私達の教育改革通信

   111  200711

 

 

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異常気象と洞爺湖サミット    海野和三郎

ようやく涼しくなってはきたが、異常に暑い真夏日が秋になっても続いたせいか、地球温暖化に関連して異常気象を論ずるマスコミの記事も多く、朝日新聞(2007/10/1)にも、「洞爺湖サミット動き出すNGO」の見出しが大きく出るようになった。建設的な提言というよりは、政策のアラさがしの面が強いが、それでもこの問題に対しての進歩である。同じ日の産経新聞には、石原慎太郎東京都知事が、「日本よ」という見出しで、地球温暖化に関連させて種々の国際的難問を、かつて聞いたホーキングの地球破滅の予測などを引き合いに出して、自己の体験もふまえて立体的に議論している。作家としての経歴も持つ都知事だけあって、説得力のある見事な論説である。ただ、無理を言うようだが、どうすれば地球と人類が救えるかは書いてない。建設的な意見も否定の議論が多い。多次元の複雑系を議論しなくてはならない政治の問題では、それ以上は難しい。

洞爺湖サミットの日本の立場には、日本人の多くが心配している。消極的には、京都議定書の約束も守れない日本が、議長国としての役割を果たせるかどうかがまず心配の種である。しかし、サミットは来年8月であるから、それまでに我々は何としてでも日本発の有効な地球温暖化対策を建てなくてはならない。それができないようでは、日本人の生き方の根底が怪しくなる。地球と人類の未来を真剣に心配している小中学生が少なくないから、教育の問題としても非常に重要である。法律や制度の問題もおろそかにはできないが、それらを遥に越えた緊急課題である。

 NPO東京自由大学(理事長:鎌田東二)でも、10月1012日、第2回新エネルギー世界展示会(幕張メッセ)アカデミック・コーナーに「石油火力より安く太陽エネルギー電力を作る原理」(教育通信109号に掲載)を展示、次いで、12月9日に自由大として2回目の太陽エネルギー公開シンポジウム(司会:原田憲一)を開き、現行の地球環境論の不備な点を討論する。これは、来年8月の洞爺湖サミットへの我々の提言をまとめる会ともなる「地球温暖化防止シンポジウム」を6月7日(未確定)頃、東大理学系の柴橋博資教授と共同主催(小柴ホール)で行う予定であるが、その準備会の意味もある。これら一連の研究会シンポジウムは、また東京自由大学創立10周年記念事業の一環でもある。自分達のことばかり述べたが、私の周辺にも同様な企画を建てているグループがいくつもある。

地球環境問題は異常気象を通じて、いよいよ緊急の度を増してきたように感じられる。地球温暖化は、COを主とする温暖化ガスにより2,30年で2,3度平均気温が上昇するであろう。それだけであれば、被害を受ける地域もあるが、人類絶滅の危機とまではいかない。人為が及ばなくなるほど怖いのは、2次、3次の効果で、その最初に来るのは極地のツンドラのメタンハイドレートから湧出する最強力の温暖化ガス、メタンの大量湧出であろう。それが、北極海の氷を溶かし海面さらに海底の温度を何度か上げると、恐らく、海洋大循環に異変を来し、海洋底のメタンハイドレートや深海のCOが大気中に湧出すると、地表の気温はどうなるか分からない。また、そうなる前から、現在でもその予兆のある異常気象、台風やエルニーニョなどが大型化して頻度を上げることや、千年万年後には植物の大繁茂と山火事の大量発生などが絡んだ氷期や熱期の到来も予想される。太陽を回る地球のほんの一寸した周期的変動(ミランコヴィッチ・サイクル)が氷期変動の主因とされているが、磁束が竜巻運動で励起される太陽黒点が彩層・コロナの活動を支配し、地球に届く太陽紫外線や太陽宇宙線に大きな変動を起こすことからしても、大型台風の頻発が気候の大変動を起こす可能性は勿論、輸送する角運動量が1000年も溜まると地震や地殻変動、億年後には大陸運動も引き起こしかねない。百年千年後の未来の人に住み良い地球を残すためには、先ずもってCO排出削減により地球資源を大切にし、地球温暖化の防止をすることが、現代人のつとめである。

 

 

岡四四亥先生を追悼する         周明徳

台湾気象界の空白期に貢献された岡先生は、つい先頃(2007/7/27)御他界された。岡先生のご愛顧を蒙った筆者は途方もない時空(65年間、台湾−米国)の往事が走馬灯模様に脳裏に浮かんで来る

昭和17年(1942)夏、我らの地震学講師だった川瀬二郎技師が日本内地に転任されたので、岡先生がこの講義を引き継いだ。当時の戦局は未だ戦勝の気分が漂っていて、官吏である講師らは平時の官服、官帽の正装で出勤していた。

3年後の昭和20年3月4日、筆者が台湾青年第1期徴兵適齢者として召集令を受け、気象台に出向いて申告した際、3階の会議室で壮行会を挙行して貰った。稲富勇雄総務課長が気象台を代表して布製の日章旗を選別として下さり、ガリ版係の竹沢一三さんがこの端の右上部に墨絵の桜花と鉄兜を描き、「祝応召周明徳君」と揮毫してくださった。また深紅の日の丸の上方に西村傳三(台長)、稲富勇雄、左方に岡中尉(岡四四亥)諸先生がそれぞれ寄せ書きのサインをして下さった。

