私達の教育改革通信

   105  20075

 

 

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60年目の憲法記念日に思うこと

菅野礼司

 5月3日今日は憲法記念日。最近の日本の政治情勢を考えると、この日には何か一言いわざるを得ない心境になる。

 

 日本国憲法を改訂して新憲法を作り、戦後レジュームから脱却することを、安倍首相は就任早々第一課題に挙げた。NATOへの協力申し入れや、イラクから完全撤退を拒んで派兵期間を延長したことなどを見れば、アメリカの軍事覇権に追随する態度からして、集団的自衛権を認めて海外派兵を目指したいことは明らかである。国内の歪みである「格差」や「福祉の危機」など国民生活に関する問題は二の次にして、教育基本法の改訂、教育三法の制定、防衛庁の防衛省への昇格、憲法改訂の国民投票法の強行可決など、急右旋回で時間を逆戻りさせる方向にひたすら疾走している。自衛隊を名実ともに軍隊にし、日本を軍事国家にしようとの意図であろう。

 

 憲法9条に象徴される日本の平和憲法は、人類の理想的未来社会のあり方を唱ったもので、日本の誇るべき宝ともいえるであろう。人類は古代には一方的に攻め込んで残虐な戦を繰り返したが、やがて非戦闘員や捕虜を虐待したり殺したりしない取り決めをするようになった。また、毒ガスや細菌兵器といった無差別大量殺戮は禁止する国際協定もできた。国連を創設して国際紛争を調停するようになり、理由もなしに一方的宣戦布告はできないようになってきた。原水爆使用も禁止する国際世論の高まりにより、最初に原水爆を使用することを躊躇わざるをえなくなっている。これらの協定などはまだ不完全ではあるが、このように人類は理性の働きによって一歩一歩ヒューマニズムを獲得し、戦争のない理想的世界を築く努力を重ねてきたし、今も努力を続けている。それゆえ、日本国憲法は人類の進むべき未来の目標を先取りした世界に誇るべき憲法であると思う。その実現は遠いかも知れないが、目標を失ってはならないと思う。 

 

 戦争は最大の悪である。大量殺人ばかりでなく、直接・間接的に人権を蹂躙するし、最高のエネルギー浪費、最大の環境破壊をもたらす。

 これまで、日本政府は憲法9条を拡大解釈して、本来の平和憲法の精神は骨抜きにしてしまった。いわゆる、「解釈改憲」をして、現憲法は現実に合わないから現実に即したものに変えようというわけである。昔から、日本の国家権力はその時の都合の良いように原則を無視して拡大解釈をするのが得意であった。9条を「現実にあうように」改ためるといっているが、集団的自衛権を認めると、今度はそれを拡大解釈して、「自衛」の名の下に海外での戦闘をするようになるであろう。イラク戦争は、「テロからの自衛」と称して誤った情報を基に一方的にアメリカが開戦したものであるが、もし集団的自演権を認めたならば、アメリカ追従の日本政府は自衛隊をイラクで戦闘に参加させるであろう。イラク開戦は誤りだったことを米英すら認めているが、安倍首相は「開戦当時の情報からしてアメリカに協力したことは仕方がなかった」といって、反省しようとしない厚顔さであるから。「専守防衛」から「集団的自衛」へ、その「自衛」がこじつけの理由をつけて「予防の自衛」へと拡大されかねない。北朝鮮のミサイルと核爆弾の保有が、それに利用されかねない。

 

日本国憲法は、国民主権、平和主義、人権の尊重を3本柱にしているといわれてきた。9条を放棄したら、次は国民主権が侵害され、人権の尊重も危うくなると危惧せざるを得ないほどの安倍内閣のやり方である。「この道は何時かきた道」だ、気がついたら手遅れで引き返せないような事態になる前に阻止しなければならないと思う。

 

21世紀の視点で視る 世界のキリスト教は今?

                                        関本 肇

どうもキリスト教は、設立の最初から間違っていたのではないかと感じている。キリスト教の根本とされている、ニケヤ信経(325年)は、非キリスト者のコンスタチヌス皇帝の招集する世俗会議の所産であるが、そこではヘブライ聖書によるユダヤ教の神ヤハゥエでなく、ナザレのイエスを神とするキリスト信仰箇条が述べられる。この箇条こそが、その後のキリスト教の論争と分裂の根本となったことは歴史に明らかであるし、ひいては2000年に及ぶユダヤ人差別の原因となったのである。長い歴史を通して多文化、多民族、多宗教の世界を生き抜くわれわれの苦労は並大抵でない。地球世界の生命維持のために、地球人間はいやおうなしに自己調整(ホメオスタシス)してきたと言うのが現実であろう。キリスト教はしかし、長い歴史を通し、特に西欧近代キリスト教は、この数百年、自分を歴史と文化の中心に置き、世界の中で一番と言う自己主張を殆ど無反省に踏襲し、その結果、教会、教派、主義、主張を互いに掲げて競い合い、その結果分裂を繰り返し、またお互いに傷つき血を流して痛んできたのではないか。

