私達の教育改革通信

   100  2006/12

 

 

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ブッダの悟りと、キリストによる救いおよび西欧哲学との対応性 

――「ワレ」の存在のしかたをめぐって――

中小路駿逸

 

はじめに

私は、かつて、ここにこれから述べることがらをひとまず宿題としたままで、日本文学を専門とする道をえらんだ。そのうちに、その宿題がしだいに解けていくように思われる事件が、いくつも起こった。その概略を述べておく事は、アジア文化とそのソトに位置するものとの関係を考える上に、意味のあることかもしれないので、記しておくことにする。

1.叙述は、まず、事の次第を遡っていく。筆者は、現在七十四歳。八年前の七月十九日のこと。夕食のため、立ち上がって、書斎の扉の方へ歩き始めたとたん、一連の考えが、心の中に、突然現れた。一、認識の対象と、それを認識する主体とは、別の場所にある。二、生成し、流転し、あらわれては消えていくところの、ありとあらゆるものごとの全体:それは一時あってうつろい過ぎゆき、したがってその意味で「無」であり「空」であるが、その物事の全体が、ウチに属するとひとまず考えられるワレをも対象として含めつつ、くまなく正確に認識された時、それをそのように認識している主体であるところのワレは、その、「生成し、流転し、あらわれては消えていく、ありとあらゆる物事全体」の、ソトに位置する。三、その、「生成し、流転し、あらわれては消えていく、ありとあらゆる物事全体」のあり方とは違った、「無」でなく「空」でないありかたがが行われていて、観察者ないし覚知者としてのワレは、そこに位置する。四、昔ゴータマ・ブッダは、少なくとも右の三つの事を含む真実を、知った。そして、この三つのことを、ある理由から、ここに書いたような形では告げなかった。さらに、その説明を期待したり、求めたりすることをも拒否したのである。ただし、ゴータマ・ブッダは、その“なされなかった答え”に相当するものを、別の言い方で、たしかに暗示していた。自己が自己である自覚がつづいていて、しかもよろこびと安らぎがあったという暗示的な言い方によってである。その“言われなかった”こと、および暗示的な言いかたの奥に、大事な告知がそれとなく語られていた。私の心に現れた右の三つの事項こそ、その“なされなかった答え”の核心である。そのことに、私は、いま、気づいたのである。――以上である。時間にして、二三秒、核心部は一秒以内といってよいほどの短い時間のうちに、上に書いた何倍もの分量の論理的思考がものすごい早さで心の中に進行した。細部の吟味はあとにして、疑う余地のないものとして受け入れるほかなかった。

2.これらの思考は、突然現れたが、それについては先立つ事情がある。ゴータマ・ブッダが発見した事は何か、何故説かれなかったか、説いたなかに説かれなかった事が入っているのだがそれは何か:それがずっと前から宿題として心にあった。それが意識されたのは、二十五才の四月のある日、イエス・キリストに出会ったというしかない一種の回心といってよい体験で、イエス・キリストをわが主と信じたが、その直後であった。

3.時を、二十五歳を更に十三年遡って十二才の春三月、旧制中学に合格し、入学直前のある夜のこと、畳の上で、目を閉じた途端、突然気がついた。自分は、ここにいる。確実に、いる。そして、この自分がいなかった状態からいる状態になったものであることを、自分はすでに知っている。そして、いま、確実に気がついた。この自分は、いつかは知れないが、いつか、確実に、いなくなる。そのとき、自分にとっては、自分も、自分でないものも、すべてなくなり、そして、永遠に、それっきりとなる。処で、もし、そのことが確実に起こるのだとすると、いま、ここに、このようにして、意味とか価値とか、良いとか、美しいとか望ましいとかに満ちて存在する、複雑にして精妙なる全宇宙が、自分のウチにあるものも、ソトにあるものを含めて、すべて、自分にとっては、初めから、なかったと同じになってしまう。また、考えてみれば、自分が今しがたまで、ある、あると考えてきたすべては、物理的なモノであろうと、心理的なコトであろうと、すべて、生まれてからあとに生じた自分の心のなかの想念以外のものではあり得ないのではないか、世界が、自分のウチをもソトをも含めて、自分が感じ取っているとおりの姿で客観的に存在しているものだと考えていたのは反省を要することではないか。つまり、自分による認識というものの内容には、根幹についても、枝葉についても、間違いが含まれている可能性がついてまわるのではないか、この自覚自体も含め、すべて初めから無かったのと同じことになるのではないか。かりに、自分のソトに客観的に自分のソトの世界があり、その世界のウチに一つの要素として自分が物理的に客観的に存在していて、その自分という一つの要素がなくなっても、そのほかの要素は永遠に続くとしたところで、そのことに何の意味を誰がどこにいて認めるというのであろうか。どのみち初めから、すべて無かったのと同じことになるのではないか。ともあれ、すべてが確実に消滅してそれっきりになるもの、さらには、自分のソトのすべてもいつかは消えて永遠にそれっきりになるものとすれば、そして、そういうものの一つでしかありえないことの何処に、意味とか価値とかがあり得るであろうか。まったくの無意味のなかに、死ぬまで生きていなければならない。それは、恐ろしいことである。―――少年は、ハイデッガー(「存在と時間」)の描いてみせた人間像の場合のような「不安」よりも「恐怖」を感じた。物理的体験といってよいほどの実感であった。死への恐怖であると同時に、もっと恐ろしい、生への恐怖、この、死へ、無限の消滅へと進むほかに逃れようのない生への恐怖であった。目の逸らしようのない、この恐怖のなかに、死ぬまで生きているほかはない。一体、意味とは何か、どう恐怖を処理したらよいか、そんな思いが点滅したが答えるすべはなかった。――それからあと、この少年は、やがてというよりこの体験をへて、青年になった。そのウチとソトとの自叙伝は省略するが、概略では、彼は、旧制中学、旧制高等学校、旧制大学を卒業して、新制高等学校の国語科の教師になっていた。