さて、第二次世界大戦直後の過渡期に移ると、政権交代により、中華民国の石延漢(東京帝大修業)が台北気象台を接収に乗り込んできた。彼が中国大陸より連れてきた気象技官の専門技術(気象、地震、天文など)の水準は長い歳月の戦乱によって極度に低かった。彼らは通信の分野に問題はなかったが、日々の天気予報や台風警報発布に不可欠の天気図作成の人材は皆無だった。そこで、この気象空白期に岡先生は技正(技師)として留用され、天気図作成と予報警報の発布技巧を、日本語をこなせる台湾籍の我らを指導して下さった。筆者や一期後輩の呂晋淮、学徒動員で入ってきた頼黎明、鄭邦傑などがいた。又、地震観測の業務も同様に一期後輩の呂新民らを指導して下さった.因みに、筆者は養成所初の台湾人修業者であった。

約一年後、岡先生は第一線より下がって研究室で勤務され、植民地時代の膨大な資料を整理して「台湾気象資料大全並びに地震の部」の執筆に尽力された。これらの資料はガリ版刷りで各方面に急ぎの需要に応じた次第である。また台湾省政府幹部訓練団気象系の教材にも使われた(台湾総督府気象台沿革史51頁)。思うに、天文や地磁気、暦、潮汐の分野で留用された藤沢正義と上村薫両先生が、昭和22年(1947)4月に日本に引き揚げてからは、気象台の留用日本人は岡先生ひとりになった。この(1949)の8月8日、岡先生ご一家は基隆(キールン)港より練習船「日本丸」に乗って引き上げなさった。台湾のこの年と言うのは:蒋介石総統が下野し(1月21日)、中共の紅軍が破竹の勢いで揚子江を渡って上海を占領し(422)、台湾で戒厳令が布かれた(520)物騒な世相であった。8月5日には米国政府は「中国白書」を発表して中華民国に対する軍事、経済などの援助を凍結して台湾を見捨てた。朝鮮戦争一年前のことであった。

 この戦後の過渡期、台湾に於ける公務員の給料たるや、給料の別称「薪水」(しんすい)の2字が示すように雀の涙に等しかった。かかる状況のもと岡先生の歓送会をレストランで開くことは難しかった。この苦衷をお察しなさった頼黎明のご両親(素封家の教育者)が台北市の繁華街・延平北路の自邸でこの歓送の酒宴を開いて下さった。

 当時の台湾では出獄は非常に難しく、岡先生と離別すれば何時の日に再開できるかは期待できなかった。この酒宴の終了まえに岡先生はしみじみと“浜千鳥”を独唱された。初めて拝聴する岡先生の美声であった。

  青い月夜の浜辺には 親を探して鳴く鳥が

     波間の国から生まれでる 濡れた翼の銀の色

  夜無く鳥の悲しさは 親を尋ねて海越えて

     月夜の国へ消えてゆく  銀の翼の浜千鳥

次は「台湾の気象事業をさらに充実させた西村傳三博士」(拙著<夕陽無限好>第30頁)について綴ろう。西村先生が昭和44(1969)に御他界されたので、筆者は岡先生より西村先生の履歴や業績表を送って貰い、これを筆者が中国文で整理して「気象学人簡史西村伝三」と題して「台湾省気象局簡訊第386期」(196910)で発表した。これにより、翌年(1970 )6月、筆者が公用で短期間日本へ出張した際に、27日に岡先生のアレンジにより、気象台の食堂で、筆者ゆかりの皆さんが訪日歓迎会を開いて下さった。ご出席された方々のご芳名は(順不同敬称略):

西村機江、川瀬二郎、岡四四亥、藤沢正義、伊藤博   (羽田航空機省台長)、藤原寛人(作家名:新田次郎)、

橋本梅冶、樺沢実、益子廉、阿部文雄、姫島楯雄、

今清水信親、竜崎宏、高島一郎、庄山卓爾。

1982 12月、筆者は気象生涯38年に終止符をうって米国へ移民した。爾後、貴重な我が老後の歳月を有効に過ごすべく、台湾の気象史と郷土史の著作に孜々として励んだ。文化の異なる西半球に於ける筆者の健気な孤軍奮闘ぶりを岡先生が地球の反対側より激励して下さるのであった。  

それかあらぬか、拙著に必要な資料:西村伝三先生の玉照(写真)、彭佳嶼(ァジンコート)測候所落成記念写真、「日本気象台百年史」(気象庁刊)、「旧満州国観賞台史」(私家版)「今日の気象業務:台地の躍動、大洋の脈動」(気象庁平成10年版)等を贈って下さった。これらの貴重な資料は、筆者の著作に最大効力を発揮した。例えばァジンコート測候所落成記念写真を使って中国文で「彭佳嶼測候所落成典禮」と題してまとめあげて季刊誌「台湾風物」で発表した。この測候所は慣性航法装置(INS: inertial navigation system)や遠距離航法システム(LORAN: long range navigation)などの無かった昔日、その気象情報が日台間の航空安全に寄与したことは言う迄もない。さて、