 19世紀は近代キリスト教的西欧世界がアジアの大部分とアフリカの全てを植民地にした恐るべき時代である。近代西欧キリスト教は、それらの植民地に伝道すると称して、さらに新しい土地を求めて軍隊と宣教師を送る。その結果、近代西欧キリスト教は、分裂したキリスト教の罪ある所産として様々の信仰上の混乱に直面するのである。その第一は宣教師時代の教派的信仰の押し付けが、新しい伝道地としての植民地の人々の間に信仰上の混乱を巻き起こし、近代西欧キリスト教諸教会は、自らの内に反省する謙遜な姿勢のかけらもなく、各自は自己主張をしながら、自己保存のためにそれらの混乱の調整に迫られ、1910年エディンバラでの国際伝道会議(IMC)を開くことになる。一般のキリスト教史では、これこそキリスト教会が最初に開いたエキュメニカル会議であると自画自賛しているのであるが、わたしはこれは近代西欧キリスト教の自己保存と自己主張の仮面に過ぎないと言いたい。この会議に集まってみると、自らの内に分裂したキリスト教会には、自ら克服・整理すべき困難な緊急課題が次々に見いだされ、さらに西欧的近代化の過程の中で見過ごされてきた現実社会の中に露呈してきた多様な社会問題に取り組む必要に迫られ、1925年、ストックホルムで次の世界会議、生活と実践会議((Life & Work)が、開かれるのである。しかしながらこれらもまた、他者の生命や生活のためと言う根源的なニードを追求するのではなく、結果的には既存の西欧世界と、その教会の生命維持という自己目的に終始するものであった。続いて1927年には、世界伝道と社会的責任についての奉仕と協力のためと銘打って、教会間のより深い相互理解こそが必要であると主張して、スイスのローザンヌで信仰と職制(Faith & Order)会議が開催される。教会はしかし新しい道を開拓し始めたのであろうか。そうではない。今にして思えば、これらは西欧世界の植民地政策の一端であり、近代西欧キリスト教世界内部の分裂を調整する差し迫った必要から生じたものと言われねばならない。その証拠に、まもなく近代西欧キリスト教世界は第一次、第二次世界戦争を引き起こすのである。戦争はいやおうなしに戦争を根源的に否定する理念を生み出す。戦後の痛恨と混沌の中から、なによりも人類の平和と安寧が求められる中で、1948年、アムヌステルダムで、Faith & OrderLife & Workが合併して、第一回世界教会会議(WCC)が開かれることになる。議長はカンタベリー大主教のW.テンプルであった。このような話し合いや協力の積み重ねを教会はエキュメニカル運動と呼び、教会一致運動とも名付けたが、それらは内実としては次々に分裂・変化する世界状況に、どうにかして教会が生き残れるための自己調整であったし、あえて言えば、これらは近代西欧世界が生き延びるための教会内の出来事であった。

 聖公会のことを言えば、1948年という年は、戦後初めてのランベス会議の開かれた年であった。ランベス会議とは世界の聖公会の主教会議である。カンタベリーの大主教がロンドンのランベス・パレスに会議を招集する。1865年にカナダの主教たちが問題解決のための会議を提唱したことから始まるが、問題解決より、自由な立場で協議、討論することを目的として、それ以後10年おきに開かれることになる。会議では決議がなされ報告書が出されるが、それは聖公会を拘束する決議ではなく、各時代の重要課題にたいする意見を表明するものとして、ランベス・アピールと呼ばれる。アッピールとは英国流とでも言える生活の知恵の所産であり、効果や能率では今一息であるが、カトリック教会が教皇以下、一糸乱れぬ統制化に全てを縛り付けるような型苦しさはない。1948年会議は第8回の会議であったが、このとき始めて日本人の三主教が出席した。日本聖公会が生まれて60年、初めてのことであった。この時329名の主教が出席、アムステルダムのWCC,南インド合同教会についての決議、日本での管轄区をもたぬ主教、香港の女性司祭按手についての決議、聖オーガスチン神学校の開設、また「教会はgamblingで金をつくってはならぬ」など様々の決議があった。わたしは神学院1年生として、始めて聞いた報告である。 