4.それから十三年を経て、二十五歳の春、四月、イースターの直前。いろいろさまざまの思索、思案の末、この若者は、「新約聖書」の中から「重荷を負う者は、だれでもわたしもとに来なさい。休ませてあげよう。」と呼びかけてくるイエス・キリストに向かって、こう問いかけていた。「イエスよ、私は、死ぬことが恐ろしく、従って、生きていることが恐ろしく、生きることも死ぬこともできなくなっています。この重荷を、あなたのところに下ろしてよいでしょうか。」すぐに答えがあった。「そうだ。」若者は、また問うた。「それでは、この私の死を、あなたがすでに死なれたのだと、考えてよいのでしょうか。」すぐに答えがあった。「そうだ、私は、あなたのために、その恐ろしい死を死んだのだ。持ってきなさい、その重荷を、早く、早く。」この瞬間、二千年の時間のへだたりを超え、一万キロの空間のへだたりを超えて、エルサレムの街のソト、ゴルゴダの丘の十字架の上でのイエスの死に合わされて私は死に、そして、現に、なお生きていた。「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。」という通りになっていたのである。私は、イエスの復活に合わせられ、永遠の生命に受け入れられ、イエス・キリストのからだの一つの部分となった。イエス・キリストはその死も現在に対して有効であると同時に、復活して現在にも生きている。このイエス・キリストが現在にも生きているということが、私に対するイエス・キリストの死と、私が救われたこととの有効性の保証なのである。私の心のなかには、もう、死と生への恐怖を、感じる必要がなくなった。そして永遠の生命とはどういうものなのかを考える必要さえ、なくなった。イエス・キリストの愛のなかに、限りなく生きている、そのことだけで十分となったのである。この一種の回心は、核心はほんの二、三秒のことであったが、前後合わせて三十分ほど、驚きと歓喜と感謝が、一種の発作のように起こっていた。そしてその記憶は、何度でもよみがえらせ、吟味し検討することが出来た。私の到達したものは、確かにキリストによる救いの正統的なかたちに合致していた。と同時に、すでに知っていた証言、パウロのそれ、アウグスティヌスやパスカルのそれとも到達した結果は同じであったが、かたちについては、違った道具立てのものであった。ひとによっていろんな形がありうる。私は、そう理解するほかなかった。

5.そして、そのことと併行して、もう一つの想念が、私の中に起こっていた。ここに、いま体験したことは、たしかにイエス・キリストによる回心に違いないのだが、同時に、どこか、仏教の、とくに、禅の悟りというものと通うところがあるのではないか。一体、ゴータマ・ブッダは、むかし、正確に言えば、何に気づいたのであろう? 私は、それを確かめなければならない。――これが、その想念の内容であった。この想念はなぜ起こったのか。――次のような「理」がその想念のなかに含まれていた。自分が生に対して抱いてきた恐怖は、実は生への、そして生の中にあるワレへの執着であった。この執着が考えの間違いを生み、恐怖を生んでいたのである。過ぎ去り、消えて、それっきりになるべきものに、いつまでもあるべきものとして執着すべき理由は全くない。執着を捨て去り、それっきりになるべき自分をそれっきりにならせてしまえば、なんと、自分は実はそれっきりに何にも無いものになったのではなくて、思いもよらなかった自分が、ここに、以前からのアイデンティティをちゃんと継続させつつ、生きているではないか。この新たな自分が、ほんとに新たに発生したのか、もとからあった正体なのか、いつまであるものなのか、どこまでひろがるものなのかは、問うことも答えることも、まったく必要がない状態で、――これが、その「理」の内容なのだった。これが、ゴータマ・ブッダが、知り、かつ説いたとされることがら、さらには、説かなかった点を含むところの教えと、どこか通い合うところがあることは明らかであろう。私が、それを確かめたいという念願を起こしたのは、当然のことではないか。――それからあと、日本文学の研究を中軸に据えながら、音楽、哲学、キリスト教学、仏教学を含む、いろいろな分野の研修をし、それから四十一年の模索を経て、私は、冒頭に述べた、六十六歳の夏のある日の「発見」に見舞われたのであった。

