私達の教育改革通信

 10  2007/6

 

 

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「異常気象」とIPCC 

 第4次報告書について

                 菅野礼司

 

 国連IPCC(気候変動に関する政府間パネル)は、国連の研究機関として気象学者ばかりでなく、地球環境に関わる多方面の自然科学分野の科学者1000人以上の協力で地球気候変異の調査・研究を続けてきた。今年の報告は、その研究結果の第4次報告である。 これまでの慎重な表現の報告と違って、今回ははっきりと気候変動の原因は人為的のものであると断定的に警告を発したので、これをマスコミが取り上げ注目を引いた。そこで、私たちの科学論研究会でも、是非ともその報告内容を専門家に詳しく解説して貰い、議論する必要があるということになり、岩本智之さん(元京大原子炉研)にお願いした。

  IPCC第4次報告は次に挙げる3部からなる膨大なものである:

1. 気候変化の物理科学的基礎(The Physical Science Basis)

2.          気候変化の影響、適応、脆弱性(Impacts, Adaptation and Vulnerability)

3.気候変化の緩和策(Mitigation of Climate Change)

 

この全部を一人で取り上げることは不可能なので、第1部「気候変化の物理科学的基礎」のみに絞って解説して頂いた。

 

近年の「異常気象」について

 IPCC報告の前に予備知識として、近年の「異常気象」についての特徴と、気候変動要因の解説があったので、素人にも理解し易かったと思う。それによると、過去100年間に、地上気温は上昇し続け、日本とアメリカ付近では一層顕著である。(特に大阪の温度上昇率は世界平均の約3倍である。)地上とは逆に、成層圏では寒冷化が進み(南極の春で顕著)、これが気候不安定の要因の一つとなる。世界の海面温度も上昇している。世界の降水量に顕著な変化はないが、集中豪雨の頻度が増している。特徴的な現象として、欧州における猛暑(フランスで40℃もの高温が続き多数の死者)、フロリダ州での強大なハリケーンの上陸があったことなどが挙げられる。

 気候システムとその変動要因は

(1)                                  気候以外の変化:太陽からの放射変化、大きな火山 

  の噴火、

(2)                                  気候内部の変化:大気自身の変化、大気と海洋など

  の相互作用、

(3)                                  人為的な影響:温室効果ガス(CO、CHなど)

  の排出、地表面状態の変化(都市化、森林伐採 など) 

  がある。

 このうちの(3)人為的な影響が問題である。

 

IPCC報告の主要な結論は次のようになる:

 ・気候システムに温暖化が起こっていると断定。

 ・人為起源の温室効果ガスの増加が温暖化の原因とほぼ断定。(第3次評価報告書の「可能性がが高い」より踏み込んだ表現。)

 ・20世紀後半の北半球の平均気温は、過去1300年間の内で最も高温。

 ・最近12年(1995〜2006年)のうち、1996年を除く11年間の世界の地上気温は、1850年以降で最も温暖な12年の中に入る。

 最近の直接観測の特徴として

 北極の温度と氷の変化;降水量、海洋塩分、風のパターンの広範囲な変化;干ばつ、豪雨、熱帯性低気圧の強化など、極端な気象現象を挙げている。

 また、過去100年に世界平均気温が0.74℃上昇し、最近50年の上昇率は過去100年のほぼ2倍である。そして、化石燃料使用量とCO 濃度の増加は極めて顕著である。その他、北極の氷・積雪面積の現象、氷河・凍土の減少(メタンガスを発生)などいろいろ危険な要因を挙げている。

今後の予測:これらの観測事実をもとに、次のような予測を行っている。

                       2030年までは、社会シナリオによらず10年当たり 

 0.2℃の気温上昇、

・熱帯低気圧の強度は強まる、

                       積雪面積や極域の海氷の縮小、海氷は21世紀後半まで

 に夏には消滅する可能性あり、

・大気中のCO 濃度上昇により海水の酸性化が進む、

・温暖化により大気中のCO の陸地と海洋への取り込みが減少。

 そして将来の気候変化に関して、以下のような警告を発している。

・今後10年当たり約0.2℃の気温上昇が予想される。たとえ、全ての温室効果ガスおよ びエアゾールの濃度が2000年の水準で一定に保たれたとしても01℃の上昇となろう。

