私達の教育改革通信
第 102号 2007/2
教育通信ホームページ
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先事館制作室:進士多佳子〒106−0032港区六本木7-3-8ヒルプラザ910
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新方式がよい日本文化に成長することが望まれます。
編集::先事館吉祥寺 海野和三郎180-0003武蔵野吉祥寺南4-15-12;
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先事館近大理工総研 湯浅学・川東龍夫〒577-8502東大阪市小若江
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湯川秀樹とアイヌの出会い 田中 一
1958年10月30日、恩師湯川秀樹先生は千歳空港に降り立った。3度目の北海道訪門である。このときは、ノーベル賞受賞者として始めての訪問で あった。北海道大学の招待を受けて学術講演を行うという目的であったが、各地 からの要請に答えて、札幌、釧路及び旭川で幾つかの学校講演と市民講演を行なうことになっていた。北大から中谷宇吉郎、古市二郎及び私の3人が同行した。 3人とも北大理学部物理教室の教授であった。古市教授は後に北大の学長となった人である。
講演が済んで、湯川先生は演壇の後方においてある控えの椅子に腰を下された。控えの椅子は二脚あって、私はその一つにずっと座っていた。この旅行中、できるだけ先生のそばに居るように努めていたからであろう。
講演後しばらくたっても拍手は鳴りやまない。このままではなんとも収まりがつかない。このような雰囲気を感じて、私は先生にこう囁いた。「先生、何かなさいませんか」。先生は直ぐさまお答えになった。
「そうだね。何かするかな」。そう私に答えた先生は直ちに立ち上って演壇に向かった。
会場は一瞬シーンとなった。先生の声が響いた。「皆さん、アイヌの人達のために万歳をしませんか」会 場の囁きの声迄も止まった。思いがけない呼び掛けに私も吃驚した。
とその瞬間、バラバラとした戸惑いの拍手、たちまち会場も割れるかと思う程の拍手になった。微笑んだ先生は声も高らかに、「アイヌの人達。万歳、、万歳、万歳」と 音頭をおとりになり、会場は腕、腕、突上がった腕で埋まってしまった。
翌朝 一行は札幌に向かうべくう旭川駅内の急行列車に乗り込んでふと窓から外の周囲を見渡した。そしてああっと驚いた。列車から見える道々にずらりと人々が立ち並んで私達を見送っている。服装からアイヌの人達であることが分かる。この頃旭川周辺にはアイヌの人達が多数住んでいたのである。私にはそれらの人達全員の見送りとも思えた。そういう見送りであった。
僕はこれら一連のことを時々思い出す。そしていつも胸に何かが込み上げてくる。
附記: 1月の湯川研究室同窓会での話
菅野礼司
湯川秀樹・朝永振一郎生誕100周年記念式典・記念講演が京大で1月23日に催された。この機会にと、前日の夕刻から湯川研究室卒業生の同窓会がもたれた。出席者は大学院卒業生で26名が出席した。一番年長は米寿に近い方から下は66才まで、いずれも定年を迎えた人達ばかりであった。湯川先生が退官されてからそれだけの年月が経ったわけである。
参加者全員が一人一人昔の思い出を語った。湯川先生の学問に対する謙虚でかつ真摯な姿勢や、原水爆廃絶と世界平和への強い想いが、それぞれの体験を通して紹介された。そのなかで、私が初めて聞き、印象に強く残ったものがある。それは一般にもほとんど知られてない湯川先生の人間性を物語る一面であったので、ここに紹介したいと思った。北海道大学名誉教授 田中 一氏の思い出である。普段は理屈っぽくドライな田中さんが、この話の最後に声を詰まらせたほどである。上記の文は、田中さんが、私の依頼に快く応じて書き送ってくれたものである。
ハイゼンベルグ・ゼミでの
朝永と湯川中間子論
法橋 登
