私達の教育改革通信

   110  2007/10

 

 

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東アジア経済危機から10

                   中野 有

東アジアの経済危機と米国

 東アジア経済危機が発生する半年前、ぼくはホノルルの東西センターの客員研究員として北東アジアの安全保障の研究を行なっていた。その時、アメリカ人の同僚が、香港が中国に返還される時、アメリカは東アジアに経済的な仕掛けを行なう可能性が高いと言っていた。

 ものの見事に、香港が中国に返還された直後にタイのバーツに異変が起こり、それが瞬く間にインドネシア韓国まで飛び火したのである。友人の予測は現実となったのである。

 東アジアの経済危機が発生する前、マレーシアのマハティア首相が90年代初頭に東アジア経済協議体(EAEC)を提唱し、具体的に80年代に提唱した日本の経済成功例を規範とする「ルックイースト政策」の拡張や日本に続く新興工業国(ニックス)による雁行型経済発展の勢力が増していた。中国の開放路線も着々と成功を収め、日本のODAも効果的に機能し相互依存的な経済的互恵が成立し、経済共同体としての基礎が構築されつつあった。同時に、世界経済全体に与える影響から、アジア中心、輸出志向型経済成長への警笛も鳴らされていた 

東アジアの興隆と急速な東アジア発展の懐疑論が沸き始めたとき、日本は、EAECのような東アジアの結束よりも米国との協力を重視するAPEC(アジア太平洋経済協力)を推進する政策に軸足を置いた。アジアにおける米国の影響力の低下を懸念する米国がそのようなシグナルを発したとも思われるが、日本側にも戦前の大東亜共栄圏のトラウマが少しは影響していたように考えられる。仮に、日本が東アジアの経済統合に関し、中心的役割を果していたならば、東アジア経済危機は、最小限で回避できたかもしれないとの見方もある。歴史は少し時間を経てから考察すると本質がより明確になる。との見方が正しければ、東アジア経済危機により恩恵を最も受けた国は、米国だと考えられる。何故なら、東アジア経済危機の被害を被った国々を救済したのは、米国IMFであり、東アジアにおける米国の信頼度を短期的であるにせよ揺るぎなきものとしたからである。加えて、ヘッジファンドなどのの投資集団は、東アジアの経済危機で巨額の富を築いた。その中心は、ジョージ・ソロス氏である。数年前、ワシントンでソロス氏の講演を聴いた。ソビエトの崩壊から東アジアの経済危機を緻密に分析し、経済の実践を仕掛けるソロス氏の思考には、経済、安全保障、国際情勢など多角的要因が豊富に盛り込まれていると感じた。ソロス氏は、「商業の自由だけでなく、人々の新しい考え方や、自分とは異なる考え方や行動に対して、寛容の心を持って行動するオープンソサエティーは、経済発展の重要な要素である」と述べている。この視点は、将来のアジアのみならずグローバル経済の発展の指針であると考えられる。
 ソロス氏がヘッジファンドを通じ、東アジアの経済危機のきっかけを作ったという見方より、経済依存度や経済統合に弱点があったことに問題があったと思う。ソロス氏が講演された後、小泉肇氏や筆者が作成した「北東アジアグランドデザイン」の英語版を、ソロス氏に渡した。その後、ソロス氏の名前のレターで返事を受けたことには驚いた。本人が読まれたとは思わないが、北朝鮮問題を含む、東アジアの包括的な構想に興味を持っておられるようである。

 米国のアジアにおけるグランドデザイン

 Washington Quarterlyという国際戦略問題研究所(CSIS)の機関誌の最新号に「米国のアジアにおけるグランドデザイン」、「東アジア共同体とその影響」という二つの論文が掲載されている。それらの論文のエッセンスを一言で述べると、米国は東アジアの経済危機の時、アジアの経済統合を支持するよりも米国の経済支配、独占、覇権に力を注いできた。しかし、現在の東アジアは、10年前と比較し、中国の勢力が台頭、東アジアが世界経済のエンジン、東アジアの域内の依存度の高まり、国際水平分業、グローバル経済という要素が顕著である。従って、東アジアの経済的統合は、避けられない勢いがあり、唯一の効果的選択として、中国を封じ込める政策よりも、米国の影響力を維持しながら東アジアの統合に寄与する政策が賢明である。

日本の東アジアにおけるグランドデザイン

 東アジアにおける経済統合は、順調に深化している。しかし、一方では、冷戦中の敵国である中国ロシアインドなどが中心となり上海協力機構の勢力が強化されている。ブレジンスキー氏は、世界が三極体制で構成されているとすると、EU,米国中国を中心とした東アジア共同体であり、日本はスウィングステーツであると表現している。

 日本は、太平洋を挟み米国と中国を結ぶ基軸であると考えられる。中国の日本に対する懸念は、普通の国としての日本の防衛力強化である。むしろ、米国の傘の下で機能する日本の防衛には異論はないようである。米国は、日本の国際貢献が強化されることを望んでいる。東アジアの経済統合を実現させるためには、経済、金融、通貨の分野のみならず安全保障が重要である。東アジアの主役となろう中国は、日本の経済力、環境問題などの技術力を必要とし、アジア太平洋の強化を主眼とする米国は、最も信頼のできる日本を中心とする東アジアの建設的関与政策を模索している。楽観的に考察すれば、日本は米中の協力並びに東アジア共同体とアジア太平洋の両方を推進する要にあるように考察できる。

