私達の教育改革通信
第114 号 2008/2
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学習指導要領の改正案について
菅野礼司
文部科学省は、中央教育審議会の答申を基に小・中学校の「学習指導要領改定案」と教科の時間数を発表した。その特徴は、「ゆとり教育」によって学力が低下したという批判取り入れて、「ゆとり教育」を見直し全体の時間数を増したことと、道徳教育を強化することにあると思われる。そして、学力低下を回復するために、各教科について「基礎」をしっかり学ばせるばかりでなく、その「活用」する力をつけることを重視している。基礎学力を付けるために、理数科などの基礎科目の時間数を増やし、総合学習の時間数を減らした。学力をつけるためのこの改訂案は一応良さそうに見えるし、道徳教育も、愛国心を押しつけるのでなく、人権を尊重し躾や公衆道徳教育を通して他人への思いやりを教えるのであれば結構なことである。
しかし、文部科学省の教育改革の方針と今度の改定案について、基本的なところでいくつかの疑問を持つ。
(1)授業時間数:週5日制のもとでは授業時間数が不足して、教える量を減らさざるをえないので「ゆとり教育」と称して、教育内容を大幅に削減した。その削減方法に問題があった。重要な基礎概念を削除したり、教育効果について一貫性を欠いたために、理数科などの積み上げ式教科などはまともな教育はできないと強い批判が出た。時代が
進むにつれて人文社会や科学・技術などに関する知識は増大するし、まして急速に発展するこの情報化社会では、学ぶべきものがどんどん増えていくから、教育時間は増やさねばならないはずである。それなのに週5日制で授業時間数は大幅に減らされたので、いくら教育内容を精選しても当然矛盾は噴出するわけである。このままでは、大事な基礎知識も教育内容から落とされ、また学ぶ方は消化不良になって、着いていけない生徒が増大するばかりである。こんどの改訂で全体の時間数が増えたので、その点は少し緩和されるだろうが限界があり不十分である。同じことを繰り返し学ぶことで、その知識内容が理解され身に着くものである。とくに、蓄積型の理数科は、着いていけない者をなくすには時間的にゆとりを持たせて反復する必要がある。週5日制は世界の趨勢であるが、そのためには週5日制を一度検討すべきではないかと思う。
(2)10年ごとの定番改訂:文部科学省は文部省の時代から、戦後は10年ごとに教育制度と指導要領を改訂してきた。その改訂はほぼルーチン化され、「改訂のための改訂」の感があり、しかもその方針に一貫性がないためにその内容は振り子のように大きく揺れて、それに対応させられる現場の教師はそのたびに四苦八苦させられてきた。これは戦後教育の哲学的理念が確立していないからで、その時代の社会的要請(主として財界の要請)といって、十分は調査と研究なしに、思いつきで変えてきたといわれても仕方がないところがあった。
急速に変化発展する社会でも、教育方針がしっかりとした教育理念の上に組み立てられていれば、義務教育で教える基礎的な知識内容は10年ごとに大幅に変える必要はないと思う。それがないから、一貫性のない「改革」に教育界は右往左往してきた。それを改めるために、教育関係者をはじめ各種専門家や有識者による専門委員会を常設して、国を挙げて立派な教育理念と方針を確立すべきである。そうすれば、これまでのように方針がふらつくことはないであろ。ただし、その委員会の人選を文部科学省に任せてはいけない、人選法がきわめて重要であるから広い意見に基づき見識のある人を選ぶ方法をつくるべきである。
(3)個別知識詰め込み型教育:これまでの教育を、私はかねてから「教科縦割り個別知識詰め込み教育」であるといってきた。国語、社会、理科、数学など各教科はばらばらで、ほとんど関連のない縦割りである。こうなった理由の一端は入学試験問題にもあるが、学ぶ知識についてその意味と意義をおろそかにした「暗記物」の傾向が強かった。理数科についても、その理由を考えつつ結論に達するまでの途中経過を軽視して、答が合っていればそれで満足するような勉強がまかり通っていた。今では、物理や数学まで暗記科目になっているそうである。だから学んだ知識を活用できないのは当然である。
理数科に限らず、教科内容はそれぞれ筋の通った知識の体系であり、個別知識の単なる寄せ集めではない。「ゆとり教育」で教える分量を大幅に削ったが、その結果、たとえば化学で「イオン」を削ったので、化学を科学的に筋道を立てて教えられず困るという嘆きをよく聞いた。この例などは、審査委員が科学教育の何たるかを知らないこと、化学の教科をまとまった一つの理論的体系として見ていないことを示している。これに類することはいろいろある。個別知識詰め込み教育なら、体系化されてなくとも暗記すればよいからそれでも済ませるだろうが、科学的思考や応用力は育たない。
ある日、期末試験帰りの中学生の集団とバスに乗り合わせた。彼らは明日の試験に備えて、お互いに問題を出し合って勉強していた。ところが、多分社会科なのだろう、人名と著作物の名前を結ぶ問題を熱心にやっていたが、その本の内容には一切触れず、ましてなぜその本が重要なのかには全く関心がないようであった。この時、クイズ式知識の詰め込み教育の弊害を痛切に感じた。
このような教育風土の中で教育されてきた者が学校の先生になっているから、また同じような教育を繰り返しているのである。まさに「個別知識詰め込み教育」の拡大再生産である。
(4)教育者の意識改革を:今度の指導要領の改定では、「基礎知識」とそれを「活用する力」の育成することを重視することになった。基礎知識とはなにかの判断基準が問題であるが、学問に限らず教科内容も、「まとまった知識の体系」であることを意識し、その知識体系の骨組みや要となるものを「基礎・基本」として位置づけるべきである。そして、教科書もそのように作らねばならない。この「教育改革通信」112号のなかの「応用と活用力不足の学力」で「総合科目」について主張したように、学んだ知識を活用するには、「教科縦割り個別知識」をただ覚えるのでなく、教科間の繋がりや実生活との有機的関連を意識的につけるようにすべきである。総合的判断力はその中で自然に育成されると思う。