 前述の使用済み書籍:「旧満州国気象台誌」をワシントンDCにある米国国会図書館に、「日本旗省百年史」をメリーランド大学本校のMcKeldia図書館に、「今日の気象業務:台地の鼓動、大気の躍動、大洋の脈動」を台北にある中央気象局に岡先生のご芳名でそれぞれ寄贈した。因みに米国国会図書館は世界最大級の蔵書数を誇り、McKeldia図書館はあの真珠湾奇襲の書「トラ、ラ、トラ」の著者プランゲのプランゲ・コレクションが収蔵されている。

 岡先生に関する挿話を三つ綴って本文に終止符を打とう。挿話@:ご家族は全員「湾生」

 湾生とは台湾生まれの日本人を言う愛称である。岡先生のご令尊が嘉義庁(現嘉義県)で教師を務めていた明治四十四年亥の年に生まれた子が四四亥(よしい)である。語呂のいい読み方である。幼児のころ親と故郷新潟の戻られ、昭和七年(1932)台湾に赴任なさった。湾生のご夫人(鶴子さま)と台北気象台で職場結婚をなさった。三男一女の子宝も湾生だったので、明治生まれを含むご家族全員は湾生という珍しいケースである。

挿話A:お子様の名前

 昭和17年、初産の長男に出産地である気象台の住所:「台北市文武庁」の町名に因んで武文(たけふみ)とめいめいされた。戦時中だったので「武」を優先にしたのでしょう。収千の翌年(1946)某日、台風が台湾を襲来した際に筆者を含む予報官らは、岡技正陣頭指揮のもと徹夜で台風警報の仕事に励んだ。この夜、気象台構内の官舎で生まれた次男を台風に因んで「颱二」(たいじ)と命名された。

挿話B:予報課長兼任高山測候所長

 戦時中の台湾に於ける離島高山の測候所長は、当時の特殊事情で兼任の職であった。その概況を次の表で示そう。

 新高山測候所長 気象台予報課長・技師・岡四四亥兼任

 新南測候所長  孝雄測候所長・技手・岡崎陸郎兼任

 紅頭嶼測候所長 対等測候所長・技手・中村弘兼任

彭佳嶼測候所長 気象台予報課勤務技手・山元繁次兼任

 大屯山出張所長 気象台航空機省課長技師・樺沢実兼任

 (昭和19年度の台湾総督府職員録による)

 以上述べたように、岡四四亥先生は台湾気象海では空前にして絶後になるであろう空白期に貢献を尽くされた。言う迄もなく気象事業の崇高な精神は「造福人們」(人間のために福をもたらす)である。台湾に於けるこの崇高な「造福人們」が中断されなかったのは、ひとえに岡先生の業績よったものである。筆者は台湾気象界の一分子として吾師・岡四四亥先生に満腔の感謝と称賛の辞をささげたい。

(合掌)

 

 

春田俊郎 続・自然界99の謎 サンポウ・ブックス)

昆虫・動物・海洋生物への招待 

春田静子夫人のご好意により、地球環境問題に関係の深い二編を転載。

95 生活と季節−太陽とリズムと人間との、深い関係

 東京付近ではサクラは三月下旬から四月初旬に満開になる。多少雪が多い年でも、暖冬異変といわれた年でも、一週間の狂いもなく、この期間にサクラは咲く。春型のアゲハチョウが舞い始めるのも、ウグイスが初声をきかせるのも、その季節はどの年もほぼ一定している。これは花のばあいは開花ホルモン、チョウのばあいはさなぎからチョウに変える羽化ホルモン、ウグイスのばあいは性ホルモンが、その時期になるとまちがいなく分泌してくるからである。

ではなぜそれらのホルモンが一定の時期に分泌してくるかというと、天から命令を受けるからである。この場合の天は、神様ではなくて、自然そのものである。地球は太陽系の一員としてきめられた軌道をまったく規則的に公転しているから、三六五日という公転周期を単位として、気温が毎日少しずつ上ったり、或いは下がったり、また日の長さと高さ、つまり日照量がじょじょに多くなって夏至を頂点として、またじょじょに減少するという変化が生じている。すべての動物や植物は、この地球の公転によって生じる気温や日照量の変化をもととして生活している。たとえばサクラは、厳冬の低温を経た後、少しずつ気温が上昇し、何度かに達すると開花ホルモンが分泌するし、ウグイスは日照量のもっとも少ない冬至を経た後、毎日少しずつ日照量が増え、ある日照量にたっすると性ホルモンが分泌するというしくみになっている。