・温室効果ガスの排出が現在以上の割合で増加し続けた場合、さらなる温暖化がもたらさ れ、世界気候システムに、20世紀よりも多くの面で大きな変化が起こるだろう。

 このように、人類は確実に地球環境に悪影響を及ぼしているといえるだろう。人類はこのままエネルギー・資源を使い続けるならば、現状維持でもさらにひどい気候変異が起こるであろう。今よりもっと多くのエネルギーを使い温暖化ガスを排出し続けるならば、もはや引き返すことのできない破局に向かうであるように思える。その時、人類は自然から必ずしっぺ返しを受けるだろう。「あと10年、20年先にCO何%削減」などと悠長なことはいっておれないだろう。

  気象異変は人為によるとの結論に対して反論している科学者もいる。温暖化は地球の周期的気温変化の範囲であるとか、海水中COの濃度と表面温度の相関から人為によるCO 排出が原因とはいえないというものである。また、大気中のCO濃度増大と大気温度上昇の周期を見ると、気温上昇の次にCO 濃度が増大しているという反論もある。

 しかし、地球環境は、多くの微妙な要因が複雑に絡み合う「複雑系」であるから、一つの要因に基づく一面的な結論は出せない、そうではなく考え得る全ての要素を勘案して多面的・総合的に判断しなければならないと思うがどうだろう。観点を変えれば別の解釈も成り立つ場合がある。それゆえ、さらに広範囲の要因を勘案した総合的研究・調査が必要であると思う。

 報告者の岩本氏は次のように結んだ:

 大きな災害をもたらした事象を「異常気象」と呼ぶなら、こうした事象は少なからず発生している、と言えよう。気象災害の頻度と大きさの増大には警戒を要する。寺田寅彦の警句を超えて、今や「災害は忘れずにやって来る」ようになった。

 その災害は、エネルギーを最も浪費する富者ではなく貧者、「北」ではなく「南」、強者ではなく弱者、そして子どもたちとお年寄りに集中する。”

 

 報告を聞いたあとの討論で、多くの感想と意見が述べられた。

・これだけ多方面・多数の研究者が協力した調査・研究は初めてで、成功したよき手本である。

                       富者や産業界の多くは、口では判ったように言っても、実際の行動は違う。だから、IPCC報告や京都議定書を生かすには、法律を作って縛らなければ駄目だ。

                       アメリカのブッシュ大統領の経済優先政策に対する批判が強くでた。

                       中国・インドの急速な発展が環境に及ぼす影響は大きい。何らかの環境保全対策を講じないと、このままでは問題である。

                       安倍首相の提言「50年までにCO2の50%削減」では遅すぎるだろう。

                       科学者は、手遅れにならないように、今から直ちに声を 

 大にして危機を訴えねばならない。などなど。

 

科学の研究成果を行政へ

 反映させる専門家組織   河野 仁

IPCC第4次報告によると、CO2等の温室効果ガスによる地球の温暖化は、確実と見なされ、また、現在のままCO2排出量の増加が続けば、今世紀中には北極海の氷は夏には全く姿を消し(コロラド大学の雪氷センター)、地球の気候は大きな変化を起こすと予測されている。地球の気候が危機的な状況に達する前に温暖化を押える必要があり、その為に必要なCO2の削減量は、現在の排出量の70%以上の削減を(京都議定書の6%のレベルをはるかに超える)、ここ数10年以内に行うことが必要である。

ヨーロッパでは化石燃料の使用を減らし、風力発電、太陽光発電、バイオマスなどの自然エネルギーへの転換が急速に国策として進められている。風力発電に関しては、デンマーク、ドイツ、スペイン、オランダ、最近ではイギリスが力を入れてきている。デンマークは現在20%の電力を風力で発電しており、2030年に50%を風力で発電する計画がある。まさに半分を風力で発電する。ドイツは2030年に30%を風力で発電する計画がある。EU全体では、2030年までに、30%を風力で発電するシナリオが作られている(ヨーロッパ風力エネルギー協会)。要するにここ20年以内に自国の電力の3割から5割を風力で発電しようとしている。

 しかしながら、ヨーロッパと比べると日本の対応は大きく遅れているのが現状である。

日本で行政が行っている自然エネルギー推進計画には、数年前までは、風力発電の潜在的な可能性は低いと書かれていた。しかし、その根拠となった予測は技術的に問題があり、風の強い海岸線や海上の発電は考慮されていなかったために、大きな発電可能性のある地域を落としていたことがわかっている。(最近の予測は、改良がなされている。)また、最近の学会報告などを見ると、海上での発電可能性を入れると、日本でも現在の電力需要の数十%を風力で発電できると推定されている。当初、風力発電を否定する理由の一つに、「日本は山岳地域であり、ヨーロッパのような平坦な地域と比べて乱流が多いので、風力発電に適さない。」と言った記述も多く行われていた。大気乱流や大気汚染が専門の筆者は、この話は最初からまゆつばと考えていた。実際は、現在では日本に風力発電の設置されている場所の多くは山頂であり、十分に発電が行われている。実際の技術的問題は山岳地域の落雷と台風であり、学会(日本風力エネルギー協会)で議論されている。