「基礎知識」とそれを「活用する力」の重視はよいことであるが、多くの先生はこれまでの「教科縦割り個別知識詰め込み型」の教育を受けてきたのであるから、それが教育だと思っているだろう。だから現場の先生の意識改革をしなければ、本当の教育改革は実現不可能である。欧米では教育方針が変更されるとき、予算をつけて教師の徹底した再教育を行うと聞いている。一方的な押しつけ研修ではなく、講師と現場の教師が協力して真剣に意識改革のための研修をすべきだと思う。
そうなれば、指導要領によって教える内容を細かく指定し規制する必要はなく、教師の自由裁量の余地を多く残せるはずである。それでこそ真の「ゆとり教育」が実現されると思う。今度の指導要領もこれまで同様、細かくがんじがらめに規定しているそうだ。文科省からまず意識改革をして欲しい。
科学的リテラシーをどのように教えるか
その1:磁気器具と血行 市瀬和義
1 学習指導要領の改訂
文部科学省は2008年2月15日に小中学校学習指導要領改定案を示した。約30年間続いた授業時間を「減らす改定」から「増やす改定」に方向転換をした内容である。これに対し、富山県内の小中学校教員からは「教科指導の時間が増え、理解を深めさせられる」と評価する一方、「量よりは質。子供の負担になるだけ」と疑問視する声も聞こえるという(北日本新聞 2008年(平成20年)2月16日)。
具体的に「理科」に限って授業時間数をみると、小学校では3〜6年(1〜2年は生活科のためカウントされていない)で合わせて年間350時間から405時間に+55時間。中学校では、1〜3年で合わせて年間290時間から385時間に+95時間となる。しかも理科は2009年から一部前倒しして実施する移行措置となる。これは先に行われた経済協力開発機構(OECD)の学習到達度調査(PISA)で科学的応用力の順位が低下したことにも起因する。
その要旨を見ると、小学校では「観察、実験の結果を整理して考察したり、科学的な言葉や概念を使用して考え説明する活動が充実するよう配慮。科学を学ぶことの意識や有用性を実感し科学への関心を高めるため、学習成果と日常生活の関連を重視する。」となっている。また中学校では「十分な観察や実験の時間、課題解決のために探究する時間を設けるようにする。その際、問題を見出し観察、実験を計画する活動、観察、実験の結果を分析し解釈する活動、科学的な概念を使用して考えたり説明したりする活動が充実するよう配慮。科学技術が日常生活や社会を豊かにしていることや安全性の向上に役立っていることに触れる。」となっている。
この要旨に共通しているのは「科学的概念」と「科学と日常生活の関連」である。では一体、この2つをつなぐものは何か。私はズバリ「科学的リテラシー」ではないかと考える。
私はかつて長野県で小学校教員を15年間やった経験がある。そして今、大学の教員として富山に赴任してからちょうど15年が過ぎた。この間、私は、富山大学の学生、教員、小・中・高の教員、企業の方、主婦、歯医者さんなどあらゆる年代と職種の人たちと「おもしろ科学実験in富山」実行委員会を組織し、毎年「科学の祭典」を行ってきた。今年2008年には15回目を迎える。最近では韓国からも、たくさんの先生や学生が参加し、昨年はついに73人に達した。
私たちは「おもしろ」というメーリングリストを立ち上げ、様々なことを議論している。最近では、科学的リテラシー、マイナスイオン、学校における硫化水素実験事故などについてやりとりがあった。誰かが問題を投げかけると、それに対して専門家や一般の人がメールで意見を述べ合い、かなり質の高い議論がされている。例えば最近話題になった「科学的リテラシー」についてある会員は次のように述べている。
【ある会員のメールから】
科学リテラシーに関して先日から考えているのですが、疑問があったときに、ウイキペディアなどにアクセスし、いかにも科学的な嘘(疑似科学)にだまされないようにする(詐欺にあわないようにする)というのが、要件の一つではないかと考えるようになりました。
【それに対する私のメールは】
全くその通りだと思います。私は「環境の物理的諸問題」や「環境とエネルギー」の授業で学生たちに「マスコミをそのまま信じないこと。常に、本当だろうか、と疑問を持ってみること」を教えています。以下、磁気についての例を示します・・。といった具合である。
「教育改革通信」の「教育改革」とは何か。どうすれば未来を担う子どもたちに、真の意味での科学概念をつけさせ、市民として様々なことに遭遇したときに、科学的根拠に立ち、冷静に判断、行動できるか。それが正に「科学的リテラシーとは何か」であり、「それをどう教えるか」が重要な問題である。
この通信が「教育改革」と銘打っている限り、この問題は私たちが真剣に考え、議論しなければならないことだと思う。今後、いくつかの実践例を提供していきたいので、通信上で私たちのメーリングリストのように大いにやりあってほしい。
2 実践例 (磁気)
今回私は、磁気に関するマスコミや企業の報道について学生とともに考えた実践例を示す。
あるときのこと、とある高校の先生から私のところに次のような質問(Q)がメールで来た。私が磁性体の核磁気共鳴(NMR)をやっていて、教員の経験があることを知っての質問であった。
Q:磁気ネックレスや磁気絆創膏のような磁気器具で血行がよくなるということを、血液中の荷電粒子の流れに磁場が影響を及ぼして・・という形で説明したいのですが・・。単純なフレミングの規則云々では、合点がいきませんよね。うまく説明する方法はあるでしょうか?それとも、単純なモデルでは駄目なのでしょうか?高校生相手に、説明しなければなりません・・。
これに対して私は次のように答え(A)た。
A:(1)本当に血行がよくなるのか?