二次大戦 (1939-45) が終わって間もない1949年に、湯川秀樹は戦前に提唱した中間子論(1934)で日本人初のノーベル物理学賞を受けた。京都の高校、大学を通して湯川と同級だった朝永振一郎は、大戦末期の1943年に発表した「超多時間理論」と「くりこみ理論」で1965年に日本で二人目のノーベル賞受賞者になった。受賞理由は「素粒子物理学に深い影響を与えた量子電気力学に対する基本的な貢献」である。朝永論文は、共同受賞者の米シュヴィンガーとファインマンの戦後論文より5年はやく、朝永は筆頭受賞者になった。朝永は大戦中、英国が対独防空兵器として開発した電波探知機(レーダー)の電波発生機構の解明にもあたった。シュヴィンガーも朝永に呼応するように、戦中に発生電波の角度分布と高調波の計算をした(そのためnochini振一郎の独訳がシュヴィンガーだというジョークが生まれた)が、ファインマンはsennjiマンハッタン計画のなかで、核分裂中性子の媒質内での減速・拡散過程を追跡する積分型輸送理論を提案した。戦後、英国のレーダーグループの一部はオーストラリアに移って電波天文学を創設し、他の一部はカナダで原子力開発に従事した(私はチョークリバー研で1961-2の間クライン・仁科の式を使って原子炉ガンマ線の空気散乱―スカイシャイン―の計算をした)。朝永たち3人の量子電気力学が物理的に等価であることはプリンストンのダイソンが証明したが、ダイソンは英国の父親への手紙に、論文の無私性では朝永が共同受賞者の第一だと書いた (ダイソンは、大戦末期に防空能力を失った日本本土への空爆計画に抗議する書を英首相に送っている)。 大戦前夜の1938年にはハイゼンベルグのゼミに出席していた朝永は、のちに滞独日記の一部を「ライプツイッヒの思い出」としで「量子力学I、II」(学芸社1951)の差し込み付録で読者に紹介した。そのなかから、ゼミで議論された、生まれて間もない中間子論と、当時の時代雰囲気を伝えるいくつかを抜き出してみた。日記は朝永の前書きで始っている。
朝永振一郎
まつい(松井巻之助)くんがなにか軽いもの書いてくれと言うが、一向うまくいかないので、古い日記帳から、いいかげんに引っぱり出してお茶 をにごす。日記の場所はドイツのライプツイッヒである。
4月9日
今日は朝天気と思ったのに曇りだして嵐になり、雪が一面にふる。計算のチェックをする。昼から活動(映画)にいく。町は相当の人出。めしを食う。帰ってヒットラーのラヂオを聞く。オーストリア併合で家々の窓はろうそくを並べにぎやかである。教会の鐘が鳴り飛行機がたくさんとぶ。
4月12日
ひる前ハイゼンベルグの講義、ひるからゼミナールがある。ハイゼンベルグは湯川理論をやる。今日はスカラー理論だけ。ユコンの寿命を求める。この粒子は不安定で、200メートル走ってこわれる。だから宇宙線中のユコンは空中でできたものである。これが本当なら、ウィルソン霧箱でこわれるところが200枚に1枚の割合で写真に写るはずである。これはまだ見つかっていない。ヴェクトル場は次にやる。これでやると中性子・陽子間は引力になるが、d函数のポテンシャルがついてくる。そこで積分を切ることが必要になる。
4月21日
ハイゼンべルグの部屋に行く。彼は僕の仕事を読んで批評してくれる。もう少しテキストを詳しくたくさん書けといわれる。物理の論文で大事なところは、数式よりもテキストの方にあるし、人の読みたがるところもテキストだと言われる。
5月18日
雨ふり。学校をさぼってパスカルを読む。11時(午前の)まで読むと眠くなる。12時までひるねをする。それからフィジカル・レビューをとりあげたが、とりとめもない考えがうかぶのみ。ハイゼンベルグのエクスプロージョン(多重発生)から近似を進め核の部分的熱せられをやりたいらしい。ひるからまたとりとめもなく考えたり、外を見たり、文芸春秋を読んだりする。雨がやんで夕方涼しくなる。空気は冷たい。
12月12日
ハイゼンベルグと相談してb 崩壊の理論をやる。湯川理論ではメゾトロンの寿命が短すぎて実験値の500分の1にしかならないからだ。
2月14日
計算を進めていたら積分が発散した。Uが一度PとNをつくり、それがさらにeとn になると考えるのだ。ところが、PとNの中間状態がやたらに多く、積分が発散するのである。ひるから散歩にいく。空気が冷たくヨハンナ公園の池が半分の凍っている。凍っていないところにあひるがおよいでいる。公園を歩いていると、ニュートロンだのニュートリノだの、そんなものどうでよいという氣がしてくるから困る。
12月17日
寒波のためゆうべはマイナス10度まで下がったという話だ。朝おきると僕の息が窓に凍って美しい模様をつくている。夜トーマス教会のオラトリオをききにいく。もうじきクリスマスで、そして1938年が終りになる。
理研彙報に朝永のノ―ベル賞一号論文が載ったのは帰国5年後だった。日記帳の11月22日に、父三十郎に依頼された振一郎宛の仁科芳雄の手紙がとどいている、という並木雅俊さんからの注意があった。お礼申し上げたい。