日本は、アジアに一方的に傾くのでもなく、米国や西洋に影響されてもいけない。1世紀以上前に福沢諭吉が西洋への憧れを「和魂洋才」と表現し、大隈重信が東西文明の調和の中で東洋へ力点を置く「和魂漢才」を提唱した。明治維新から西洋列強に比肩する国家を築くまでは「和魂洋才」が主流となり、19世紀の末期には東洋への進出が模索され大東亜共栄圏へと邁進する「和魂漢才」の政策が勢いづいた。戦後は、米国の共産主義封じ込め政策の恩恵を受けながら、「和魂洋才」が再び開花した。その流れの中で、日本はマハティール首相が、20年近く前に提唱した東アジアの統合を支持せずに米国との協力を重視した。その後、東アジア経済危機を経て、V字型経済復興と発展を経てきた。今、どのような日本のグランドデザインが必要なのであろうか。過去の間違いを繰り返さないためにも、新しい創造的な思考が求められる。従って、現在の日本は「和魂洋才」でも「和魂漢才」でもいけないと思う。アジアでも太平洋でもなく、その両方を調和させ、柔軟性のある「和魂萬才」が日本のグランドデザインであると考察する。換言すると、日本の国益、アジア益、地球益の合致点を平和構想の基軸とする日本のグランドデザインを明確にすべきであろう。

http://mews.halfmoon.jp/nakano/

 

進む人工化世界:

 自然のバランス破壊

                  菅野礼司

自然と人類の相互関係

 人類に限らず、生物が自然に棲息する限り、自然環境に制約されるばかりでなく、逆に、生命維持のために、必ず自然環境を変える。生命が個体維持のためには必ず自然環境を変える。生物が固体を維持し成長して、生命活動を続けるためには、その個体のエントロピーを減少させるか、少なくとも増大させないような活動を続けなければならない。したがって、生物の存在自体がすでに「閉鎖系におけるエントロピー増大則」という物理法則に逆らう無理な存在である。それゆえ、生物と環境を包含した閉鎖系の中で、生物は固体維持のために散逸開放系として、物理・化学的に無理な活動を常時強いられている。つまり、生物は新陳代謝により、エネルギーを利用し周囲の環境にエントロピーを吐き出すことでその生命体を維持しているわけであるが、その結果、生命活動の反作用として必然的に周囲の環境を変えている。

 地球上に生物が発生してから、地球と生物の相互作用によって地球環境は大きく変わり、両者が共に進化発展してきた。たとえば、地球に生物が誕生してから、ラン藻類などの光合成によって酸素が発生し、窒素を主成分とした大気の組成が、現在のように窒素と酸素を主成分とする大気に変化した。その結果、生命誕生初期の厭気性細胞から酸素を利用する新種の生物が発生した。この大気組成の変化も一種の「環境破壊」である。しかし、その変化は非常に緩慢であったために、生物は生き延び進化してきた(絶滅種も多々あるが)。生物の生理的変化がその変化に着いて行けないような急激な環境変化は「不自然な環境破壊」であり、自然界の活動のバランスが崩れて生態系が破壊される。人類の現在行っている急速な開発による環境変化は、そのバランス維持を破壊している。

 人類の生存繁栄は不可避的に環境に影響を及ぼすから、環境変化は避けられないが、問題はその程度と速度である。環境を破壊するような急激な開発でなく、「持続可能な開発Sustainable Developmemt」、緩やかな発展でなければならない。持続可能な開発とは、厳密に言えば、既存生物の生理的変化が付いていける程度の緩やかな自然の開発利用ということであろう。それを無視した開発は必ず生理的なしっぺ返しを受ける。一方的作用はあり得ない、同じ程度の反作用がある。急激な人工的環境変化は多くの種を絶滅させるだけでなく、人類の自滅を招く。

科学・技術の二次・三次効果も留意すべきである 

 科学・技術の直接効果のみでなく二次・三次効果が重要である。技術による開発の地球環境への影響を評価する場合、その直接的効果、つまり一次効果のみでなく、間接的な第二次、三次効果まで予測しなければならない。この二次、三次効果の予測はシステムが複雑であればあるほど必要である。その高次効果が重要な意義を持つ典型的な事例は、生物の発生(成長)過程に見られる。生物の個体発生は基本的にはDNAに刷り込まれた一次情報に従って進行するが、細胞分裂では同じ二つの細胞が造られるにもかかわらず、発生の成長過程でそれら新細胞は異なる組織に分化して行く。この異組織への分化が起こりうるのは、細胞分裂によって細胞数が増えていくと、重力効果や個体内部と表面など場所の違いにより二次的効果が生じ、厳密には少しずつ異なる細胞に分裂するからである。この分化は、細胞の配置に応じて、それぞれの細胞のDNA(どの細胞でもすべて同じ)のうち、特定の遺伝子部分が活性化されることで、その特定の遺伝情報が発現されるためだと考えられている。