少しショッキングな話ですが、結論からいうと、磁石に肩凝りとか血流を良くする効果は、それほどないのではないかと思われます。
(2)うやむやな効能書き
磁気絆創膏のサイトでは「原因である作業を中断しリラックスする事で解消できる場合もありますが、慢性の肩こりや、作業を中断出来ない場合に『○○○○』(商品名)が有効です。なぜ磁石が肩こりに効果があるのか。ひとことでいうと、筋肉内の血行をよくするからだと言えます。○○○○を貼ると、磁気がコリのある筋肉に浸透。筋肉組織内の血行をよくし、コリの悪循環を断ち切り、硬くなった筋肉をほぐします。」とありますが、この文章では「よくするからだ」とかなりうやむやです。
(3)磁束密度は小さい
磁束密度の大きさの表示単位にはガウスや テスラ、ミリテスラがあります。ガウスとテスラの関係ですが1ミリテスラ=10ガウスです。又、ガウスとはN極からS極に向かって飛んでいる磁力線の数で、1ガウス=1辺1cmの正方形の中に1本の磁力の線が走っている時の数値です。1テスラ=1000ミリテスラで1ミリテスラ=10ガウスです。地磁気の強さは場所によって異なりますが、0.24〜0.66ガウスと言われています。東京付近は約0.45ガウス程度です。○○○○のサイトによれば、その会社の磁気絆創膏は80〜180ミリテスラ=800〜1800ガウスとなっています。よく話に○○○○は3000ガウスあり地球磁場の6,667倍という話がありますが、どうやらそれほどはないようです。ならば実際にガウスメータなどで測定すればいいのですが、ハンディタイプのガウスメータは1ガウス以下のものだとセンサーを特別につけて233,000円(税抜き)もし、年間の研究費がたった350,000円の私の研究室で買える代物ではありません。従ってどうしても他者の測定結果を鵜呑みにせざるを得ず、私には納得がいきません。本当にどうなのか自分で調べたいです。
さて、この磁束密度ですが、磁化測定をする我々の立場からいうと、血管内を流れる各種イオンに働くローレンツ力は誤差の範囲内ほどの微々たるものと言えます。
(4)科学的根拠
ある別の交流磁気治療器のホームページによると、「磁界中を血液が流れるとフレミングの法則で電流が流れ、血液中にイオンができてこれが自律神経に刺激を与える」と書いてありますが本当でしょうか。科学的根拠はあるのでしょうか。確かにいくつかのサイトでは、「サーモグラフィーで、赤い部分が増えた」ことを示していますが、これとて、他の要因もあり疑わしいです。
私に質問をして下さった先生は、何とかして高校生に説明しようとしていますが、逆に「本当に効くのだろうか」と投げかけてみることも必要かと思います。むしろそう言える高校生を育てたいと私は考えます。ただし、磁力の強弱は別にしても、磁力が運動する原子や分子の振動を邪魔して、反応や運動を邪魔することは考えられ、磁力によって携帯電話や、心臓のペースメーカーに影響があるのは事実であり、磁場の影響をまた別の機会に考える必要はありそうです。
(5)ローレンツ力は血流を阻害する?
あるサイトに「血液の中にはFeイオンがあってこれが動いているところに磁場があると運動方向と磁場の両方に垂直な方向にローレンツ力が働きます。しかし血液の流れをよくするには流れの方向に力を加えなければならないはずで、これでは真っ直ぐ流れるはずの血液も壁側に押し付けられてしまうように思われます」という疑問がありました。
それに対して回答者は「ローレンツ力は粒子の運動方向と磁界の向きの双方に垂直な方向に働きます。従って、単純に考えれば、血液の流れとは直交した向きに働くので血流を阻害するといえましょう」と答えていました。
高校生がこう考えて、先生に疑問を投げかけてきたら、すごいです。ほめてやりましょう。授業のやり方、説明の仕方で、むしろここに爆弾をしかけて、生徒に考えさせるのも手かなと思います。
(6)いろいろな方向に
しかし、簡単にはいきません。ミクロな立場からいけば、生体内の分子原子は、イオン状態になっています。ほとんどは水ですが水分子は+−に分極しています。分離して水素イオン(プロトン別名陽子)とOHマイナスイオンになったり、H原子と、OHと言う活性酸素になったりすると考えられています。Feだけでなく、イオン分子を構成する素材原子HやO、N、Cもあります。磁場をかけるということは電流(この場合、イオン、マイナスイオン、電子の流れ、イオンの回転、プロトンのスピン、電子のスピン、電荷の動く状態など全てを総称して電流と言います)に対して大なり小なりローレンツ力(フレミングの左手3指)をかけることを意味します。皮膚に磁石(フェライト永久磁石が多い。希土類永久磁石を使ったものはフェライト磁石に比し磁束密度が大きい)をつけた場合ですが、ちょっと考えると上記のように、ローレンツ力によって壁側に押し付けられると思われます。しかし、厳密には磁場中のイオンすなわち電流は方向が逐次変わっており、その方向を変えた先々で刻々左手を当てはめれば、その運動は円やカーブになるはずです。磁場が強ければ、血中のイオン分子の流れはくるりと円を描き、電気力線から抜け出せなくなります。磁場の幅が小さく、流れが速いとちょっとカーブしただけで磁場を抜け出せて流れることができます。