 また、最近では、バードストライクといった話も、特に野鳥愛好者からでるが、これまで野鳥が風車に巻き込まれ死ぬという事例は、一つの風車で年間に1羽とか数羽のレベルが大部分のようである。ドイツ、ハンブルグのウインドファームに行ったときに、風車の管理者に、この話をしたら、電車にぶつかって死ぬ数の方が圧倒的に多いと一蹴された。また、アメリカにおける野鳥の死亡率の統計によると最大はビル・ガラス窓における衝突で、約50%、次が高圧電線、自動車、列車であり、バードストライクは全体の0.01%未満である。日本でバードストライクを言う人は、日本全体に山岳の樹林の枯れが大きく広がっているのを知らないのであろう。この枯れについては大気汚染(酸性の霧、オゾン等)が影響を想定した多くの研究が行われている。酸性の霧、オゾンは、自動車の排ガスや火力発電や等から排出される窒素酸化物(NOX)や二酸化硫黄(SO2)が大気中で光化学反応によりオゾンや硝酸化合物や硫酸化合物となり、さらに雲や雨に溶け込んだものである。山岳樹林の枯れは植物だけではなく動物にも影響を与えている。また、地球温暖化で気候が変動すると、動植物は膨大な影響を受けるが、それは、大気汚染をはるかに上回る影響が予測されている。この野鳥の問題の1億倍以上であろう。要するに全く桁違いの影響があることを自覚していないと思われる。大気汚染や温暖化の影響を理解し、確信をもって判断するにはそれなりの勉強が必要である。バードストライクは子供でも判るし、いかにも絵に書いたレベルの話である。筆者の言いたいことは、日本では自分の頭で科学的にものを考えようとしないで、素人レベルの考えですぐに「誰か偉い人」の言うことに従うという風潮があり、そんなことが行政を動かしていることである。兵庫県生野町段ケ峰では風車の建設がイヌワシの生息地に近いという理由で反対に会い、中止になっている事例がある。

 日本で発電される電力構成は経済産業省によると2006年度実績で火力59%、原子力31%、水力9%、太陽光2.7%、風力0.0005%、地熱0.3%であり、発電電力の合計9.7×1011kWhである。

 日本政府の基本方針は原子力発電を温暖化対策の中心に据えることであるが、筆者はこの方針に反対である。原子力は放射性廃棄物の処理技術が確立されておらず、放射性廃棄物がどんどんたまっていく一方である。第2に事故の危険性である。チェルノブイリ、スリーマイル島の原子力発電所の爆発事故は世界中に放射性物質を含む灰を撒き散らした。チェルノブイリの事故で放射性物質を含む灰が偏西風に乗って2週間で北半球全体に拡散していく様子は、木村富士男・吉川友章(1988)がシミュレーションしている。このシミュレーションを見ると、地球は小さな入れ物だということが良くわかる。1990年に起きたJOC東海事業所(茨城県東海村)の臨界事故は記憶に新しいが、従業員がウラン溶液をバケツで沈殿槽に注ぎ込んでいたが、許容量を越えて入れたために臨界事故が起きている。筆者が驚いたのは、原子核物理学について専門知識を持たぬ人間にこのような危険な作業をさせていたことである。原子力発電所で仕事をしている人は、原子力工学の大学院を出たぐらいの人間がやっているかなと思っていたのだが、現実は全くの素人にさせている。何が危険で何が安全か判断できない人間にさせている。背筋が寒くなる。結構人間の行っていることはいい加減なものである。人間は過ちをいっぱい起こす生き物である。事故が巨大な被害をもたらすようなものは出来るだけ作らないほうが良い。風力エネルギーは分散型エネルギーであり、原発のような巨大な事故にはつながらない。

IPCC(Inter Government Panel on Climate Change)WMO(世界気象機構)とUNEP (国連環境計画)によって設立された地球温暖化による気候変動に関係する科学者の世界的組織である。地球温暖化の解析、予測は気象学を中心にして、多分野にまたがっている。それ故、多分野の科学者の学際的協力が必要になる。現代科学の特徴は研究の専門化、細分化である。とても一人の人間が現代の科学技術の全てについてわかることは不可能であるし、1分野でもあっても、例えば、筆者の専門である気象学でも、気象学全体を一人の人間が研究の最前線を理解してレビューすることは、論文数が膨大であり、また、内容も専門的であり、ほとんど不可能になっている。それ故、科学者集団による共同作業によって、全体を把握することしかない。IPCCはそのような科学者集団の共同作業が成功している例である。万能の天才といわれるレオナルド・ダ・ヴィンチが生きた時代は科学技術が現代のように膨大化しておらず、一人で多分野についていろんなことが出来た時代であるが、現代ではそのようなことは不可能である。