 野生動物ではこのホルモンの分泌する時期は極めて重要である。都会にもまだ姿の見られるクロアゲハというチョウは、五月初旬にチョウになるが、この時期にはまた必ずツツジが咲き、クロアゲハはツツジの蜜で養われ、ツツジはクロアゲハによって花粉が媒介される。クロアゲハが生まれたとき、ツツジがないと、両方とも困るのである。然しこの両者の時期が狂うことは全くない。クロアゲハも、ツツジも、ともにおなじ天から命令を受けているからである。哺乳動物の場合はさらに深刻である。哺乳動物では妊娠期間は、人間をもふくめて種類によって一定であって、これを自分の意志や力で変えることはできない。授乳期間は人間では適当に調節したり牛乳で代用したりできるが、野生動物には人工栄養などはないから、妊娠期間と同様はっきりときまっている。授乳期間が終ると、動物は一人だちして、自分の力で餌を探し、自前で栄養をとらねばならない。もし授乳を終えて一人だちしたときに、山野に餌がなにもない時期であったらたちまち餓死である。したがって一人だちする季節は、温帯では若芽の春か、稔りの秋で、その時期から授乳期間を引いた時期が分娩の時期であり、分娩の時期から妊娠期間を引いた時期が発情期である。もし性ホルモンの分泌が大幅に前後し、発情期を狂わしたら、子孫を残すことはできないのである。人間は近年になって衣服をもちい、住居を持ち、さらに冷暖房を開発し、また照明を発明して完全に自然界の季節とちがった季節で生活している。ホルモンの乱れの影響はいつか現れるだろう。

99 サルと人間

−サルの何処を改造すると、人間になるか−

イギリスのオクスフォード大学で、動物学専攻の大学院の入学試験問題に「サルを五ヵ所

改造してヒトにもっとも近い機能を持たすにはどこをどのように改造したらよいか」という問題が出題されたことがある。非常に易しい誰にでもできそうに見える問題であるが、じつは人間とは何か、人間と他の動物とはどこが違うか、そのちがいが生じるためにどんな変化が起こったかということが問われているのであって、しかもサルの構造や機能、人間の構造や機能を完全に理解していないと答えられない問題である。さすがは大学院の問題と感心させられるのである。

 解答は、骨盤、腰椎を改造して完全に直立歩行できるようにすること、足指を改造して足を完全に歩行のみの器官とすること、声帯を改造して発声を複雑にさせ言語を形成させること、大脳を改造してその皮質を増加させ、記憶、判断の量質を豊かにさせるとともに理性を持たせることなどが、中心になると思うが、わたしにもはっきりはわからない。大学院に入れてくれないかも知れない。

 人間はその生活をすべて自然に依存することをやめて、衣および住家を持つことにより、自分の皮膚周辺の温度をほぞんしたり、風雨を避けることを可能にした。また農耕という手段により、自分の皮膚周辺の温度を保存したり、風雨を避けることを可能にした。また農耕という手段により、植物性食物を生産し、さらに狩猟という手段を開発して動物性食物も獲得できるようになった。農耕も狩猟も人間の手と頭脳がもたらしたものであり、その根本は直立歩行という特殊な生活から得られたものである。その上、言葉という独特の手段で、親の体験を子に伝えて、何十世代の体験をつぎつぎに積み重ねで行くことによって、農耕も狩猟も可能になっていったにちがいない。人間は自然のみに依存する生活を捨てて、その優れた頭脳を有効にもちい、言語という他の動物にみられぬ伝達手段を持ち、手という歩行に不必要になった器官が、道具や武器をもちいることを可能にし、他の動物と質的にちがう生活の道を歩んだのである。人間は筋肉や内臓諸器官は殆ど変化することなく、サルとほぼ同じである上に、感覚諸器官や反射行動はサルより衰えたにもかかわらず、今日の発展を得たのは、直立歩行、手、頭脳、言語、の連携プレーであった。そして人間の集団は基本的にはサルの群れと同じであったが、人間以外の動物がほとんど本能的欲求に支配され、本能に由来する信号にしたがっているのに対し、本能を抑制する理性を持ち、仲間の行動を見習うことにより、言語によって行われる質的に高い学習をくり返してきたことも、きわめて重要なことであった。しかし数百万年も比較的安定してきた人間の社会にも、いま急速に質的な変化が起りつつある。それは人間が都市という巨大機構をつくり、電波という巨大マスメデイアをもちいるようになったからである。都市の生活は、都市以外の生活と全く異なり、人類がその発生以来とげた数百万年の生活の変化より、最近五十年間の変化のほうがはるかに大きいことは、人間の将来を予測できないものにしている。

 

春田さんは予言者だった!     海野和三郎 

 春田俊郎さんは昭和の有名な推理小説作家甲賀三郎の次男で、筆の立つのも当然かも知れない。動物学者というより本当の博物学者であった春田さんが30年以上まえに、書いたと思われる自然界99の謎を手に取ってみると、春田さんの先見の明が今日の人類の危機を予言していたことが今更のように明らかになってきた。曰く、最近五十年間の変化の方が、過去数百万年の生活の変化より大きい!こんなことは、動物学の造詣なしに云えることではない。「それは、都市という巨大機構をつくり、電波という巨大マスメデイアを用いるようになったからである。」当時は、化石燃料の枯渇も、地球温暖化も問題になっていなかったが、50年のタイムスケールで人類の破局が訪れる可能性を強く示唆している。