 さてキリスト教が、世界のキリスト教の存続のために開いた、アムステルダムの第一回WCC(世界教会会議)は、その主題を「主イエス・キリストを神または救い主として告白する諸教会の交わり」と自己規定した。しかしこの規定に対してルドルフ・ブルトマンは、すかさず、この基本命題「キリストは神なり」は、新約聖書と一致するのかと疑問を投げかけている。しかし1954年第二回のエバンストン総会の主題は、無反省にも「キリスト― 世界のための希望」であった。1961年第三回のニューデリー総会の主題は「イエス・キリスト―世の光」であった。わたしはこの総会に出席したが、総会の場を取り囲むインド・タイムスはじめ、多数のマスコミの異様な興奮と批判は何のことか当初は分からなかったが、「イエス・キリストはインドの主ではない、ヒンヅーやイスラームの主ではない」との反発であった。そしてこの総会決議文の中で、マスコミの批判を受けて「この世にあって、他の信仰者やイデオロギーの信奉者に対して仕えつつ」と、はじめて他宗教への配慮が示されることになった。1968年の第四回ウプサラ総会の主題は激動する世界の中で「見よ、わたしはすべてを新たにする」であった。しかしこの1968年という年、これをどのように名付ければいいのか。それは紛争と混乱、革新と挫折の年であった。ツルクでWSCF(世界学生キリスト者連盟)、ウプサラでWCC、そしてランベス会議、世界中で大学闘争が吹き荒れた年である。日本の状況を言うなら、敗戦後の占領期間が終わり経済復興が進む中で、戦後のキリスト教ブームはすでに過ぎ、教会は困難な伝道に試行錯誤をくりかえしていた。1960年以降、池田内閣が経済審議会の「人的能力の向上と、科学技術の振興」の答申を受けて、中央教育審議会に「人材の育成」を課題として諮問した結果、教育は生きた人間から目を逸らして人材という材料にされ、経済発展主導、能力優先の亡国教育に突入する。こうして教育はひとまとめにして産業界、財界に売り渡され,教育の現場は荒廃への道を辿る。激変する社会の中で教会も激動した。学生青年たちは、世界的な規模で体制の批判に集中したが、教会の青年たちもその旧体制に対して鋭い批判を浴びせ、覚醒のデモを教会総会、教区会にむかって起こした。団塊の世代の蜂起である。1968年のランベス会議は革新の会議であった。会議は教会の革新、職制の革新、一致の革新の三部に分けて論議を重ね、そのなかで人類の一致を標榜し、環境保全、平和と人権、差別、他宗教との対話についての決議を行い、また職務について三聖職を超えた多様な職務の革新、拡充を示唆し、ボランテアの司祭、女性司祭の可能性を確認し、信徒、とくに青年の意思決定の過程への参加、そして主教の訓練の必要を決議した。この会議を通してACC(聖公会中央協議会)を発足させ、それまでは主教独占のランベス会議を、司祭、信徒とくに女性と青年の手にも解放したのである。しかし次のランベス会議では、首座主教会議と称する反動的な会議が誕生した。

 しかし教会のこうした革新への動きはすでに準備されていたのである。コンスタンチヌス以来の教会の「煤払い」が、カトリック教会の中から生まれた。仕掛け人はイタリアのソット・イル・モンテの村に生まれ、精一杯に生きたその人生の夕暮れに、ローマ教皇として残照の輝きを放った法王ヨハネ23世である。彼は貧しい農夫の子、アンジェロ、朴訥で剛毅、しかし彼は小寒村という辺境から、また貧困という社会の底辺から、上からではなく下から、世界と人間を見上げ見通して、人間への絶大な関心を持ち、それゆえに筋金入りのクリスチャンとして大胆な教会変革に挑んだのである。それは一言で言うなら、教会2000年の体制の解体、解放、自由化であった。それは全キリスト教会、全宗教を越えて広がる運動であった。それは無鉄砲であり型破りであった。彼は第二ヴァチカン公会議を1962年に招集する。この会議は、1997年に出版された「ヨーロッパの歴史」欧州共通教科書(東京書籍)によると、「会議の召集は、教会の破滅を恐れる教皇ヨハネ23世の提案によるものであった」とある。(閉会は1965年)そこでは教会のあり方を根源から見直し、カトリック独善の立場を自ら否定し、従来のスコラを廃して現代化(アジョルナメント)を標榜し、諸教派、諸宗教との対話を開き、礼拝の国語化、土着化を決めるなど、キリスト教の歴史的大転換を意図したのである。彼は会期の途中で逝去するが、彼の招集した第二ヴァチカン公会議の精神、その心意気は世界を覆ったし、2000年をこえた21世紀にも生き生きと稼動した。先のウプサラのWCCもツルクのWSCFもランベス会議も、夫々に第二ヴァチカン公会議の影響の中にあったのである。1975年のナイロビでの第五回WCCは前年ガーナのF&Oで承認されたアクラ文書によって「洗礼・聖餐・職務」の目的に向かってする共同聖餐式を認めた。第六回WCCはヴァンクーヴァーで開かれたが、信仰職制委員会の声明「洗礼、聖餐、職務」についてのリマ文書はWCCとカトリックの合意文書として正式文書とされ、この総会でリマ式文によって礼拝が行われたことは画期的と言えるであろう。1992年キャンペラの第七回WCCは東方教会を交えて「来たれ聖霊よ、全被造物を刷新したまえ」と、始めて聖霊が取り上げられ関心を深めた。第八回は1998年ジンバブエのハラレで行われ、330教会の代表者によってWCCの創立五十周年を記念した。この間、WCCへの参加教会は次々に増加し、第一回総会が147教会からの代表者であったことを思うと、いかに分裂した教会が多いかが示された。