 この分化は、個体発生が進むほど複雑になるから、環境からの影響も加わり、複雑な三次・四次効果を生み出しているとみるべきであろう。

 このことは個体の発生過程で、DNAには含まれていない高次情報が、細胞の配置や環境からの影響によって、二次・三次と次々に創発されていることを示している。しかも、その二次・三次情報の発現が組織の分化をコントロールして、結果的には大きな役割を演じているわけである。

 また、生物の生態系も微妙なバランスの上に成り立っている。その生物圏を含む地球環境のように複雑なシステムでは、人為的操作による直接的効果のみでなく、それによって生ずる二次・三次効果が無視できないことが多い。しかも、この高次効果は、現在の科学・技術レベルでは予測できないものが多いのである。つまり想定外の結果をもたらす可能性が高いわけである。

さしずめ、遺伝子組み替え技術などは、2次・3次効果として予想しなかった影響がでるように思う。その作用は、遺伝子組み替え種が生態系に及ぼす影響ばかりではない。遺伝子として発現する塩基配列は、DNA全体のごく一部で大部分はまだその役割が分かっていない。だから、遺伝子組み替えの操作中に、その部分が組み変ったとしてもその影響はすぐ遺伝変化として表に出ずに、DNAの中に潜んでいる。それが何時どのように働くか予想は全く不可能である。これは隠れた高次効果といえるだろう。

先の「教育改革通信109号」の「技術革新により地球環境は救えるか」で指摘したことも、技術革新の高次効果の例である。

  さらに、予測不可能なものにカオス現象がある。多くの要因が非線形的に結合している複雑系には、カオス的現象というものが起こる。カオス現象とは、決定論的法則に支配される系においても、結果が予測できないものである。初期状態のごく僅かな違いが、長時間後には極度に大きな差を生むというものである。すなわち、僅かに異なる状態から出発した二つの系は、その変化の経路が次第に離れていき、長時間後には全く異なる結果(ときには正反対)に到達することがありうる。別の言い方をすれば、不安定な状態にある系では、微少な揺れが次々に拡大されていってとてつもない大きな変化をもたらすことがある。これがカオス現象である。したがって、その法則は分かっていても、予測不可能な結果を生ずることがあるわけだが、上記の二次・三次効果による想定外の大きな影響は、このカオス現象と関連しているものが多い。

 地球は非常に多くの物理・化学的要因が微妙に絡んだ複雑系である。現在のところは、復元力が働いてバランスを保っているが、ひとたびこのバランスが崩れて復元力がなくなると、自然環境の変化は、変動が変動を生むといった自己増殖的に拡大され、カオス的に激変が起こる可能性がある。そうなってはもはや取り返しはつかない。現在、人類はこの急激な自然環境の変化(環境破壊)の中にいると言えるだろう。

急速に進む人工化世界

 その中で、人類は人工的自然を次々に造りだしている。街はコンクリートで覆われ、高層・広大ビル、地下街がその典型である。他方では、飛行機、船舶、鉄道などの移動手段の巨大化と高速化、小型ではあるが自動車の氾濫がある。これらも人工世界・人工空間である。家庭では、生活手段として各種機器と装置に埋め尽くされていて、その中で生活している。そして、都市では昼夜の別なく24時間稼働する世界が出現し、人間の生活はそれに合うように強いられ、コントロールされつつある。今後ますますこのような人工世界が増え、その中で育つ人間が増えるであろう。それによって、先進国の人間は自然離れと非自然化のために、精神的、生理的な面で急速に変化しつつある。それはある意味では、宇宙基地や月世界の生活に耐えうる人種を育成準備することにもなっている。それにしても、精神的ストレスは強く貯まるばかりで、このペースでいくと、何時かは精神的に破滅するかも知れない。これも人工化世界の二次効果である。

 人類はこの辺で立ち止まり、「自然支配的な生き方」から方向転換し、「自然との共生」を図る手だてを真剣に考えるべきである。

人類の活動はすべて自然現象の一つ

 しかしながら、見方を変えて考えてみれば、人類も自然の一部であるから、「人工化」という活動もすべて、広い意味の「自然現象の一環」であるといえる。もし、止まることのない人類の欲望を満たすために技術の高度化と巨大化が進み、急激な環境破壊とそれによる人類の破滅が、必然的で避けがたいものであるならば、そのこと自体も自然の必然的営みであるともいえる。すると、人類による自然破壊も自然現象の中に含まれるから、そのことは「自然の自己否定」、「自己矛盾」を意味する。しかし、人類は理性的判断力を有していることも事実である。人類のその理性と知性によって自らを制御し、環境にマッチした生き方が出来るような存在でもある。そのこと自体もまた、自然の営みの中に含まれるわけである(すべては自然というお釈迦様の手のひらの中というわけである)。

人間は自然法則の支配から抜けられないが、その範囲で主体的自立性をもって、能動的に行動できる存在である。今や人類は自然の復元力として行動すべき時期に来ている。

 