 もう一つ、著者が知っている科学者の共同作業で成功している例は、ワールドウオッチ研究所とその出版物「地球白書」である。レスター・ブラウン氏が初代の所長をしている。現在の所長は2代目で、クリストファー・フレイビン氏である。

 

日本では科学技術を政策に反映させるために、政府や地方自治体では学者、研究者をメンバーに入れた審議会や専門委員会という組織を作っている。しかし、委員は行政官が選定する仕組みであるために、行政の長の政策方針を反映した結論を出せる委員を選定している。行政はその審議会や専門委員会によって、専門家のお墨付きを得たとして、行政施策を実行しているが、結論の方向性は誰を委員に選ぶかにより決まってくる。科学技術を政策に反映させるためには、IPCCやワールドウオッチ研究所やNGOのように、科学者自身が委員をメンバーに選び、行政に提言していく必要があり、行政もこういった組織を受け入れるようにする必要がある。

例えば地球温暖化に関する日本のNGOであるCASAが、温暖化対策に対して施策提言しているが、残念ながら行政施策あまり反映されていないようである。

 

余談であるが、地球温暖化に関する骨格となる学問は大気放射学である。大気放射学は地球大気の二酸化炭素、水蒸気等の温室効果ガスによる赤外線の吸収、放射を計算している。この研究は日本では東北大学気象学研究室の教授をされていた山本義一先生がその草分けであり、先生は大気放射学という気象学の分野を作り上げた。筆者も学生の頃にその講義を受けたことがある。その当時学生であった筆者は温暖化問題が現在のように大きな問題になるとはとても考えられなかった。しかし、先見性のある先生の講義を受けたことは幸せであったと思っている。

 

原発事故と石油ピーク

                  海野和三郎

 産経4月15日「正論」に加藤尚武さんの「原発事故調査委員会設置」の提案があった。一方、「石油ピーク」は、申し訳ないが年のせいで誰か忘れたが、たしか「省エ

ネルギー」という雑誌の中で、50年くらいで石油利用のピークが来て、原子力などにエネルギーの王座をゆずる予測をしていた。いずれにしても、人類にとって、再生

可能なエネルギーは、太陽エネルギー起源のものと地熱に限られる。核融合炉がうまく行けばいいが、経済的に成り立つことと事故があってもひどい環境汚染を起こさないという二つの条件が満たされる規模のものがあり得るか否か問題である。従って、石油ピークまでに石油に勝てる可能性を持つ現存のエネルギー源は、第一に原子力であり、あとは太陽エネルギーと地熱の利用効率を格段に上げる工法である。

 原子力は、化石燃料と同じく枯渇性であるが、原子爆弾などの悪用もあるから、子孫に残すべきエネルギー資源の中では、あまり勿体ないという気はしない。しかし、それにしても、「もんじゅ」のような増殖炉を実用化して、効率よく利用しないと、子孫に申し訳ないことになる。

 エネルギー源で、危険でないものはあり得ない。太陽は巨大な質量で覆われて、しかも遠方に置かれた唯一の安全なエネルギー源であるが、それでも多くの場合水の媒介がないと危険である。地熱の場合は温泉のように、水との結合で利用が可能になっている。原子力は、太陽と地球と生命とが協働して作った化石燃料と違い天与のもので、むき出しの自然であるから、その取り扱いには細心の注意が必要である。極論すれば、原発には必ず事故が伴う。それにも拘わらず、原発を必要とするのは、石油ピークが間もなく訪れるためだけではなく、地球温暖化で環境破壊が同時にやってくるためでもある。地球温暖化には人類の生存がかかっている可能性がある。原発事故があっても、原子力発電を止めるわけにはいかない。それには、未来の人の意見を聞かなければいけない。

「ひろしま」を経験した日本では、原発事故は起こしてはいけない。しかし、一旦、事故が起こったら、どんな小さな事故でも徹底的に調査し、公表しなければいけない。それは、人類の経験であり宝である。「原発事故調査委員会」は是非しっかりしたものを作って欲しい。事故を起こした当事者は、どんな不手際があったにせよ、人類の宝を隠してはいけない。最後に一言、「もんじゅ」の実験は、その後の経験を十分生かして改良し、再開して、いい成果を上げて欲しい。10倍集光による水星と海と森の太陽エネルギー工学や火山島地下での地熱海洋発電がその後を引き継いで、21世紀、人類と地球環境の危機を好機に変えられるようにしたいものである。未来の人との協働のために。