言いたいことは、全てのイオンが一様に同じ方向に一直線に流れているのではなく、カーブしたり曲ったりしており、それに対してローレンツ力を全てあてはめていけば、運動は複雑で、ときには阻害されたりもするということです。人体はそれほど簡単なものではありません。
(7)ミクロな世界に目を向けて
そういう意味で、きちんとした答を言うなら「流れるものもあるし、阻害され逆行するものもある。ぐるぐる回ることもある。大切なのは、磁場をかけたことによって、零磁場(○○○○を使用しないとき)とは違った動きをすることもある」ということでしょう。効き目は人によって違うでしょうし、むしろ企業側の宣伝の強いすり込みがあると思います。人体に多大な影響を及ぼすのであれば逆に言えば国から許可は下りないのではないでしょうか。
(8)真実を見る
巷に話題の耐震強度マンションの話ではありませんが、今「何を信じたらいいいか」と思うことがたくさんです。高校生には、多少レベルが高く少しショッキングかもしれませんが、上記の話をしてやって下さい。○○○○とて本当に効くかどうかは疑わしいと思うはずです。全て疑いを持てとはいいませんが、世の中を「本当かな?」と見られる科学的態度、科学的なリテラシーを、どうか高校生にも、大学生にも身につけてやってほしいと思います。
大事なことは“マスコミをそのまま信じないこと。常に「本当だろうか」と疑問を持ってみること”だと私は考える。
3 学生の感想
これを資料として読み、私の説明を聞いた後の学生の感想は以下の通りである。
(1)興味深い内容
・科学に対する興味がわいてくる授業なので楽しみだ。
・自分はよくダイエットの方のことで信じてしまう。それはやっぱり強く「肩こりを治したい」とか「やせたい」と思っている人ほど疑わなくなると思うので、使う前に本当のことを知ってからというのは大事だと思った。
・広告(メディア)の力は多大なものだと思った。あたかも科学的根拠があるように人を信じこませている。今は情報がどこからでも入手できる時代なので私たちはその情報が事実なのかを判断する能力が求められると思う。
・○○○○は前々から本当に効用があるのか疑っていたが、今回の話を聞き余計に怪しいものと感じた。ただ使用することで別に何か効果(良い悪い関係なく)あるのではないか気になった。
・衝撃を受けた。企業側のすり込みによって多くの人が効果があると思っていると思う。経済の授業ではなく、物質の授業で企業側の意図が見えるとは思わなかった。商品や広告をそのまま信用するのではなく、疑問を持って生活することが大切だと分かった。それが新たな発見につながることもあると思う。
・とても印象的。テレビコマーシャルではいかにも効き目があるようにされているが、科学的な視点からそれらを確かめてみるような「科学的リテラシー」の考え方が必要だと思った。△△が体にいいという情報にすぐ翻弄されず、科学的に考えてみる必要があるだろうと感じた。しかし、普段の生活でそれに気づくことは難しいだろう。
・興味深かった。私はあまり、マスコミや人を疑ったりせずにそのまま信じてしまっている。今度、自分で本当にそうなのか、なぜそうなるかを考えてみたいと思った。ゲルマニウムも肩こりに効くと言われているけれど、これは本当なのか調べてみたいと思う。
・効果が疑問視されるということに驚いた。そして「大事なことはマスコミをそのまま信じないこと」ということで、世間で信用できるものはほとんどないのだなと思った。
・先生の言っていたことに対して反論する高校生はすごいと思った。私は授業で言われたことをそのままノートに写し、鵜呑みにすることが多いので、自分の考えを持つことが重要だと分かった。
・地球磁場の話と共に大変興味深い話であった。「大事なのはマスコミをそのまま信じないこと。常に『本当だろうか』と疑問を持ってみること」という科学的リテラシーを持った大学生になりたいと感じた。
(2) ○○○○という商品名を出すのはよくないと思う。(実際の私の話や学生のレポートには磁気器具としての具体的商品名が掲げられていました。しかし、2,3の学生の指摘もあってここでは○○○○としました。 商品名をあげて企業を批判するのはよくないかもしれません。しかし今回の場合、より具体性を持たせる意味と、質問された方にその商品名がありましたのであえて使いました。企業を批判する気持ちは毛頭ありません)。
4 おわりに
この感想の母数は、1〜3年の、人文・経済・理・工及び私の所属する人間発達科学部の学生64人である。富山大学で2007年度後期に私が行った教養原論「物質の構造」の授業である。学生にはいろいろな見方があって私としては扱ってよかったと思っている。あらゆるものに惑わされない、正しい科学的なものの見方をどのように育てていったらいいか、今後もさらに考えていきたい。
図書紹介:大木浩著「きれいな地球は日本から」
環境外交と国際社会 (原書房)
著者は、元環境大臣全国地球温暖化防止センター代表、京都議定書の産みの親として知られている。本のカバー裏に曰く、《地球温暖化防止へ−行動をスタートするために》*第二次大戦後の国際政治の流れと地球温暖化問題との関係*地球温暖化問題についての国際会議での議論と合意の実際*日本のとるべき姿勢と環境外交への指針・・・を著者の実体験を交えながら分かりやすく解説、とある。日本の政界にあって、地球環境問題を根底から理解している数少ない(唯一の?)人である。安倍前首相も感覚的には理解していたが、お坊っちゃんすぎてこの問題に骨を埋める度胸が不足していたようである。それに比し、著者は、青春時代に海兵・(旧制)松本高校と怒濤の自己教育を経ており、著書にも気迫がこもっている。