 文明とエネルギー利用の方式と一対一の対応があり、狩猟や農耕の文明から、商業・工業機械化の文明が発達し、地球が太陽エネルギーから億年かけて貯めた化石燃料を100年で使う文明では、長続きしないのは当然かもしれない。エネルギーの枯渇と同時に地球環境破壊と人口問題が結合して人類の危機が訪れる前に、自然が40億年行ってきた海と森の太陽エネルギー工学に人知を加えて、簡易集光装置をつくり、効率よく太陽エネルギーを利用して、石油火力より10倍安い電力を使う場所で作る必要がある。

 動物学の視点と時間尺度とで、宇宙を見ること、人間を見ることが大変重要になってきた。そのことを、私達は春田さんからつくづくと学ぶのである。

 

地球環境について         矢吹萬壽

平成19年10月8日付 私信より抜粋)           

 拝復、冠省 

  さて12月9日のシンポジウムの件ですが参加させて戴く事は洵に光栄ですが、小生は昭和39年より、環境汚染の現地測定の数々を行い、現地主義者になりました。

京都議定書には処方箋が無く、単に観念論ではエネルギー消費量の減少などあり得ないと最初から批判をしておりました。1990年の日本のCO2 発生率の6%を減少しろ、と言ったところでどの様にして減少するかが提案されていない。そのうちに8%も増加し、14%減少しろ、との提言。この頃は17〜18%減少しなければならないのではないでしょうか。日本人は自戒が無いのでは、と思って、国が具体的な方法を提示しなくても、国民自身、自らの行動をと言ってきました。

 私の昔話になりますが、小生は1960年8月から1年間、大阪府立大の在外研究員として英国ローザムステッド試験場物理部に留学いたしました(東大土壌物理学の福田仁志教授のご紹介により)。ここでケール畑のCO収支の研究を行なう事となりました。小生は水田の水収支、熱収支の研究は行いましたがCO収支とは初めて聞く言葉でした。 8月6日朝、その物理部に到着しました時から、彼らの生活は学ぶ事許りでした。すでに皆仕事に入っていました。小生の机が与えられたが、隣の席の者は眼で挨拶をするだけで一言も言わない。何と無愛想な事かと思いました。10時から15分間“コーヒータイム”になると研究室の人々が「Wellcome!!」と言って握手をしてくれました。12時から13時まで昼食、15時から20分間、場内の研究者だけの「ティータイム」では全員に紹介といった次第。終業は17時ですが、17時になると、1秒とは言いませんが、1分とは違わず、全員仕事を止めて一斉に立ち上がり帰宅いたしました。所長から全員です。仕事中ですから資料もそのまま、机上に置いて帰ります。それ以後のエネルギー消費量は僅かになります。しかも残業はしないので疲労は少なく健康的で、日中の仕事ぶりも上述の通りです。

 さて実験に入りました。英国は天気が悪く、「日本晴れ」は年に三日程と言われていましたが、午後3時頃暗くなり、メスシリンダーの目盛りが見え難くなったので、実験室入口のスヰッチを入れて実験室を明るくしました。 ところが研究員がやって来て、“イギリスは電気が充分に無いので、研究室全部を明るくしないで、この電気スタンドを使ってくれ”と。 

 文房具は女性秘書の所に受けに行きますが、“紙をくれ”と言うと、何に使うかと尋ねます。計算に使うと言うと、裏面が印刷されたり、何かに使われたものをくれ、新しい紙はくれません。 一寸高級な測定装置は研究所に一台だけで、一室に設置され、手帖が吊るしてあり、各自測定の日時を記入する様になっております。 日本では各研究室に設置しておりますが。 とにかく無駄遣いは全くいたしません。 一般市民も節約そのものです。 子供が成長して、衣類でまだ着れるものは、各家とも“ガレージセール”と言ってガレージに広告したり、玄関入口に書いてあったりします。 高級な話しは街路灯です。照明の色が違うので、これはどうした事かと尋ねると、イギリスはエネルギーが少ないので、眼の感光度の高い赤色光と青色光だけの光度にしている、との事でした。

 小生は昭和29年から昭和34年までの6年間「六甲おろし」の研究を行い、その発生原因、その構造学を世界で初めて解明いたしました。一般にこれを山越気流と呼び、日本は勿論、世界各地で発生しております。ある時イギリスの気象雑誌にイギリスのクロスフェル山の山越気流発生時に山頂にかかる雲のスケッチが掲載されていました。そこで滞英中に一度クロスフェル山を見たいと思い、出かけました。田舎だからホテルの予約は必要なかろうと思い出かけましたが満員でした。町の人にホテルを尋ねたところ、Driver’s Inn.は空いているだろう、と言います。そのDriver’s Inn.なるものを訪ねたら部屋はあり、同室にベッドが4つありました。 午後5時55分頃、一人の運転手が入ってきました。その運転手の話によると、長距離トラックの運転は午前6時から午後6時までで、午前6時から30分間車体点検、6時30分から12時まで運転、12時から午後1時まで昼食、それから30分間車体点検、18時まで運転し、以後休憩、との事、あなたのお住まいはと尋ねると、ここから約25分の所、それなら直ぐ帰れるのではないか、と言うと、18時までに家に帰り着けないので宿ったと言う。極めて厳しい法律であるが、疲労を少なくして事故の発生を防いでいる事に感銘を受けました。日本は事故の多い今日、こうした事を学ぶべき視野を広げる必要があると思います。ヴァゼッカ独元大統領が日本で講演し、“日本の焦点は経済で、文化性が無い”と話していますが、今日も尚、カネ、カネです。