6.ここに発見されたことがらは、すぐに反芻され、吟味され、検証され、補足され、堀を深めていくことになった。ゴータマ・ブッダは、次のように語った、と経文(阿含経)に告げられている。「自分はそのとき、瞑想の中で、次のことを知った。先ず、自分自身の過去から現在までに経てきた事実が、すべてわかった(宿命通)。次に、自分以外のすべての人々の、過去と現在と未来とが、みなわかった(天眼通)。次に、自分は、もう、この過ぎ去り輪廻し、そのことによる「苦」からいつまでも離れられない状態から離れていて、この過ぎ去り輪廻する場所のなかには、再びもどることがない、と確信できた(漏尽通)。」そして、これらの知識に伴って、「覚有り観有り、離より生ずる歓びと楽あり」、つまり、自己の存在の意識、観察と対象と主体の区別が、よろこびと、やすらぎを伴っていた、とある。さっきまで「苦」であった筈の状態が、なぜそれが「苦」であったのかという道理とともに、ありのままに、つまり「苦」がそのものでもあるままで知られた時、それをその様に知った彼自身という主体は、どこにいるのか。当然、「苦」の状態にしか有り得ない場所の、ソトに居るのである。「苦」そのもののソトに位置しなくて、どうして「苦」の全体と、それとは全く逆のよろこびとやすらぎとが、同時に、知られ、かつ感じられ得ようか。何かから離れたればこそ、その何かはありのままに知られたのである。そういう「ソト」があることに、ゴータマ・ブッダは気づいたのである。「苦」は「無明」から生ずる。「無明」とは、その「苦」のソトの場所にワレを位置させることが出来ることに、まだ気づかない状態のことである。「無明が滅して明が生じた」というのは、その「苦」のソトの場所にワレが位置していることを知ったということである。その新たに知った場所には、「苦」でなく、よろこびであり安らぎであるものが、これはワレであり、ワレは生きて存在し続けているという自覚を伴いつつ、あったのである。「無明」から生じる「苦」から離れたワレが、どうして「無常」のウチにあるワレと同じであり得ようか。のちに大乗経典の『般若心経』に「無無明、亦無無明尽」(無明もなく、また、無明の尽きることもなく)と説かれているのは、この「無明」がただ一時現れては過ぎ去る:すなわち、ワレがそのソトに出ることによってか、出ないままに消え去ってしまうことによってか、どちらであるにしても、現象であり、その「無明」がワレにとってもはや無くなる、ことも、また、ただひととき現れては過ぎ去る一事件にすぎない、という意味である。「無無明」は、「無明」がないという意味ではないし、「無無明尽」というのは、「無明」が尽きず、いつまでも「無明」のままなのだ、という意味ではないのである。「無明の尽きる事件」がひとたびワレに起これば、そのさきにあるものは、ただ、限りなく「明」なのである。故に経文には「無明」(明も無し)とは説かれていないのである。また『大般涅槃経』に、完全なさとりが得られたあとのワレの状態は、「常」であり「楽」であり「我」であり「浄」であって、決して「無常」でも「苦」でも「無我」でもないと説かれているのも、同じ意味なのである。さとりの内容が何もないのではない。ワレにとっての「無明」がなくなった、それで十分なのである。ゴータマ・ブッダが、悟りの前とあととの状態それぞれの始源や終末の有無についての質問に応じることを拒否したのは、そんな問答は、「ソト」に位置するためには、キリもないムダだからである。

7.このことと、私の二十五歳のときの回心とは、どんな関わりを持つのか。――ほかでもない。私がイエス・キリストの死に合わせられて死に、イエス・キリストの復活に合わせられて復活した、その次第は、まさに、ゴータマ・ブッダの悟りの次第と、骨格に於いて同じものであった。私はイエス・キリストによって死から復活へと移されたということは、「無明」からさとりへ、「常・楽・我・浄」の状態へと移されたのと、対応することなのであったのである。――私は、そのことに思い当たったのである。宿題が、ひとまず、これで解けた。――そのように、私には納得された。――無論、まだ明晰にことばで表現されていないことや、新たに現れた展望や課題が、いくつもある。事柄は、何かが終わったと同時に、さらなる何かが新たに始まったばかり、といってよい。そうして、このような対応が現れるのは何故かというのも、課題の一つである。――これについては、ひとまず、次のように想定しておく。―― 一つのことが、どこかで確実に起こっていて、その一つのことが、その地域の文化に対応した形で納得されるという機構が働いている。:即ち、ワレが生き死にを繰り返すことが前提となっている場合には、それは輪廻の苦しみからの解脱というかたちをとり、死んだらそれっきりになることが前提となっている場合には、それは復活ならびに永遠の生命への救いというかたちをとるのである。このかたちは、さらには、個人ごとにもいくらか違ったかたちをとるもののようである。――この想定が正しいか否かは、無論、新たな宿題ではある。