市瀬和義
「たしなみ」としての教養
昨年末から高校の単位未履修の問題が話題になっている。そもそも学習指導要領とは何かから始まって、教育委員会の在り方、忠実に実践したものとしないものの損得、その背後にある受験一辺倒の考え方など議論はあらゆるところに広がっている。
その一方で「世界史」をなぜ必修としたか、なぜ「世界史」を学ばなければならないかといった問題は後回しにされている感が強い。
中央公論2007年1月号「教養を失った現代人たちへ」という座談会で作家の丸谷才一氏は「たしなみ」について触れている1)。
この座談会は「教養とは非常に具体的な、例えば社交の場で役立たせるさめに身につけなければならないもので、現実的な要請から発生したものと考えられる」という切り口からスターしている。初めて会う人、どんな人か分からない人と会話するときに、知的基盤を共有しておれば、それをきっかけにしてスムーズに話が進むというわけである。私は藤原周平の小説が好きでよく読む。その中に「武芸のたしなみが一通りある」という意味の文章がよく出てくる。この「たしなみ」は単に武士だけでなく商人や職人、農民にまで至っている。これが正に教養であり、江戸時代には、日本人は世界に例を見ないほど教養があったといえる。また、この幅広い教養を軸に、生活に根ざした「実学」が進んだと言っても過言ではない。
現在の日本の状況を見るとき、この「たしなみ」を持っている人がどれほどいるかは疑わしい。世界史を履修することは、教養である。お互いに認め合い理解して生きていきたいと強く思うとき、そこに社交があり、その間を繋ぐものとして教養がある。思うに、今の単純で一方的な会話や人間関係には、社交がない。教養がないから人となかなか交われないのではないだろうか。
近代化にすぐに追いついた江戸の力
日本の近代化は明治に始まったが、言われているほど日本の技術が西欧に劣っているものではなく、それどころかすぐに追いつき、追い越してしまった。これは、江戸時代の「モノづくり」の確かな技術があったからこそといわれている2)。長いこと平和な時代が続いた江戸時代では、身分の上下を問わず、人々は豊かな教養を高め、旺盛な好奇心はあらゆるところに向かった。多くの人が「読み、書き、そろばん」を習得し、学問を受け入れる土壌、裾野は大きく広がった。そしてこれを背景に和算、天文、医学、農学、土木、測量など様々な分野で学者や職人が競い合い、科学は大きく進歩した。欧米と比べ、日本はあらゆる技術が上流階級のものではなく、程度の差こそあれ、大衆化し、社会に浸透したものとなった。そのため、確かな技術が、後の日本の発展につながったのである。
現代は地方の時代とも言われる。江戸時代は、各藩が互いに技術の粋を競い合い、地方色豊かな文化が花開いた。混沌とする今の世の中がもし地方ということを言うならば、なぜそうであったか深く考えてみるべきだと思う。
「たしなみ」としての教養。確かな「技術」。今の日本において失われているものが江戸にはあったと考えられる。そこをじっくりと見つめてみることも必要ではないだろうか。
実学としての測量
江戸時代、加賀藩では有能な科学者が多く活躍した。私たちはこの科学者たちについて、思想や技術、その検証など、あらゆる角度から、科学技術について研究をしている。
その中の一人に測量と算額にすぐれた石黒信由がいた。当時測量は、年貢米の算出をはじめとして、藩財政にはなくてはならぬものであった。その意味で測量は実学でもあった。測量として著名な研究者には、国に名を馳せた伊能忠敬がいるが、石黒のそれは伊能にも劣らない詳しい地図であった。当時、地図というとポンチ絵のようなものが多かったが、彼の地図は現在の地図と比べても何ら遜色はないくらい正確にできていた。
信由は1760年に越中国射水郡高木村に生まれた3)。郷土出身の算額博士、三善為康に憧れ、富山までの長い距離を日々通って、関孝和の流れをくむ中田高寛に和算を学んでいる。当時は交通の便が悪いので、ひたすら歩くしかなかったが、学ぶこと、知的好奇心を求めてやまない姿は素晴らしいというしか他ない。
1808年に金沢城二の丸が焼け、加賀藩は各地の絵地図を出させたが、信由の地図は非常に優秀だったので藩から郡内の地図づくりを命じられ、その後、加賀・越中・能登の図面も仕上げた。これが、最初に私が目にした驚くべき精度の地図である。