日本の政治構造は

  民衆次元か世界次元か                   

                         海野和三郎

『日本人の小市民性と世界市民性 :80を過ぎた人なら同感してくれるかもしれないが、太平洋戦争に突入する頃の日本は、米英などの身勝手さに対する反感もあって、世界をよく観ていなかった。軍も議会もマスコミも一体となり、すべての国内問題は大東亜共栄圏建設にすりかえられて、世界とのバランス感覚は失われていた。その一例が国際連盟脱退であった。安倍首相退陣をめぐる情勢は、当時の雰囲気とよく似ているような気がしてならない。年金問題や貧富の格差、中央と地方の格差等すべて安倍内閣の責任とは云えず、憲法や教育制度改革などの政策案も左翼的なマスコミによって、小市民的な日本人の潔癖感を利用した戦略で、安倍内閣の失政のようにされて、それが民主党に利用され、参院選の自民の大敗となった。自衛隊のインド洋におけるアメリカ軍などへの給油活動も、憲法違反をちらつかせて、今や、テロ対策特別措置法の延長が阻止されようとしている。国際連盟脱退の前夜に似ている。「美しい日本」という地球環境問題への取り組みの世界市民性を捨ててはいけない。』

 以上は、産経新聞への投書であるが、案の定、没となった。しかし、翌朝9月16日の産経新聞には、ケビン・ドーク,ジョージタウン大教授が同じ趣旨のことを、もっと上手に説得力ある言い方で述べていた。ドークさんは、「安倍氏は比較的短い在任期間に他の多くの首相よりもずっと多くの業績を残した、@教育基本法改正A改憲をにらんでの国民投票法成立B防衛庁の省への昇格。米国における認知度の高さ。慰安婦問題で当初、強く反対したことも一因、日本の国民主義と呼べる新しい戦後ナショナリズムを主唱し、国民主権の重要性、対外的には国際関与を深める道を選んだ。『美しい国へ』という著書で、日本の長期展望を明示した。」とし、「安倍氏の辞任表明の仕方は、仕事を達成したら、サッと辞任する動きは、今後の(世界の?)政治指導者の模範になるかもしれない。」と述べた。この最後の意見などはおいそれと同調できないが、前半は別次元の人の見解として面白い。

恐らく、21世紀世界の問題点を無理に2つに分けて考えると、一つは自由競争経済のグローバリゼーションにおける種々の格差の限りない増大をどう制御するかの問題であり、もう一つは石油ピークに代表されるエネルギー問題と将来世代への不可避の危機を引き起こす恐れのある地球環境問題との結合した人類問題である。どちらがより根元的な問題かの判断は、人によってかなり違いがあるようで、マスコミは全く別個の問題として優先順位をつけるのを避けているようである。しかし、自由経済における格差の問題は、現代社会の癌のようなものであり、よい特効薬が一朝一夕には見つかりそうもない。それに反し、エネルギー・環境問題は、21世紀に入って顕在化した問題であり、今手を打たないと将来に禍根を遺すことになる。逆にこの問題の解決を政治経済の中心に据えれば、生活意識の改革により、教育改革などにより経済的格差が社会の不安定要因にならなくなるかもしれない。すべての人が、この全人類的問題に自己の得意技で貢献できるからである。逆に言うと、それほど地球人類の危機は切迫しているのである。その辺の大局観が失われている今の政情が、太平洋戦争突入前夜の政情の雰囲気に似ているように思える。

(編集者のコメント:安倍内閣の施策こそが戦争前夜の雰囲気に似ていると思うのですが。)

新しい伝統に女性芸能者が挑む

    NPOむすめかぶき       市川櫻香

 かって日本の町々に三味線・謡い・鼓・笛・浄瑠璃の音色や語り口が漏れ聞こえていた頃、仕事帰りにそれぞれの職業の顔から一人の人としてお稽古場の中に身をおき、次のおさらい会の準備やお稽古を待つ弟子同士の軽い会釈、そしてお稽古にむかう緊張・・。名古屋の中心地、鶴舞公園近くお稽古場の存在自体陰が薄くなったこの頃ですが、この度、一般の皆さんのお稽古場としてまた、おさらい会場として町のお稽古場を復活させて、ちょっと昔の面影を取り戻そうと努力してまいりました。

  昭和37年に、お稽古場として建った2階建ての木造建築は、昭和33年創設の「中部邦楽教室」を少し広げるために移転して作ったものです。ここに常磐津の師匠をしながら、一般の方に親しんで頂く邦楽のお教室を祖母が中心となり当時の名古屋の有識者とともに開校しました。その稽古場を改造しようと思い立ち、漸く今年5月に着手されました。