8.このように理解出来たところのゴータマ・ブッダによる告知の内容と、西欧の哲学、とくに近世以降の哲学者たちの見解との間には、組み合わさったり、前者が後者を包含したりと言った関係が、認められる点がある。――デカルトは、自分の心の中に認識されている対象がすべて(そのような想念を抱いている自分を含めて)真実かどうかは疑わしいとしても、ともかくそのような想念が働いていることは絶対に疑いえない事実であり、そのことが事実である以上、そのような想念をおこしている主体が存在することは確実である、という判断に達した、と理解できる。――ところで、いまの私の考えによれば、これよりも壮大な仕掛けで確実で豊穣な判断を、すでにゴータマ・ブッダはしていたことになる。およそ観察の対象になりうるような事物や想念の範囲内にあるものは、それは常なる本体を具えてそこにその様にあるものではなく、自分についても、そこにあるものはワレではない、ワレはそこにあるのではない、ということになっていき、ついに、「明確に把握された存在のすべて」のウチにはいないという理が、まったく確実なものとして把握された。さて、まさにそのとき、ワレはどこにいるのか。無常なる存在のソトにいるのである。そうでなければ、この理そのものが無常なものの一つとなるしかないであろう。つまり「ワレはそこにはいない。ゆえにワレはそのソトにいる」のである。――ジェームズは、認識の対象になりうるワレすなわち「非我」と、それを対象として認識する主体「自我」をひとまず区別した上で、心理学上の処理としては「考えられた内容が考えの主体である」と考えることにした。――ジェームズの見解は、ゴータマ・ブッダの説いたことのなかの、過ぎゆくものでしかないワレの構造に相当する。ゴータマ・ブッダは、それよりも遙か前に、過ぎゆくものでしかないワレと、そのソトに位置できるワレとを区別して解脱の法を説き、過ぎゆくものでしかないワレに執着するのが「苦」であることと、そこから解脱してソトに位置するワレの構造の内容については、ある程度以上は全く説く必要がないこととを告げていたのである。――フッサールは、認識できるもののすべてのソトに超越的な場所があり、認識の主体はそこに位置することに気づいていた。これまたゴータマ・ブッダによってすでに告げられたことの一部に対応すると考えられるものである。――ウィトゲンシュタインも、存在の意味は存在のナカにはなく、ソトにあることに気づいていた。例えば「世界の中には価値は存在しない。そして仮に存在するとしても、それは価値を持たないであろう。価値のある価値が存在するするならば、それは全ての生起や、かくあり(So-Sein)の外になければならない。」「時間空間のなかでの生の謎の解決は時間空間の外にあるのである」というように、である。――これも、同様、ゴータマ・ブッダによって告げられたことの一部に対応すると考えられるものである。

 上のような西欧の哲学者たちの“気づき”はゴータマ・ブッダが、すでに二千年以上前に、明晰な面と、極めて隠微な暗示的な面とを持たせて説き示していたことの一部に対応し、または一部に含まれていたものであった。私は、「ウチ」「ソト」「場所」という、フッサールやウィトゲンシュタインと同様の要素を含む概念を考え出し、これらを含む考え方を補助線のように使って、ゴータマ・ブッダがわざとあからさまには説かなかったこと、説くことを拒否したことを、はっきりと認識の場に持ち出し、縁ある全ての人々の前に示したのである。これは、あるいは、人類の今後の哲学的思考の進展にとって、限りなく豊穣な収穫を約束する性格を持つことなるのではあるまいか。

(哲学する国文学者の中小路駿逸さんがこの十一月五日に急逝された。この遺稿、といっても二年ほど前の200411月、さる大学の年報に載ったものだが、少し難解なので、恐らく理解する人も少ないまま数人の友人に送られたのではないかと推察される。今、これを手に取ってみると、その並々ならぬ人生哲学に圧倒されるばかりである。もっと長生きして熟し、荘子のような寓話を書いて欲しかった。諸行無常、五徳の冠者 海野和三郎)。

 

政治におけるカオス現象で世界は大混乱  

菅野礼司

 アメリカ議会の中間選挙でブッシュ批判派が大勝した。ブッシュ大統領は「テロ対策」と称して、アフガン、イラクで戦争を起こしたが、その戦争の結末は泥沼化し、テロが世界中に広がった。それにより、民間人を含む多くのイラク人やアメリカ人、そして世界中のあちこちで市民が犠牲になった。ブッシュは、世界を混乱させ、テロを世界中にまき散らしたことになる。

