照村の毛髪および尿を採取して水銀分析を行いました。その結果、ホンゴル住民の水銀濃度は毛髪の根元平均(1-3 cm) 0.06 ppm(n=149)、毛先平均(10-13 cm)0.065 ppm (n=116)、尿平均0.132ng /L(n=148)であり、健康被害を引き起こす濃度でないことが明らかとなりました。日本人の平均毛髪水銀値は男 2.5 ppm1.6 ppm、尿中水銀濃度1-2 ng/Lですから、健康被害とされる症状も水銀が原因ではないと考えられました。金を取り出すのにシアンも使用していましたが、発生が去年の6月の事件ですから、分解され易いシアンを現在生体や環境で測っても曝露評価は難しいと考えらます。」とのことでした。

これに対し、ホンゴル住民と市民運動家たちは調査結果を受け容れず、再度調査するよう要求しました。私たちはホンゴル住民と市民運動家たちと会い当時の状況などを聞きました。人にも被害が出たし、異常な子牛や子豚が産まれたとのことでした。

政府は、水俣とモンゴルでは条件は違うので、同じことはおこりえないと表明していますが、公式に水銀の使用を禁止しました。以前は、地方の役人の関係する店で水銀を売らせている例もありましたが、今は水銀は中国から密輸され、精製した金も逆のルートで中国に流れているらしく、中国人とモンゴル人の混成チームが水銀と金の密輸で毎日のように逮捕されています。地元の人は、水銀が有害であることを理解していますが生活のためにやらざるをえないということです。政府は、水銀問題を解決するためにニンジャのいるところを囲い込んでしまったので、私たちはニンジャを見ることも話を聞くこともできませんでした。

モンゴルの大学あるいは政府機関(研究所)などと共同研究の形で、モンゴルの水、土壌被害をあきらかにできればと、責任者たちが希望しています。資金がなくて検出の装置も、最高の研究所でも、10年近く前に日本が寄附した原子吸光が活躍していました。

ボロー川周辺の水銀汚染の調査を終えトゥメンバヤル先生と別れて、私たちはボロー川より北にあるハラー川近辺の草原の遊牧民のところで持参の冬用のテントとシュラーフで二泊しました。二泊目の夜中に四時間ほど雨が降りましたが、何事もなく寝ていました。学生たちは牛の乳搾りもしたし、馬にも乗りました。二日目の朝に寝ていた羊を起こして放牧に行く前に一頭だけ柵につながれました。他の羊が放牧に出された後で、つながれた羊は独特の刀で、殆ど体外に血を出さない方法で私たちのための生贄にされました。他の内臓と血液を詰めて腸詰を作り煮込んだゲデスと言う料理が昼食になりました。夕食は、大きな缶に湯を沸かし、焚き火で熱くした石と骨付き肉の塊とジャガイモを交互に詰め岩塩で味をつけ圧力で吹っ飛ばないように蓋を閉めて焚き火の中に入れて炊くホルホックと言う料理でした。出来上がったら石と肉を別々の皿に入れて、汚れた指を石できれいにしながら刀で切り分けて食べます。肉も美味ですがジャガイモがすごくおいしい料理でした。

 遊牧民の生活に触れて驚いたのは、今、流行のスローライフの元祖のような生活の中で、かれらのゲルの外側には太陽電池のプレートが貼り付けられていて、昼間に蓄電された電気を夜の照明やテレビの電源として利用している姿でした。

その他に、UB近郊の米軍基地になるかもしれない壮大なキャンプの中でモンゴル軍と国連軍(米軍)の合同演習最終日の式典を見ました。今岡先生の知り合いの息子がイラクに駐屯していたモンゴル軍の将校で、家族も式典を見学することできるのです。ここが米軍の基地になれば、ロシアと中国は脅威を感じるでしょう。

私は、どこに行っても「この職場での男女の比率は?」と質問するのですが、モンゴルでこの質問を女性にすると「何でそんな質問を?」といった表情で答えてくれるのです。モンゴルでは、歴史的に遊牧は男性の仕事で、実務的なことや知的な仕事は女性の仕事とされているのだそうです。新聞記者はなんと95%、医師も80%が女性とのことでした。いろんなNPOを訪問しましたが、ほとんどの代表は女性でした。(日本科学者会議代表幹事)