 しかし日本の建築業界の実態でしょうか、私のところのみの特別事情なのでしょうか、驚くことばかりでした。

  請負建築会社から次々と下請け会社に渡され、工事作業の詳細の確認も、現代の建築業界では当たり前の施主の不安を補うことなく工事が進められていきました。

 お稽古場に通う経験もまたお三味線の音色も聴いたことのない工事の人達が、私共のお稽古場をどう思って下さったのでしょう。日本の伝統芸能の稽古場が現代では特殊事情となりその点に{これで良いのだろうか?}と、未知未経験の場への厳かな思いがないことに驚きと不信感がつのるばかりでした。何をしてもお金とのやりとりとなることを本当に当たり前としていていいのでしょうか。工事の進む中、少しの工夫、確認で大きくその後が変わり、使い勝手が違うことを知って頂くために奮闘する日々でした。3ヶ月後に、私は先祖から預かった大切なこの地この場に「舞台半寿」を完成致しました。(しかし、もう一つの日本独特のマイナスの一面を最後に味わうこととなりました。これは、私どもの信用と信頼の根本に関わる事でした。

 この事件は伝統文化が品格で成り立つこと、信頼は暖めていくことと今一度知ることでした。あらためてお伝えしたい大切なことと思います。私が演じる歌舞伎の「源氏店」「浜松屋」の勉強材料ともなる一幕は大変に考えさせられることでした。日本の伝統に嫌悪する要因に、久しぶりに直面し、今後日本の伝統文化を語る上で「品格」が技術や形ではないことを伝えることの大切さをあらためて気付かされることでした。)

それにしても建築業界を含めて多くの人達に、日本の伝統についてもう少し勉強をして頂きたいと痛切に思いました。とともに、これでいいのでしょうか日本の日本人の現代の生き方、今後、社会を牽引する骨子の見直しを今こそ願いたいと存じます。

現代から未来へ伝統は色めがねのない率直な目線であるべき姿を恐れずに進んでいかなければならないと、強く思います。日本が世界に通じる為に、伝統の再生は多くの人の思いをエネルギーに的確に進んでいくことを必要としています。

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さて、このたび、当代市川団十郎師のご出演を頂き

「第一回市川櫻香の会」開催の運びとなりました。

本会は、二つの初めてを試みる希有な会です:

一つは、能の舞台で歌舞伎を上演すること

二つには、女性歌舞伎役者との共演

これは新しい日本の伝統様式を試してみようという思いであります。

 風紀の乱れとして幕府から御法度となった女歌舞伎、これらが現代まで引き続いて伝統の当たり前として、女性が登用されなかった現今までを根本から考えていく時代がやって参りました。この会が、一つの歯車となれれば嬉しいことです。 

 多くの皆様にご覧頂きますことは、伝統芸能歌舞伎、また女性の伝統芸能者への大きな励みです。さまざまな日本の伝統の幹があってこそ朽ちることのない日本の伝統文化であろうと思います。ご声援の程お願い申し上げます。

 

 


 歌舞伎 市川櫻香の会

 平成191129

開演:昼の部 午前11時半、 夜の部:午後6時

 場所 名古屋能楽堂

演目:清元「隅田川」、

   常磐津「積恋雪関扉」

(問い合わせ:FAX 0523234575,

 電話 090-5639-3900

 


日本からなぜ世界の一流音楽家  

 が生まれ難いのか (続き)

−日本人と音律−

                木下久雄

原始の時代、人間は自身の声を出すか、何かを叩き、擦り、吹くことで「音」を出した。この音の中には、自然に無数の倍音(高調波)が含まれる。その中で強く存在するのはその発音体が固有に持つ音(基音)の整数倍の音や整数比の音である。例えば「ド」の音には自然に「ソ」の音や、何オクターブもの「ド」の音が強く含まれる。これら自然倍音の中で、耳に気持ちよく感じる音を、人類は本能で選び出し、地球上の色々な地点で民族ごとに音階を自然にこしらえた。だから、いわゆる近代文明に遠い距離にある民族にも、例外なく音律がある。

そしてこのいわば自然音階とも呼ぶべき音列を、様々な民族がそれぞれの美的感覚に従って二次あるいは三次信号化した。その中の『完全純正律』『純正調』(15世紀)『ピタゴラス律』『ミーントーン』(16世紀)を初めとする数十の調律法が生き残っている。西欧諸国だけをとって見ても、国毎に特色ある音階・旋律がある。しかしこれらの音律にはそれぞれ長短があった。(因みに日本で聞く機会の多い「グレゴリオ聖歌」が実に独特の響きを持つのは、非常に美しい5度の音階を繰り返して作られる7つの音でできたピタゴラス律を基礎に書かれているからである。後世の音楽に比べると単調だが、響きは実に美しい)

原始的な自然音階をもう少し説明してみる。例えば二つの音を同時に鳴らす「和音」の中から響きの美しい(二つ以上の音を重ねたとき唸り=差音=の出ない)完全4度は3:4の振動数比、完全5度は2:3の比で作る。(実は現在でも普通耳にするヴァイオリンなどの弦楽器の弦は、この比率で調弦する)この整数比を繰り返して音を作って行くと、最初のオクターブが1:2でなく妙な比率1:2.0272…といった具合になってしまい、「うなり」を生じてしまう。つまり自然倍音の繰り返しでは、旋律に制限が出来てしまう。