 6年前の大統領選挙で、ブッシュはゴアに競り勝ったが、その差は一つの州でのわずか100票余りが決めたようなものであった。もしゴアが当選していたら、地球環境問題も含めて世界情勢は現実とは大きく変わっていたろう。

 何千万票のうちのほんのわずかの差が、地球全体にこれほど大きな悪影響を及ぼしたわけである。これは正に、政治におけるカオス現象である。 カオス現象とは、極小さな変化が長時間後に、増幅されていき、想像もしないほど

大きな変化を引き起こす現象をいう。最初のほんの僅かの差が長い時間の後に、とてつもない大きな差を生じるのもカオス現象である。「ニューヨークの蝶の羽の一はたきがカリブ海のハリケーンを引き起こす」という例え話がある。 ブッシュの当選は、自然のカオス現象の政治版である。

 自然界ばかりでなく人類社会も、ちょっとしたことがきっかけになって何が起こるか予測がつかない結果をうむ。ブッシュ大統領が当選したために、犠牲になった人は思いもかけない不幸に巻き込まれたわけで、誠に気の毒である。 アメリカのこんどの選挙で、蓄積されたブッシュ批判が噴出した。これでこれまでの方針が少し修正されそうである。それにしても、イラクの混乱をどう収集するのか。周囲の中東地域の情勢も複雑であるから、大変困難であろう。

  それにつけても心配なのは、最近に日本の政治である。過去60年来、自民党政権は右に舵を取って少しずつ政治を進めてきた。最初は右寄りの角度は小さくとも、その進路は長年のうちに大きく開いてきた。しかも、この頃は右への角度変化も急に加速されて、雪崩を打つように地響きを立てて動き出した感がある。 首相の靖国参拝、国旗・国家の強制、教育基本法と憲法の改訂、海外派兵、核武装論など、敗戦直後では想像もつかないようなことが、次々に顕在化してきた。 これも最初の方向選択の僅差が長年のうちに、非常に大きな影響を及ぼすという点で、政治におけるカオス現象といえる。 安倍内閣の政治方針に警戒心をもって注意しないと、戦前のように、気づいたときはものがいえない状況になる危険性がある。 このような思いを特に強く抱く、今日この頃である。

 

教育は如何にあるべきか(2)

(編集付記:講演記録からの一部抜粋)

 

グローバル時代の地球温暖化問題への視点

     環境問題には処方箋を

                           矢吹萬壽

1.       農学とは

柏祐賢著「農業原論」(昭和37年)によると、『工学、農学、医学などの諸科学と自然科学および文化科学とを比較、対比攻究すると、農学・工学などは情報の理論と組み立ての理論とを基礎とするもので、自然科学や文化科学などとは異なるところの独自の第三の科学領域に属する学問であり、中でも、農学は自然の生物学を媒介とする人為の多目的な営農体系に他ならず、決して単なる「ある世界」ではなく、「作る過程的秩序」である』とされる。即ち、農業は単なる自然認識の生物学とは異なり、複雑な環境条件の下で複雑な生理機能を働かせて生活している生物を用いて、その生産技術の向上を図るものであるから、両者の複雑な関係を現場に於いて定量的に求めなければならない。このことは、今の課題である地球温暖化問題も現場で直接に対象と格闘する中で解明し、そして処方箋を書かなければならない事を示唆していると言えましょう。

前にも申しましたが、 私は、九州帝大の農業工学科で鈴木清太郎教授に師事し農業気象学を専攻しました。この講座は内容が難しく卒業しても就職先もないとのことで評判は余りよくなく、専攻したのは同期生15名中小生一人でした。昭和23年3月卒業、農業省農事試験場・農業気象部(後に農業技術研究所・物理,統計部に改組)の採用試験を受け、幸いに合格し奉職しました。驚いたことに、学生の時に講師であった三原義秋先生が研究室長に着任され、小生が三原室長の助手を務める事になり、徹底した現場教育を受けました。特に「降雨の落下エネルギーと土壌浸食」の研究で「研究の方法論」を直接に学ぶ事が出来ました。昭和27年の半ばに、大阪府立大学農学部農環境学講座の西内先生より転任のご依頼が何度もあり、感激して、昭和28年10月1日着任しました。着任の当日、西内先生から「君は私を手伝う必要ない、君の研究を一生懸命やれ」と言われました。南大阪の散歩にさそわれ、先ず仁徳御陵前の畦立ての畑に案内され、棒で2つの桶を担いで畦の野菜に灌水しているのに出会いました。よく観ると桶の底には穴があり、棒を担いでいる手でこの穴を開閉して散水量を調整していました。次に、大阪湾の沿岸域では、多くの風車が並んで、大阪湾から吹く北風を利用して風車を廻し、手押しポンプを動かせて灌水用の地下水を汲み揚げているのでした。この地域は、金剛山からの地下水が海に流入しているので、この地下水は当時色々な方面に利用されていました。もう一つ紹介しますと、当時大阪の蜜柑生産量は和歌山県より多いくらいでしたが、大阪の蜜柑は2〜3月頃まで冷蔵した方が美味しいと言うことで、各蜜柑農家は冷蔵室を持っていました。本宅の外に面した一間を厚く壁造りとし、床面に沿って高さ12〜13cmの