現在、地球環境問題は待ったを許さない切迫した状況にあり、各国・各界の人々の速やかな行動が必要となっているが、その行動指針となる知識・情報が甚だしく不足している。本書は、それを3部に分け、第1部に、第2次世界大戦後の国際社会の大きな流れ、第2部に、地球温暖化問題についての数多くの国際会議において何が議論されてきたか、その内容、第3に、今後日本として地球温暖化問題に対してどう対処すべきか、著者の見解が述べられ、全体が15章に分けて詳述されている。詳しくは本書を読んで貰うしかないが、一例を挙げるならば、第4章、持続可能な開発、(2)ゴルバチョフ書記長の大改革、について、地球環境問題の視点でその重要性が語られているのは、読者にとっても重要な教訓である。今の、プーチン政権は、ロシアで平均的には好評のようであるが、著者の論点からするとどうなるか、私には地球環境問題に対する配慮に欠けている反動勢力の色彩が強いように思える。
最後に、本書を含め、地球環境問題に対して地球温暖化問題、なかでもCO2と水の役割について私見を述べることにする。CO2が温暖化ガスの代表であることは、現在常識となっている。その理由は、波長0.1ミクロン以下の可視光および近赤外光を主成分とする太陽光は吸収せず、摂氏0°乃至30°絶対温度で300°Kの地表温度が発する波長20ミクロン程度の遠赤外光を吸収して、大気外に直接放射するのを妨げる(温室効果)からである。然し、実際にはそう単純ではない。原子分子による吸収スペクトルの大気構造への影響を昔行ったが、地球の場合はエネルギー源が外(太陽)にあり、地球自転で時間的にも場所的にも変化することと、氷・水・水蒸気さらに雲・霧・靄などと相転移する水の影響があり、温度勾配の強い成層でのエネルギー輸送を司る対流にはその運動速度に音速が限界をなすことや、その対流が海洋では塩度勾配が、陸上では森林による水蒸気の放出が影響するなど地球環境は超多次元の世界である。それらの原理は、多くは、太陽物理学と共通であるが、地球の場合は、自転周期が1日と短いので、一層複雑である。一方、磁場の影響は、黒点や多くの太陽面現象に見られるように、太陽大気により多く見られる。磁場と回転とは共に軸性のベクトルで表される物理量なので、例えば、太陽黒点と台風、紅炎と竜巻、などの形成消滅、それが大気全体に及ぼす影響などを調べると環境天文学を立ち上げることになる。そうした環境天文学で、地球温暖化とそれが地球環境にどんな激変をどのような時間尺度で生ずるかを研究する必要がある。恐らく、X線から遠赤外線に至る波長での大気圏外からの地球観測で、絶えず、地球をモニターして地球環境変動の予兆をいち早くつかみ、それを環境天文学で解釈することが極めて重要であろう。また、環境天文学を応用して、「水星と海と森の魔法を結合」して、太陽エネルギーで石油火力に勝つ工法を作り、洞爺湖サミットで、「きれいな地球は日本から」を実現したいものである。
以上、蛇足を加えたが、本書を読むと、そうした想念が雲の如く沸いてくる。それが本書の魅力であり、大木浩の魅力である。 (宇宙のトラさん 海野和三郎記)
ユダヤ教とキリスト教
(前号からの続き) 関本 肇
ユダヤ主義の克服―ファリサイ派に学ぶ
わたしは思うのであるが、新約聖書、とくに福音書による反ユダヤ主義の思想は、主としてファリサイ派についての誤解と偏見から来ている。いったいファリサイ派(人)とは誰なのか。さいわい今の時代にはファリサイ派について、その詳細は、はっきりしてきている。その要点だけでも整理して、ファリサイ派についての客観的な見識を整えたい。紀元前2世紀に生まれた種々のセクトは、ユダヤ人にとって新しい経験であった。それまでのユダヤ人はモーセの律法のもとに、同じように考え、同じように行動していたといえる(詳細に論じればもっと複雑であるが)。歴史的にユダヤ人の分派(セクト)は第二神殿時代以降になってから生まれたのである。ここでは他のセクト、サドカイ派、エッセネ派などについては触れない。ファリサイ派は165-160年ころのハスモニア家の改革(マカベアの乱)の後に生まれ、ユダヤ教律法の遵守とトーラの研究を重要視するセクトとして生長した。自らをエズラの流れとし、ユダヤ教の創設者と自称する。当初は少数派であったが1世紀にはユダヤ人の信仰と実践、社会生活について全体を代表する者となった。彼らはトーラ(モーセの律法)と共に、口伝律法を重視するが、これはモーセに律法が与えられたときに、神はモーセに律法の用い方をも与えたと考え、自ら律法を時代に適応させ、展開していくのである。その結果、自由意志、予定説、死人の復活、来世の応報の思想が生まれた。彼らは民衆にトーラを守り、聖性を育てることを教え、また古来よりの宗教性を伝えた。ファリサイ派はバビロン捕囚からエルサレムへ帰還後200年の間、神殿からの自由を主張し、また貴族社会の牛耳るサドカイ派の宗教支配から独立する努力を続けた。この間、ファリサイ派は会堂(シナゴーグ)礼拝を広め、サドカイ派の既得の権威を抑えようとした。安息日の礼拝が従来は神殿の儀式であったものを、家庭中心のものに移し変え、祭司でなく教養人が宗教行事の重要な役割を担うようにもなった。