人類は自然音から抽出された音階だけで音楽を作ると、とてつもなく不自由だということにかなり早くから気がついていた。これを解決するために人工的に色々な音の高さの組み合わせを上記のように考えたのだが、その音律はどれをとっても少しずつ困った問題を抱えていた。どのように音を組み合わせてもある程度綺麗な和音が出来るのだが、自然倍音のような唸りのない響きは作れない。そしてオクターブの問題を何とかクリアする音の並び方を編み出しても、音どうしの高さの差が一定にならず、楽器はそれぞれある一つの音を出発点=中心にした調子の音階しか滑らかには作れない。一つの楽器は一つの調にしか調律できないし、一つの調の音楽しか演奏できない。(後記の「転調」と呼ばれる調子の変更を行おうとすると、長時間かけて調律をしなおさなくてはならない)

音楽が発展するにつれて、様々な高さの音を、音階の出発点・終結点とすると(これを現代でも“調子”と呼ぶ)、それぞれに特徴があって(例えばある調子は重厚に、ある調子は熱情的に響く)、曲ごとに、あるいは曲の途中で調子を変えると表現に非常な幅が出る。つまり“転調”を行いたくなる。ところが、バッハが登場する前辺りでは、「美しい響き」重点で音階=音律が組み立てられていたため、一つの楽器で色々な調子を自由に演奏することが出来なかった。この問題をある程度解決するために考えられた例えば「ミーントーン」は、いわば響きと便利さの双方を何とか妥協させた音律で、非常に成功し、グスタフ・マーラーの世代あたりまで重用された。

これら先行の音律を多くの音律研究者が改良し “うまく調律”したのがWell-Tempered 「ウェル・テンペラメント」の楽器である。バッハはこの調律方法の楽器を気に入って「平均律クラヴィア曲集」を書いた。この曲集は、Well-Tempered楽器1台で演奏できる24の調子の佳曲からできている。

さらに19世紀半ばに、この方式を量産楽器に適用し、数学的にすべての音の間隔を同じにしてしまったのが現代日本の音楽を支配している『十二平均律』である。(音楽学生の諸君には気づいて欲しいのだが、バッハが気に入った「ウェル・テンペラメント」と今日言う十二平均律とは少し違うのだ)勿論、十二平均律の楽器は、大量生産といえどもミーントーンなどそれ以前の調律法を加味して作られていたのだが、次第にミーントーンは衰退して行った。しかし優れた現代のピアノの調律師は、事実上色々な音律が持つズレをうまく取り入れて作業しているし、アメリカや西欧の優れたピアノメーカーは、少しでも美しい音をと努力しているように見える。

つまり、現代の音階は、「自由自在に色々な調子の音楽を一つの楽器で演奏できる」ことと「自然音階の美しい響きに少しでも近づくこと」と言う矛盾する要素を無理矢理近づけた妥協の産物なのだ。

 非常に荒っぽく紹介したが、平均律にたどり着くまでに、このような長い道筋があり、今日でも純正律から十二平均律の様々な音律が実用されてはいるのだ。そしてさらに、演奏、特に合奏技術が飛躍的に進歩した1970年代頃から(その最大の功績はヘルベルト・フォン・カラヤンにある)、純正律、ミーントーンなどの先行音律と、初期十二平均律、楽器大量生産時代の十二平均律との妥協を、一つ一つの音で少しでも厳密に行おうとする動きが盛んになった。さらにピリオド楽器と演奏法の隆盛がこれに拍車をかけたと言えよう。つまり、現代の西欧の演奏の先端では新たな“総合的妥協音律”を音一つずつについて作ろうとする極めて精密な演奏が行われている。これは新しい録音を聞けばかなり明瞭だ。

気がつかれたと思うが、音律がやたらに細分化というか、多岐にわたっているのは、創作と演奏即ち音楽表現の発達発展の所以である。そして、演奏楽器のメカニズムと演奏技術の発達が雁行した。中でも鍵盤楽器を初めとする非常に表現能力の高い音律固定楽器の発達はそれに拍車をかけている。さらに電子楽器の登場も音律問題を加速しつつある。

音律を自由に調節できるフレットのない弦楽器(ヴァイオリン族など)では、演奏者の耳で音律を決めることが出来る。しかし、音楽の主流を占める合奏では、どうしても音律固定楽器に音を合わせなくてはならない。そのため、歴史の中で主客転倒(?)が起り、自由なはずの楽器も、たとえば十二平均律にあわせて初歩訓練が行われることになってしまった。これが悲劇の始まりと言えなくもない。日本国内ではこれが非常に広い範囲で起こった。

特に前記の電子化楽器によるイージーな音楽技術へのアプローチが問題を加速した。また一方、あらゆる楽器の入手調達がここ40年ほどの間にきわめて容易になり、演奏者も増え、楽器の消費量も飛躍した。高校で吹奏楽部を持たない学校は珍しくなり、初心の吹奏楽部員でさえ、かなりのパーセンテージでかつて職業演奏家の垂涎の的であった海外の高級メーカーの製品を使用している。そして100パーセント、演奏は「量産型現代十二平均律」で行われる。最も基礎的な「音律を自分で作らなければならない楽器」であるヴァイオリンの初歩レッスンでさえ、ピアノの音で「正確に音が出せているかどうか」が判断される。初心レッスンではヴァイオリンの指板にテープで目印を貼ったりする。