 環境問題になるとCOを吸収する植物の光合成量が問題になっております。それは当然ですが、それについて日本では光合成反応で考えられています。即ち

CO+HO  CHO+0 と。

そこで植物に光が114Kcal当ると,CH0 分子が生成されると思い、農学関係者ですら、光量と光合成量をこの化学反応式で議論しております。私は英国に留学して驚きましたのは、「光合成量のCO拡散抵抗理論」がある事でした。光化学反応式云々ではなく、反応が始まった場合、COは葉内の葉緑素に、どの様な経路で拡散して行くか、その過程に拡散抵抗があるだろうと考えました。上記の反応が解ってからです。そして、抵抗体として気孔上の空気の半球、気孔及び葉肉とし、1900年に拡散抵抗理論と銘を打っております。私はそれを聞いて大変驚くと共に、その瞬間に頭に浮かんだのが、「表面境界層抵抗」でした。 風が表面に向って吹くと、表面と空気との摩擦により風速の遅い気層ができます。風下に行く程その層は厚くなります。ここでは葉面ですから葉面境界層と名付けました。日本に帰り、周囲の人々の協力を得て、この拡散抵抗理論を完成しました。外国の専門書にも“世界で最初だ”との表現を使って紹介されています。但し、日本ではこの研究をご存知の方は少ないようです。日本の教育は基礎学の教育範囲が狭いようです。

 こんな事を書いていると時間が経つばかりで、この辺で止めますが、何れ何十年間測定した環境汚染と植物について、一冊の本に纏めたいと思っていますが。

 次第に自画自賛になって来ましたので止めますが、日本は風土が豊かだった事から、心も豊かで良かったのですが、世の中の混乱で余裕のない社会になったようです。

 

(編集者註:もっと矢吹機構などの自画自賛をしてもらいたかったのですが、又の機会に期待したいと思います。

 

 

私たちの仕事         PEC 海野光三郎

 

部品こそ要。

皆、気付かなかった。社会が重層化していることに。

20世紀の工業化社会は、人々の目が製品に向いていた。

製品に光が当っていた。

 

しかし段々気付いた。電機産業でも自動車産業でも

利益はスマイルカーブと呼ばれるように

気付いたら部品に移っていた。

 

組み立ては賃金の安い国の人でも出来る。

消費地で作る方が合理的。

そして海外へ出ていった。やがて全部でていく。

 

世界は経済的に一つになった。

世界経済の構造は水平分業

(製品ごとに簡単なものと高度なものとに分かれて作る)

になると思われていた。

実際はプロセス分業になった。

さらにプロセスを最適地化する。

即ち、製品の企画・デザイン 製品の開発 

製品の設計 製品の部品づくり 調達・組立 

マーケッティング・販売 アフターサービス

そして、ものづくり日本のプロセスは

前段部分となった。

 

これが空洞化と言われる構造

 

部品こそ要。

しかし、PECの部品はこれと異なる。

この製品、この部品を作る製造装置の部品。

これがPECの部品。

なかでも、ハイエンドの精密機械加工部品。

これがPECのカテゴリー。

 

部品こそ要

この高度な製造装置の原価の60%を占める部品。

その性能を左右する部品。この装置の価値を決める

キーコンポーネント。

ナレッジとテクノロジーの塊。これを専門に作る

これがPECのコンセプト。

 

  見積もりが難しい。コラボレーションが難しい。

工程設計が難しい。生産管理が難しい。

コスト管理が難しい。

そして、 人づくりが難しい。

 

難しいことは所与のもの。

難しいことが私達の仕事。

難しいことを易しくするのが仕事。

 

戦略は標準化。

戦略は差別化とコストリーダーシップ。

 

100年事業 ベクトルを合わせて

目指すは産業インフラと豊かな社会。

燃やせ情熱。

成功させるぞビッグライフ。

PECは、組立前のロボットの手などハイエンドの精密機械加工部品を造っている。)

 