 しかしいかがなものであろうか。20世紀の約100年を費やして論じてきたキリスト教会のエキュメニカル・トークの時代は質的に変化してきているのではないか。今、緊急の、また具体的なニードは他宗教との対話である。20世紀中葉以降、世界は文句なしに宗教多元的社会になってきた。今必要なのは他宗教との共存と対話である。ここでは他宗教を理解することでなく、日常生活における他宗教についての自己理解の変化が求められる。自己理解の変化とは自己理解についての従来の枠組みを破壊し、教義や信条、教会問答に縛られず、聖書を自分の言葉として理解し、それぞれが自分の言葉で話し合うことである。そこでは従来の神理解の枠を超えて、より豊かな感性と、深い理解が求められている。これは難しいことではない。われわれがたとえばヒンヅー教を理解するのはとても難しいことであろうが、わたしが一人の人間としてヒンヅーの人と普通の対話を交わすことはできる。クリスチャンであることは、キリスト教についてなにを知っているかということではなく、キリスト教の全体を会得し、キリスト教を主体的に生きようとする姿勢である。そんなことはとてもできないとあきらめずに、ヒンズー教の人は、ヒンズーとして生きているのであり、イスラームもモスレムとして生活している。だから、われわれも同じように生きればいいのである。少なくとも、他宗教の人との交わりと対話を通して自己理解を深めることができるし、その対話は相互に学びあうことだと覚えておきたい。かつてフランシスコ・ザビエルが異教撲滅を目指して鹿児島に上陸したときの心情と比べて、21世紀のキリスト教はもう少し成長しているのである。

 最後にしかし、われわれは今や、アウシュヴィッツとヒロシマのジェノサイド(皆殺し)を忘れてはならない。1960年以降、これらを抜きにしては神学の展開は困難だとする主張が聞かれる。アウシュヴィッツで神はどこにいたのか、との問いかけがユダヤ教の神学者から出される。そこでは伝統的な神の存在を否定する「神の死」や、神は「聖なる無」「全能の無」と、神秘主義的な思索をしたり、さらにヒトラーの反ユダヤ主義はキリスト教への警告だとする意見も生まれている。J.モルトマンは特に、ホロコ−ストの根としてキリスト教の初期の時代から根強く見られる反ユダヤ主義の告発と告白をおこない、またキリスト教の伝統的な「神概念の革命」を語る。これにたいして、D.ゼレは神はガス室で殺害された者と共におられる、神は毒ガスで殺された、われわれが神を助けなかったために「無力な神」は犠牲者を助けられなかったのだとし、「神は人々の中にあり、アウシュビッツで絞首台につるされて、解放の運動が人間から起こるのを待つ」と人間の責任を指摘する。P.ヴァン・ビューレンも「神は人間を、自由にそして責任を負うべきものとして創造された」ことを強調し、人間は神の前にホロコーストに対して徹底的な責任を取るべく神から求められていると言う。この流れの中で、ホロコーストと反ユダヤ主義を追求するベートケは、アウシュビッツの根はキリスト教の反ユダヤ主義にあると告発し、それは新約聖書や初代教会教父、また教会の信条や式文、教会制度にあり、「神学全体の検証」を主張する。カトリックの神学者メッツもキリスト者にはユダヤ人との交わりの中でユダヤの信仰の歴史と同一化するエキュメニカルな営みが求められると言う。さらにアメリカの女性神学者リューサ−はキリスト教の反ユダヤ主義はキリスト教の中心に織り込まれており、イエスをキリストとする告白が既にヘブライ聖書のユダヤ教的解釈を否定することを語り、キリスト論の相対化を求め、クリスチャンは、「神は全人類の神」として、自らをすべての人々にあらわしておられることを認めるべきであると言う。

 ヒロシマ原爆は人類を全く新しい歴史状況、核によるホロコーストの時代に突入させた。これらが論じ始められるのは、アウシュヴィッツの神学より遅れ、1982年、英国のJ.ギャリソンの「神の闇―ヒロシマ以後の神学」以降とされる。ヒロシマは、神のみが決定できるとされていた人類の歴史の終焉、世界を破壊しうる力を、人間が所有することになったことを明示した。人間は神と共に時の終焉を協働・創作できる。ヒロシマは終末を人間化したのである。ハーバードのG.カウフマンも1985年に、人類がヒロシマ以降、全く新しい歴史的状況に入ったことを指摘し、神の全能の支配という象徴は再検討されねばならぬと述べる。歴史の終焉が核のホロコーストによるならば、それは基本的に神の行為ではなく人間の行為によるのであり、その破壊の責任は人間にある。しかしこれはまさに神への反逆である。神に代わる人間の全能幻想を打ち破り、人間の自由と責任を励まし強化しなければならないと主張する鈴木正三は「ヒロシマ・ナガサキ以降の教会と神学」で、核兵器戦略体制を「絶対悪」として拒否すること、「反核」は信仰告白自体であり、とくに日本の教会に神から託された特殊な使命ではないかと説く。わたしがニューヨーク滞在の三年間に籍を置いたスカースデールのシナゴーグの安息日礼拝ごとに、礼拝の後半でする逝去者記念の最後に、全員が起立してアウシュビッツの逝去者600万人と同時に、ヒロシマの原爆被害者20万人のためにシャロームを祈ったことは、衝撃的な印象であった。

エキュメニカル・ムーブメントについて話す予定が、こんなことになってしまったが、次の課題は、「諸宗教の対話」「宗教多元主義」、そして、キリスト教世界の内なる課題として最近の新約聖書研究の成果が、一方では明らかに教会の伝統的体制批判を推し進めていることを感じるし、それはイエスを追求する熱心な学者だけでなく、クリスチャン一般の大きな課題であると思っている。21世紀の聖書の研究が、今、どのようなところにあるのか、それも関心の一つである。

 