 

湯川先生のラジオ放送と宗教対談

                           法橋 登

私が湯川先生をはじめて知ったのはラジオだった。京都の小学校に転校した1940年代に、たまたま京都放送のラジオから聞こえたのが湯川先生の連続講話「目に見えないもの」だった。内容はよく覚えていないが、先生はこの番組で自然界の四つの力と中間子の話をされたのだと思う。放送局に録音が残っているかもしれない。

 それから10年後、月の裏側の写真がテレビに映った年の翌年の正月番組で、SF作家小松左京と湯川先生の対談があった。「宇宙旅行が自由にできるようになったら、ブラックホールを覗けるのではないか」という小松の質問に(対して)、「そこまで行かんでも、ここにいても分かるのが学問だ」が先生の答えだった。「世界の情報化がすすめば、知りたい情報はいつでもすぐ手に入るのではないか」という質問の答えは「私は世界のどこにも書かれていないことを知りたい」だった。

仏教の悟りをめぐっての京都の宗教学者久松真一と湯川先生の対談が企画されたことある。私は記事しか読んでいないが、悟りについて久松の説明をきいた先生の答えは「私は悟らんでもよろしい」という 極めて仏教的なものだった。不立文字の立場から鎌倉禅仏教を開いた道元には「悟りの上に悟りを重ねることも迷いの中に迷いを探すことも同じ」であり、「迷悟を尽くす以外に迷悟から離れようがない」という言葉がある。求道者の一生をよく言い表わしている。そのような一生のどんな時に楽しみがあるのだろう? 

平安仏教を批判して非僧非俗の立場を発見した親鸞は、そのような時を「因果のことわりを超えた世の常ならざるもの(人)に出会うとき」としている。アインシュタインの相対論発見100年に続く朝永・湯川の生誕100年は、物理屋にとって因果を超えた時の重なりといえるだろう。

(「大学の物理教育」13,  632007)加筆)

 

全国学力調査について

                 菅野礼司

4月に文部科学省は国語と算数・数学について全国一斉学力調査を行った。その採点で混乱が起こっていることが報道された。

この試験の採点業務を文科省は、学校の教師に負担を掛けないようにと、小学6年分をベネッセコーポレーションに、中学3年分をNTTデータに委託したそうである。この採点を民間業者に委託したと聞いて首を傾げた人は少なくなかったはずである。

国語と算数・数学に記述式問題がでたので、採点基準がばらつき、かなりの混乱や戸惑いが起こったらしい。特に国語はひどいようである。判断に迷う場合は採点責任者の「リーダー」が判断するそうだが、その基準が時により、あるいは人により変わるそうである。リーダーを含む採点者のほとんどは、人材派遣会社を通じて集められた人を研修した者だそうである。

これだけ莫大な量の答案の採点では、採点基準に多少のばらつきは避けられないだろう。そのばらつきの程度をいかに少なくするかも問題であるが、大切なことは生徒の解答の多様さから何を汲み取り、それを次の教育にどう生かすかである。正答・誤答の二者択一採点では済まされないものがある。

試験の答案は教師にとって、教育結果について非常に大切な情報を含んだ貴重な資料である。筆者も通常試験の採点などから、自分の教えたことが学生にどう受け止められていたか、あるいはこんな誤解をされていたのかなど、教育の方法について多くの教訓を汲み取ったものである。また、入学試験の採点で、記憶中心、結果重視という現代の教育の欠陥を痛感したものだ。

先日、さる学校の先生が、「この試験の採点をなぜ教師にやらせず民間会社に委託したのか、答案は教師にとっては宝の山なのだ」と朝日新聞の投書欄で文科省に抗議したことを聞いて、正にその通りと共感したところである。

 学校の教師に負担を掛けないために採点を民間業者に委託したと文科省は言っているそうだが、学力調査のためならば、全国一斉にしなくとも、統計的に十分必要な生徒数の試験をすればよいのである。そうすれば、それほど多くの負担を掛けないで済むはずである。過去の全国一斉試験は、学校間の競争を煽り、その結果多くの弊害がでたので止めるべきだとの意見がでた。唯でさえそうなのに、安倍内閣は優れた学校には多くの助成をし、劣ったところに鞭するような政策を打ち出している。これでは、一斉学力試験の弊害はさらに加速されるであろう。