信由は、測量器具に力を入れた。伊能忠敬の器具に改良を重ねている。例えば、方位を正確にするため磁石を2つにしたこと、基準を出すための工夫、坂でも使え、常に水平が出る強盗式磁石など多くのものを工夫した。正にこれはよりよい測量をしようという「実学」に他ならない。ここでは紙面の関係から、図が出せないのは残念である。しかし、精密な道具の改良には驚くし、技術の高さが伺える。
測量の研究でおもしろいことがある。当時、測量とはおよそ縁がない、コンパスや分度器などが、いわゆる今の文房具屋さんなどで売られており、それを買い求めた人がいることである。実際に使ったかは定かではないが、
このような専門的なものにまで興味を示す民衆のレベルの高さには恐れ入る。
信由のみならず、江戸時代の科学者には、専門知識以外にも、短歌や俳句、習字など文化的なものにも造詣が深い人が多い。これらを通じて人間関係を結び、情報を集め、幅広い知識から、専門に拘らない、アイディアを構築していけたのでないかと思う。
そういう意味で、「豊か」であったし、これからの科学研究に見習うべきものは多いと考える。
おわりに
末履修問題から、話しが江戸に飛んだ。たしなみとしての教養、それに育まれた科学、実学をもう一度ふりかえりたいと思う今日この頃である。
参考文献
1)
教養を失った現代人たちへ、丸谷才一・山崎正和 三浦雅士、中央公論 1月号(2007)pp.32-43.
2)
監修者あいさつ、鈴木義一、モノづくり日本 江戸大博覧会、国立科学博物館(2003)p3.
3)
江戸時代の測量器具の復元、安井利行・野積正吉、’04青少年のための科学の祭典・高岡大会、ガイドブック(2004) p88-89.
法橋 登 (e-mail: noboru@icn.ne.jp)
1960年代なかごろ、東京国分寺にある企業の中央研究所(以下中研)で、近くにお住まいの朝永先生に講話をお願いしたことがある。戦前の理研時代の長岡半太郎、西川正治といった大先生のセミナーや戦後の理研改組時に生まれた民生関連の発明をめぐるエピソードが中心だったが、講話のあとに「物理の研究者にも大学向きと企業向きがあるのではないか」という質問があった。先生の答えは「物理の分かるひとは企業のことも分かる」だった。
1952年ころ、京大数学教室で朝永先生の一般講演「光の速度はなぜ……か?」があった。黒板に描かれた一列に並んだ小さい丸は真空の泡なのか、湯川素領域なのか。朝永先生は「それが分かれば超ノーベル賞だ」とみなを喜ばせた。「物理論文にもお茶漬けの味がある」という先生のことばにもみな喜んだ。戦中の朝永論文を、他を語り自己を語らぬ無私の論文とよんだプリンストンのダイソンを念頭に置かれた言葉と思うが、「お茶漬けの味」は、当時流行語になった小津安二郎監督の映画のタイトルだった。一次元多体量子系の集団運動を導いた朝永論文が発表されたのは、1955年だった。デイラックが1935年に提案し、アインシュタインの協力者インフェルトがすぐ批判し、デイラックが再論して未来展望を示したままになっていた新エーテル説(光円錐の頂点が丸くなる)を先生は念頭に置かれていたのかもしれない。
私が1950年代なかばに原子力要員として中研に中途採用されたとき、先発の実験グループで輪講に使っていたのがフェルミの核物理講義録だった。この講義の脚注に早川幸男先生の宇宙線論文(1952年)の短い紹介があった。星間ガスとの衝突で高エネルギー陽子から湯川中間子の衣が前方に飛び出す、というアイデイアだった。1980年代のはじめに中研で量子力学の基礎と新技術に関する第一回國際会議が開かれたとき、C.N.ヤンはフェルミの思い出をこう話した。「シカゴ大学の食堂ではじめてテーブルが同じになったとき、手近かな応用問題を数多く手がけるか、大きな基礎問題を探すか、アドバイスを求めたところ、フェルミが勧めたのは前者だった。大きな問題にはそのうち出会うだろうと」。朝永先生も賛成と思う。
エデイントンの洗濯理論を改良したデイラックのウラン濃縮カスケード理論など、英米物理学者の戦時研究は戦後間もなく解禁になった。これらの研究を工学情報にブレークダウンすることは原子力グループの理論屋の仕事だったが、長期的には、米ジェネラル・エレクトリック研究所のラングミュアやオランダ・フィリップス研究所のカシミヤが企業内物理屋のモデルになった。ラングミュアは界面物理の創始者であり、放電管内電子の集団運動(プラズマ振動)の発見者としても知られる。一方、カシミヤは低温物理の開拓者として、また、ホーキングのブラックホール蒸発説(運動境界をもつ真空の輻射)のヒントになったカシミヤ効果(静止境界をもつ真空の輻射)の予言者としても知られる。