宗教哲学における「信」と「覚」

 西田幾多郎とA.N.ホワイトヘッドの哲学を介して

                                        花岡永子 

  今回の『私達の教育改革通信』には、昨年(2006年)9月に開催された日本ホワイトヘッド・プロセス学会の学術大会で発表した論文を提出させて頂くことにしたい。というのも、今世紀の哲学には、西田哲学とホワイトヘッドの哲学が、すべての意味において決定的に重要であると筆者には理解できるからである。両哲学者は共に、実体的な考え方や主語的論理を避けるのみならず、場所論が展開されているか否かは別としても、兎に角「場所」が思索の根幹となっていると理解され得るからである。

  一般的には、キリスト教と浄土真宗は他力による「信」の宗教であり、禅は自力による「覚」の宗教であると考えられている。しかし、はたして本当にそのように決めつけられることができるのであろうか。本稿では、真実在の経験としての宗教と以下に述べる三つの論理との関係から「信」と「覚」の問題を、自力と他力、信仰と知解あるいは信仰と理性の問題をも合わせ考えながら、論究したいと考える、つまり、第一に個別者に実体的なものを見て、これを思惟の基盤とする、主語となって述語とならない、アリストテレス以来の「主語的論理」、第二に無実体的なものを思索の「根底なき根底」とする、述語となって主語とならない、西田哲学の前期、中期に提唱されている「述語的論理」(1)、第三に主語(命題の主辞)と述語(命題の賓辞)とが、両者を結合する語である繋辞(copula)を挟んで可逆的、互換的に成り立つ、西田哲学の後期において提唱されている「繋辞の論理」(the logic of copula)という三つの論理と、真実在の経験との関係から、「信」と「覚」の問題を論究したいと考える。

 ところで、宗教を真実在の経験と見なしている代表的哲学者、宗教哲学者としては、西田幾多郎とA.N. ホワイトへッドが挙げられる。先ず西田幾多郎では、初期の主著『善の研究』(1911)の「序」で「純粋経験を唯一の実在としてすべてを説明してみたい」と語っているように、実在は純粋経験として理解され、その上、実在経験は心霊上の事実としての宗教と理解されている。そして、心霊上の事実としての宗教によって露わとなってきた「自己」の自覚の分析が西田の前半期の宗教哲学である「自己の自覚」となっている。また、西田の6364才頃の論文「弁証法的一般者としての世界」以後は、「絶対無の場所」の具体化した「弁証法的一般者」としての「世界」の自覚が分析され、後期における西田哲学として成り立っている。しかし、この世界の自覚の哲学は、自己の自覚を包摂する世界の自覚である。その意味で、西田の哲学は、自己と世界との両者の自覚から成り立つ「自覚の哲学」となっている。前半期の「自己の自覚」の分析である宗教哲学を包摂する後半期の「世界の自覚」が分析される哲学としての西田哲学は、宗教哲学を包摂する哲学であると言えよう。

 これに対して、A.N.ホワイトヘッドでは、自己の自覚と世界の自覚とが一に成り立っている「実在」経験としての宗教に先立ち、先ずは「宇宙」のいわば表現(PR 128)としての前半期の科学哲学の三部作が成り立っていると理解することが可能である。そして彼の65才前後の実在経験としての宗教経験が『形成途上の宗教』(1926年)において解釈され(PR 167)、最終的には、先の宇宙論の表現とこれに次ぐ宗教経験の解釈とを包括する一切の経験の解明が、ホワイトへッドの哲学の内実となっていると理解され得る。彼の『形成途上の宗教』から判断すると、ホワイトヘッドにおける宗教の見方は、次の二つの引用文に、結晶していると理解される。第一は、「宗教の核心は、経験がそこから生起する知覚対象への感性的反応を合理的思考と調和させることにある」(PR 16)という見方であり、第二は、「宗教は、宇宙の究極的な謎に向かう直観の、個人的な度合に応じた目的と情緒との反応に関わる」(AI 161)という見方である。これらの引用文からは、ホワイトへッドにおける宗教は、他力と自力、ないしは信と覚のいずれか一方のみに偏したものでないことが分かる。むしろ彼は、イギリスのロック的な経験性とフランスのデカルト的な合理性とを踏まえながらも、彼等における「実体-属性」概念に基づく主語的論理を放下し、無実体的なホワイトヘッド独特の宗教領域を、つまり、実在の経験としての宗教領域を樹立していると理解される。ホワイトへッドの有機体の哲学は、以上の論述から明らかなように、整合的な宇宙論の表現と宗教経験の解釈を包摂し、しかもこれら両者(=宇宙論の表現と宗教経験の解釈)が実在経験において「一」である事実に基づいて、実在経験から諸経験が解明される哲学であることが分かる。

 以上の論述から明らかであるように、西田では自己の自覚と世界の自覚とからなる自覚の哲学が成り立っているが、ホワイトへッドでは、実在経験としての宗教経験によって、宇宙論の表現は実在経験において実在と「一」に経験され直し、そこには宇宙論を表現する自我ではなくして、宇宙論と実在経験が「一」に成り立ち、主体(subject)が常に同時に自己超越体(superject)であり、宇宙論が実在経験から新たに受け取り直され、宇宙論をも包摂する実在経験から経験一般がホワイトヘッドの所謂合理性から、つまり経験を踏まえた合理性から、解明される有機体の哲学が成立している。   