いずれにせよ、今度の試験の採点結果のまとめ方が問題である。集計は点数と正答率のみでなく、正解基準から外れて採点判断に迷うような解答例を挙げ、さらに誤答、迷答など参考になる例の分布状況も添えるべきである。学校名や地域名の公表はすべきではないが、これらの特徴を公表して、現場の教育に活かせるようにすべきである。そのためにも、経験を積んだ現場教師が採点すべきであった。人材派遣会社が集め即席指導した採点者では、その「宝の山」から宝を拾い出すことはできないであろう。

文科省(文部省)は過去に、入試制度や指導要領の改定など矢継ぎ早に「教育改革」を行ってきた。しかし、前に打ち出した制度の効果や欠陥を十分調査せず、資料なしで10年ごとに機械的に次の指導要領を変えてきた。文科省は、新指導要領が実施されると同時に、調査する期間もなく次の審議会を発足させて改革案を出してきた。それゆえ、継続性も一貫性もなく、その時の文科省の担当者の思いつきで方向が決められてきたといっても過言ではないだろう。これでは「改革のための改革」、「仕事作りのための改革」である。さすがに、このようなやり方に対して批判が出たので、近年になって、調査を少しはするようになったようである。

教育改革には、学力調査は当然ながら必要であるが、その方法と結果の生かし方を工夫すべきである。そのためには、現場の教師の声を十分聞いて行わないと、調査のための調査になってしまうだろう。

 

「新刊紹介」

祖父江義明著「宇宙生命へのアプローチ」  宇宙文明に迫る“銀河図書館”構想(誠文堂新光社)

 日本天文学会前理事長の祖父江義明さんは東大天文学科の学生の時から「宇宙人」として知られていた。その祖父江さんが、もしかしたら自伝ではないかと思われる宇宙文明の本を書いた。宇宙とは何であるか、地球とは何か、人間とは何であるか知りたい人は、この本を読むといい。 

序章:広大な宇宙に私たちは孤立するのか 

第一章:銀河系の星の数 

第二章:恒星・太陽の誕生 

第三章:太陽系、惑星系の誕生 

第四章:宇宙生命 

第5章:銀河文明 

第六章:銀河図書館 

第七章:ジオパーク−銀河系遺産 

終章:宇宙生命へのアプローチ

 

地球の外にも生命はあるのか、地球外文明は存在するのか、

星の世界にも人類の仲間は居るのか、という素朴な疑問について、本書が少しでも答えることができ、或いは考察の一助になれたとしたら、著者は幸せである。

2007年3月 祖父江義明とある。(海野 記)

 

宗教哲学における「信」と「覚」(続)

 −西田幾多郎とA.N.ホワイトヘッドの哲学を介してー

                   花岡永子 

2. 西田幾多郎の哲学においける「信」と「覚」

  ホワイトヘッドにおける思索と西田幾多郎における思索は、共に無実体的である。しかし、前者においては哲学の出発点は、actual entity のリアルな構成としての「感じ」(feeling)の主体を目指し、かつ「満足」を目指しての合成過程に見出される。しかし、後者の西田における哲学の動機は情意のレベルにおける「悲哀」に見出されている。更に、前者の有機体の哲学は実在の経験を基礎にして、方法的には47の新しいカテゴリーを定め、宇宙をも「一」に経験した実在経験の解釈と更にそれを根幹としての経験一般を解明することに進んで行く。しかし、後者の西田では、哲学は「世界の自覚」から始まると語られる(6)。また、前者は「創造性」、「多」、「一」という三つの究極的範疇を基礎にして、しかも究極的には創造性に帰着しようとする。しかし、後者の西田では純粋経験が基礎におかれて、最終的には弁証法的一般者としての歴史的実在の世界において自己が真に創造的に生きることが哲学的に究明される。