中研では1950年代のはじめに、グラファイトの薄膜を透過する電子ビームの離散的エネルギー損失と散乱角から、薄膜内自由電子密度で決まるプラズマ振動数と、電子温度で決まる分散項を決定した。当時この分散項をめぐっていくつかの理論モデルが提案されていたが、ボーム・パインズ理論の正しさが確認され、実験者の渡辺宏は米金属学会賞を受けた。ボーム・パインズ理論では、運動電子間磁気相互作用のビオ・サバール法則がハミルトン関数とハイゼンベルグ運動方程式から出るが、磁束を囲む電子軌道のアハラノフ・ボーム(AB)位相効果は、電子ホログラフィを使って1979年に外村彰が実証し、前記國際会議で発表された。アハラノフの論文「AB効果の非局所性」も同時に発表されたが、ヤンは「ハミルトン関数と運動方程式に非局所性はなく、AB効果は電磁ゲージ場の積分表現にほかならない」と批判した。
1965年にファインマンの講義録が出ると、社内の技術研修所でこの本をテキストにした量子力学入門講座が開かれた。このとき講座を傍聴した研修所の職員から、昔湯川秀樹先生に特別講義「自然界の四つの力」をお願いしたことがあるときいた。この職員は、京都から茨城の研修所までお伴をした列車の道中で先生からうかがった次の話は印象に残っているという。「自分たちが研究を始めた頃は若い研究者のアイデイアもすぐ世界でとりあげられる物理学の変革期であり、歴史的な好機だった。そのような好機は今後なかなか来ないと思う。いまの若いひとは大変だ」。湯川力を含む四つの力をゲージ場として統合したサラムは、シンガポールから出たエッセイ集「理想と現実」で、自身の好機を「ハミルトン(の数学的才能)より直観が物理に有効だった歴史の谷間」と書いた。湯川先生も同意見と思う。
湯川秀樹を研究する市民の会
1934年、湯川秀樹は中間子論を発表。阪大理学部の講師時代のこと。その発見の地(中之島 大阪市立科学館)で、湯川に関することを市民が研究しています。科学者には書けないものを出版、これが夢です。多くの市民の力で、素晴らしいものができると確信しています。あなたの参加をお待ちしています。
「市民による湯川秀樹生誕100年シンポジウム」開催
場所:大阪市立科学館
日時:3月4日(日)11.00
~ 17.00時
参加無料
参加希望者は葉書にて申し込み;締め切り2月19日
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「幼児向け 囲碁のすすめ」
(教師用テキスト)囲碁教育研究会刊行
菅野礼司
私たち「囲碁教育研究会」は、囲碁の効用に着目し学校教育への導入を促進するために、その教育的効果の研究や理論付けなどを目的として2001年に発足しました。研究会の主要なテーマは、(1)囲碁の教育効果、(2)囲碁理論の体系化、(3)囲碁と脳の働き、(4)囲碁と経営戦略に関する研究です。研究会のメンバーは、教育関係者をはじめ、医学、脳生理、自然科学、情報科学、囲碁ソフト開発など多方面の分野の人たちに、プロ棋士・囲碁関係者などが加わっています。
この研究会は、発足以来、会合を隔月に開催し、この間サントリー文化財団の助成を受けた「囲碁による創造的教育の学術研究」に取り組みました。また、小・中・高校生や保護者、教員等を対象に、「囲碁の教育的効果に関するアンケート調査」を実施し、囲碁を通じて、@日常の生活態度や学習態度が向上した、A友だちが増えた、B大人の人とのコミューニケーションができるようになった、などの結果を得ています。
私たちは、囲碁を単なるゲームとしてではなく、文化の一つとして広く捉えるために、これまでいろいろな角度から検討を重ねて来ました。その成果に基づいて、学校教育に囲碁を活用することは大変有意義であること、そして囲碁を始めるのは早い程効果的であることを認識しました。しかし、学校の正課に囲碁を入れることは、唯でさえ教科の時間が不足している現状では至難の業です。そこで、勉強時間に縛られることがなく、遊びのなかに囲碁を持ち込める幼稚園に目を向け、教材作りの準備を始めました。
本テキストの特徴
園児に囲碁を教えるには、まず先生(囲碁を知らない人が大半)に囲碁の教育的意義を理解してもらわねばならないので、そのようなテキストが必要です。囲碁の入門書は最近多く出版されているので、利用できるものがあればよいですが、私たちが見て幼稚園向けにぴったり適うものはありませんでした。そこで表題のテキストを研究会で独自に作ることにしましたが、幼児向けで、しかも独自性のあるものをいかにして作るかが問題でした。