 西田では、宇宙論のみならず、すべての科学は、実在経験としての純粋経験から説明されようとする。その場合、実在経験としての宗教経験からの一切の経験の解明としてのホワイトヘッドの「有機体の哲学」と、実在経験としての宗教経験から一切を説明しようとする西田の「自覚の哲学」との相違は、実在経験としての宗教経験が成り立つ場としての「絶対無」の場所が究明されるか否かによって生じてくると考えられる。というのも、絶対無の場所が究明される場合には、宗教経験の解釈や、そのような解釈から成り立つ一切の経験の解明としての哲学というのではなく、如何なる「場」で実在経験としての宗教経験から一切が説明されるかが、しかも、その「場」とそこで成り立つ個としての真の自己の「一」が成り立つような哲学が生まれてくることが、重要であると見なされてくるからである。

  しかしながら、両者の哲学に通底しているのは、「信」であると理解されるのである。しかし、ここでの「信」は、単に信仰(faith)や信念(belief)を意味するだけではなく、「いのち」とか「絶対の無限の開け」とも換言できるような「場の開け」を意味している。この「開け」としての「信」は、人間の個の「自己の自覚」と共に「いのち」の如くに働き始めると考えられる。従って、人間の各個の根源に開けている場であり、「いのち」とも言える「信」は他力的とも言える。しかし、それは、自己の自覚と共に「覚」へと導かれて行くのであるから、同時に自力による覚であるとも理解され得る。このような「信」は、後述のように道元では、「信根」と呼ばれているが、覚や自覚は「信」あっての覚であり、自覚であるので、信と覚とは渾然一体となって、各瞬間の実在経験に同時に働いていると理解されることが適切であると考えられる。しかもその同時性においては、他力と自力が、信と知解が、また信と理性が同時に働いていると理解される。というのも、各瞬間に実在(reality )と過程(process)が「一」に成り立っていると理解される西田とホワイトヘッドの哲学では、「論理性と経験性」ないしは「合理性と経験性」は、「実在経験」において渾然一体となっているからである。

  ところで、ここでもう少し詳しく、西田とホワイトへッドにおける哲学における

「宗教と哲学」との関係を見ておかなければならない。先ず、西田は、宗教とは心霊上の 事実であり、哲学はその説明ないしは反省であると考えている。しかも、西田においては、哲学は真実在の学であり、しかもそれは世界の自覚から始まると考えられている。次いで、A.N.ホワイとヘッドでは、宗教的洞察とは、世界の秩序は偶然ではなく、世界の現実の「深さ、美、価値、妙味、人生の平安、そして悪の克服は一つに結合しており、この結合は、宇宙の無限の自由を備えた一創造性と無限の可能性を備えた一形相領域を呈示していて、しかもこれえらの創造性と形相は、完成された理念的調和である神を離れては現実性を成就するのに無力である」(RM 119)と考えられている。そして宗教とは、上に述べたような「世界への忠誠心」(World-loyalty)と理解されている(PR 60)。そして宗教の終局的原理は実践の方向と事実の理論的分析とを共に可能にするところの、事物の本性の中に存する英知(wisdom)(RM 143)である。

また、実在経験からの諸経験の解明が、彼における哲学であることは、先に見た。

 以上の二人の哲学者における「信」と「覚」の問題を論究するに際して、考察の根幹となっている宗教哲学とは、「信」と「覚」とが一に成り立っている場の開けでの無実体的思索の方向が可能となる、宗教の哲学的考察を意味する。更に、そのような宗教哲学とは、西田の語る如き「論理性」と「経験性」とが「一」であるような哲学的考察であるのみならず、A.N.ホワイトヘッドの語る「合理性」と「経験性」とが「一」であるような、場の開けでの哲学的考察を意味する。また彼ら二人においては、これら二つの側面が「一」であることから、事実の世界である信仰の世界とその論理化としての理性による知解の世界とが、実在の経験の論理化である哲学において「一」に成り立っている。というのも、彼ら二人の哲学においては、理性は実体的な世界での働きから無実体的な世界の働きへと生まれ変わっているので、論理性と経験性、合理性と経験性は渾然一体に融合して「一」に成り立っている筈であるからである。

 さて、「信と覚」とは、先述のように、「信仰」と「知解」ないしは、「信仰と理性」の関係の問題としても、論究されてきた。また、アウグスティヌス(354-430)が『告白』で「不条理なるが故に我信ず」(credo quia absurdum)と語っているように、信仰の面を強調して知解や生まれながらの理性を等閑視したり、あるいはアンセルムスAnselmus{Canterbury}, 10331109)のように「知解を求める信仰」fides quaerens intellectum)と、あるいはまたこれを「知解するために我信ず」(credo  ut intelligam )と理解するK. バルト(Karl Barth)のように、信仰と知解が関係づけられる場合も多い。しかし、神が実体的なものと、つまり永遠で、普遍で、不変なものと見なされる場合の信仰と知解(ないし理性)の概念内容と、二−チェ以後の、神が無実体的に経験される場合の信仰と知解(ないし理性)の概念内容とは、当然相違している。前者では、信仰は実体的な神への信仰であり、知解は対象論理の範囲内に限られた理性による知解である。これに対して、後者での信仰は、対象化された絶対の人格に対する信仰ではなく、覚(ないしは生まれながらの自我に生きる個から真の自己へと生まれ変わった自己での理性)であり、また、後者での生まれ変わらずにはいられなかった絶対の無限の場の開け(西田の「絶対無の場所」)での覚は、道元(12001253)の語る「信根」(2)とも通底していると理解され得るのである。このように、一方では「実体-属性」概念を退け、従って主語的論理をも受け入れず、また他方では、実在の経験が宗教であると理解するホワイトヘッドと西田における「信と覚」の問題を、更に詳しく以下において論究したい。