 

 

生きる意味           海野和三郎

「人は何によって生きるか」、70年ほど昔、読んだのでよく覚えていないが、トルストイか誰かの小説の題にあったような気がする。多分、「人はパンのみによって生きるにあらず」と言った聖書か何かの言葉と同じ次元での「生きる」ことの意味を問題としていたと思われる。21世紀においても、同じように精神的乃至は宗教的な意味での「生きる意味」は勿論ある。しかし、地球環境の危機が問題になってくると、人間も含むが人間だけではないもっと広い意味での「生きる意味」が問われているように思われる。教育や政治など多次元の世界では、そうした様々な次元の「生きる意味」が入り交じり、時と共に変わり行く、その間の微妙なバランスを取る必要がある。

洞爺湖サミットが終わり、北京オリンピックがすんで、ジャーナリズムが問題にしているのは、麻生内閣の誕生をはさんで、自民と民主両党の政治抗争がらみのニュースが多く、特に金融破綻に端を発した派生的な経済問題の議論が多い。私は、経済については殆ど無知であるが、現在の自由主義経済は、先物取引など投機性に強い面があり、金融つまり金貸し(資本)が実権を握っているように見える。もっと超多次元複雑系進化の多次元力学を視野の広い経済学者と国が絶えず追求してゆく体制が必要であろう。麻生首相の所信表明演説が9月29日に行われた。その全文が、国会運営、着実な経済成長、暮らしの安心、簡素にして暖かい政府、地域の再生、持続可能な環境、誇りと活力ある外交・国際貢献、の7項目に分けて新聞に載っていた。麻生首相の取り柄は、その性格の明るさにあると思われるが、1の国会運営から5の地域再生まではオープンに明るくやるとよいであろう。7.の国際貢献については、人により見解を異にし得るところであるが、太平洋戦争へ突入する前夜の事情が参考になる。つまり、正義と力と世界状況の3者のバランスでいうと、欧米植民地支配を脱し大東亜共栄圏をつくる正義に対し、軍事力は不足であったが軍部はそれを大和魂で補うとした。世界情勢は無視して、例えば、国際連盟を脱退した。結果は、悲惨な敗戦となったが、インドをはじめ多くのアジア・アフリカ諸国が独立した。9/11テロに始まるアフガニスタン・イラク戦争では、アメリカの正義はテロ撲滅、アルカイダなどの正義はアッラーへの信仰、軍事力はアメリカ側が圧倒的だがテロの撲滅は軍事力のみでは不可能、問題の鍵は世界情勢だが、小乗的正義のアルカイダへの味方はイスラム原理主義者の一部で、むしろアメリカ式資本主義への反感の方が助けになっている。その間にあって、日本の外交は、日米同盟が主軸であるが、自衛以外の軍事力を持たないという憲法との兼ね合いで、陸自はイラクの非戦闘地域の民世の応援に出動したが今は撤退し、海自はペルシャ湾などのインド洋での海上給油などを行ってきている。このあたりが、アメリカからの要請によるか、国連との合意によるのかで憲法解釈の問題もからんで、政治が混乱している。私見では、憲法は主として国体を定義するもので、外交などの実際問題に自己の憲法解釈を他に強要するのは誤りであると考える。麻生首相の対外政策は、好意的に見守りたい。第6の持続可能な環境について、「環境問題、とりわけ地球温暖化問題の解決は、今を生きる我々の責任です。自然と共生できる循環型社会を、次の世代へ引き継ぐことが求められます。資源高時代に対応した、経済構造転換も求められます。」とあり、第1に成長と両立する低炭素社会を世界に先駆けて実現する;第2に環境・エネルギー技術を高め、育てていく;第3に環境・省エネ国家として国際的ルールづくりをする、という。大変立派な所信表明であるが、これをどう実行するかの処方箋が今後必要になってくる。以下の実行案を新首相に進言する。