入門指導には、通常9路盤が多く用いられていますが、9路盤だと、死活やセキなどの知識がいる上に、手数が長いので幼児には広すぎると思います。
そこで、着目したのが6路盤です。ある日の研究会で、「囲碁普及研究所」の鶴田郁夫さんをお招きして、6路盤の話を聞きました。鶴田さんは自らの研究から、興味ある囲碁ゲームとして成り立つ最小の盤は6路盤であると主張されました。これがヒントになって、幼児向けテキストに6路盤を採用することにしました。6路盤なら、石取りゲームと地取りゲームがやれるし、石の死活を言わなくとも地取りゲームをある程度楽しめます。だから、石取りゲームから抜け出して、地取りゲームに入り易いだろうと考えたわけです。
このテキストの主眼は次のことです:
(i)ルールについて最小の知識で、早く囲碁を始め、楽しむことができること
(ii)囲碁を通して、礼儀正しいマナーを身につけること
(iii)文化としての囲碁を自然に理解できること
幼児はまだ字が読めないので、まず、先生に囲碁を理解して貰い、囲碁の楽しさを体験して貰える
このようなテキストを目指したのですが、独自性のある入門書の難しさをつくづくと感じました。
囲碁の教育的効用を最初から長々と書くよりも、とにかく早く石を握ってゲームを始め、その結果として、実戦的に一通り理解できるように組み立てたつもりです。その後で、囲碁の効用を納得できるようにまとめました。もう一つの狙いである「文化としての囲碁」を先生に理解して貰うために、囲碁の文化史や囲碁用語から出た日常言語などを、コラムとして適時挿入しました。
何よりも重要なことは、幼児を囲碁に引きつける方策を工夫することです。そのために、まず、囲碁に親しみを持つように、厚紙で6路盤と紙の石を、先生と幼児が作ることから始めました。そして、対局マナー、石取りゲームのルールを簡単に説明した上で、早くゲームに入るような組立です。全員が熱中し盛り上がる秘訣は、最初二手に分かれて連碁からはじめることでしょう。2人づつの対局はその後です。
6路盤は、石取りゲームと地取りゲームも簡単にやれる最小盤ですが、いざ解説をして行くうちに、盤が狭いがゆえに、かえって解説図や問題図には落とし穴があることに気づき、作図に工夫が必要でした。たとえば、石取りゲームの快感を味わって幼児を引きつけるために、「石取りの極意」として「ゲタ」、「シチョウ」、「打って返し」、「追い落とし」などを解説しましたが、一つの図で二通りの手段が可能となる図が多いのです。
地取りゲームについても同様の注意が必要です。地の数え方にしても、たとえ6路盤でも、死活を教えないで終局にするにはかなり無理がありますが、面倒な場合を避けて敢えて締めくくりました。たとえば、終局の後、死んでいる石を取り上げて相手の地に埋めるとき、その理由の説明抜きで、自分の地の中に切れている相手の石があれば取り上げることにしました。
しかしながら、実際に本テキストを保育園等で実際に使ってみますと、「石取りゲーム」は問題なくやれますが、「地取りゲーム」に進むと、多くの人が混乱することが判明しました。これは、「石取りを競うゲーム」からすぐに「(石取りも含めた)地取りを競うゲーム」に移行する過程に大きな壁があるからです。
どの入門書でも、興味を持たせるために、まず「石取りゲーム」から始め、それに慣れ親しんでから、次に「地取りゲーム」に進むようになっていますが、地取りゲームは、地とは何か、そして「石の死活」から「駄目」までいろいろ理解しなければなりません。それを理解させるまでが大変です。実際に、石取りゲームから始めると、それに興じて地取りゲームに進まない傾向があるという経験談をよく聴きますし、私たちの実践でもそれを感じました。
そこで、今後改良する完成版ではこの移行過程に「単純な地取り=石を取ることは認めない」の項目を追加する予定です。地を囲む概念をしっかり身につけさせた上で、「石取り」と「単純地取り」の二つを加えた「本格的な地取り=囲碁」へと進むようにしたいと考えています。
また、石取りと地取りが絡むと、簡単ではないですが、とにかく早くゲームを始めることに主眼を置いたので、厳密さを犠牲にしました。ただ、石が入り組んでくると、セキ活きの場面が起こる確率が高いので、これでは不十分ですから、少なくとも「セキ」の説明は改訂版では入れることにしています。ゲームを楽しむ中で、規則に関する疑問が次々にでることと思いますが、実践を通して疑問点を見付け、その解決法をいろいろ考えるのも教育効果の一つと思います。