. ホワイトヘッドの有機体の哲学における「信」と「覚」

 ホワイトヘッドの有機体の哲学は、古代ギリシアの哲学者プラトン以来ヘーゲルに至る西欧の伝統的な、単にイデア論のみを重視する実体論的な思考方法を受け入れない。それ故に、ホワイトヘッドの哲学は、アリストテレス以来ヘーゲルに至るまで支配的であった個物にも実体的なものを認める主語的論理をではなく、「述語的論理」を基礎にしている。つまり、主語的論理においては、主語となって述語とならない実体的なイデア(原型、idea,ウジア(本質、ousia,エイドス(形相、eidos), テオス(神、theos)等が、思考や現象の基礎となっているが、述語的論理においては、述語となって主語とはならない、人間の個や世界の自覚が経験や思索の基礎となっている。しかもこの述語的論理は、西田が主張したように、「絶対の無限の開け」である「絶対無の場所」において成り立つと理解される。何故ならば、自覚は、「絶対の無限の開け」(3)において真に明白となるからである。

 さて、述語的論理においては、述語は自覚となっている。つまり、自己の自覚と世界の自覚との自覚が述語となっている。従って、述語は、個的な自我や自らの立場を絶対に否定する無実体的な自己や世界の自覚となる。

 もしも、生まれながらの自我が自らを絶対に否定して、この否定を介して真の自己が覚するならば、そして同時に世界において自らの立場が絶対に否定されて、しかも、この絶対の否定が更に絶対に否定されて、真に(アガペー)=神的愛)や仏の慈悲で一切の各個の自我が、真の自己へと覚されるときには、自己と世界は、「繋辞の論理」(4)で表現されることができ、自己と世界とは「一」に成り立ち、可逆的に成り立っている。しかし、自我における自覚は、容易には絶対の自我否定には至り得ず、またこのような自我を本来的に包摂している筈の世界の自覚も、容易には個と「一」にはなり難い。何故なら、世界において、自らの絶対の否定が更に絶対的に否定されて、生起してくる自我が自己へと転換させられ、アガペーや慈悲によって支えられ、自我も同時に絶対的に否定され切ることができるのは、「場」と「個」とが「一」に成り立つ、例えばキェルケゴールにおける所謂「永遠のアトム」としての「瞬間」においてのみであるからである。このように考えてくると、ホワイトヘッドの哲学は先にも述べたように、述語的論理を基礎として樹立されているとは言え、そこでは「繋辞の論理」は成り立っているとは言い難い。というのも、この有機体の哲学では、先述のように成る程プラトンの『ティマイオス』における場所が論究されてはいる(AI 187)が、しかし、未だ場所論が展開されるには至っていないからである。つまり、ホワイトヘッドでは、このプラトン的な用語「場所」([chora] or hupodoche[受容者])で示された場所の「形」と化した、いわば場所のイデア化したものとしてのeternal object(永遠的客体)が、未だ思考の基礎に置かれているからである。

 ホワイトヘッドでのプラトンの書『ティマイオス』から借用された「場所」や「受容者」は、自然の出来事に統一性を与える「場所の共通性」(community of locus)であると語られるに留まっている(AI 187)。つまり、ホワイトヘッドにおいては、「絶対無の場所」が自覚的に開けているというよりは、形なき、西田の語る「絶対無の場所」が、純粋な潜勢態ないし限定性の形式(PR 22,あるいはイデアとしての形となった次元でのeternal objectとなり、このeternal objectactual entity と共に、ホワイトヘッドの有機体の哲学の根幹となっている。従って、彼の哲学においては、上に述べた意味において、場所や受容者がその形としての、ないしはイデアとしてのeternal objectと「一」に成り立っているとは言い難い。それ故に、ホワイトヘッドの哲学においては、「述語的論理」から「繋辞の論理」へと開けて行く可能性は未だ自由には開けていないと言わねばならないであろう。

  さて、ここで本題の「信」と「覚」の問題に戻ると、「主語的論理」の妥当する哲学、宗教、文学においては、理念や理想は実体的に考えられているので、宗教は「信」の宗教が主流となる。というのも、実体的思惟が根底になっている場合には、実体に対する信仰が宗教の根底に存すると考えられるからである。そこでは「覚」(awareness)や自覚(self-awareness)が重視されることは、伝統的、正統的なキリスト教では、信仰に反するものとして退けられることになる。しかし、そのような文化においても、中世の例えばエックハルトの神秘思想に見られるように、覚や自覚の宗教も可能ではあると考えられる。当該の時代からどのように異端視されようとも、人間の自我や世界にとっては、たとえ無自覚的にではあれ、「絶対の無限の開け」が開けているのであるから、人間や世界の自覚が最内奥にまで深まり、広がって行くことは、如何なる文化の時代であれ、不可能ではない筈であるからである。