祭司が神殿の諸儀式にとりこまれているときに、ファリサイ派は神の戒めと教えを学ぶことを主たる役割としたのである。 重要な会議や審査に際し、またトーラの解釈に関して、日常生活に関するものであれば祭司と一般人は共同して検討できるようにした。ファリサイ派は律法についても発展的な解釈を取入れ、またモーセ律法と口伝律法の両者の有効性を主張してきた。これらの問題についてファリサイ派とサドカイ派の間には様々の論争が起こり、両派は神学的にも紛糾したが、ヨハネ・ヒルカヌスが大祭司のときに(134~104年)、ファリサイ派は最高法院(サンヒドリン)の構成員から締め出され、イエスの裁判からも除外されていたが、シャンマイ、ヒレル、ヒルカノス、アキバ等の律法についての著名な専門家が生まれていた。ハスモニア革命のころには、ファリサイ派の教えは、抑圧された人々の希望の言葉となり、ユダヤ人の生き方に影響を与えるようになった。この希望が特に死者の復活や、裁きの日の信仰となり、死後の報いの思想、メシアの来臨、天使の存在、さらに責任を伴う人間の自由の教えになり、こうした信心が神学的基礎を作っていくのである。
彼らは預言者たちの言葉に基づいて神を全能の霊的存在とし、全知、全能、正義と愛の神を理解する。そして神はすべての被造物を愛し、人間は神の道を歩み、正義を行い、慈愛を実践すべしと語る。神の全知全能によって人間に善悪の判断力が与えられた。神は人間に善と悪の思いを授け、導きのためにトーラを与えたのである。神は超越者であるから人間の言葉ですべてを理解することはできず、神の全容を名付けることもできない。ただいくつかの言葉で神の属性を示せるだけであると教えた。
神は人間にあまり関心をもたぬとするサドカイ派とは違って、パリサイ派は世界のすべての物は神の秩序の中にあり、人間は神によって善悪を判断する力を与えられている。人間はすべての行動が運命づけられてはいないし、神はすべての行為を決定づけることができるが、神は人間の自由にそれを任せられている。タルムードの中で、ファリサイ派は「神への畏れ以外はすべて神の手の中にあり」「すべては見通されているが、人に選択の自由が与えられている」という。タルムードでは「人が善を選べば天の力が彼を助けるが、悪を選べばその諸力は手を引く」とある。この人間の行為についての責任という信仰が、神の裁きというファリサイ派の教理となる。ファリサイ派は、人間は次の世界でその人の行為によって報くわれ、また罰せられるという。神の応報ついての信仰は、人間は現世だけのものではないとの思想に基づくものである。
タルムードと新約聖書ではファリサイ派は死者の復活を信じている。それは次なる世界への信仰が、地上における神への忠誠を可能にする。不死と復活の思想は、一般にギリシャ・ペルシャ起源とされるが、ファリサイ派はトーラに依拠する純粋のユダヤ教の信仰である。
ファリサイ派においては神がモーセに与えた律法と口伝律法は、共に真理であった。モーセ五書に示される神の啓示は、預言者及び口伝によって補足され、また解釈される。トーラはあらゆる教えの中心であり、すべての人々と時代に向けられている。その戒めは、各世代にラビによって解釈され進歩思想と調和される。ラビは天与の理性によって解釈することができる。ファリサイ派では「目には目を」とは文字どおりの事ではなく、状況に応じて金銭的補償となる。ラビは苦労なしにトーラの言葉を網の目のように解釈できる。この進歩性によってファリサイ派はユダヤ教を活性化させたのである。
神はどこにでもおられるから、ファリサイ派は神殿の中でも外でも礼拝できるし、犧牲によらなくてもいいのである。会堂は礼拝し、学び、祈るところ、人々の生活の中心であり、神殿と同じであるとする。
新約聖書がファリサイ派を偽善者、マムシの裔などと言うことについても、それはすべてを指すのではない。タルムードはファリサイ派のなかにも傷があり、病気もあると書かれている。パウロはパリサイ派だし、有名な学者ガマリエルの弟子である。ファリサイ派の教えはキリスト教の根底にあり、共通するところは沢山あり、一神教、メシア待望、終末論、さらに死からの蘇えり、不死、天使など、多くの概念はすべてファリサイ派からのものである。イエスはじめ、イエスの最初の弟子たちはみなファリサイ派であったことを覚えるべきである。
紀元70年のエルサレム神殿崩壊以後は、神殿中心の祭司たちサドカイ派の存在意義はなくなり、ユダヤ人はすなわちファリサイ派であり、やがてファリサイ派という呼称も消える。わたしは3年間のユダヤ教の生活の中で、ファリサイ派という言葉を一度も聞かなかった。ファリサイ派とは何かについて、その要点を述べたのであるが、キリスト教の歴史と根源がまさにここにあることを実感することができるではないか。少なくともキリスト教がファリサイ派からユダヤ人差別を作り上げるような要因は皆無である。紀元70年の第二神殿の破壊によってそれまでの分派は消滅した。したがってファリサイ派の宗教がユダヤ教になる過度期に、ファリサイ派は中身のない軽い響きになり、現在英語でファリサイ派といえば偽善者の意味であるような、そんな意味合いを持って福音書の時代に用いられたのではないかという説もある。クリスチャンはユダヤ人世界では死語になったファリサイ人の虚像を、福音書を通して追い回していたのかもしれない。パウロさんはどんなつもりで「我こそはファリサイ人の中のファリサイ人」などと大見得を切ったのであろうか。(Encyclopedia Judaicおよび、 Jewish Literacy::Rabbi J.Telushkin を参考にしてまとめてみた。)