また、熱心な幼児は、6路盤に止まることなく9路盤へ進むように、9路盤入門を完成版では、加筆する予定です。
このテキストの作成過程では、途中3回ほど研究会で中間報告し検討を重ね、その都度指摘された点を改良しました。まだまだ不完全なできですが、一応の完成をみてほっとしたわけです。
今後、このテキストを使って、幼稚園で(できれば小学校でも)囲碁の入門指導を行い、その実践経験からさらに改良した上で完成版とする予定です。
飲酒運転事故と道路交通法
海野和三郎
飲酒運転の罰則特に飲酒運転事故の罰則が著しく強化され、運転者のみならず同乗者に対する罰則もできた。飲酒運転が原因となった痛ましい事故の多発が大きな社会問題となっている現状を考えると、罰則の強化は当然の処置である。これで、飲酒運転による事故は恐らく半減することであろう。しかし、飲酒運転による事故は一時的に減少するにしても完全になくなることはなく、飲酒運転と殆ど関係なく自動車事故は恐らく今後とも増え続けることが予想される。何か大事なことが欠落している。
車の運転に関する日本の道路交規則は主として速度制限が重点になっている。道路が悪く、車の密度が低く、スピードが出なかった昔は、恐らくそれが最も適当で実際的であったであろう。しかし、その昔でも、国土の広いアメリカやアウトバーンの発達したドイツなどでは、全く事情が異なっていた。勿論、例外は多々あり、例えば山地の多いスイスではスピード制限の標識が至る所に立っており、実際それを守らないと身の危険を感ずる状況であったし、アメリカでは州ごとに交通規則が違うらしく、コネチカット州などはスピード制限重点方式で、規則を知らないよそ者から罰金を取って税金の足しにしているなどと悪口が言われていた、(今は知らない)。それでは、スピード制限でなく、多くの州では何を重点に自動車運転の交通規則を作っていたかというと、スピードに応じた車間距離に重点が置かれていた。よくは憶えていないが、例えば、100マイルの時は車間距離100ヤードといった様に、危険を感じてから急ブレーキを踏む1秒程度の時間差の間に走る距離と急ブレーキでタイア跡を着けながら摩擦で止まるまでの所謂ブレーキング・ディスタンスとの和を概算して、分かりやすい数字で表になっていた。それが運転免許取得の時の主要試験問題であった。
現在の日本の交通事情は、昔のアメリカの交通事情よりももっと車間距離重点主義の交通規則に適した状況にある。結論を前に言えば、車間距離重点主義の御利益は、1.交通事故が激減する、2.交通渋滞が緩和される、3.ガソリン消費量が減る、4.そして何よりも、交通規則を守って運転することが可能になる、と言った利点がある。順序を逆にして、4.から言うと、80キロ制限の高速道路で、80キロで走ると他の人の迷惑になるだけでなく事故の危険性もあり、実際20キロ超過は非公式ではあるが公式に認められているだけでなく、多くの運転者は取り締まりがないと予想される区間は120キロを超えて走っている。交通違反を奨励しているのが現在の交通規則であり、社会教育上も甚だ良くない。それに反して、車間距離重点での運転は現在皆が行っている運転方法とあまり違わない運転で合法的に運転できる。
ただし、1.2.3.の利点が皆に実感されるまでには、今のせっかちで公徳心に欠ける連中には時間がかかるかも知れない。3.のガソリン消費量が減る、については車間距離走法を実行してみれば直ぐに分かることであるが、ブレーキを踏む回数が格段に減りエンジンブレーキで済ますので、電池の充電にもなる利点がある。恐らく、車間距離走法に切り換えることにより、100キロ走るごとに、どこかの国の飢えた子供1人のいのちを助ける経済援助が可能になるのではなかろうか。1.と2.の利点の原因は(3.も)同じで、車間距離が一種のバネの役割をするので、流体力学の衝撃波理論から類推されるように、運動エネルギーから熱エネルギーへの転換(今の場合、事故や渋滞)が大幅に減ると考えられる。(誰か、コンピューターシミュレーションをやってみて下さい)3. .については、先日、八ヶ岳山麓を友人と走って見て、友人が10回ブレーキを踏んだ間に、私は1回しか踏まなかった(エンジンブレーキで足りた)経験がある。
飲酒運転のことから話がそれたが、飲酒運転の罰則を強化するのもよいが、同時に、自動車交通規則の見直しも併行して行うべきではなかろうか。今のままでは、日本が公徳心に満ちた美しい国であることは難しい。
これも「やらせ」ではないか?