詳しくは、別の文書にするが、原理の概略のみ以下に述べる。先ず、地球46億年の進化で獲得した森(植物)と海(自然)との魔法とも言うべき光合成の秘密と海の絶大な地球保温作用とに注目する。先ず、太陽光発電および太陽熱温水器とを比較し、その得失を論ずる。常用対数の小数点以下を四捨五入した精度で、緑の木の葉と太陽電池パネルとは、太陽エネルギーの10%程度を光合成または発電に用いる。80%以上の余熱は、パネルの場合、1℃につき0.5%発電効率を下げるので、最近は人工的に放熱する。広葉樹は、大量の水を吸い上げて水蒸気を大気中に放散して葉が焼けるのを防ぐと同時に、水蒸気が対流を促進し、そのため森の中は風が吹き渡り、その風に乗ってCO2が葉に集められ、乱流拡散で葉緑素に送られる効率が10倍以上になり、光合成の能率が10倍以上になる:(矢吹効果)。海は、温度と塩度の二重拡散対流(典型的には、蒸発の盛んな夏の海面で塩度が高く温度の低い揺らぎの部位が「塩の指」と呼ばれる不安定性で、塩分を下層へ運ぶ不安定性がある)の結果下層ほど塩度が高くなっており、その結果ソーラー・ポンド効果により、対流が防止され、海面下数10mで吸収された太陽エネルギーは海面が低温になっても放射でも対流でも熱放出できず、熱伝導で冷却するには千年以上かかる。その間に、海洋大循環をはじめ海流が世界中の深海温度を平均化し、太平洋をはじめ世界中の1000mより深い深海温度は約3℃であるという。この3℃という温度は、海の保温効果による標準地表平均温度で、1kW/m2の直射太陽光とバランスする約90℃とは、地上で水が水である温度で、殆どすべての生物の体温はその中間にある。しかしながら、この太陽光エネルギーは、億年かけて地球が貯めた化石燃料を百年で使い尽くす効率の良さに対抗するには、エネルギー源としてはやや不十分で、石油火力より安く電力を太陽エネルギーから得るためには、準固定非結像広角集光系(辻内式)で10倍集光する必要がある。これを太陽電池パネルに当てて10倍発電し、冷水で冷やし、(森の余熱利用)温水を直上の(スポンジで作る)粘性ソーラー・ポンド(海の保温作用)に送り、沸騰水をつくる。蒸気タービンを廻して発電すれば、太陽光発電と合計40%の効率で発電できる。各家庭用で、山間僻地でも使う場所で作る装置で、プラスチックの光線方向制御フレネル・プリズムと太陽電池以外は手作りできる。1kWの発電装置を3万円くらいでつくることが、目下のところの捕らぬ狸の皮算用である。(神田紺屋町で、東京自由大学と一番商事とで実験中)

「生きる意味」を書く予定が脱線したが、今の時代、「生きる意味」は未来の人に「いのち」を伝え、「生きる意味」を見出せる世の中とそれを作る方法を伝えることであろう。

 

風土は人間をつくるか

市瀬 和義

1 プロローグ  (以下の俳句の作者は私である。)

曼珠沙華 くっつきもせず 離れずに 

今朝、大学の農場で曼珠沙華を2本切りとってきて、大学の私の部屋に生けた。2本の曼珠沙華はくっつきもせず、離れずに、すくと立っていた。その姿には、一点の曇りも、そして淀(よど)みもなかった。曼珠沙華は、葉のあるとき花はなく、花のあるとき葉はない。この潔(いさぎよ)さが私は好きだ。花は咲いても実はできず、人里地域に限って分布する鱗茎の植物である。今年から来年に、鱗茎が「つないで」行く。

他所者(よそもん)と言われるもよし黄水仙どんなに富山で頑張って、所詮(しょせん)信州生まれの私は他所者でしかない。富山の蜃気楼の発生理由として約90年もの長きにわたって定説となった「冷たい雪解け水」説の矛盾を、実験と計算から明らかにし、「暖気移流」説を提唱した1)ときもそうだった。マスコミの多くは私の共同研究者である魚津の方に目がいった。黄水仙はヒガンバナ科スイセン属の植物の総称。地中海沿岸原産。いわゆるこの花も他所者である。