沖縄「集団自決」と歴史教科書の訂正について

−教科書検定の密室性を破るために−  菅野礼司

 沖縄の「集団自決」について、昨年の教科書検定で「日

本軍の強制」がなかったと歴史教科書を書くよう文部科学

科学省は指導した。その部分について、沖縄県民の怒りを

かい、また世論に押されて、文部科学省は訂正書き換えを

認めざるをえなくなった。それにより、日本軍による強制

で集団自決が起こったという趣旨で、教科書会社が文部科

学省に訂正申請する方針を明らかにした。

 あの戦時下の軍の絶対的権力とそれによる威圧を体験し

たり、見聞したりした者は誰でも、軍の強制があったに違

いないと想像できる。戦後になって、当時の沖縄の悲惨さ

と集団自決の話は当事者の証言や証拠と共に多く聞いてき

た。わたしもその場を尋ねて、当時の状況を想像できた。 

それにも関わらず、文科省は裁判における僅かの証言など

を盾に、これまでの多くの沖縄県民の証言や証拠を無視し

て、「軍の強制」を否定する方向に傾き教科書検定を行った。

安倍前首相は「新しい歴史教科書を作る会」に肩入れして

いたので、首相の意向もあったのだろう。その書き換えの

結果、良識ある世論の批判を浴び、沖縄県民の怒りと反撃

にあった。 政府はこの世論を認めざるをえなくなり、こ

のほど教科書検定の見直しとなった。

政府・文部科学省が比較的早期に検定見直しを認めたの

は、参議院選挙で大敗して与党が過半数を占めたことと、安倍内閣から福田内閣に変わったからであろう。 それにしても、こうフラフラと教科書の記述が変わるのは拙いし、醜態でもある。前の歴史教科書の検定方針を決めた審議会の議論は非公開で、沖縄県民はおろか私たち国民にも一切知らされない。検定規則を決める審議会と、検定審査過程が公開されていたならば、このような拙い事態を起こさなくて済んだであろう。
 一部の新聞報道によれば、日本史の執筆者であり、今度

教科書の訂正申請をする坂本昇さんは、訂正記述の内容を

公表したそうである。検定規則では、申請者は検定が終わ

るまでは内容を明らかにできないが、「検定の密室性に一石

を投じたい」ために、教科書会社とは別に一執筆者として、

あえて申請前に修正案を明らかにしたそうである。

 教科書検定に関する制度、すなわち規則の制定、検定方

針を決定する審議会の議論、検定審査過程などの公開を実

現させるために、この機会に坂本さんの決意と行動を支援

し、公開制度要求の運動を起こそうではないですか。マス

コミもそのように動いてほしい。

 こと公教育に関しては、文科省の一方的意図がない限り、

情報公開を否定する理由は何もないはずである。日本は先

進国の中では情報公開が遅れている方である。政府の各省

を初め、すべての公的機関は、できるだけ情報を漏らさな

いようにしている。特に近年は、個人情報保護を隠れ蓑に

して情報公開を逃げる傾向がある。公的機関は原則的には

すべての情報を公開すべきである。 防衛省、厚労省、農水

省、外務省など次から次へと汚職や犯罪的行為が起こる原

因の一つは、その隠蔽体質、情報公開が不十分だからだと

思う。

 

 

追悼: 林五郎君       海野和三郎

沖縄での集団自決を軍の命令によるものとする教科書に対し、文科省による教科書検定により、「軍の命令」の一句を削除する決定がなされたが、沖縄の人達からの異論が出され、それを巡ってマスコミも賛否両論が渦巻いている。恐らく、敗戦の当時何歳であったか、その1才の違い、どこにいたかどんな環境にいたか、どういう家庭で育ったか、でこの問題に対する想いも異なり、意見も異なるところであろう。私自身は、今82才、右15°に思想的に偏向しているが、「軍の命令」は削除すべきであると考える。しかし、沖縄の人達がそれに反対する気持ちも痛いほど分かる。「軍の命令」でなければ誰の命令かを問題にする人が必ずいるし、一方、当時の自分達の親や祖父母がどういう気持ちで生きていたか分かる人は殆ど居ないからである。また、日清戦争以前には、古くからの王国であり、天照大神の頃を偲ばせる女性のみの祭祀の伝統を持つ沖縄の女性が外敵から身を守ろうとする気持ちがどうであったかは、外部の者が伺い知れるところではない。

数日前、松本高等学校同窓23回の「千山万岳の会」に勝手に出席した時にも、その話が出て、ほぼ同年代でも軍隊経験のある人とない人では見解を異にすることを実感した。特攻隊の死の突入寸前であった友人は、例の敗戦の玉音放送の頃、朝鮮人暴動の風評が流れ、爆弾などを暴徒が悪用することを恐れて軍が飛行機から取り外した結果(本当は、軍の中の知恵者が軍の暴走を防ぐためか?)、特攻攻撃が不可能になったこと、朝鮮人暴動の風評のお陰で命が助かったことなどを語った。その際、軍隊というところは、特攻隊志願などは、決して命令しないが、陰険にそうせざるを得ないようにし向ける。上官の命令は天皇の命令だとする明治の軍人勅諭が生きていて、上官の意向が命令として作用することを話した。その意味では、沖縄の集団自決は軍の命令に等しい、という意見のようであった。それに対して、軍人勅諭に明治天皇の意向が入っていることも確かであろうが、上官の命令は天皇の命令だとする一文は誰かの意図的な作文であり、それがどんな作用をするか天皇の理解できるところではないであろうし、軍隊以外の世界に影響が及ぶことなどは天皇には分からない。それに、軍人勅諭が天皇の作文でないことくらいは、誰でも知っている周知の事実である、ゲーデルが言うように「ことば」は不完全なものであり、まして文書は不完全であるから、生存の危機のような場合にはもっと多次元の考察が必要である、というのが私の主張である。しかし、各個人個人には運命的な限界があり、その限界内で「いのち」を苦しみ、また楽しむ以外に道はない。その意味で、上記あわやの特攻攻撃の体験と同じ体験をしたもう一人の友人林五郎君の思い出が蘇ってくるのを禁じ得ない。