 事実、ホワイトヘッドの有機体の哲学には、信のみならず覚や自覚の宗教のあり方も開けている。「述語的論理」の主張のもとに哲学が樹立されている限り、「信の宗教」としてのみ彼における宗教が成り立っているのではないことは、当然である。しかし、ホワイトヘッドの形成途上の宗教が、他方、「覚」(awareness)ないし「自覚」(self-awareness)の宗教(5)としてのみ特徴づけられることも不可能であろう。というのも、ホワイトヘッドの有機体の哲学においては、場所ないしは受容者としての開けと身体を含めた個との間には西田におけるような絶対の否定性としての絶対無の媒介(mediation)ではなく、 絶対無の形であるeternal objectの働きが媒介物(media)として存しているからである。「絶対無の場所」としての「絶対の無限の開け」と個の主体との間に、たとえeternal object であれ、あるいはその働きであれ、媒介者が存する時には、「繋辞の論理」は成り立たない。また、その場合には、宗教における「信」としてのあり方と「覚」(ないし「自覚」)としてのあり方とが同時的に成り立つことも困難である。しかし、繋辞の論理が明確に成り立っていなくとも、ホワイトヘッドにおけるような仕方で「述語的論理」が基礎になっている限り、彼の宗教のあり方についての思考においては「覚」(ないし「自覚」)が「信」と混然とではあるが混合していると言える。なぜなら、彼においては人間の個の意識は、高次の合成段階においてのみ見られ、意識の段階以上の満足に向かっての合成では、やがて意識の段階をも脱却して行くのであるから、場と個の間にはeternal objectという媒介物は存するが、主体の主体的形式は常に同時に意識の段階を脱却したレベルでの「世界に対する誠」(world-loyalty, RM60)に生きるsuperject(自己超越体)でもあるからである。述語的論理の基礎の上での宗教でもある限り、「信」の宗教とは言い切れないが、しかし、他方、「繋辞の論理」が明確に成り立たず、場所と主体の間に絶対無以外の媒介物が存する限り、「覚」の宗教とも特徴づけ得ない。そこには、信と覚との両方の宗教のあり方の混合体が存すると考えられるのである。しかし、ホワイトヘッドにおいては、主体(subject) が常に同時に自己超越体(superject)でもあるから、たとえ場所論が展開されていなくとも、自力と他力は本来「一」であると理解され得るのである。(次号以降へ続く予定です)

 

トンボ玉のこと    

立石昭三

私は宝石には興味がまったくないがトンボ玉には惹かれる。オーストラリアのオパール、スリランカのムーンストーンなどは高価なだけ、人為的なものを感じて騙されるまい、と身構える。西アフリカにも大航海時代にやってきたボルトガル人は、奴隷貿易にヴェネチア産のトンボ玉を貨幣代わりに使用して、これらの国の奴隷積出港には奴隷博物館があり、その代価もトンボ玉で陳列されているしスークにも沢山、残っていると聞いた。

台湾の山地民族(高砂族と称した)は、かつてポルトガル人やオランダ人たちがトンボ玉を貨幣代わりにして交易していたという事実があり、「山地民族は嘘を言わない」と私ども日本人は信じていたので、それがまた山から平地へ流れて日本人の女性に「帯び止め」やネックレースに細工し愛用され、子供心にも「きれいなものだな」と思って信用していた。

ガラス製と判っていながらラムネの玉のように丈夫で単に床に落としただけではよく弾んで割れないのも不思議な気がした。ガラスであるので光を屈折しながらもよく光を透し、斜入光の方向によってはいろいろな色に変化する。また中の色違いのガラスの形も、玉に当たる光の角度によって変化する。トンボ玉は東南アジアで、かつての列強の植民地のバザールでもよく見かけ、年代が経っているにもかかわらず、液体にも気体にも色あせもなく古代ガラスそのままの色をたたえているに違いない。たいていのトンボ玉は真ん中に紐を通す穴が開けられ、ネックレースや腕輪となって古の佳人の身を飾ったのであろう。そしてそれらはきっと貧乏な彼らにも手の届く値段であったのだろう。

過日、宇治の源氏博物館の裏に何人かのガラス細工師が店を出してこれを売っているのを見て思わず、家内と娘にと二、三個、購入した。湖東の長浜でも黒壁のガラス細工館がこれ

を作っているのを展示して思わず文鎮サイズのトンボ玉を買ってしまった。これにはもちろん紐を通す穴はない。最近はネットオークションにもトンボ玉は登場し、神戸、横浜、倉敷にはトンボ玉博物館とかビーズ・アート・ショウとか称してフェニキアのトンボ玉なども展示してある。本当にファニキア商人がこれを貨幣代わりに使ったものかどうかは判らないが、ガラスと言う物質の性状からは本物としても変わらない夢を醸す。これまで世界史を学ばなかった高校生、大学生もこのトンボ玉がアフリカからの奴隷売買の際、貨幣代わりに使われたと知れば感慨深くもあろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


101号編集 湯浅・川東