横穴を開け、天井にも穴を開けております。床面の横穴から朝の冷気が入り、室内の暖気は天井の穴から放出されます。室内が冷気で満たされるとその横穴を閉じるわけです。まことに巧妙で、エネルギーを全く使用せず、単に横穴の開閉だけの操作です。当時、神戸市では種子の発芽調節に「風穴」を利用していました。以前の農家は叡智を働かせ、自然エネルギーを有効に利用していました。「環境対策は処方箋から」の昔の思い出

です。

. COとの出会い

農事試験所に在任中の研究に「水田水温の上昇法」がありますが、大阪府立大学赴任後に、水田水温の成立機構の主因たる「熱収支」「水収支」の測定を2年おこない、論文を仕上げました。北大農学部物理学科八ヨ利助に見て頂いたところ、この論文に対し学位を差し上げたい、至急手続きをとるようにとの長文の電報を頂き、農学博士を昭和31年6月33才で頂きました。これが機となり小生の人生は大きく展開しCOとも出会う事になりました。

昭和35年度に、農学のメッカと言われていた英国のローザムステッド農事試験場に留学することになり、物理部長のベンマン博士と連絡をとったところ、当方では畑の「熱収支、水収支、CO収支」の研究を行っている。このうちの一つを選べとのことでしたので、初めて聞く「CO収支」を躊躇なく選びました

試験場に到着し、ベンマン博士を訪ねると、これからザイツ君が君を案内する、と言うので、荷物を部長室に置いて圃場へ出ました。広大な農場の中に初めて見るケール畑がありました。その横にある観測小屋の中に見たこともない測器がカチン、カチンと音を立てながら何か記録しています。尋ねると「Infra-red Gas Analyser」だと言います。更に質ねると赤外線によりCO2 濃度を測定するもので、今はケール畑上の5点でCO2 濃度の垂直分布を測定しているところだ、と言います。日本では、化学分析でCO2 濃度の測定が漸く始まったばかりでした。部長室に帰ると、君は物理学研究室の室長モンテイース君が近日中に帰ってくる。彼は大気と圃場とのCO2 交換量を測定するが、きみは地中から放出するCO2 量を測定することになっている、と言い、50cm余りの高さに書物が私の机に積んである。土壌面からCO2 が放出される現象を「土壌呼吸」と言うが、この試験場では1920年頃から研究されており、非常に有名でしたが、土壌呼吸量の日変化の磁気記録装置を造り測定しろ、と言うわけです。その後、色々と資料を漁っていると、COEnrichmentという言葉に出会いました。温室内空気のCO2 濃度を高めて栽培すると、生育が促進され、収量が増加する栽培法との事、これこそ自分の専門の環境調節工学ではないか、帰国したら是非この研究をやりたいと考えました。

理論的にはこれとも関連する「光合成速度の拡散抵抗理論」がありますが、これも日本には紹介されておりませんでした。光合成は次式で示すように、 

             光合成――>

CO+HO+112kcal   CH2O+O2

             <――呼吸

葉緑素内でCO2 とHOとが光112kcalによりCH2OとO2が生成されます。光量を増すと光合成量は増加しますが、光量が多くなると比例しなくなりますが、それは葉緑素中に光合成産物が蓄積するためだとされていました。植物によりそれが異なるので、植物の特性とされてきました。しかし、この考えは全く間違っています。

 上の光合成反応式は1804年に成立しましたが、その後、COはどのような過程で葉緑素に達するのか問題になり、主に気孔を通り一部は表皮を通って葉内に入り、葉肉を通って葉緑素に達するとしましたが、最終的には、大気中のCOが葉緑素まで達する拡散過程に抵抗があるとして電気のオームの法則を適用し、

 P=(C−C)/R

但し、C及びCは大気中及び葉緑素のCO2 濃度、Rは拡散抵抗値とします。問題はこのRで、気孔の上に椀上の丸い空気層、気孔、表皮、葉肉を考えました。この考え方を「拡散抵抗理論」と名付けましたが、これにより「光合成量」即ち生産量に焦点が置かれ、農業生産への基本的な考え方が生まれました。これを作ったのは1900年のことでしたが、留学した当時、COEnrichmentとこの拡散抵抗とを帰国したら是非研究したいと考えていました。

1961年帰国し、CO濃度と蔬菜の生育との関係の研究を蔬菜学の今津正教授、織田弥三郎助手と開始し、科研費で英国から赤外線ガス分析装置を購入しました。植物育成装置を開発してCOはどの濃度と蔬菜生育との関係を実験で求めたところ、効果は非常に顕著で、例えば、フダンソウではCO10倍区が乾物量で約5倍、コカブではCO30倍区が球根部乾物量で19倍という想像も出来ないほどの増収となりました。葉緑素へのCO拡散量が増加したことによるものでした。