具体的な例を挙げるときりがないが、要するに日本人が耳にする音楽は、初歩段階からすべてといっていいほど21世紀の音楽の大勢を占めている長い過程の結論としての「量産型現代十二平均律」による。この音律にたどり着くまでの長い過程と、その大きな振幅は日本人の音感覚の中には殆ど醸成されていない。そしてすべての日本人がこのことに気づいていない。

ついでなので、もうひとつ日本の特殊な事情に言及しておこう。日本では1960年代にピアノの大量生産が始まり、現在でも世界最大の生産量を誇る。ところが、その大量生産に伴って調律の効率化が進められ、平均律調律のマニュアル化が推進された。驚くべき人数の調律師が養成され、機械的平均律楽器が国中に広まってしまった。並行して楽器メーカーによる「音楽教室」も広まり、機械的平均律楽器による教育が普及した。またさらにおそるべきことに、ギター、マンドリンのようなフレットという音律を決めるバーを持つ楽器からヴァイオリンに至るまで、初心者のための電子調律発音器が使われることになった。アマチュアのアンサンブルでは、これが必需品になっている。つまり日本では、全く機械的な平均律だけが津々浦々に普及していて、かなりの演奏レベルに至るまで伝統的調律のニュアンスを学ぶ機会が全くなくなってしまっているのだ。

 ところが西欧の音楽人はよほど不勉強な人でない限り十二平均律にたどり着くまでの色々な音律感を習い覚えていて、(ポップス音楽で飯を食っている人たちの中でさえ、本能的に先行音律の感覚を持って演奏している人が少なくない)それを今日、たとえばピアノとのアンサンブルに実用している。別な見方をすれば、ピアノ側は「十二平均律に、演奏する曲の調性を考慮加味した調律」を行い、ヴァイオリンはじめ自由に音律調整ができる楽器側は(実はギターでさえ、それが可能だ)、明らかに『ドのシャープ』と『レのフラット』を区別することに始まる美しい響きへの追求が行われているのである。(特にそれをはっきり認めることが出来るのはピアノ協奏曲である。平均律のピアノと、自由に他の調律方法による音階を出すことの出来る楽器の合奏だ。一流のオーケストラと指揮者は、ピアノの平均律に、一つ一つの音を近づけつつ何とか自然音階に近い美しい響きを作ろうとする)

つまり、西欧の一人前の演奏者(特に弦楽器奏者)は、子供の頃から世の中には色々な音律があり、他の楽器と合奏する時にはお互いの音を聞いて「すべての音毎に」出来る限り自然倍音に近い響きを作り出す術を身につけてきている。

先に触れたようにヴィーンやローマ、パリといった西欧伝統音楽の中心都市にある音楽学校に日本人が入学すると、まず大量生産型「平均律」からの脱却を始め全く基礎的な技術の再習得が求められてしまう。この必要のない学生は非常に少ないようだ。ヴァイオリンやチェロといった自由音律楽器を優れた教師に学んでから海外の音楽学校に学びにきた若人のなかで、西欧の人たちに伍して生活できる人が少し増えてきてはいるが。

つまるところ、色々な音律との総合的な妥協=という表現に語弊があるとすれば=音の摺り合せが出来るかどうか、その結果得られる重なった音の美しさ、あるときは和音、あるときは細かなアンサンブルの重積の美しさを作り出すことが出来るかどうかが、西欧先行国の人たちに伍して行く鍵の一つだろう。(蛇足だが音楽音響学に熱心な方は、“差音”こそが音の美そのものだと考えるはずだ)

勿論日本人の優れた演奏家の中には「ヤング1/6でお願いします」と調律に注文をつける人もいないではない。しかし、これをきちんとこなせる調律師は微々たる人数である。

繰り返す。歴史的にこの西欧起源の音律システムが、現在事実上すべての音楽美の根源となっており、特に“クラシック”と総称される分野の音楽即ち“純音楽”の世界における「西欧音楽の優劣・高低・美醜・清濁の出発点」でもある。前述のように西欧音楽表現の評価のよりどころのひとつなのだが、この「音律システム」に対する感性・感覚・美観と、それを使って音表現をするときの「多くの要素の組み合わせから得られる音の絶対美」評価が、特に日本人演奏家の西欧における評価を左右していると考えられる。

別な視点に立てば、日本人が西欧音楽に携る場合、西欧人に対比して創作・表現・論評の基本的なところでのハンディキャップになる一つの要素が平均律システムなど多くの音律と言えるのである。

 

筆者:木下久雄 略歴

 昭和12年生。写真技術を棚橋紫水、入江泰吉、織田 浩の各氏に師事。その傍ら、作曲・指揮を辻井市太郎(大阪市音楽団団長、吹奏楽畑にありながらフランス音楽の表現が高く評価されていた)、斉藤 超(さいとう・わたる 作曲家・日本初の本格オルガン奏者)に、音楽学を辻井英世氏(相愛大学名誉教授)に学ぶ。写真学の枝葉として化学を、同じく音楽の枝葉として音響学を履修。