しかしファリサイ派への批判や敵意、反ユダヤ主義についての指摘や追及は長い間、キリスト教ではタブーであった。しかし近年の福音書資料研究によると、先にも述べたが、反ユダヤ主義の要素は初期の資料層には見られず、福音書の成立段階に徐々に混入したものと言われる。本来ユダヤ人であった初期のクリスチャンは、草創期から発展期の原始キリスト教時代にはさまざまの試練に遭遇したであろうし、キリスト教の成長に伴い、その中には従来のユダヤ教とは異なる主張もあり、両者の間には徐々に反感も生まれ、それが結果的にシナゴーグ(会堂)からの追放ということになると、それまで慣れ親しみ、また宣教の足場でもあった会堂から締め出されることの痛手は大きかったであろう。すでに見たように、ファリサイ派の体質は初代のキリスト教のそれとまったく同質である。それゆえ、ユダヤ教から生まれたキリスト教がその独自性と正当性をあえて主張するために、ファリサイ派を批判するようになったのは自然の成り行きであったかもしれない。しかし福音書の最終成立以後の段階において、反パリサイ、反ユダヤ的な要素が更に顕著に見られるに及んで、その流れが急激に増幅されたことが考えられる。それは、たとえば4世紀の教父、ヨハネ・クリソストム(金口の聖ヨハネ)を通すと次のようになる。このヨハネは著名な説教者であり、また聖書釈義家でもあったが、言葉が溢れてはみ出した結果、不幸な生涯を送ることになった人物である。彼は「ユダヤ教の会堂は売春宿より腐敗している。そこは悪党たちの巣窟であり、野獣たちの休息所。偶像崇拝の礼拝にふける悪の神殿。悪魔とユダヤ人の犯罪集団の巣窟、キリストの刺客者たちの集会所、悪魔たちの隠れ家である。」これはよほどユダヤ教に敵意を持った人間の作文としか思えない。
時代が下がって、7世紀にアラビア半島にイスラームが生まれるが、やがてイスラームは聖地エルサレムを支配する。これを奪還するべく教皇ウルバヌス二世の発議で11世紀末に十字軍が生まれ、つぎつぎに8回にわたる十字軍の遠征がなされる。十字軍は遠征途上でユダヤ人を殺害し略奪する。最終的には1291年に、第一次十字軍が作ったエルサレム王国は滅亡し、イスラームの軍隊によって十字軍は地中海沿岸一帯から全面撤退し、教皇の権威も失墜する。しかし、ヨーロッパに居住するユダヤ人は十字軍によって様々な非人道的な迫害を受けてきたのであった。しかしここはキリスト教の歴史におけるユダヤ人差別や迫害を語る所ではない。ただキリスト教が、福音書成立段階から反ファリサイ、反ユダヤ主義をいかに根深く養い育ててきたか、痛みを持って学び振り返ることによって、
ユダヤ教とキリスト教の歴史的、兄弟関係を、特にファリサイ派理解を明確にすることによって解明したいのである。ファリサイ派を生み出したユダヤ教を理解することによって、あらためてヘブライ聖書への新鮮な関心を持つことができるのではないか。この関心を、アウシュヴィッツ以後の神学と言うならわたしは大賛成である。わたしはニューヨークにおけるユダヤ教体験を経て、定年で日本に帰って以来、十年余、主日の説教はすべて、ヘブライ聖書、第一日課によって語り続けている。これはユダヤ教とキリスト教の聖典としてのヘブライ聖書である。わたしはニューヨーク教区に席を置いていたのであるが、そこでは教区会その他の教会の公式な集会では、旧約聖書、新約聖書ではなく、ヘブライ聖書、クリスチャン聖書の呼称を意図的に使用していたことを付言しておく。
地球99の不思議
海野和三郎
1. 春田俊郎
昔、「天文・地文・人文」(東京書籍)という本を書いたことがある。宇宙は何故あるのか、天のことは人間に分からないことが多い。地球のことは皆よく知っている積もりだが、案外そうでもない。私もよく知らないが、知らないことを書くのは私の得意芸の一つで、自慢にもならないが、その点だけはソクラテス(無知の知)と軌を一にしている。地球99の不思議を書いてみようと思う。何故99かというとそれには一寸した訳がある。松本高等学校(旧制)二年先輩(22回)に春田俊郎さんが居た。有名な昭和の推理小説作家甲賀三郎の次男であった。動物学者の春田さんが東京の高校(新制)の校長先生をしていた頃の著書に「自然界99の謎」という著書がある。「続・自然界99の謎」もあり、面白そうなので、それを静子夫人からお借りして読んでみて驚いた。春田さんは、虫から人間に至るすべての動物の目で自然も見、人間社会も見ることができる人であった。続・99の最後には、(サルの視点から見た)人間社会の変遷が書かれている;「数百万年も比較的安定してきた人間の社会にも、いま急速に質的な変化が起こりつつある。それは人間が都市という巨大機構をつくり、電波という巨大マスメデイアをもちいるようになったからである。都市の生活は、都市以外の生活と全く異なり、人類がその発生以来とげた数百万年の生活の変化より、最近五十年間のほうがはるかに大きいことは、人間の将来を予測できないものにしている。」