 この時に浮かんだ発想として、拡散抵抗に葉面境界層を加えるべきではないか、と言う事でした。平面に風が吹くと空気と平面との摩擦により、空気の粘性が働いて風速の遅い層ができますが、風の強さや面の荒さで層流境界層になったり乱流境界層になったりします。葉面境界層の厚さは風下に行くほど厚くなり、風速が速いほど薄くなり、従って風速によって光合成量の分布が異るだけでなく、同じ葉でも風向に対して葉を縦に置くより横に置く方が光合成量は多くなります。シュリーレン写真機を用いて葉面境界層の形態を写真に撮り、航空工学の西岡氏の協力を得て葉面境界層の構造を求めることが出来ました。更に特殊な水槽を作成し、詳細に表面境界層の構造を求めると共に、光合成反応によって葉内に出来る澱粉を発色させて光合成の分布も種々の条件下で測定しました。

 もう一つの興味深い「自然現象」として、群落状態の植生での光合成量について、日本では水稲(草丈65cm)、タイではサトウキビ(草丈2.2m)と熱帯乾燥常緑樹林(樹高32m)の群落について、自然の状態で光合成量を測定しました。その結果は極めて興味深いもので、水稲とサトウキビの光合成量は0.8乗に比例し、乾燥常緑樹林では0.5乗に比例しました。これはCOの拡散が水稲とサトウキビでは乱流拡散、常緑樹林では層流拡散になっていることで、後者は予想しなかったことなので調べたら、葉が林の上部の樹冠に集中し、そこでは20cm/sec

以内で葉面境界層が層流であることが分かりました。このように、葉面境界層は光合成量に大きな影響を与えるものであることも分かり、農学は単なる自然認識でなく現場で実態をさぐる学問であることも確認されます。

 もう一つ、大きな現場での発見は、光合成量が「根圏のCO濃度」によっても異なる事です。植物が海から上陸したのは4億5千万年前、当時の空気中CO濃度は20.5%という高濃度だったので、植物は大繁茂し今も石炭・石油として一部のこっているということですが、当時の根はコケのように植物を固定するだけのはたらきでした。それが、1億2千万年前、空気中CO濃度が0.2-0.3%になり、現在の植物の根と同じ機能を持つようになった由ですが、驚いたことに、土壌中のCO濃度が約0.3%以上になると葉の光合成能力が低下します。

現場で研究すると、自然の不思議な現象が次々と浮上してきます。  以下次号

 

小さなソクラテスの連鎖

                 茂木和行

 この11月、ビジネスマンたちとの勉強会で、時代の変革を予感させる5人の若者集団と出合った。グループ名を「Will Forward」と名づけた彼らのかかげる標語は、「志(Will)の連鎖による新しい社会の創造」。「集」(志持つ同志たちを引き合わせる環境づくり)「創」(新たなWillを起こすためのモーニングディスカッション)「遊」(50人で鬼ごっこなど、遊び心を忘れないための大規模イベントのランダム開催)「感」(人生や社会人における緒先輩方へ感謝の意を込めてのセッション)「継」(Will(志)を継ぐための活動全般。自らが高い志を持つことで人間を啓蒙する)の五つを具体的な行動プランとして掲げ、月2回仕事前の朝6:00-8:00に、銀座のファーストフード店に集まって行動計画や社会情勢全般について論じ合っているという。10年後に、ポジションや肩書き、所属にとらわれることなく、利害関係も抜きにした志の高いメンバーを集め「これからの日本・時代をどうしていくか?」について、本気で話し合って具体化していくための「Will Forward Summit」を開催したいという。

5人のメンバーは1980年から1983年生まれ、いずれも20代のフレッシュな若者たち。出身地(東京、茨城、北海道)、出身大学(慶応大、横浜市立大、神奈川大、青山学院大、筑波大)ともさまざまで、勤めている会社も異なる。「ぼくらは何不自由ない時代に育った。今度は、未来の人たちにぼくらがもらった恩恵をわたしてあげたい」と情熱を込めて語る。「志」を次々と他人にバトンタッチしていくことによって、社会を変革していこうという発想は、メンバーの一人が大学一年のときに感動したミミ・レダー監督による米国製劇場映画「ペイ・フォワード」から取ったのだという。

彼らのプレゼンテーションを聞いた現役サラリーマン(多くは、シニア世代だが)からの評価は、きわめて辛らつで手厳しいものだった。「甘い」「青い」が代表的な声で、「50人で鬼ごっこなど、実に子どもじみて馬鹿げている」と、さんざんな批評であった。だが、彼らにとって何よりも残念だったのは、「志の連鎖による社会変革」というキーワードに誰も共感を示してくれなかったことではないか。それは、「志の意味がわからない。ほかの用語に変えたらどうか」という声に多くがうなずいたことによく現れているが、発想の源となった映画「ペイ・フォワード」に関心を示す者が一人もいなかったことで感じられるのである。おそらくは、その場にいたビジネスマンたちの誰もが、この映画を見たことがなかったのではないか。恥ずかしながら私自身もその一人であり、あとで映画を見て彼らが本当に言いたいことがわかったのである。