2  青

信州から富山に来て早や16年になるというのに、私は富山の冬の鉛の空が好きでない。押しつぶされそうな空にただただ圧倒され、細い枝をポッキリ折ったような感覚、屈折した心が渦巻く。寒い冬の朝、くっきりと晴れた信州の青が私は好きだ。

林間を抜けてスキーは青に入る。「市瀬さんは、青にこだわりがありますね」あるとき俳句の仲間からそう言われてドキッとした。そういえば私の句には何故か「青」が多い。ときどき知人からメールで送られてくる信州安曇野の北アルプスを映す青。これは格別である。清潔な空気、ピーンと張り詰めた大気。その中の青。私の脳裏に焼き付いた青がよみがえる。

3 反骨

山村の囲炉裏の周りの哲学書

大学生のときだった。ある新聞社の選挙前アンケートで南信州の伊那谷に入った。1日にバスが1往復、たった2本しかない。バスからおりて歩くこと30分。無差別に選ばれたその家は、「民家が山にひっかかっている」ような状態であった。私は、やや腰がひけながら、暗い引き戸を開けた。中には囲炉裏がひとつ。囲炉裏の有る部屋にはムシロが敷かれている。驚くことに畳がない。全くない。どんなに寒い冬でも、囲炉裏の傍で寝るしかない。昭和47(1972)の信州の山また山に位置する山村はまだそんなふうであった。しかし、しかしである。何もない囲炉裏であったが、背後に哲学書が整然と並んでいた。手にとって見せてもらうと書き込みがいたるところに散見され、かなり読み込んでいるのが見てとれた。「お茶飲んでいかまいか(いきなさい)」多くを語らない老翁にすすめられ、お茶をいただいた。野沢菜の漬け物がなぜかとてもおいしかった。訥々(とつとつ)と語る老翁の現代分析と政治判断は的確だった。痩せてはいるが、屈強な精神を思わせる眼光は鋭かった。「あんちゃ(若い男性をいう)は、マルクスを読んだことがあるかな」。私の心を見透かしたかのような無駄のない言葉には重みがあった。寒い冬。外はシンシンと雪が降っている。囲炉裏や炬燵にあたりながら、静かにものを考え、本を読む。それしか、本当にそれしかできないのである。信州人を称して「周回遅れのカーレーサー」という人がいる。カーレースをしているが自分は1周遅れている。しばらくしてトップがいとも簡単に彼を抜き去る。彼はそれが悔しくて、自分がビリであり、しかも1周以上遅れていることを知りながら、なおかつ、トップに抜かれまいと争う。何なのだろう。この気質。私も同じことをしそうな気がする。損得とか無駄であることを考えず、今、そのときを突き進む。富山と信州の大きな違いの一つに、豊かさがある。富山は大きな田んぼがたくさんあり、米がしっかりとれるから裕福だ。それに対し、信州は耕すべき田んぼは猫の額ほどしかなく、収入がない。米が作れず、蕎麦を蒔くしかない。長男以外は、家に仕事がないので、他に仕事を求め、さまよい始める。一番てっとり早いのは教員だった。黙っていては何も起こらない。ThinkingよりDoing.言葉を発し、自分の意見を表明しなければ生き残れない。そんな貧しい農村なのだ。しかし、物質的には貧しくても、彼らの心は豊かであったろうと私は感じた。何よりも豊富な読書量、自分に向かい、研ぎ澄まされた思考を希求する彼ら。体制に媚びへつらうことなく、孤高を保って生きて来た彼らの「反骨心」。やがてそれが、「赤い鳥」の児童文学活動、教員赤化事件、青年団の活動へと繋がっていく。80代の後半になろうとする私の父は、私が帰省すると、「今の政治。特にこの経済不安をどう思う」と真っ向から切り込んでくる。私より政治のことはよく知っている。議論好きだ。考えてみれば私も、大学院を出て教員になった最初から、職員会で自分の意見をどんどん述べ、大学の教員になってからも教授会でよく発言している。私は、トゲだらけで、角張った人間である。欠点が山ほどある。しかし、まだよくわからないけど、そしてよく分析できないが、絶対にブレない何かがあると感じている。それは一体、何であるか。そしてそれは何がそうさせたか。