人は皆、人間のことはよくわかっていると思っているようだが、どうやら人間のこともサルの視点で見ないとよく分からないらしいい。春田さんが「続・自然界99の謎」を書いてから30年がたった。その間、IT革命があり、携帯電話が巷に氾濫している。エネルギー・地球環境・人口の3問題が、絡み合って、人類生存の危機が迫っている。人類は、その3者絡み合いの混沌のなかに新しい創造の好機を見出さなくてはならない。而して、その創造の好機は、40億年地球環境と生命を護ってきた水と植物と大気、もしくは、海と森と地面の織りなす神秘の中に見出されるべきである。春田さんの「自然界99の謎」にあやかって、地球99の神秘を書いてみたい。毎週1つ書くとして、2年計画であるが、さてうまく行くかどうか、地球環境同様未来の予測は不確かである。
2.「三から万物」
木南卓一校訂・西晋一郎講述「老子講義」で、「三、万物を生ず」という一句を見出した。有名な老子第四十二章「道、一を生じ、一二を生じ、二三を生じ、」の次の一句である。“三というには一、二、三と際限がないからよき程に止めたのではない。必然のことで、物は三によって始めて成るのである。”と西先生の解説にある。例として、正三角形の図が描いてある(三辺ないと図形が完成しない)。前章1.「春田俊郎」でも、それ故、3者(エネルギー、環境、人口など)絡み合いの混沌として、物事の進化について論じた訳であった。少し、脱線するが、西晋一郎先生の解説を続けると、次の箴言がある。「万物を生ずといえばDialektikのようにも聞える。然しこの見地はもっと広い。Dialektikには道というものが出ていない。陰陽も出ていない。我々は陰の方が寧ろ大事なのです。事実なり道理なり真偽に東西の別はなく、その顕れ方に別がある理(わけ)ですね。そこが鍛錬で、我々は鍛錬を尚ぶ。近頃は小学校で画を描くのを見るに上手に描く、我々の小さい頃はもっとまずかった。然し一つの線を引く習練もせずに形をとる事のみに力を入れている。昔は一字一画を習練したものです。今日のは形は出来ているが含蓄がない。字を書いてみても一がむづかしい。これさえ出来れば書ける訳です。」昭和11年の講義である。
「三から万物」というと、先ず頭に浮かぶのは、三体問題のカオス解である。質点力学で、例えば、地球と太陽のみとすると、平面上の楕円軌道の定常解である。そこへ、彗星でも火星でもよいが第3体が加わると、その影響が元の2体の運動に影響し、その影響が第3体自身の運動に影響する。もともと第三体の影響が回り回って第3体自身に及んだので自己の持つ周期運動との一種の共鳴が起こり、釣り鐘をその周期で押すように、運動がかなりの振幅で乱れてくる。一般の三体問題の解は、このように、特殊な条件を付けなければカオス解となり、同じ3体の位置と速度に戻ることがない。よく似た例はフェルマーの最終定理である。3整数a,b,cが ap + bp = cp
を満たすことができる整数pはpが1または2に限られ、pが3又は3より大であると前式は不能である。整数pが2の場合は、有名なピタゴラス数であり、(3,4,5)を3辺とする3角形は直角三角形で、この性質は江戸時代の大工さんに直角を出すのに用いられていたという。(3,4,5)以外に (5,12,13)、(8,15,17)
などいくらでもある。一般公式も中学生の代数で簡単につくれる。pが3になると3整数ではだめで、少なくも一つは無理数となる。
一般に、論理の原型は、イエスかノウの二元論である。イエスでもありノウでもある、イエスでもなくノウでもない、を入れると四元論になるが、これでは議論にならないので、通常、議会などでも二元論に終始することが多い。しかし、困ったことに、イエスかノウかの論理は不完全である、という「不完全性定理」をゲーデルが証明した。イエスでもノウでもない事があるのは常識だが、その証明は定理そのもの以上に面白い。それは、「私は嘘つきです。」を本当としても嘘としても矛盾に陥るという「嘘つきパラドックス」と同じ構造の論理式を万能コンピューターにかけると、コンピューターは答えを出して止まる事が出来ず永久に回り続ける、というのが証明になっている。いわゆる、否定形の自己言及パラドックスである。肯定形の自己言及パラドックスは寓話的でそれも又面白いが、その話はまたの機会にゆずるとして、本論の「三から万物」に戻ることにする。
「三から万物」に入るのは、いわば東洋流で、易でも陰陽の二元を直ぐに3回行って、八卦(2の3乗)を作り、それを2つ重ねて64卦とし、さらに転卦へ進む。三で不足の時はいきなり五行へと進む。西洋流はもっと論理的で、二元論に固執し、行き詰まるとその原因を追及し、「不完全性定理」を証明し、或いはピタゴラスのように対称性の美を尊重して、四元数の世界にはいる。ソクラテスの「無知の知」は「不完全性定理」の肯定形と考えられ、そこから「弁証法(Dialektik)」が生まれた。Diは多分2元の意味であろうし、Diaは二元の間を貫く意味であろう。東洋流、西洋流それぞれ長所もあれば短所もある。東洋流の長所は、地球環境のような複雑系にいきなり入る点で、「山川草木悉皆成仏」が一般人に素直に理解される点である。しかし、CO2排出量の国際間の取り決めなどは、西洋流でないと上手く行かない。その間にあって、「きれいな地球は日本から」(大木浩)(原書房)を実現するには、宇宙・地球の46億年の神秘に学び、地球環境の混沌から科学的指導原理を見出し、未来の人によい地球を伝えるテクノロジーを開発することである。 (編集 菅野)