   以上に上げた僅か四点における両哲学者の相違する特徴からだけでも、両者の思索の方法は無実体的ではあっても、用語、概念、範疇の相違は顕著である。ホワイトヘッドでは西欧の伝統的な形而上学としての哲学で使用されてきたカテゴリーやその用法が避けられ、新しいカテゴリーやその用法で有機体の新しい哲学が展開されているので、この哲学のみを研究する場合には、比較的分かり易いであろう。しかし、西欧の伝統的な形而上学としての哲学の用語で哲学してきた人々には大変複雑に思われるのである。しかしながら、他方の西田の用語は、伝統的な実体的な思惟での、西欧の形而上学としての哲学の用語で、無実体的な思索での新しい場所の哲学を記述しようとしているために、その理解が読者側には困難となる。その上、両者は共に無実体的に思索し、かつ論理性(合理性)と経験性との両者を重視しているにも拘らず、ホワイトヘッドでは論理性が表面に露わとなり、西田では、純粋経験から出発して制作(ポイエーシス)に終結する彼の全哲学における経験性が、最初から最後まで表面に滲み出ている。その表れの分かり易い一例を挙げると、ホワイトヘッドでは、提示的直性(presentational immediacy)と因果的効果(causal efficacy)とは象徴的連関性(symbolic reference)のうちで、意味と象徴によって結合されようとする、西田では「純粋経験」と「絶対無の場所」とは、その「場所」と「そこにおいてあるもの」との双方の自らの立場の絶対の否定を介して「一」として露わとなってくる。このような「一」によって各個に「真の自己」が呼び覚まされるが、このような「一」の事実は、西田では「覚」とも名づけられ得る「純粋経験」において露わになるが、ホワイトヘッドでは、彼自らが、無論ヘーゲルにおけるそれとは全く別の意味においてではあるが、「思弁哲学」と名づけている(PR 18ff.)ことにおいて示されていると言える。しかしながら、ホワイトヘッドにおいては、西田での純粋経験に対応するような根源的経験としての「一」経験は、論究されていない。彼における「根源的経験」としての「一」経験が彼の全著作において不鮮明であるのは、先にも述べたように彼が、場所論を展開していないことに因ると考えられる。この事実は、先述のように、彼が、場所の形としての、場所のイデア化した、場所の表現であるeternal objectが彼の哲学の根幹となり、更に、これもまた先に述べたように、presentational immediacy causal efficacy とがsymbolic referenceによって結合されようとしている事実から容易に理解されるの。

  さて、西田での純粋経験と、この経験が成り立つ、「絶対無の場所」との絶対矛盾的自己同一的な「一」においては、後期の西田哲学に明確にされているように、「繋辞の論理」が成り立っている。「繋辞の論理」は、実体的な思惟における対象論理をも、アガペーと慈悲とによって包摂し、しかも包摂するのみならず、アガペーと慈悲の裏打ちによって実体的な対象論理の立場をも非実体的思索へと、つまり、自我を放下して真の自己へと、かつ世界の自らの立場を絶対的に否定することへと転換せしめる論理であると理解され得る。従って、対象的に把握される実体的なものないしは神に対する「信」の立場として成り立ってきた「信」の宗教は、絶対の無限の開けとしての「絶対無の場所」での自らの立場である覚の宗教のあり方でのアガペーや慈悲による絶対の否定によって、生かされる。それのみならず、「絶対無の場所」における自らの立場である「覚」の立場の絶対否定によってアガペーと慈悲によって生かされた「信」の宗教は、アガペーや慈悲による自らの立場である「信」の宗教の絶対の否定によって、「覚」の宗教が生かされてくる。このような相互の自らの立場の、アガペーや慈悲による絶対否定は、対象論理的に表現されれば、限りなく継続すると言えるが、「繋辞の論理」で表現されれば、各瞬間において同時的に生起すると言える。このような信と覚の宗教の立場の相互否定の継続の事実は、いわば非連続の連続のうちに点的に進んで行くわけである。以上のように、主語と述語の、互換可能である可逆的な論理としての「繋辞の論理」は、絶対の無限の開けである「絶対無の場所」において成り立つ論理である。また「絶対無の場所」自らの立場の絶対否定の働きは、神的愛としてのアガペーであり、仏教での仏(無性の仏性)の慈悲(=抜苦与楽)であることに注意が払われなければならない。

  以上の論究から、西田の「繋辞の論理」においては、「覚」の宗教は「信」の宗教であり、「信」の宗教は「覚」の宗教であると言える。この事実は、道元が、始めのうちは「信根」を、  上座部仏教(ヒーナヤーナ)  の教法と見なしていたのに対して、やがて「仏法の大海は、信を能入となす」(7)と語って大乗仏教(マハーヤーナ)に叶ったものと理解するようになったことも、彼の「信」理解が、西田と同様の仕方で深まって行ったことによると考えられるのである。

 