4 おわら風の盆

紫の 夜の更(ふ)けてゆく 風の盆

今年の8月末、富山市八尾町の「おわら風の盆」を見に知人がやってきた。知人は高橋治の「風の盆恋歌」2)を読み、一度行ってみたいと思ったそうだ。通常「おわら風の盆」は9/13と決まっている。しかし、現在、あまりにも有名になって、本来の期間は、人・人・人・・で、哀愁を帯びた伝統的な踊りをきちんと見ることができない。そこで、前夜祭(8/2030)に来てもらうことにした。前夜祭なら、町ごとに交代で「町ながし」を見せてくれるし、ゆっくりとその場所で、思いの丈(たけ)、見ることができる。八尾は坂の町。井田川から急な斜面を上る。石段にそって細長い民家が連なり、崖の上にたくさんの家が立っている。耳を澄ますと、雪流しと呼ばれる疎水(そすい)が、古い造りの家の、まだ当時のおもかげを残すたくさんの家の軒先を、駆け下るような勢いで流れていく音が聞こえる。遠くから胡弓の寂しげで哀調を帯びた音が空気にのってやってくる。私たちは最初「風の盆恋歌」に出てくる喫茶店『華』のモデルとなった旅館の一角に入った。店の中央に囲炉裏が大きく置かれ、そこで飲み物や簡単なソバなどをいただくこともできる。普通のテーブル席もあるが、客の多くは、巨大な欅(けやき)の自在鉤(じざいかぎ)が下がった囲炉裏の周囲に集まってくる。コーヒーは殊の外うまかった。「おわら風の盆」は、多くの観光客に紛れて、お忍びで二人でやってくるケースが多い。それもそのはず。古き佳き時代にタイムスリップしたかのようなよく保存された石畳のある街並み、哀愁を帯びた胡弓の音、水のささやき、その町に住み、20代で独身の女の人が、編み笠をかぶり、顔を見せないで踊る踊りの艶っぽさ。顔を見せないうなじからは、白い首筋と後(おく)れ毛がちらっと見える。夜になると酔芙蓉の花が咲きはじめる。茜色の空は、やがて紫の夜へと突入する。道筋にぶら下げられた提灯にあかりが点る。「風情」ということばを借りるなら、正に、恋をするにふさわしい風情がある。

少し話は脱線するが、私も妻も「おわら風の盆」は大好きで、毎年のように見にいく。「風の盆恋歌」も相当読み込んである。だから、たまにふざけて、人間観察を始める。あの二人は、恋人か、単なる友だちか、夫婦か、それとも不倫か。不倫だとなんとなく分かるのは、妙によそよそしい。女性の化粧が濃く、衣装も派手だ。あまりぴったりとはくっついていないが、目が二人をしっかりつないでいる。どこから来て、どんなことがおきて、どんな事情で二人でおわらに来たのか、帰ったらどんなふうになるのだろう・・たった一瞬見た二人から、想像をたくましくふくらませる。まあ、どんなに不倫を装ったとしても、私と妻は夫婦にしか見えないだろうな、いつも最後に行き着く結論はそこだ。私と友人は、そんなこともあって、不倫ではないことを証すべく、喫茶店の女主人に頼んで笑いながら男同士二人だけの写真を撮ってもらった。

脈々と、かたくなに守りつづけた、越中八尾の「風の盆」。生まれて歩けるようになってから、大人に混じって踊り続けてきた、ぶれない確かな踊り。優雅で、しかも哀調を帯びた、心の襞をチラッと垣間見せるその踊りは見る者の心を打つ。心に染みいるとは正にこのことを言うのだろうと思わせる。

私は、自分の心が見失われそうになったとき、矢も立てもたまらず、八尾に行く。頭を空っぽにして、八尾にどっぷりと浸る。そうこうしているうちに、八尾の町並と、自然の恵みが、1/fにゆらぐ川の音が、私の空っぽの頭に新しいエネルギーを充填してくれる。時がゆったり流れ、その流れに身を任せているうちに、何でも受け入れられるようになってくる。