映画「ペイ・フォワード」は、酒におぼれては暴力を振るっていた父は家を出て行方知れず、母親もアル中、祖母はこれまたアル中のホームレス、という問題家庭の少年が主人公である。中学一年の社会科の時間に、先生が風変わりな課題「世界を変える方法を考えなさい」をクラス全員に与える。少年が考えたのが、恩返しではなく「恩送り」による社会改革プランだった。善いことをしてもらったら、三人のほかの人に善いことを送っていけば、「善意」が世界中に連鎖的に広がっていく、というアイデアである。ホームレスになっていた祖母への少年の思いやりが、警官に追われている強盗を助け、その強盗が喘息で死にそうな少女に病院の診察順を譲ってやり、高名な弁護士である少女の父が車を壊された新聞記者にジャガーをポンと譲ってやる。記者は不思議な善意の元を尋ねてやがて少年にまでたどり着くが、彼はいじめられている同級生を救うため不良に立ち向かい、ナイフで刺されて殺されてしまう。葬儀の日、少年の蒔いた善意に救われた人たちのろうそくの火が、遠く大地の果てまでともるラスト・シーンは感動的であった。

「志の連鎖」を掲げる彼らの話を聞いて、私自身はサルトルの言葉「内なる左翼」を思い出した。内なる左翼とは、「内なる反体制」と言い換えても言い。どのような状況にあっても、このままでいいのだろうか、という気持ちを心のなかに常に持ち続けることである。それは、自らに対しては驕りへの戒めとなり、社会に対しては絶えざる疑問の提示となる。「志が高い」とは、常に現状に満足せず、絶えずより高みを目指す姿勢であろう。若い彼らの意気込みのなかに、このサルトルの「内なる左翼」と同じ気概を感じて、頼もしく思ったのである。

官製談合による相次ぐ知事の摘発、あるいはタウンミーティングにおける行政によるお粗末な「やらせ」、などなど、新聞紙上を賑わせている事件に共通して言えるのは、登場する人たちの「志の低さ」であろう。品位や品格まで問われている日本の現況を見るにつけ、一つのソクラテスの欠如、一つのプラトンの欠如、が思われてならない。ソクラテスが人々に説き続けたのは、地位、名声、金銭などへの執着を戒め、「己の魂(心)」をひたすら「気遣う」(エピメレイア)ことであった。エピメレイアは、「配慮すること」「面倒を見ること」「世話をすること」「骨折ること」「注意すること」などを含意する言葉であり、 「魂を気遣う」とは己の志を常に高く保つことなのである。

ソクラテスの「魂の気遣い」を身に受けた弟子のプラトンは、ソクラテスのような人間を世の中に輩出させるための具体的な国家づくりに挑戦した。対話篇『国家』はその青写真であり、クレタ島という現実の場所まで選定して国づくりをプランした遺作の対話篇『法律』は、子育てから始める実践計画であった。「善」を体現した理想国家こそ彼の抱くイデアの現実化であり、そのとき理念という高みが現象世界に出現する。

だが、いかにソクラテスの志が高くても、誰もその志を継がなければ、彼の意志は社会に伝わっていかない。プラトンの理想国家は、スーパースターである一人の「哲人王」による現実化であり、そのような「哲人」は望むべくもない。むしろ、個々人が「小さなソクラテス」となって、その志を連鎖して社会に広げていけば、プラトンの求める理想的な国造りも夢ではないかもしれない。彼ら「Will Forward」の若者たちは、知らず知らずのうちに、ソクラテスとプラトンが試みようとして出来なかった、とてつもなく巨大な偉業に挑戦しているのである。

 

彼らの理念:志高き人間と共に世の中に”Will Forward”を起こす

彼らの行動指針:1、利他の精神を忘れない

        2、常に当事者たれ

        3、誰よりも志高くあれ

 

最初の二つは、言葉を変えれば「人に尽くす」「自分で責任を持つ」だろう。母親の涙で更正した話、「出会う人すべてを愛せ」と語った祖母の言葉に発奮した話、知的障害の姉という事実を知ったときに目覚めた弱者への思い、など、自らターニングポイントとしてあげた彼らの少年時代の体験に、恩や志を他者へと送っていく「ペイ・フォワード」の源を感じる。まことに「ミネルヴァの梟は夕暮れに飛び立つ」(ヘーゲル)。一つの映画に素直に感動し、社会変革の実現を目指す若者たちの純粋な試みに、私は新しい時代の息吹を感じるのである。

    (編集 茂木)