林五郎は、昭和17年、上田中学から松高へ入学した。その少し甲高い声で、気力充実した話ぶりは幕末の勤皇の志士もかくやと思わせるものがあり、思誠寮を圧倒する感があった。松高には、東大の平泉澄教授の門下であり、皇道思想の権化のような玉川治三教授が指導する道義修練部というグループがあり、素直で真面目な生徒の多くが玉川先生の「平田篤胤」などの名講義に感動して道義修練部に入部していた。中でも、林五郎の皇道思想への傾倒はすさまじいものがあり、その純粋さは同学年の寮生の中では群を抜いていた。私自身も、真面目な生徒ではあったが、どういうわけか皇道思想になじめなかった。多分、八百年ほど昔、後白河法皇に利用され捨てられた木曽義仲の一党であった海野の先祖の恨みがDNAに残っていたせいであろうか。2年生になり思誠寮の幹事として選ばれ、寮に残ったとき、どういうわけか井出五祐とか藤岡勝次とかいった私より年上の超大物が私の部屋へ入ってきた。4修の私を与し易しと思ったか、助けてやろうと思ったか分からないが、多分その両方であったであろう。私の部屋はいつも騒がしかったし、禁煙の寮内で煙草を吸う者もいた。林五郎はそれでよく私の部屋に怒鳴り込んできたが、彼の純粋な気持ちを知っているし、彼の態度も人間的で且つ紳士的であったので、彼に対して悪い感情を持つことはなかった。

2年生の後半であったろうか、学徒動員が始まった。理科の生徒は徴兵延期となったが、文科で浪人して入学した者には徴兵の赤紙が来た。20才前の文科生には徴兵延期となるために理科に転科する者もあり、政府も軍も学歴あるものの温存を図って、理科への転科を認めているようであった。しかし、林五郎は理科甲類の生徒でありながら、逆に文科への転科を志し、戦場へ赴くことを自ら決意したようであった。2学年も後半になると、寮は小さいので、2年生の幹事は1人を除いて全員寮を出る必要があり、その一人を誰にするか生徒課の寮担当教授がきめるしきたりであった。そして、永井算己教授が選んだのは林五郎であった。この人選には、「若き力に」の作詞者の当間と私に異論があり、林五郎の過激な皇道思想は入学したてで自己の確立ができていない一年生には害になるという理由で反対を申し出た。誰か残さなければいけないなら、何の役にも立たない私の方が、害になる林五郎よりましだというのが、私の言い分であった。若気の至りと言う他はないが、当然私の要求は受け入れられず、林五郎が中寮総務幹事となることに決まった。その後の思誠寮がどう変わっていったか、我々も鳥居松の陸軍造兵廠へ勤労動員され、あまり記憶に残っていない。林五郎は、学徒動員で軍に入り、幹部候補生となり、すさまじい張り切りようで軍務についていたようである。恐らく、特攻隊志願は軍にし向けられたというより、林五郎自身の止むに止まれぬ行為であったのではなかろうか。敗戦の玉音放送は、林五郎にとって命が助かった喜びよりは、自分の死に場所を失った絶望感の方が大きかったのではなかろうか。

敗戦後1年くらい経ったある日、安田講堂の前の芝生で、林五郎に一度会ったことがある。確かに往年の元気さはなかったが、にっこりとほほえんでくれた。かつての道義修練部の面々の中には、逆に左傾して時流に乗った者も少なくなかったが、林五郎はそんな器用な転身ができる男ではなかった。彼と時計台の前で会ってから半年もしたであろうか、ある日林五郎が自殺をしたという噂を聞いた。失恋の末という噂もあったが、真実としてもそれだけが原因ではないであろう。深い絶望があったのではないだろうか。世が世なら、林五郎の名は、幕末の勤皇の志士以上の輝きで後世に伝えられることにもなり得たであろう。しかし、彼の魂は今や鬼神となり、21世紀人類生存の危機にある日本を守護してくれていることであろう。 合掌。

 

第2回新エネルギー世界展示会報告(東京自由大学)

アカデミック・コーナーへ展示   文責:海野和三郎

 

「石油火力より安く太陽エネルギー電力を得る原理」を中心に、101012日、幕張メッセでささやかな展示を行った。三鷹光器も協賛して、海水と太陽で水と土と緑化の計画を展示した。今にして思うと、私達の展示は、少なくとも三つ以上の多次元的な要素を積極的に取り込んで、それぞれの欠点をお互いにカバーし合い、長所を発揮することを自然から学んだ点に特色がある、と考えられる。

エネルギーの専門家と目される大手の企業や外国からの諸機関の展示は、それぞれに優れた特色があり、見応えのある新知識で、すぐに応用できるものも少なくない。ただ、製品化されるものは殆ど単能で、何十億年も海と森が地球環境を育ててきた天与の太陽エネルギー工学を充分に活用する工夫を加える必要がある。それに加え、生物環境に最適な太陽光を簡易な非結像廣角度集光装置で集光し、10倍集光で水星環境をつくれば、家庭規模でも石油火力に何倍も勝つことができる。      (編集:海野)