5 風土は人をつくるのか

結論を急ごう。

若いとき私は、故郷の香りを捨てたいと思った3)。風土が人をつくるなんてことは絶対ないと信じていた。しかし今、じっくりと自分をみつめてみると、自分の生き方、考え方、どうしても許されないことがあると反骨する態度に、知らず知らずのうちに身についている信州伊那谷の風土が、しっかりと染みついていることに気づく。そして月日を重ねるごとに、その傾向が益々強くなっていくことを痛感する昨今である。

 参考文献

1)木下正博・市瀬和義、富山湾における上位蜃気楼の発生、気象学会誌「天気」、Vol. 49No.1 (2002) pp.57-66

2)高橋治、風の盆恋歌、新潮文庫、pp.263..

3)  市瀬和義、風土は人をつくるか? 俳句往来、第49 (2001)  pp.52-54.

 

 

「誓言」の美学 (美学シリーズ5) 

    一色 宏

紡績工女を経て小学校代用教員となり、1917,23歳の年に橋本憲三と文通をはじめた高群逸江(たかむれいつえ)は、彼と会ったあと、『永遠の誓い』を書いた手紙を憲三に送った。そこには、『私はあなたへの永遠の愛を誓います。私に不正な行 為があったら、あなたの処分にまかせます。あなたのお手紙はたいせつにしまっています。恋しいあなたよ』とあった。

憲三はじらしたあとに皮肉な返事を書いた。『この世に永遠というものはありえない。瞬間のみがある。まあ行けるところまで行きましょう。あなたがぼくの手紙をたいせつにしてくれるのはありがたいが、手紙というものは時の拍子で書くものだから、あとで恥をかくから焼いてくれ』二人で『約婚す』と歌うのはさらに2年後のことになる。二人は、次の言葉を残している。『約婚す一千九百十九春緑かがやく おおあめつちに・・・憲三』『この心なににたとえん 一青のみ空くもらず君と約婚す・・・逸枝』惹かれ合いながら大きく食いちが  

っている若い二人のあいだにはさまざまな葛藤はあったが、その夫婦愛には常人の及ばぬところがある。 

借家に憲三の知り合い「路地裏連中」「無料寄宿人」が占領し、逸枝は台所の板の間へ追いやられチャブ台で金稼ぎのた

めの雑文を書く始末、この梁山泊のごときを得意がっている憲三に、ついに逸枝が家出し、半狂乱で追いかけた憲三の迎えで帰宅。これを機に主従交代して妻のためだけに生きる憲三がやがて出現する。これ以後の33年間、憲三のひたすらの支えが、逸枝の研究者としての才能を満開させてゆく。『母系性の研究』『招婿婚の研究』『女性二千六百年史』『日本女性伝』

『日本女性社会史』等、高群逸枝が夫橋本憲三の全面協力のもと、長年にわたる門外不出・面会謝絶の研究生活をつづけて、膨大な資料を駆使しながらまとめあげたのである。

日本にかつて母系制社会が存在したことを実証したこの研究は、それまでの家族制度への鋭い批判となり、女性の復権をうながすもので、女性史学の根拠となる大きな仕事であった。彼女の死の2年前には、二人で『誓い』の言葉をのこしている。知り合って45年間を記念して書いた誓言である。『われらは貧しかったが//二人手をたずさえ//世の風波にたえ//運命の試練にも克ち/ここまで歩いてきた//これから命が終わる日まで//たぶん同様だろうことを誓う//そしてその日がきたら//最後の一人が死ぬときこの書を墓場にともない//すべてを土に帰そう』相見てから45周年・・高群逸枝は1964年、70歳の生涯を終えたが、その最後の日を夫憲三は次のように記している。『病院の廊下で付き添いさんに会い、午前八時入室。逸枝の寝顔のあまりのうつくしさに、さめるまで立ったままみとれていた。また呼吸のやすらかさ。彼女は神だ。』

    慧光照無量 未来創庵    一色 宏

(編集 菅野)