菅野礼司
旧教育基本法を変えて、安倍内閣提案の新教育基本法を通さんがために、タウンミーティングで意見陳述者に政府案に賛成する発言を依頼したり、改訂賛成者を動員したりした、いわゆる「やらせ」が露見して問題になった。その後、他の公聴会にも八百長が仕組まれたことも告発された。政府機関の関与するものばかりでなく、産経新聞主催のタウンミーティングにも同様の「やらせ」が過去にあったこと暴露された。この種の「やらせ」はまだまだあると思われる。
公聴会やタウンミーティングなどの意見聴取は、世論を民主的に聴取するかのごとく装うためのカモフラージュに利用されることの方が多かった。政府や主催者の結論は、最初から決まっていて、反対意見は言わせるだけであってほとんど無視されてきた。
ところで、政府や役所の「やらせ」はこれだけではなく、各種審議会や諮問会議はほとんど大っぴらの「やらせ」ではないかと思う。この種の会議の委員は政府機関や役所が選んで任命している。
たとえば、昨年末に委員長が問題になった「税制調査委員会」も典型的な「やらせ」である。前会長の本間政明阪大教授は、法人税減税について安倍首相や財界と同じ意見であった。だから、安倍首相は彼を税調の会長に選んだ。
日本の法人税40パーセントは欧米と較べて高すぎるから、景気をよくするために企業の減らすべきだと、本間教授は主張していた。しかし一方では、国民の所得税や掛け金を上げている。それも生活の苦しい低所得者まで増税した。それに引き換え、大企業は莫大な利益を上げて、金がダブついているという。法人税が低いのはヨーロッパであって、アメリカは低くないそうである。そして、ヨーロッパは日本のように国が大きな借金を抱えていない。しかも、日本では国や地方自治体は膨大な借金を抱えて、破綻しかけている。
このような状況なのに、今なぜ法人税を下げるのかと腹立たしく思っていた。政府や本間教授の意見には、当然ながら批判や反対意見が出ていた。それにもかかわらず、安倍首相は本間氏を税調会長に任命して、自分と財界の意見に沿った答申を出させようとした。これは公然とした「やらせ」であろう。
本間教授はスキャンダルのために、税調会長を更迭させられたことは国民にとって幸いであったと思う。別の例として、文部科学省の審議会がある。審議会委員の人選は文部科学省が行う。文科省の政策に批判的な人を一人か二人加えるが、ほとんどは文科省寄りの人か、そこに繋がりのある人が選ばれる。反対意見も聞いているとの体裁を整えるために批判者を僅かに加えるのであろう。だから、結論は初めから決まっていて、文科省のお膳立てした答申の「承認機関」の役をさせられてきた。これも一種の「やらせ」といえるであろう。
そのように構成された委員会でも、時には反旗を翻して反対意見を答申せよと言う人(あるいは会)があるが、それも役人によって骨抜きにされた答申に曲げられてしまうと、激怒して委員を辞任した人がいた。これはつい最近マスコミで報道されたことだから、記憶に残っているであろう。
私的諮問会議は別として、公の各種審議会や諮問会議の人選を第三者が行わずに、当事者の役人が行うのでは余り意味がなく、単なる承認機関となってしまう。このような制度を改めなければ、ほとんどの行政は「やらせ」で動かされているといっても過言ではないだろう。
最高裁判事の任命も政府であり、日銀の総裁人事もそうだし、政策も政府に規制されている。近代民主国家の三権分立制など絵に書いた餅同然であろう。国民は気づかないまま、この制度・慣例に載せられているのではなかろうか。最近露見したタウンミーティングの「やらせ」よりも怖いのは、日本のこの体質のように思える。
(編集:菅野)