3. 信と覚

 上述の論究では、実体的思惟においては「信」の宗教が成り立ち、無実体的な思索においては、先ず述語的論理で「覚」ないしは「自覚」の宗教が成り立ち、述語的論理の成り立つ開けとしての「絶対無の場所」が、対を絶するのみならず、自らの立場の絶対否定を意味する「絶対無の場所」として究明されない場合には、つまり「絶対無」の媒介以外の媒介物を介する場合には、「信」と「覚」との混合的な宗教が成り立つことが分かった。しかし、述語的論理の成り立つ開けとしての「絶対無の場所」の「絶対無」が有に対する無という「対を絶する無」の意味のみならず、絶対の否定性をも意味する「絶対無の場所」であることが究明される場合には、述語的論理は、「繋辞の論理」へと深まり、「信と覚」とが渾然一体的に、つまり相即的に、成り立つことが理解された。しかし、ここで、対象論理での主語的論理とそのいわば逆の「自覚の論理」としての「述語的論理」と、これら両者の論理のいわば根源に成り立っている繋辞の論理において、何故それぞれ順に、「信」の宗教、「覚」の宗教、「覚と信」とが渾然一体となっているような両者の相即的関係においてある「覚と信」の宗教となるかが、宗教哲学的にもう少し詳しく究明されなければならない。

 先ず、実体的思惟においては宗教は「信」の宗教となることは比較的容易に理解され得る。何故なら、宗教の核心が、対象の永遠、普遍で不変な実体的なものに存する場合には、つまり、思惟の枠組や場としてのパラダイムが絶対有である場合には、人間の個は、無限であるばかりではなく有限でもあり、可能的であるばかりではなく必然的でもあり、また永遠的であるばかりではなく時間的でもあるので、実体的な超越者に救済されようとして、それを自らの外に対象的に信じるのであり、「合一」の神秘思想を除外すれば、自らがそのような実体的なものと「一」であるとは見なし得ないからである。

 しかしながら、述語的論理の成り立つ思索の枠組や場としてのパラダイムは、相対無や虚無である。しかし、相対無や虚無が思索の枠組や場としてのパラダイムとなっている場合には、個の自らにとって信じるべき実体的なものは存しない。従って一方では、自我が自覚を深めながら真の自己へと転換する他に救済ないしは平安への道はない。また他方では、世界が世界の自覚を深めなければ、世界の救済、平安もあり得ない。従って、相対無や虚無のパラダイムでの宗教は、自覚の途上における宗教とは言えるであろう。思惟や思索の枠組や場としてのパラダイムには、その他に相対有が存するが、相対有の場で、相対有を宗教的に信じたり、相対有によって宗教的に覚することは、真実在経験を宗教経験と見なす場合には、本来的には稀であろう。というのも、真の実在経験は、絶対無の場所とそこにおいてある真の自己との「一」体験によって生起すると理解されるからである。つまり、相対有においては、絶対無の場所は、未だ自覚的には開け切ってはいないからである。

 本稿のここまでにおいて、絶対有、相対無、虚無そして相対有という四つのパラダイムが挙げられてきた。 これらは、西欧の伝統的な形而上学としての哲学において、影になり日向になって思惟や思索の枠や場としてのパラダイムとして働いてきたと理解され得る。しかしながら、これら四つのパラダイムを包摂し、しかも自らのパラダイムの働きであるアガペーや慈悲によってそれら四つの古いパラダイムの各々の立場を全く新たに生かし直すもう一つのパラダイムがある。それは、西田の語る「絶対無」のパラダイムである。絶対無のパラダイムは、自らの立場を絶対否定し、包摂する一切の他の立場のそれぞれを、アガペーや慈悲で支えて生かし直し、しかも自らが包摂しているそれらの一々の立場と究極的には「一」に自らも成り立つ。従って、無実体的な絶対無の場所での「覚」の宗教は、自らが包摂している他の諸々の実体的なものへの「信」によって特徴づけられる宗教と、「一」に成り立ち得るのである。

  最後に、ホワイトヘッドにおけるような「信」と「覚」の混合した宗教と、「覚」と「信」とが渾然一体となっている宗教との相違は、ホワイトヘッドにおける宗教としてのworld-loyaltyと西田におけるloyaltyとのそれぞれの概念内容によって理解され得る。即ち、先にも述べた前者のworld-loyalty (RM 60)は、自己の個人的要素と客観的世界の要求とを融合させようとするところに働く個の世界に対する忠誠心と理解され得るが、西田でのloyaltyは大慈大悲に基礎づけられた、「純なる場所的自己限定」として、「一毫の私なき所」(8)である。前者でのloyaltyでは個人的要素と客観的世界とは融合を目指してはいるが、両者は未だ混合状態にある。しかし、西田のloyaltyは、場所が自らを絶対否定して露わと成った大悲大慈に基礎づけられており、しかも同時に一毫の自我も残存していない、個の絶対の自我否定の内に成り立っているところである。ここでも、前者は個人的要素と客観的世界の混合状態でのloyaltyであり、後者の西田では、場所と、自我が死して真の自己とが、渾然一体となった「一」がloyaltyと理解されているのである。

 

 

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