作・編曲、オーケストラや吹奏楽の指揮、テレビ・ラジオの番組やCM制作、いわゆるオーディオ分野の企画・マーケティング等々「音つながり」の雑多な仕事を手がけ、化学分野では医療用高分子の開発・海外からの導入に従事、JST(科学技術振興機構)の新規物質開発プロジェクトにも参加。なおサラリーマンとしては日本楽器(現ヤマハ)、音楽プロダクション、広告代理業数社、クラレ等に勤務した。

 

読者からの感想     

教育改革通信109号を読んで    早川 俊久

 盆月(8月)に墓参出来なかったので彼岸月(9月)の17日に墓参しその後、山小屋に閉じこもって22日に帰浜しました。矢張り山は気晴らしには良いところです。

 いつも興味をそそる教育改革通信を見せて頂いて有難う御座います。

1.橋本氏の論文(地球環境への警鐘)

 @アインシュタインがこのようなことを言っていたとは知りませんでしたが、流石に天才の洞察は凄いと思いました。将に彼の指摘した通りの優れた日本の家族制度が、今将に崩壊し美徳も喪失している現状は憂うべき事実ですね。

A正直言ってCO2が地球温暖化の大きな要素になっているのかなと確かな根拠もなく思っていました。しかし今年開かれたパリでのIPCCの会議で科学的に証明されたと聞いて矢張り間違いなかったのだなと思う一方で具体的な数字を挙げ、そのメカニズムを説明し危機状態を説明されると、事態は容易なら無い所に差し掛かっているのだという認識を新にしました。数字や仮説に多少の誇張があったにしても態勢はその方向に向かっているのは間違いないところでしょう。本当に具体的な行動を国家間レベルで動かさなければ大変なことになりそうだと思いました。

今年の記録的な暑さを考えると実感があります。

 2.菅野氏の論文(技術革新により地球環境は救えるか)

 環境保全対策の為の科学・技術開発が又次の環境問題を引き起こすと言う論には同感です。人間は便利な生活、快適な生活に慣れてしまうと中々後へは戻れない。

 自動販売機は夏はあれほど冷やさんでも良いものを、冬はあれほど熱くしなくても良いものを。いっそのこと自販機は一掃したら発電所も少なくて済むのではないかといつも思っています。数字的根拠はしかるべき筋で検討したら良いが、兎に角やろうとすると自販機メーカーが反対の狼煙を上げるのは間違いない。丁度車検間隔を実情に合わせて延ばそうとすると忽ち該業者が騒ぎ、票数を数える連中が騒いで中々そうはならない。

 昔は酒を買いに行くにも一升瓶を風呂敷に包んで買いに行った。物を買うのには風呂敷を持っていった。店ではありあわせの新聞紙などに突っ込んで渡してくれた。それで充分だった。今は些細なものを買ってもビニールの袋に入れてくれる。万引き予防という意味もあるのだろうが兎に角サービスが良いし買うほうはそれが当たり前と思っている。過剰サービスを望む購買者も考えなければならない。

この種の議論をする時、SOLLEN ばかりで SEIN の無いのが問題。着眼大局・着手小局。小さい事の積み上げも全体的には大きな効果を生み出す。

 ただ昔の方法そのままに戻すのは不可能だがその方向で検討することも必要だ。「私たちの価値観を転換し、生活環境を変えなければならない。私達がスピードと便利さを追い、物質的豊かさを求め続けることを止めなければ、環境問題に救いはないだろう。」のご意見は同感。ただそのために私達がどのような不便さまで覚悟しなければならないかも考えなければならない。

 3.木下氏の論文(日本から、なぜ世界の一流音楽家が生まれ難いのかー日本人の音律ー)

「西欧音楽の場合、音の澄み具合とソノリティがほぼどの国においても共通する価値観で評価される」は、いつも考えている事と符合する。

「日本人が好きなのは「髪振り乱しての熱演」や「水の如き清冽な演奏」「悟りすました老境」などで…日本では「音の美しさ」のレベルが低いがゆえに、批評の対象にしてもらえないという現象は先ず見られない」と聞くとそうだろうなと頷いてしまう。各種演奏会を聴いても技法に走りすぎて音の美しさに欠けるのは良くあるが、それでも聴衆は大拍手する例が多い。そういう私だって本当は何も判っていないくせに。

  916日に「合唱の集い」があって例年のようにご招待を頂いて聴いてきたが、無伴奏でも素晴らしい合唱があるかと思うと、伴奏者(ピアノ)の伴奏が合唱とマッチングしていない例もあったのはいつもの事。ヤマハの屋上で毎日10回は鳴らしているミュージック・サイレンは、その構造上から音程が最も単純な整数比になり完全純正律なので和音が実に綺麗です。平均率の和音とは一寸違って澄み通っています。平均律とその他の音律とのすり合わせのQ&Aは面白いですね。この109号は非常に参考になりました。            (編集 菅野)